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一杯飲み屋の親父の酒と酒の日々
<のんべえ日記>平成22年9月分
日記の文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
9月30日木曜日雨 △
あの「バイブレーター辻元」が、民主会派入りし衆院国交委の筆頭理事になるという記事があったが、その辻元氏が追い出すことになる現国土交通委員会筆頭理事は、「管体制は、北と同じ独裁」と言っていたバリバリの小沢派である小泉俊明氏。
何ともわかりやすい人事。
(辻元清美女史のバイブ画像は、もっとも辻元女史らしいと思いネットにあったものを制作者の方に無断で使用させていただきました、
ご不快に思われましたらご一報頂きたく存じます。お詫びの上、削除させていただきます。
ただし、辻元清美及び関係者からの苦情、抗議はお断り。死ね)
私はこの小泉議員についてはよく知りませんが、どんな国会議員でも、赤軍派の元コマンドと事実上の夫婦であり、公安から「危険人物」とマークされ、「国会議員って言うのは、国民の生命と財産を守るといわれてるけど、私はそんなつもりでなってへん。 私は国家の枠をいかに崩壊させるかっていう役割の国会議員や」とバイブレーターにサインしながらほざき、
自身のホームページの平成二十一年三月十三日の日記に
<「西松騒動」の不気味な空気の陰で、自衛艦のソマリア沖派遣が決まった> として
< 略)
連日の「西松疑惑」報道の陰で、ソマリア沖への海上自衛艦派遣が、なし崩し的に決められた。一四日、護衛艦二隻が四〇〇人の自衛官と八人の海上保安官を乗せて出航する。こんな重大決定なのに総理の承認と防衛大臣の発令のみなんて。国会の関与はまるでなく、内閣の決定すら不要。文民統制はゼロに等しい。
「ソマリア派遣を一番嫌がっているのは浜田防衛大臣だよ」と専門家は語る。PKOで派遣される自衛官に許されるのは主に「自分を守る」武器使用。でも今回の目的は「他人を守る」こと。武器での殺傷可能性がこれまでになく高い。全責任が自分ひとりにかかるとあっては、躊躇するのも当然か。
略)
この際、反対なら誰とでも手を組み政府の姿勢を改めさせたい。>
「この際、反対なら誰とでも手を組み政府の姿勢を改めさせたい。」
そんなに反対なのに、その自衛隊に同年五月十一日から十三日までピースボートのアホ船を護ってもらいながらも礼の一つも言わない腐れアホ国会議員よりマシでしょう。
もちろん、アホピースボートの連中のホームページにもその事は一言も触れていません。
雨やしヒマやな〜、ひょっとしてオチャピーかと思っていたら、
ホロン部員Yさん来店。
Sくん来店。
Hさん来店。
飲む。
記憶あり。
サルよりマシ。
サッサと寝る。
久々に岡崎トミ子
9月29日水曜日晴れ △
久しぶりに当店のホームページのアクセス解析を見てみました。
今月、一番転送量が多かった九月十七日の場合。
全合計: Sep 16 2010 〜 Sep 17 2010
リクエスト数合計 220330
転送量(Byte)合計 6963121735
リクエスト数一日平均 110165
転送量(Byte)一日平均 3481560868
合計 リクエスト 日別
リクエスト割合 転送量割合 転送量(Byte) リクエスト数 日付
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99.97 99.97 6960784472 220253 | Sep 17 2010
リクエスト数: バイト数の割合 (%): ドメイン
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でっ、検索単語
リクエスト数: 検索単語
------------: --------
12363: 岡崎トミ子
1613: 反日
1399: 岡崎トミ子
684: 反日デモ
667: 売国奴
393: トミ子
393: 北朝鮮
372: 岡崎
256: 岡崎トミコ
151: 岡崎トミ子 韓国
107: 岡崎とみ子
100: 岡崎トミ子参院議員
88: 岡崎トミ子
81: 民主党
79: 岡崎トミ子 反日
76: 岡崎 トミ子
72: 在日
66: 売国奴
63: 岡崎トミ子議員
60: 柳田稔
59: 岡崎トミ子
59: www.tamanegiya.com/okazaki.html
58: 岡崎トミ子 反日デモ
58: 岡崎
57: トミ子
57: 韓国
47: 岡崎とみこ
44: 反日デモ
42: 反日
37: 岡崎トミ子参院議員
33: 売国
32: 酒たまねぎや
30: 池田大作
28: 魚釣島
28: 岡崎トミコ
25: 食人
24: 文化大革命
23: 従軍慰安婦
21: 岡崎トミ子 売国
19: 朝鮮総連
18: 岡崎トミ
18: 柳田稔
18: 在日
17: たまねぎや
17: 反日
17: 岡崎トミ子 朝鮮
16: 岡崎トミ子
16: 岡田トミ子
16: 岡崎トミ子反日デモ
15: 岡崎 トミ子
15: 写真
14: ベトナム戦争
14: 嘘
13: 岡崎トミ子 売国奴
13: 岡崎トミ子 デモ
13: 辛淑玉
13: 岡崎トミ子 韓国
13: http://www.tamanegiya.com/okazaki.html
13: 福島瑞穂
13: 井筒和幸
12: 慰安婦
12: 岡崎登美子
12: 田中均
12: 野中広務
12: 土井たか子
12: 民主党 岡崎
12: 岡崎 民主党
12: 岡崎トミ子氏
12: 田嶋陽子
11: 政治家
11: 岡崎トミ子
11: 岡崎トミ子
11: 岡崎 トミコ
11: 岡崎トミ子
11: 岡崎
11: 岡崎トミ子議員
11: 岡崎トミ子韓国
11: 岡??トミ子
11: \xe5\xb2\xa1\xe5\xb4\x8e\xe3\x83\x88\xe3\x83\x9f\xe5\xad\x90
11: 反日トミ子
10: 民主党
10: 特攻隊
10: 岡崎トミ子・反日デモ
9: 田岡一雄
9: 酒たまねぎ
9: 美味しんぼ
9: 国賊
9: トミ子
9: 民主党 岡崎トミ子
9: 菅直人
8: ヤモリ
8: 魚釣島
8: okazaki
8: 本多勝一
8: 岡崎トミ子 韓国
8: パチンコ
8: 李高順
8: 朝鮮学校
7: 韓国人
7: パラオ
2259: [その他: 1,513 検索語句]
そうなんです。
その日は岡崎トミ子氏がよりによって、国家公安委員長に就任が決まった日。
すべて、岡崎トミ子様のおかげでした。
ベスト五もすごいです。
岡崎トミ子
反日
岡崎トミ子
反日デモ
売国奴
笑えました。
まあ、日の丸にバッテンしてある前で平気で笑っている腐れババアですから。
こんな腐れ売国奴は早くクタバッてほしいものです。
でも、
<玄葉氏・岡崎氏入閣に「活躍を期待」「デフレ脱却を」
2010年9月18日読売新聞
略)
佐藤雄平知事は
略)国家公安委員長も兼務する岡崎氏については「これまで培われた豊富な経験と見識を生かして活躍することを期待する」とした。
略)
>
<岡崎氏、県選出12年ぶり入閣 知事やNPOがエール
2010年9月18日asahi.com
略)
村井嘉浩知事は、総務相に決まった片山善博氏とともに岡崎氏を注目の新閣僚に挙げた。「長い間、宮城選出の大臣がいない状況だった。(担当分野は)難問が山積み。政治経験や人生経験を重ね合わせ、素晴らしい仕事をしていただきたい」と話した。>
読売新聞の記事にはどういうわけか、宮城県知事でなく佐藤雄平福島県知事の言葉として、「これまで培われた豊富な経験と見識を生かして活躍することを期待する」となっている。
そして、朝日新聞の記事には村井嘉浩宮城県知事の言葉として、岡崎氏を注目しているとして「政治経験や人生経験を重ね合わせ、素晴らしい仕事をしていただきたい」と期待を口にしている記事を掲載している。
岡崎氏については我が国の普通の新聞社だったら下記のような記事が本当だろう。
<仰天人事、岡崎国家公安委員長 反日デモに参加、在日朝鮮人から献金…
2010.9.18 01:35産経新聞
記者会見する岡崎トミ子国家公安・消費者・少子化相=18日未明、首相官邸
菅改造内閣のサプライズ人事といえば、警察の「総目付」役である国家公安委員長に、岡崎トミ子参院議員が就任したことだ。首相経験者の一人は「仰天した」というが、岡崎氏の過去の“特異な”言動を振り返るとそれも納得できる。
岡崎氏は通常国会の会期中の平成15年2月、ソウルの日本大使館前で韓国の慰安婦問題支援団体主催の反日デモに参加し、韓国人と一緒に大使館に向かってこぶしを振り上げた。このデモに日本の国会議員が加わったのは初めてだった。
岡崎氏は当時、「反日デモではなく、日本政府に謝罪と補償を求めるデモだ」と釈明したが、現場では日の丸に「×印」をつけた看板も並べられていた。このときは、民主党の役職停止処分となっている。
16年3月には、女性国会議員のメールマガジンで、こんな独特の見解も表明している。
「外国人犯罪が増えているというが、日本人が犯した場合には立件もされないような軽微な犯罪が多い」
同年4月には、岡崎氏の政治団体が13年に、外国人からの寄付を禁止した政治資金規正法に違反し、北朝鮮籍で朝鮮学校理事長の男性と、韓国籍のパチンコ店経営者からそれぞれ2万円ずつ寄付を受け取っていたことも発覚した。
岡崎氏は当時、この理事長とは、朝鮮学校の運動会に出席するなどで「日ごろから懇意にしていた」と説明した。パチンコ店経営者からの寄付は、産経新聞の指摘を受けるまで「違法と気付かなかった」としたが、こんな国家公安委員長で本当に大丈夫?(阿比留瑠比)>
警察、特に公安の方たちは大変だろう。
どう考えても、公安からマークされるべき対象が組織のトップになったのだから。
まあ、あのアホの鳩山の時に公安から「最重要危険人物」とマークされていた千葉景子がトップになっていたから、同じようなものか。
Sさん六名様で来店。
Nさん、Tさん来店。
裏ホームページをご覧頂き、来店してくださったそうです。
ご近所に御住まいというKさん来店。
Kさんはメチャ珍しい名字。
某教授のホームページでは四件しか無い事になっているが、
でも、それは嘘だそうです。
戦後、我が国から消えたもの
9月28日火曜日雨のちくもり ×
昭和五十二年(一九七七年)の今日、九月二十八日、フランスのシャルルドゴール空港を発った東京国際空港(羽田)行きの日航四七二便は、中継地のインドのムンバイ空港を発った直後に日本赤軍によりハイジャックされ、バングラデシュのダッカ空港に強制着陸させられた。
この時、ハイジャック犯の日本赤軍は我が国政府に対し、刑務所に拘禁されている日本赤軍の奥平純三ら九人の釈放と、人質となっている乗客の身代金として使い古しの一〇〇ドル札紙幣で六〇〇万ドル(当時のレートで一六億二〇〇〇万円)を要求し、当時の福田首相は「人の命は地球より重い」という名言とともに犯人側の要求を全面的に受け入れた。
同年十月にパレスチナ解放人民戦線(PFLP)のメンバー四人により乗っ取られて起きたルフトハンザ航空一八一便ハイジャック事件は、ソマリアのモガディシュにおいて機内にGSG-九(ドイツ国境警備隊(当時)の対テロ特殊部隊)が突入し解決した。
このハイジャック事件後、西ドイツ政府は今後テロリストとの取引を行わないことを発表している。
このハイジャック事件の前の九月に、同国の実業家ハンス=マルティン・シュライヤーがドイツ赤軍に誘拐され、仲間の釈放を求められたがドイツ政府は強硬な姿勢をとり全く要求に応じなかった。
その結果、ルフトハンザ航空一八一便ハイジャック事件後にシュライヤー氏が遺体で発見された。
これについて、「『弱者』を甘やかす事が民主主義か」と著書に書かれていた石堂淑朗氏が、同じ著書「日本人の敵は日本人だ」に「不運を認めない平等思想」と題して日航機ハイジャック事件について書いている。
<私が今こうして生きているのも、大きな運があったからにはほかならない。私が住んでいたのは広島県の尾道だが、実は八月十七日に焼かれる予定だった。
略)
この予告とおり、八月十七日に尾道がやられていたら、私の一家は確実に死んでいたと思う。親父と私は床下に一生懸命防空壕を掘っていたのだが、空襲が爆弾によるものならまだしも、焼夷弾攻撃では防空壕の上が火の海になるわけで、壕の中の人間は蒸し焼きになるしかない。親父と私は、蒸し焼きにされるべく穴を掘っていたよなものだった。八月十五日に戦争が終わらず、あと二日延びて尾道が焼夷弾攻撃に遭っていたら、私は間違いなく十二歳で死に、この世にいなかった。尾道の私には運があり、福山の人は不運だった。広島の幼年学校に行っていた私と同い年の人は不運だった。八月六日にはほぼ全員が死んでしまったのだから。
どうしようもなく運不運はある。その運不運を認めない。ことに不運をなくそうなどというのは、とんでもない平等観念である。
略)
人はみな死ぬ、という意味では死神は平等主義だが、生活の中の死は総て不平等である。
地下鉄サリン事件で死んだ娘さんと、一〇〇歳を超えて台湾に旅行出来るきんさん・ぎんさんを並べてみるがよい。死は実に不平等である。しかし、これが人生の実態である。
いつ不運が自分に襲いかかるか誰にもわからないのが人生であるが、戦後の風潮は、その不運を見抜く能力すら日本人から奪ってしまった。
一九七七年の日本赤軍による日航機ハイジャック事件はその象徴である。日航機はダッカに強制着陸。日本政府に赤軍派を含む刑事事件の既決者の釈放と身代金を要求したのである。あの事件で国内的にはすでに瀰漫していた我々の過度の平等主義、拝金思想が一挙に世界に知れ渡ってしまった。
時の総理・福田赳夫は「人の命は地球より重い」と言った。京都大学名誉教授・会田雄次先生が最近お書きになったことだが、そう言った人間は自殺しなければいけない。「人の命は地球より重い」という言葉は、「人の命は鴻毛より軽い」ことを実行してこそ生きてくる。あんな言葉を平気で言った人間は、それも国の最高責任者が政治家であり続け、何をどう勘違いしたか水戸黄門様を気取って「日本は福田を必要としている」と言ってもう一度総理の座を狙いさえした。
福田はタカ派で通っていたけれども、日本の政治家は、護憲派も改憲派も気持ちの深い所では、アメリカ型の民主・平等思想にずいぶん浸食されている。それが戦後の姿だ。
タカ派というのは、みんな口の中に青酸カリを詰めてこそタカ派であろう。
「葉隠」に言う「武士道とは死ぬ事と見つけたり」という精神が、我々日本人から戦後きれいさっぱり消えてしまった。
それがために、日本人は外国から馬鹿にされているのだ。ダッカ事件で、あれだけ大金を出して誰も責任を取らなかったということが、「日本人はなんでも金で片付ける」という風評を世界中にばら撒いてしまったのである。
戦後に発生したハイジャック事件では、他の国はすべて特殊部隊を突入させているが、日本だけが金で解決した。泥棒に追い銭とは、あの時の事を言うのだ。そんな日本が、その後ODA(政府開発援助)や一九九〇年の湾岸戦争でいくら金を拠出しても、世界から尊敬されるわけがない。
私は戦後五十年を契機として、民主主義や平等思想などに代表される口当たりの良い「正義」によって蚕食された、国家の尊厳、国民としての誇りといったものをもう一度洗い直し、その復権を図るべきだと思うのである。>
「日本人の敵は『日本人』だ」(石堂淑朗 講談社 平成七年刊)p四十〜四十二
拉致問題に真剣に取り組んでおられる西村眞悟氏は御自身の著書に下記のように書いています。
<久米裕拉致の十日後の五十二年九月二十九日、福田内閣は「人の命は地球より重い」とのコメントを発して、ダッカ日航機ハイジャック犯の要求に屈し、服役・拘留中の赤軍派ら九名の過激派の釈放と身代金六〇〇万ドルの支払いを受諾した。人の命は地球より重いとした内閣が、同時期に北朝鮮による自国民十名の拉致を放置していたのである。
日本政府の対処は矛盾しているように見える。が、そうではない。テロリストには屈服して戦わないという点で一貫しているのだ。
ただ、ダッカ事件は国民が知っていたが、拉致は知らなかった。そして国内には孤独な被害者家族が残されていた。>
「闘いはまだ続いている」(西村眞悟 展転社 平成十五年刊)p三
この二冊の本に書かれているこれらの事は、豊かさだけを追い求め、自分の国を、そして国民を自分で護ろうとしない歪んだ考え方。
独立国家とはなにか。その為にはなにをすべきか。
日本国民としての誇りを持つ為には何をすべきか。
今、我が国のすべての国民に問われていることであり、行動すべきことだと思います。
自分の国は自分で守る。血を流す事をしない国は滅びる。
今の尖閣諸島の問題も起点はここにあると思います。
そして、人は生きているだけである意味運がいいと私も思う。
死ぬときは死ぬ。それは人の運不運。それを他人のせいばかりにして口汚く罵る輩もいるがそんな連中の側に落ちたくないものです。
写真は今日の築地本願寺の蓮。
もう一枚は今日の日刊ゲンダイ。
Sくん来店。
Wさん御夫妻来店。
MAYUMIさん、AYAさん来店。
MAYUMIさんは前の「酒いわしや」に新入社員のころからいらしてくださっている。
Oさん来店。
今日は早い時間からドンチャン。
記憶無し。
サル。
9月27日月曜日雨 ○
朝起きて、シャワーを浴びてから銀行に行き、途中古本屋さんに寄る。
めぼしいものはなし。
夕方から店に行き、へべれけさんにパソコンのメンテナンスをお願いする。
帰宅後、風呂に本を持ち込みボケ〜と長い時間を過ごす。
今日は酒は飲まず。
十月十六日の飲んべえの会は十四代とさせていただきます。
NO.1 | 平成22年 十四代 七重二十貫 愛山 | 720ml1本 |
NO.2 | 平成22年 十四代 中取り大吟醸 播州山田錦 40% | 720ml1本 |
NO.3 | 平成22年 十四代 中取り純米大吟醸 播州山田錦 40% | 720ml1本 |
NO.4 | 平成22年 十四代 純米大吟醸 龍の落とし子 40% | 720ml1本 |
NO.5 | 平成22年 十四代 なか取り純米無濾過 55% | 1800ml1本 |
NO.6 | 平成22年 十四代 本丸 五百万石55% | 1800ml1本 |
足利義満以来の朝貢
9月26日日曜日くもりのち小雨 ○
鳩山由紀夫前首相が「私だったら中国首相と話し合えた」とほざいたそうです。
以下引用
<「私だったら中国首相と話し合えた」鳩山氏自負
読売新聞2010年09月25日 23:21)
鳩山前首相は25日、中国漁船衝突事件に関し、「私だったら事件直後に、この問題をどうすべきか中国の温家宝首相と腹を割って話し合えた」と述べ、菅首相の対応を批判した。
鳩山氏は、首相だった時に温首相との間で「ホットライン」(直通電話)を作ったと明かし、「ホットラインは菅首相にも引き継がれているはずだ」と指摘した。
首相時代には米軍普天間飛行場移設問題で迷走した鳩山氏だが、対中外交では強い自負心があるようだ。>
引用終わり
金曜日にいらしてくださった記者の方もおっしゃっていたのですが、
「あいつは足利義満以来の朝貢をやった国賊だ」
まあ、大手新聞は記事にはできないそうですが、その国賊が支那の首相と何を話し合うのでしょう。
こいつは、我が国の領土である尖閣諸島に日本人が上陸した事を、北京において「あれは日本の一部の右翼がやった事」と支那側の要人に説明したそうです。
「誰か祖国を思わざる」(西村眞悟 クレスト社 平成九年刊)P十九より
そんな程度の覚悟、頭だから
今年の五月には「尖閣諸島の帰属問題は日中当事者同士で議論して結論出す」 と全国知事会議にてほざいて、日本国民をあきれさせるのです。
小沢一郎、菅直人とともに早く死んで欲しい。
それが我が国のためになる。
今日は午後からスポーツセンターへ行く。
今日は一通りのメニューをそれなりに消化。
しかし、間隔が空いたので、ベンチで百キロの上げることのできる回数がメチャ減った。
芳林堂さんにて雑誌と店内にある古本横町にて数冊の古本を購入。
店に寄った後、帰宅。
今日は酒を飲まず。
出品酒の会
9月25日土曜日晴れ ×
今日は午後三時の明るいうちから鑑評会出品酒の会。
下記の八蔵元+α
松の司
東洋美人
上喜元
磯乃澤
三井乃寿
浅間山
南部美人
あぶくま
αの酒は当店のレギュラー酒の残り。
午後六時過ぎより平常営業。
初めてのお客様Hさん来店。遅い時間にチヒロさん合流。
静岡からイオリさんついでにうまごんさん来店。
Wさん御夫妻来店。今日は奥様のお誕生日ということで、シャンパン、ケーキでドンチャン。
困った時のへべれけ頼みということで、へべれけさん来店。
パソコンのメンテナンス。
すみません・・・
ドンチャン。
記憶無し。
でも今日はめぐ蔵さんがお手伝いに来てくれていたので、きれいに片付いていました。
9月24日金曜日晴れ △
バンブーさん来店。
Eさん来店。
三名様来店。
Iさん二名様で来店。
Oさん来店。
新聞社に勤めるOさん「今日はここだろうと思って来た」
中井洽氏があの話題になった朝鮮人女性と結婚していたとは知らなかった。
しかし、国家公安委員長が中井氏の次に岡崎トミ子とは醜いものです。
Sさん二名様で来店。
ドンチャン。
記憶あり。
サルよりマシ。
大山倍達
「眉剃り」逸話の嘘
9月23日木曜日雨 ○
大山倍達氏の著書には身延山及び清澄山においての山籠りにおいて眉を剃って耐えたという話が出てきます。
<暴力団にも狙われていたので身延山に籠り一年間の修行をし、人恋しさを眉を剃って耐えた>
「ダイナミック空手」
<「闘魂」および「続ケンカ空手」では、どちらも清澄山の山籠りについて多くの紙面が割かれている。山での稽古の様子が詳細に描かれ、ともに修行の辛さに耐える為に自らの眉を剃ったと記されているが、だが両著とも身延山の記述は無い。>
「大山倍達正伝」P四百六
<生涯を空手の道に捧げるべく決意をして二年間籠った><清澄山で眉を剃った>
「極真空手 二十一世紀への道」
この「眉剃り」ついても大山氏が得意の嘘であることが大山倍達正伝に記されています。
<「山中での荒行を度重ねるにつれて好きだった酒、煙草、一切の媚薬を止めてしまった。苦しくなり里が恋しくなっても帰る気がおこらないように眉毛を剃り落として山中に入ったことがあったが、予定の日数を経て帰る時になっても眉毛は中々生えず閉口したこともあった」
これは大山の著書の記述ではない。大山にとって剛柔流の師とも言える山口剛玄が自著「剛柔の息吹」(栄光出版社)の中で記した文章である。また一九七八年二月、沖縄剛柔流の重鎮であり宮城長順の直弟子である八木明徳(沖縄空手剛柔会会長)と酒井節雄(宮城長順先生顕彰会顧問)を交えた座談会において、山口は自らが行った鞍馬山での山籠りについて以下のように語っている。
「私はね、学生時代鞍馬山に入っちゃったんです。学生時代に滝に打たれたり、禅を組んだりして、鞍馬山にこもったのが、私の山籠りなんです。そういうことから剛柔流をやるんだったら、剛と柔と、それを会得しなければならないと、眉毛を剃って行に入りました」
ちなみに、「剛柔の息吹」が発売されたのは一九六六年であり、大山が「ダイナミック空手」の発売の直前に当たる。だが、剛柔流を学ぶ山口の門下生にとって、山口が一九三〇年代の初期に鞍馬山に籠ったという話は有名な逸話となっている。
立命館大学で山口と同時代を過ごした岡村光康、岩上長興たち剛柔流の長老は、山口の山籠りの証言者である。山口が山籠りに臨んで自分の眉を剃り落したという話も古くから剛柔流空手の門下生の間で語り継がれてきた。山口の三男で、現在の剛柔会を率いる山口剛史も次のように言う。
「父が鞍馬山に籠り、眉を剃って修行したという話は、私が生まれる以前、父が学生時代の話です。でも、父は折に触れて、このような話を私達息子に語って聞かせてくれました。眉を剃った話は、当然修行は辛いわけですから、眉毛を剃ってしまえば恥ずかしくて山から下りられなくなるだろうと思ってやったと聞いています。
でも眉を剃ったのはいいけれどもなかなか生えてこなくて後悔したという話も、子供の頃何度も聞かされました。父は生涯を通じて山籠りの修行をしていました。
鞍馬山の山籠りは京都時代の話ですが、東京に出てきてからは毎年、木曾の御岳山に籠って修行をしていました」
大山の清澄山(ときには身延山)の山籠りの「伝説」に欠かせない「眉を剃った」逸話は明らかに山口剛玄の体験談の借用である。
大山は、この逸話を山口自身またば寧柱から聞かされたと思われる。実際、大山の著書にば寧柱(またばと思われる先輩)の勧めで眉を剃ったと記したものもある。ならば山口の体験に倣って大山も眉を剃って修行に励んだ可能性も皆無とは言えない。
だが、清澄山はもちろん、初期の身延山での修行が決して長期間にわたるものではない以上、大山が実際に自らの眉を剃って修行をしたというエピソードの信憑性は限りなく低いと言わざるを得ないだろう。少なくとも、この逸話は大山のオリジナルではない。>
「大山倍達正伝」P四百十三〜四百十四
そして、切り抜き、手紙など多くの資料を取リ置きしている大山氏だが、この何度も登場する逸話のもとになっだ寧柱氏の手紙について、小島一志氏は
<ところで、「神速果敢」の中で大山が触れている「゙寧柱からの励ましの手紙」について、後年の大山の著書でも何度か紹介されている。だが少なくとも私は大山が保管していたファイルの中から、それに相当する書簡を見付ける事は出来なかった。>
「大山倍達正伝」P四百十一
としている。
あほらし
今日はお彼岸、「秋季皇霊祭」だが、秋分の日とわけのわからない日になっている。
祝日のうえ雨だし、どうせどなたもいらっしゃらないだろうと思って、店をいろいろと片付けていたら、初めてのお客様来店。Oさん来店。
いや〜オチャピーでなくてよかった。
飲まず。
当然、サルではない。
頭の程度はそうかもしれんが。
赤城神社へ
9月22日水曜日晴れ 暑い ×
仕込みを終えてからスポーツセンターへ行く。時間もあまりなかったので軽めのメニューを消化
夕方に買い物に行く途中、赤城神社に立ち寄る。
何とも見窄らしい神社になってしまいました。
少し高くして階段を上ってから参拝するのは、その下に納められた神様の乗り物である神輿を踏みつけてから参拝するように建てられているというすばらしい設計の神社。
日本人の考えつく事とは思えん。
ちなみに、ぶっ壊す前の赤城神社
写真の大山巌大将の揮毫による明治三十九年に建てられた忠魂碑(昭忠碑)も壊されて跡形もありませんでした。
いかにもアホ面の頼りなさそうな狛犬。
これで神様を守る事ができるのであろうか。
これって支那製じゃあないだろうな?
今日は予約もいただいてないし、ヒマだろうと思っていたら、
清水さん来店。
十二月の誕生日には、磯自慢のミニ垂直ということで。
Iさん二名で様来店。
入社年度の日本酒を。
Oさん二名様で来店。
Kさん来店。
Wさん御夫妻来店。
Kさん二名様で来店。
Oさん来店。
ドンチャン。
記憶無し。
サル
大山倍達
山籠り伝説の嘘 清澄山
9月21日火曜日晴れ 暑い △
大山倍達氏の身延山における長期の山籠りが嘘であることが当時の状況より証明されているが、「生涯を空手に捧げる事を決意」して山籠りをしたという清澄山の場合はどうか。
<千葉県の清澄山に一人こもって一年八ヶ月の間、修行をし、麓の猟師や子供から「あっ、天狗がいた」と言われた」>
「ダイナミック空手」
<空手の限界を試すべく、ふたたび山にこもり、修行に専念する事にした。千葉県清澄山に草庵をあみ、
略)
厳しい修行を二年間続けた>
「一〇〇万の空手」
<上京してGHQや暴力団との私闘によって追われる身になった大山は清澄山に籠り、一年半の修行を行った。(身延山の記述は無し)>
「わが空手修行」
<1948年4月 生涯を空手に捧げる事を決意し、清澄山に入山し18ヶ月間の修行を行う。>
国際空手道連盟極真会のホームページより
<1948.04 生涯を空手道に捧げる事を決意し、千葉県清澄山に入山し18ヶ月間の修行を行う。>
極真館城南大井町支部ホームページより
清澄山のこのような一年半に渡る長期の山籠りについてもウソであると「大山倍達正伝」には記されています。
<改めて清澄山の山籠りについて考察する。
金致淳は「大山さんが山に籠ったのは、゙先生の勧めで山梨の山に入った時だけだったと思います。それ以後、大山さんが山に籠ったという話ば先生からも聞いたことはありません」と言う。
KPI通信相談役で、当時の大山と交流があった千原徳士も「私が大山さんと知り合ったのは大山さんがアメリカに行く前ですが、大山さんの口から山に籠ったという話は聞いたことがありません。もし一九五〇年直前に清澄山に籠っていたというならば、大山さんがそのことを言わないはずないと思いますが・・・・・・」と語る。
元極真会館の重鎮である黒崎健時(黒崎格闘技スクール会長)は、大山の山籠りについて次のように言う。
「私が大山道場に入門したのは昭和二十八年(一九五三年)頃です。田園コロシアムでの牛との格闘の前の年だったと思いますが、私は大山先生と合宿という形で清澄山に入りました。私を含め数名の弟子が一緒でした。大山先生が言う清澄山の山籠りというのはこのことをさしているんじゃないでしょうか」
大山が田園コロシアムで牛との戦いを披露したのは一九五六年十一月十一日である。黒崎の記憶が正しいならば、大山が黒崎を伴って清澄山で合宿を行ったのは一九五五年ということになる。
この時の合宿に同行した人物として共田徳龍(在日本大韓体育会常任理事)がいる。一九八六年一月号の「月刊パワー空手」において共田は証言する。
「清澄山の修行に加えていただいたのはこの(注・大山と出会った)一ヶ月ほど後です。
中略)
大学(法政大学)を休んで参加したわけですが、先生のそばで一緒に稽古していたのが岩村(博文)さん(注・極真会館大阪道場責任者)と黒崎さんの二人でした。この人たちに出会った事も、十八歳の私には大きな衝撃でした」
略)
黒崎、共田が大山とともに行った清澄山の「山籠り」は映画「世界最強のカラテ キョクシン」の中でも紹介され、合宿時のスナップ写真も現存している。
略)
共田の語る稽古は、後に大山が著書などで紹介した清澄山での稽古と酷使している。
ところで、清澄山の山籠りの詳細について、後の「大山倍達伝説」に近い内容の逸話を大山が初めてメディアに語ったのは、黒崎たちと清澄山で合宿を行った翌一九五六年四月三十日付けの「東京毎夕新聞」においてである。
大山とスポーツ評論家・郡司信夫との対談が「神速果敢」という囲みのコラム欄に掲載されている。
前半部分では「初めて山に入ったのは昭和二十二年七月です」と年代に一年のずれがあるものの、前述した金致淳の証言とほぼ同様の事を大山は語っている。ただ、ここでは身延山が「天城山」となっている。
後半部分では、大山は清澄山の山籠りについて自らの思い出話を披露する。以下引用する。
「その後、どうせ空手をやるなら、日本一になってやろうと決心して、日蓮上人が悟りを開いた千葉県の清澄山に入ったんです。その時は、裾から二キロぐらい山の中に小屋を作りまして、八代という弟子と二人で入ったんです。
略)
山に入るときは丸坊主になって、髪と修行する競争をするつもりだったんですが、やはり町に行きたくて、どうしようもなかった。なにくそと思うんですが駄目なんです。そこで゙先生に苦痛を訴えたんです。その時の先生の返事が、「先天的天才はあり得ない。後天的努力によってのみ天才となり得るのだ。武道を究める者で酷寒炎暑、煩悩に耐えなかったものがあろうか!眉を剃れ!」と、切々たる文章で綴ってあったんです。それで、また心を奮い立たせて眉毛を片方ずつ剃って、町へ出られないようにしたんです。眉毛は伸びが遅いですからね・・・・。一日五時間ぐらい稽古をしたんです。そのうち、町の子供達が「天狗がいる」といって見に来ましたよ。清澄山には三年入っている予定でしたが、月々仕送りしてくれた小沢伝七郎氏が昭電事件で芦田均氏と一緒に入ってしまったので、生活費がなくなって、一年半で下ってしまいました」
略)
以上の経過から考えて、「大山倍達伝説」における清澄山の山籠りに関する逸話は、一九五五年の黒崎たちとの合宿の体験を翌年の「東京毎夕新聞」さらには「月刊空手道」の中で、「一九四八年から一年半(時には二年)に行った清澄山での山籠り」とすり替えて語られた「虚構の物語」が原点だと私達は推測する。
略)
「もし大山先生が戦後の一時期に清澄山に籠ったとするならば、それは山籠りではなく合宿のような短期のものだったのではないか」(黒崎健時談)
私達には黒崎の言葉こそが真実を突いているように思える。また、戦中、戦後の大山をよく知る鄭達鉉(元「韓国新聞」論説委員)が「時折、館山の山に籠って数日間、瞑想したりしていたようです」と語っていることからも、大山が暇を見つけては清澄山に限らず、近所の山などに数日間籠り、精神修養を行っていた可能性も否定出来ない。>
「大山倍達正伝」P四百八〜四百十一
つまり、大山氏は身延山でも清澄山でも長期の山籠りはしていないのである。しているのは合宿であり、短期の精神修養的なものである。
あほらし
今日は飲んべえの会について、醴泉の蔵元である山田社長、磯自慢の寺岡社長に電話で相談をさせていただく。
醴泉は十一月二十日土曜日。磯自慢は十二月十二日日曜日と決定。
Wさん御夫妻来店。
初めてのお客様来店。
Kくん、Mさん、Mさんと来店。
Tさん来店。
ドンチャン。
記憶あり。
サルよりマシ。
大山倍達
山籠り伝説の嘘 身延山
9月20日月曜日晴れ
大山氏は下記のように自分の山籠りによる空手修行について書いています。
<暴力団にも狙われていたので身延山に籠り一年間の修行をし、人恋しさを眉を剃って耐えた>
戦後初めての全日本空手道選手権で優勝した後、
「ダイナミック空手」
<終戦を迎え、
中略
人間と空手との関係についてもっていた自分の考えを確かめる為に、身延山の寺に入って修行をした>
「一〇〇万の空手」
「闘魂」および「続ケンカ空手」では、どちらも清澄山の山籠りについて多くの紙面が割かれている。山での稽古の様子が詳細に描かれ、ともに修行の辛さに耐える為に自らの眉を剃ったと記されているが、だが両著とも身延山の記述は無い。
「大山倍達正伝」P四百六
<上京してGHQや暴力団との私闘によって追われる身になった大山は清澄山に籠り、一年半の修行を行った。(身延山の記述は無し)>
「わが空手修行」
<私は山に籠っての修行を三度経験している。一度目は、山梨県身延山に。二度目は千葉県清澄山に。そして三度目は、同じく千葉県の青堀山にである。>
身延山への山籠りは<MPに追われて、この追っての目をかわすために山に籠ったというのが真相に近い>
清澄山には<生涯を空手の道に捧げるべく決意をして二年間籠った><清澄山で眉を剃った>
「極真空手 二十一世紀への道」
(大山氏の著書に掲載されていたとされる文章については、私は「大山倍達正伝」P四百六より引用)
<1946年10月 同校(木下注 早稲田大学)を中退して身延山に入山武道精進に励む。>
国際空手道連盟極真会のホームページより
<1946.10身延山に入山し空手の修行に精進する。>
極真館城南大井町支部ホームページより
このように、大山氏の著書だけでなく、極真会のホームページに現在でも書かれているように戦後、昭和二十五年までの間に山籠りをして空手修行をした事になっていますが、著書により書いてある事に統一性が無い。そして、少なくとも空手修行の為の一年以上に及ぶ長期の山ごもり自体が嘘であることが「大山倍達正伝」に書かれている。
<大山がは千葉健青の大幹部であり、自ら直系の部下である建設隊を率いる立場にあった。そんな大山が一年半もの間、建青の活動を離れることが不可能なのは言うまでもない。
略)
ここでなによりも重要なことは、「大山倍達伝説」で一年半におよぶ山籠りを行ったという逸話は、大山が民族運動に関わった「過去」を隠滅するための方便であったという点である。>
「大山倍達正伝」p百二十一
大山氏は戦後昭和二十五年前半まで、生活基盤は徴用され、終戦まで千葉県の房総で役務についていたので、千葉県館山市にありました。
終戦後、在日朝鮮建国促進青年同盟(健青)本部では「訓練部長」「建設隊隊長」の肩書きを持ち、千葉と東京を行き来していた。
健青の武闘派集団「安房支部」のリーダー格であり、戦後七年間を剛柔流空手の修行と朝連との抗争に費やした。
(「大山倍達正伝」P三百八十六より木下が抜粋)
少なくとも昭和二十五年までのこのような時に、長期の山ごもり修行などできる筈はありません。
そして、下記のように一時期の山籠りが記されています。
<「それでも後に、清澄山の山籠りだけは時期も一九四八年四月からの約一年半から二年間とほとんど「定説化」されている。しかし、清澄山の山籠り以前の話になると、大山の言葉は一転して不安定になる。だが、この曖昧な言葉や記述でしか表現されていない初期の山籠りは、内容が不安定であるがゆえに、逆に一面の真実が存在するとも言える。例として、初期に行われた山籠りについての大山の言葉を紹介する。以下は、一九八九年九月号の「月刊武道空手」に掲載された大山の回想談である。
「私が初めて山籠りを行ったのは確か昭和二十二年、身延山のさらに一つ奥にある七面山と呼ばれている山であった。そこの寺に入り、寺の雑用をさせてもらいながら空手の稽古を行ったのである。それでは、なぜ山籠りなど行ったのか。事実を言うならば、当時私は警察、MPから指名手配になっており、世間から身を隠すために山に入ったのだ。
中略」
身延に入ったのは確か秋だったと思う。落葉が舞い出した頃、寒かったのを覚えている。決して意気揚々としていた訳ではなく、どこか寂寥感に包まれながら、世間から逃げる形で山に入ったのである。これが、そもそもの山籠りのきっかけであり、真実である」
健青と朝連との抗争に祭し、尖兵として前線で活躍していた大山は、同時に敵対する朝連の刺客からから追われる身でもあった。大山によれば、「月刊武道空手」のインタビューがそうであるように、GHQ兵士たちとの私闘の末、MP(米軍憲兵)や警察から逃げる方便として身延山(ときに七面山や天城山だったりする)に籠ったのが「山籠り」のきっかけだったという。だが大山が朝連の刺客をMPや警察にすり替えているのは明白である。
終戦直後の大山をよく知る金致淳が「天沼時代、゙(寧柱)先生と剣道の中村藤吉先生の勧めで山梨の山に籠った」と語り、身延山久遠寺直末寺の住職である泉和彦の証言からも、たしかに大山は一九四六年の一時期、身延山久遠寺に籠っている。>
「大山倍達正伝」P四百七〜四百八
このように身延山には行っているが、長期の山籠りはしていないというより当時の大山氏はそれができる状況ではない。
今日も朝起きるとあちこちが筋肉痛。
シャワーを浴びてゆっくりしてから、午後より買い物に出かける。
古本屋さんではあまり欲しいものが見つからず、何も買わなかった。
「アミノバイタルプロ 120p」が無く、注文して帰宅。
今日は酒は飲まず。
山口君と竹田君
9月19日日曜日晴れ△
店を片付けた後、高田馬場にあるスポーツセンターへ行く。
今日はそれなりにメニューを消化。
店に一度寄り、バタバタと出かけ、午後三時前に下北沢に到着。
北沢タウンホールで開かれた「山口君と竹田君デビュー25+2周年」コント・ライブへ。
会場には竹田君こと竹田高利氏を十五年以上も前に紹介してくださったTさんもいらしていて、後で久しぶりにドンチャンつうことになる。
山口君と竹田君のライブは恵比寿にて、そのTさん、Hさんとご一緒させていただいて以来。
会場は満席で立ち見の方もいらしたようでした。
前の方のど真ん中の席で二時間たっぷりと楽しませていただきました。
ただ、ゲストのケーシー高峰氏のコントはどうも好きになれなかった。
特に高齢者をネタにしたコントには嫌悪感を覚えた。
同じゲストの「ライラックス」は会場の音響設備があまりよくなかったので、お気の毒。
その後は下北沢にてTさん、Hさん、当店のお客様であるOさんと全員が下北沢が久しぶりなので、知っていた店は「閉店」「場所不明」ということで、適当に初めてのお店(ホルモン屋さん)でドンチャン。
写真はその店のお勧めとだというマッコリを名乗った清酒「虎マッコリ」。
製造は福島県の有賀醸造。
味はまあ、こんなもんなのでしょうが、ネットで調べると七百m瓶で定価九百円がお店では三倍以上の三千円はちと高い気もする。
濱川社長は邪魔と思うかも知れないが、こういった酒に比べて格段に旨い「美丈夫・舞 うすにごり」の新たなマーケットがあるように思うのだが。
帰りの電車でいい気持ちになり、もう少しで乗り過ごすところでした。
帰宅後、シャワーを浴び、そのまま布団の上でマンガを読みながらゴロゴロしていたら、灯も点けっぱなしで寝てしまう。
今日は記憶あり。
サルよりマシ。
飲んべえの会 十四代
9月18日土曜日晴れ △
今日は午後三時から「十四代」の飲んべえの会
御一人様はドクターストップ、御一人様は急な仕事が入りキャンセル。
ということで、四名様。
出品酒は下記の五本
平成22年 十四代七重二十貫 純米大吟醸 40%
平成22年 十四代 大吟醸 山田錦 40%
平成22年 十四代 中取り純米吟醸 備前雄町 50%
平成22年 十四代 中取り純米吟醸 播州山田錦 50%
平成22年 十四代 本丸 本醸造 五百万石 55%
六時までの予定がいつもどおり・・・・・・
写真はFさんの携帯電話の酒瓶ストラップ。
中々ここまで充実している?コレクションは少ないと思います。
一応、六時半には営業準備。
Sさん来店。
オーストラリアでの学会から帰国したばかりのホロン部員Yさん来店。
初めてのお客様四名様来店。
ドンチャン。
珍しく記憶あり。
サルよりマシ。
崔洋一
9月17日金曜日晴れ △
当店のお客様であるIさんから伺ったのですが、あの崔洋一が日本映画監督協会理事長になったとたんに、四百人いた同会会員の半分が脱退し二百人になったそうです。
脱退した皆さんは崔氏が辞めたら戻るとおっしゃっているそうです。
崔氏は朝鮮人特有の病気である火病にて周りから呆れられているそうな。
人望のなさは流石やな〜
Tさん、Sさん六名様で来店。
初めてのお客様二名様来店。
めぐ蔵さん来店。
ドンチャン。
記憶はあり。
サルよりマシ。
本多立太郎
慰安婦についての追記
9月16日木曜日雨 △
「金檀でいつも本を読んでいて、慰安所には一度も行った事がない。」という非常に真面目?な本多氏ですが、
<「その当時、金檀に日本軍が造った慰安所があった。十六名の慰安婦がいた。少数の日本人と朝鮮人以外、大部分は十六、十七歳の女性であった。
彼女たちはほとんど無理やり強制的に性奴隷にされた」
(本多氏談>
「SAPIO」P三十一〜三十二
<「慰安所」には十人、いや十五人ぐらいの女性たちがいました。日本の人と朝鮮の人と中国の人と。
兵隊の階級に合わせて、将校は日本の女性、下士官は朝鮮の女性、兵隊は中国の女性でした。
略)
日本からの女性というのは、当時は売春禁止法の施行以前だから、吉原などの遊郭から来た女性たちで、三十代から四十代の人だったんです。朝鮮半島の、いわゆる強制連行をされてきた女性たちは二十代半ばぐらい。戦場で捕まえられて連れてこられた中国の女性たちは十代です。>
「中帰連 二十八」p四十五
と行った事もないはずの慰安所にみょうに詳しい・・・・
これについて、伊藤氏はサピオにて「金檀に慰安所はあった。でも経営していたのは台湾人だ」 と証言しています。
そして、我が国の女性慰安婦が三十〜四十代で、<兵隊の階級に合わせて、将校は日本の女性、下士官は朝鮮の女性、兵隊は中国の女性でした>と いかにも、日本女性>朝鮮人女性>中国人女性という書き方をしているが、日本女性でも若くとも慰安婦をしていた方もいたし、日本女性でも将校以外の相手をしていた方もいた。
それは日本人女性の慰安婦の方の数少ない証言をされた山内馨子さんなどの証言でも明らかです。
本多氏が「属していた」という十五師団の軍医部による衛生業務要報が手元にある「従軍慰安婦資料集 吉見義明 大月書店 平成四年刊」に掲載されていました。
残念ながら本多氏が属していたという昭和十六年ではなく昭和十七年十二月から十八年二月まで三回分の検査資料です。
特種慰安婦検診ノ状況
昭和十七年十二月一日〜三十一日
地方別 | 検査回数 | 平均一日現在人員 | 検査延べ人数 内地人 |
検査延べ人数 半島人 |
検査延べ人数 中国人 |
検査延べ人数 計 |
南京 | 五 | 四百三十三 | 七百四十九 | 五十 | 六百十二 | 千四百十一 |
蕪湖 | 三〜四 | 七十六 | 百二 | 八十二 | 百五 | 二百八十九 |
金壇 | 四〜五 | 三十 | 二十七 | 九十 | 百十七 | |
鎮江 | 四 | 二十九 | 百十四 | 百十四 | ||
計 | 五百六十八 | 八百五十一 | 百五十九 | 九百二十一 | 千九百三十一 |
昭和十八年一月一日〜三十一日
地方別 | 検査回数 | 平均一日現在人員 | 検査延べ人数 内地人 |
検査延べ人数 半島人 |
検査延べ人数 中国人 |
検査延べ人数 計 |
南京 | 四 | 四百十三 | 千七 | 百十三 | 五百十三 | 千六百三十三 |
蕪湖 | 二〜四 | 七十三 | 八十八 | 七十三 | 百二十九 | 二百九十 |
金壇 | 二〜四 | 二十三 | 十二 | 五十四 | 六十六 | |
鎮江 | 四 | 三十一 | 百二十四 | 百二十四 | ||
計 | 五百四十 | 千九十五 | 百九十八 | 八百二十 | 二千百十三 |
昭和十八年二月一日〜二十八日
地方別 | 検査回数 | 平均一日現在人員 | 検査延べ人数 内地人 |
検査延べ人数 半島人 |
検査延べ人数 中国人 |
検査延べ人数 計 |
南京 | 四 | 四百三十七 | 九百四十八 | 五十一 | 五百五十七 | 千五百五十六 |
蕪湖 | 三〜四 | 九十七 | 百十四 | 九十三 | 百三十九 | 三百四十六 |
金壇 | 四 | 十一 | 十九 | 二十二 | 四十一 | |
鎮江 | 四 | 三十九 | 十二 | 百四十三 | 百五十五 | |
巣県 | 三 | 三十四 | 十一 | 九十一 | 百二 | |
漂水 | 三 | 十 | 三十 | 三十 | ||
計 | 六百二十八 | 千七十四 | 百七十四 | 九百八十二 | 二千二百三十 |
「従軍慰安婦資料集 吉見義明 大月書店 平成四年刊」P二百七十三〜二百七十七
*金檀は吉見氏の資料集では金壇となっています。
昭和十七年十二月から十八年二月までの三ヶ月間の資料しかございませんが、
少なくとも本多氏が証言されている金檀にあったという慰安所においては、
朝鮮人(半島陣)十二〜二十七人、支那人(中国人)五十四〜九十人の検査をおこなっていますが、日本人(内地人)はゼロです。
これは、
<十六名の慰安婦がいた。少数の日本人と朝鮮人以外、大部分は十六、十七歳の女性であった。
彼女たちはほとんど無理やり強制的に性奴隷にされた>
<「慰安所」には十人、いや十五人ぐらいの女性たちがいました。日本の人と朝鮮の人と中国の人と。
兵隊の階級に合わせて、将校は日本の女性、下士官は朝鮮の女性、兵隊は中国の女性でした。
略)
日本からの女性というのは、当時は売春禁止法の施行以前だから、吉原などの遊郭から来た女性たちで、三十代から四十代の人だったんです。朝鮮半島の、いわゆる強制連行をされてきた女性たちは二十代半ばぐらい。戦場で捕まえられて連れてこられた中国の女性たちは十代です。>
という本多氏の証言は、この資料集で見る限り金檀の慰安所は朝鮮人と支那人のみで構成されているようであり、慰安婦の大部分が支那人であるというのは無理がある。
ましてや、本多氏自身も書いているように、当時売春は合法であり、職業として存在していた。地元民の反抗をかってまで強制的に連行して慰安所を開く必要性がない。
そのため、日本人の売春婦も多く海外に進出していた。
それは、この資料がよく現しているように売春婦の最大数は日本人が占めている。
慰安婦の民族構成については、秦郁彦氏の著書「慰安婦と戦場の性」(新潮選書 平成十一年)にもその事が掲載されているが、満州と支那に関しては外務省の領事館警察統計の中に接客女性の計数が記録されている。
秦氏はこれより、支那における日本人、朝鮮人の比率を二対一、満州においては三対一としている。
そして、内地における公娼数は昭和十二年(一九三七年)の二一万三千人から昭和十五年には一七万五千人、昭和十七年には一四万六千人へとそれぞれ約四万人、六万人も減少している。
他の業種への転業者もいただろうが、領事館警察統計の支那、満州を合わせた約三万人の日本人接客女性数にほぼ見合う数字である。大陸へ出動した内地人男子(一般人を含む)の需要に応じてのことだろう。
(「慰安婦と戦場の性」P四百八)
そして、同書に書かれている 「経営者とか親方とか呼ばれていた業者(夫婦の例が多い)との関係をみると、内地人はどんな人種の女性もつかっていたが、朝鮮人の親方が内地人を雇う例はまずなく、ほとんどが朝鮮人女性だった。中国人業者と中国人女性の関係もそれに近いが、 オランダ政府の報告書によると、バダン(スマトラ)ではインド人業者の下で二十人の白人女性が働く慰安所があり、ペカロンガン(ジャワ)では中国人業者の下で二十三人の欧州人女性が働いていた。総数は明確を欠くが、旧蘭印における欧州人慰安婦を二百〜三百人と推定している」
(同書P四百九〜四百十)
この第十五師団の慰安所においては、金壇が朝鮮人、支那人のみの構成となっていることは台湾人経営者という伊藤氏の証言を秦氏の文章が裏付けているものではないでしょうか。
それと同時に、本多氏の証言の否定にも繋がるのではないでしょうか。
今日はメチャヒマ。
Iさん来店。Yさん来店。
ということで、早い時間からドンチャン。
でも記憶あり。
サルよりマシ。
朝鮮聰連と政治家
姜勲、通名柳勳という人物と土井たか子、亀井静香、平沢勝栄
9月15日水曜日晴れのち雨 △
南朝鮮ではとっくにパチンコが禁止されているのに、我が国ではこの在日朝鮮人の米櫃を擁護するアホ政治家が民主党山田正彦をはじめ多くいます。
手元にある出版物だけでも下記のような記述があります。
<朝鮮聰連がパチンコ店を直営することになって、日本の警察がパチンコ業界に対する圧力を強めるのではないかと考えた総聯本部は日本の政治家に対する工作を強化した。
この時中心的な役割を果たしたのは総聯の栃木地方会の会長だった姜勳だった。
全国遊戯協同組合連合会(全遊協)の幹部を務めた人物で、在日とパチンコに対して不利な事があると、関係者はこの姜に情報を集めて対応した。
パチンコのイメージアップのために土井たか子氏を担ぎ出したのは姜の功績だった。
現在、対北朝鮮強行派の論陣で知られる平沢勝栄氏もパチンコ問題で朝鮮総聯の贈賄工作のターゲットとなった一人だ。
パチンコの出店には風俗営業法(風営法)により、警察の生活安全課が深く関わる。パチンコが総聯の資金源だということで、元警察官僚で反北朝鮮派の平沢氏が反対するかも知れない。
それが総聯のパチンコ業界参入の大きな障害となる可能性がある。
そこで、あまり突き上げるなということで、朝鮮総聯から平沢氏に政治献金がなされたこともあった。
また、平沢氏の後援会にも商工人などから何人かが参加し、朝食会やパーティなどの券を買った。
こういった縁で、平沢氏の後援会から朝鮮総聯系の商工人に招待状が届く事もあった。また、同じ理由で、朝鮮総聯は亀井静香氏にも接近した。朝鮮総聯は一〇〇〜二〇〇万に及ぶ金を平沢氏や亀井氏の前に積み上げたが、両氏はあくまで自分の政治信念に従って、発言を続けた。
ちなみにパチンコ業界には今でも「静香会」というのがあって、これに入っていれば、後ろ暗いことをやっていてもあまり突かれないと言う。亀井氏などは今なおそういう影響力を持っているため、総聯系のパチンコ店も「静香会」に入っている。>
(「朝鮮聡聯の大罪」金昌烈 宝島社 平成十四年刊 )p二百十三〜二百十四
ところが、この「姜勳」という人物は別の雑誌では「柳勳」となっている。
<「不審船の工作員が連絡を取ろうとした」と伝えられた人物の名前は柳勳氏という。柳氏は、昭和五十年代から六十年代初頭にかけ、パチンコ業界の実力者として、業界では知られた人物である。当時の彼の肩書きは、全国パチンコ店の組合である全国遊戯業協同組合(全遊協)の副理事長。彼の存在を大きくクローズアップさせたのは、一九八九年に始まった「週刊文春」のパチンコ疑惑追及キャンペーンだった。
当時の政界で躍進著しかったのが、おたかさんブームの波に乗った社会党。土井たか子を委員長に据えた社会党は、参院選で女性議員を次々と当選させて保革逆転劇を演じマドンナ旋風を巻き起こした。
「週刊文春」は、その土井・社会党がパチンコ業界を通じて朝鮮総聯、ひいては北朝鮮と癒着している、と糾弾したのである。
まず、土井委員長が昭和六十一年(八十六年)に受章した「パチンコ文化賞」(全遊協主催)はヤラセだったと告発。その背景に「北朝鮮の朝鮮労働党と永年友好関係にある社会党の土井委員長」と「朝鮮総聯の実力者である全遊協の実質的なリーダーである柳副理事」との密接な関係があると暴露。そして、具体的な事例として、全遊協=朝鮮総聯による社会党のパーティ券購入、さらには社会党への政治献金の存在を示した。>
「北朝鮮利権の真相」(宝島社 平成十四年刊)「二〇兆円民族産業に群がった魑魅魍魎」日名子暁 P百五十三〜百五十四
<許宗萬は総連の外交部門である国際局の出身で、日本の政治家たちと盛んに交際していた。
始めの頃は社会党の田辺誠、それから自民党の金丸信、後には野中広務や山崎拓、加藤紘一らととくに親しくしていた。>
「わが朝鮮総連の罪と罰」(韓光熙:野村旗守 文藝春秋 平成十四年刊)p百八十二
そこで、ネットで<柳勳 全国遊戯協同組合連合会>と入力するとすぐにいくつも検索に引っかかる。
その中に<在日商工人を語る - 5 (柳勲 / 姜勲)>とある。
http://www.pyongyangology.com/index.php?option=com_content&task=view&id=619&Itemid=81
以下引用
柳勲(やなぎ・いさお)名が日本社会で通っていることから、「柳勲」をここでは使っているが、在日朝鮮人社会では「姜勲」が通っている。
柳勲は1949年にサイダーなどの飲料水製造をはじめることから実業界へ進出している。
略)
第一回パチンコ文化賞に土井たか子社会党委員長、吉行淳之介などが選ばれているが、表彰式では土井たか子社会党委員長にマイクを壇上ですすめた姿が写真に残っている。
2009年10月19日 南牛 安部桂司
引用終わり
そして、国会でも取り上げられています。
以下引用
116回-衆-予算委員会-05号 1989/10/17
これは誤解があるといけませんので次の質疑の前に明確にしておきたいことは、パチンコ業界の中にもまじめな方と不まじめな方があるということも私は承知の上で質問をしていることでございますので、記憶にとどめておいていただきたいと思います。
次に移らしていただきますが、これは健全な娯楽産業として発展を願っている国民大衆にとっては非常に不愉快なことだと思いますね。
ここで私は、参考に一人の人物についてお聞きをしておきたいと思います。
ぜひ的確にお答えをいただきたいと思います。
その方のお名前は、日本の名前で柳勲さんといいます。これは最初でございますから
敬称を使わせていただきます。朝鮮名を姜勲さんといいます。ここから先は敬称を省略して質問いたします。この人は全遊連を牛耳っている大物と聞いていますが、本当ですか。お教えいただきたいと思います。
お尋ねの柳勲氏は、今年の八月二十七日まで全国遊技業協同組合連合会の副理事長、また同組合の親睦団体である全遊連関東地区協議会の会長の要職にあった方でございます。
というと、人の社会でよく言う北朝鮮関係のドンと思って間違いありませんか。
お答えします。
ドンというのはスペイン語だそうでございまして正確にはわからないのでございますが、ただいま御質問の人物は栃木県の朝鮮人商工会の会長をしております。
朝鮮人商工会は朝鮮総連に加盟している団体と承知しております。
私も使いつけない言葉で質問をして大変失礼いたしました。
どこの国の言葉か知らないのですけれども、本当に申しわけないと思っております。
この点は、委員長、的確に記録に残しておいていただきたいと思います。
そこからお伺いをいたすわけでありますが、なぜ私がドンという言葉を使ったかということでございます。私の調査によれば、彼はあなたの言われるとおり小山市の名士であり、彼の経営する会社は次のとおりだと言われております。株式会社プラザ・ヒカリ、売り上げ十五億六千八百五十万円、昭和六十年―六十三年五月、納税額四十八万円。有限会社銀星会館、売り上げ七千四百四十六万円、納税額ゼロ。
ヒカリ観光、昭和六十一年七月―昭和六十二年六月、売り上げ二十億四千七百万円、納税額ゼロ。
常識的に言ってこのような申告状況はおかしいのではないかと思いまして、それでも生きていられるのですから、よほどドンではないかと思ってドンという言葉を使わせていただいたのでございますが、特定権力者であることは間違いありませんか。
これは国税当局にお答えをいただきたいと思います。
税務の面からお答え申し上げますのは限られているわけでございまして、特に今先生御指摘の売上額あるいは税額、御発言ございましたけれども、我々、常に個々の業者につきまして所得が幾らであるとか納税額が幾らであるとかいうことも、こういった席では発言を差し控えさせていただいておりますので、どうぞ御容赦いただきたいと思っております。
引用終わり
そして、社会党について
116回-衆-予算委員会-05号 1989/10/17
○浜田(幸)委員
社会党の社会新報に、平沢安保課長が六回も社会党山口書記長に呼ばれているがということが書かれていますが、本当ですか。
○森廣政府委員
平沢と申しますのは保安課長でございますが、数次にわたって社会党の議員さん方にいろいろ呼ばれて説明をしたりなんかしております。
○浜田(幸)委員
その内容について一、二点聞かしていただきたいと思いますが、特に、山口書記長を初めその代表があなた方に発言をされた内容はどういう内容ですか。
○森廣政府委員
プリペイドカード問題に対していろいろ御質問やら御意見やらを伺っておりますけれども、そういったやりとりの中身につきましては、相手方の了承がない段階では、一方的にこちらから申し上げるのは御遠慮させていただきたいと思います。
○浜田(幸)委員
それではもう一点お伺いしますが、この問題について政治圧力をかけた、政党として一番政治的な圧力をかけたところはどこですか。もう一回聞かしてください。
○森廣政府委員
圧力という表現は別といたしまして、一番そういう説明を求められたような政党は社会党でございました。
引用終わり
現社民党、当時の社会党と犯罪組織朝鮮総聯とのつながりがよくわかる例です。そして、パチンコなどという朝鮮人の米櫃を潰す事のできない腐れ政治家どもとの関係がよくわかります。
続く
写真は今日の築地本願寺の蓮。
そして、今日の日刊ゲンダイ。「小沢大敗のカラクリ」つうても
今日はヒマ
Sくん来店。
Mさん二名様で来店。
遅い時間にYさん来店。
軽く飲む。
当然記憶あり。
本多立太郎への素朴な疑問
支那人美少女との交流についての疑問追記
9月14日水曜日晴れのち雨 △
本多立太郎氏の支那人家族との「不思議な」交流。
本多氏「私は、毎週日曜日、金檀公園に行き、本を読んでいた。ある日、美しい中国人少女を見ました。とても歌の上手な少女でした。
ある時、一曲歌ってくれませんか、というとその少女はものすごく怒りました。
『私が歌う唄は、国の為に戦死した勇者の為で、あなたたち日本人の為には歌いません』と言って桃林の方へ走り去った」
「SAPIO」平成十七年九月七日号P三十二より
これと同じような、しかし、背景が全く違うエピソードが本多立太郎氏の著書「ボレロが聴きたい」にもあります。
以下引用
<我々の駐留した金壇の小公園で知り合った少年がおりまして、休日ごとに高い城壁の上に足をぶらんぶらんさせながら、日本や家族や未来の夢などを語りました。
中学一年生くらいの彼は、戦争が終わったら日本に留学するんだと瞳を輝かせます。私自身そうすることで自分の望郷の念をいやしていたのです。それほど眼下に広がる白壁の農村風景は日本の田舎のそれとそっくりでした。こうしてその少年の家族、県公署に務める父親や母親とも親しくなりましたが、その中でただひとり、当時高校生だった姉だけは身をかくして私を避ける様子でした。しかし、そうであればあるほど、一人の若者として異国の少女への関心が深まっていったのも、これまた当然で、諸君にも大いに見に覚えがあるんじゃあないですかと思います。
略)
それは、春の一日の出来事でした。城外の梅林に一家の花見の宴が開かれて、私も招かれました。硝煙の匂いに包まれる身としては夢のような幸せ、の一日でした。私はその幸運に少し酔いすぎたようです。宴の半ばに、父親は娘に向って得意の歌を所望しました。なかなか立ちませんでした。そのうちに、彼女はすっくと立ち上がると私を鋭く見据えて切り捨てるように叫びました。
「私には、殉国の勇士に捧げる歌はあっても、祖国の仇敵に与える歌はありません」
そのまま娘は青衣の裾をひるがえして梅林の奥へ走り去りました。私はその意味を覚りました。
娘は林の奥の老樹の下に面を蔽って佇んでいました。その青衣の細い肩が赤い花片をのせて細かく揺れています。私はその限りなく可憐な姿の前に立ち、項垂れて咳くように、しかし心をこめてこう言いました。
「いつの日か、貴方の幸福の歌を聞かせていただく日を私は待っています。その日こそ私達に日本人にとっても本当に幸せな日となるでしょう。心からそう祈っています。」
そのまま私は
やがて部隊に出動の命令が下り、我々は軍装して兵舎から城門に向いました。石畳の道に軍靴を鳴らして行進する私の胸の中に、一人の少女の顔が鮮やかに浮かんできます。しかし、彼女が私に対して持つものは激しい憎しみに外ならない。兵士の心は揺れました。突然、列中に少年の姿がひらめき、私の掌中に一枚の紙片を残し「姉が・・・・」と低くささやいて消えました。
胸を轟かせながら披いたその紙片には、墨痕も鮮やかにこう書いてありました。
君 我同胞を傷つくる勿れ
君 死に給う事勿れ
私は思わず顔を上げ眼を辺りに泳がせました。そしてそこに見たのです。黙々と見送る市民たちの後ろに、頷いている小さな白い顔を。その時それは私の生命でした。いきなり私の身につけた総てを投げ打って、少女の前にかけよりその手を取って、殺すものか、死ぬものかと叫びたい衝動にかられました。
しかしそのかわりに、私は彼女に向ってちょっと肯づき、微笑みました。少女もまたちょっと肯づき、微笑みましたが見る見る、その黒く大きな瞳に涙が溢れてきました。涙は細い頬を伝わって落ちました。涙は同じように溢れて止まりませんでしたが、私は前を向きました。ぐいと背のうを揺すり上げ、江南の長く白い道に向って胸を張りました。
君 我同胞を傷つくる勿れ
君 死に給う事勿れ
私は心に誓いました。たとえ死なぬという約束は守れなくても、殺さぬ誓いは守り通そう、と固く心に決めました。それはまさに一人の兵士の新しい門出でした。>
「ボレロが聴きたい」P三十六〜三十八
これについては本多氏は著書および水間氏のサピオの記事及び御自身の著書に下記のように掲載されています。
五十一連隊第二大隊六中隊の伊藤良治氏(「SAPIO」平成十七年九月七日号掲載当時八七歳)は
「なに、アホなこと、言っている!前にも言ったが金檀―下新河間は二十km離れている。毎週金檀の公園に本を読みに行く事等ありえない。 また、六中隊に中国語を話せる兵士など誰もいない。台湾人の通訳がいたが」
同じく第五十一連隊第一機関銃中隊・加藤又一氏(「SAPIO」平成十七年九月七日号掲載時九三歳)は
「初年兵は、休日には先輩の洗濯等の雑用がいっぱいあり、常に臨戦態勢。ゆっくり休む事などできない。
しかも、金檀城内の中国人は日本人を怖がるようなことはなかった。昭和十五年には、日支合同運動会や金檀住民が日本軍のために慰問演芸会を開いてくれたこともある」 (歩兵第五十一聯隊史より)
水間氏が再度、本多氏に中国語を勉強したのかと確認すると
「いやいやなにもしない。中国語はまったく。これから少し勉強しようかなと思っているけど。
金檀の公園で本を読んでいたのは事実だ」
「SAPIO」P三十二
本多氏は自身の著書の中でも支那語については下記のように書いています。
<そこに現れたのは捕虜にした若者の母親のようでした。何かを叫んでいる。
「私の息子をどうするのか。返してほしい」と叫んでいるのはわかりました。その必死の表情で分かります。すると母親は河に飛び込んだのです。舟の中の捕虜の若者が叫ぶ。言葉がわかりませんが、しかし・・・・>
「戦争出前噺」(本多立太郎・堂本一 みずのわ出版 平成二十年刊) p三十九
<一九四一年の二月、揚州作戦が始まり、私達の部隊も参加しました。
略)
走り出てきたのは一人の老いた女性で、岸辺の柳にとりすがって、しきりに何かを叫んでいる。
中国語は分からなくとも、私達へいたいにはすぐのその意味がわかりました。
「そこにいるのは私の息子です。兵隊なんかじゃありません。どうか返してください」
そういっているに違いありません。>
「中帰連 二十六」P六十二〜六十三
このように本多氏は水間氏とのインタビューだけでなく、自身の著書でも支那語は話せないことを明らかにしている。
つまり、話す事もできない支那語なのに、支那人少年と夢や未来を語り、少女が言った言葉は理解し話をしたと言っているのです。
あほらし。
「一応」日本人とされる人間のゴミと屑との党首選が終わったそう。
どうでもいいが、人民解放軍の野戦司令官が勝たなかっただけでもまし。
今日は珍しく早い時間から大勢のお客様。
Tさんスペインよりのお客様アグスティンさんと来店。
アンナさんAさんと来店。
Sさん二名様で来店。
Wさん御夫妻来店。
銭湯帰りのマロさんニダーと言いながら来店。
マロさん、金ちゃんと同じ駅に引っ越されたそう。
早い時間からドンチャン。
記憶は途中まであり。
サルよりマシ。
「直人」
9月13日月曜日くもり後晴れ夜になり一時大雨 ○
アホ管に関して、下記のようなちょっと面白いニュースがネットでありました。
以下引用
焼酎「直人」を作った社長は“反直人”
スポーツ報知 9月13日(月)8時1分配信
菅直人首相(63)と小沢一郎前幹事長(68)による民主党代表選は、14日の投開票に向け、最終局面に突入した。そんな中、酒好きで知られる菅首相の直筆をラベルにした芋焼酎「直人」が存在することが分かった。作ったのは首相のおひざ元、東京・小金井市にある酒類販売会社「大島」だ。ところが社長の大嶋幸治さん(61)は、今夏の参院選で、みんなの党比例代表で出馬した人物。何だかいろいろフクザツそうだが、一体何があったのか…。
「地元の経済人」として、大嶋社長が菅氏の応援を始めたのは約15年前。2度目の民主党代表に就任した02年、伸子夫人も同席した三鷹の焼肉屋で、“直人ブランド”の焼酎作りを申し出た。「ニコッとしてた」菅氏はしばらくして「直人」の直筆を10枚ほど届けて来たという。「よかった1枚をラベルにしました」。
「菅直人の名前を冠にする以上は最高のものを」と、米も芋も国産。上品な香りと芋の甘さが広がる極上品に仕上げた。以来、完成するたびに菅首相に届け、最近も原酒を6本届けたばかりだ。
「どうですか? うまいでしょ。焼酎は抜群にうまいのに、肝心の菅さんが今、おいしくない」と、大嶋社長。約5年前、菅氏の変節にガッカリして、気持ちは離れた。「ハコモノには反対のはずの菅さんが、毎年2億円以上赤字になることが分かっていて、総予算75億円の武蔵小金井の駅前ホールの建設に賛成した。連合とのつながりを考えた、個利個略だったんです」。
そして大嶋社長は、今夏の参院選にみんなの党の比例代表で出馬。23人中23位で落選する憂き目にあったが「感覚が違いすぎて、民主党から出馬する選択肢はなかった」と断言する。「デフレ脱却と戦略的な経済成長。みんなの党のアジェンダが必要と思いました」。
菅首相や伸子夫人とは現在、飲み屋で会えばあいさつを交わす間柄。しかし「トロイカ体制」を宣言しながら小沢氏との対決に突っ込んだ菅首相について「こうと思ったら突き進む男だと思っていたのに、意外とそうでもなかった。顔つき、悪くなってるね。昔はもっとスカッとしてましたよ。まずい酒飲んでんじゃねぇのかな」。
現在「直人」は一升瓶換算で毎年1万本弱がコンスタントに売れていく。しかし首相就任や代表選も、特に売り上げには影響はナシ。むしろ「藤木直人さんのファンの方が買いに来た」という。
略)
最終更新:9月13日(月)10時57分
引用終わり
この記事を読んで、この大嶋幸治氏の人間性に疑問を抱かない人はいないと思います。
<菅氏はしばらくして「直人」の直筆を10枚ほど届けて来たという。「よかった1枚をラベルにしました」。>
<「どうですか? うまいでしょ。焼酎は抜群にうまいのに、肝心の菅さんが今、おいしくない」と、大嶋社長。約5年前、菅氏の変節にガッカリして、気持ちは離れた。>
<顔つき、悪くなってるね。昔はもっとスカッとしてましたよ。まずい酒飲んでんじゃねぇのかな。>
そういいながら、平気で
< 現在「直人」は一升瓶換算で毎年1万本弱がコンスタントに売れていく。しかし首相就任や代表選も、特に売り上げには影響はナシ。むしろ「藤木直人さんのファンの方が買いに来た」という。>
ようするに大島氏は売れれば何でもいいのです。菅直人氏の政治理念とかに惚れ込んだわけでもなんでもなく、菅直人氏を利用して銭儲けをしたいだけなのです。だから、管氏のことは「顔つき、悪くなってるね。昔はもっとスカッとしてましたよ。まずい酒飲んでんじゃねぇのかな。」とボロクソに言いながらも、平気で管氏が書いたラベルを使った焼酎を売っているのです。
人間性がようでてます。
もうアホかと。
「23人中23位で落選」
当たり前ちゃいますか。
久々に大島氏の迷書?「問題の酒 本物の酒」を思い出しました。
しかし、この「酒のすべてを知る男が明かす衝撃の真実」つうフレーズ。
マジ笑えます。
この「問題の酒 本物の酒」を詳しく検証されている清水さんのホームページhttp://www.dd.iij4u.or.jp/~kshimz/sake/doubtful_book.html
に
<自己宣伝の好きな人は、自分のやったことを「前代未聞」とか「空前絶後」などと威張る傾向にありますが、大嶋氏も例外ではありません。単に他社事例を知らないか、あるいは市場調査不足なのかもしれませんが‥‥ いずれにせよ、滑稽です。>
として、大島氏のプライベートブランドについて大島氏の著書より下記のような引用があります。
<前代未聞の自社ブランド
略)
しかし、通常、一酒販店がお酒の造りに関して、蔵元に口を出すことはしません。例えば、十四代のように、蔵元と親しい間柄の地酒専門店ならは、「こういう味のお酒が売れるのではないか」というアドバイスはしますが、酒販店自らが「この味のお酒を造ってほしい」と要請することは、まずないといっていいでしょう
その前代未聞ともいえる自社ブランドという発想が生まれたのは、昨日今日のことではありません。>
(「問題の酒 本物の酒」 pp.51-52)
まさにお笑いです。
(大島氏のトンでも本に対する清水さんの他の検証もぜひお読みください。)
そういや、この大島氏の本が出版された時に、「どうしようもない程のアホな本がある」と長谷川さんが送ってきてくれた事を思い出しました。
今は酒の本の多くは坪ちゃんところに送ったので、坪ちゃん家にあるかもしれません。
ところで、神楽坂の一杯飲み屋の親父としての疑問なんですけど、
< 現在「直人」は一升瓶換算で毎年1万本弱がコンスタントに売れていく。>
となっているけど、
この大島氏の店のホームページ「大島コレクション」
http://item.rakuten.co.jp/oosima/21004758/
つうのを見ると、
本格芋焼酎「直人」900ml
鹿児島県、原口醸造、オーナー杜氏の原口俊一氏が、芋洗いから、蒸留まで、本当に素直な気持ちで造られた焼酎です。弊社社長大嶋幸治が「直人」と命名。限定1000本。芳醇でとてもすばらしい香りの芋焼酎です。
本格芋焼酎「直人」1800ml
鹿児島県、原口醸造、オーナー杜氏の原口俊一氏が、芋洗いから、蒸留まで、本当に素直な気持ちで造られた焼酎です。弊社社長大嶋幸治が「直人」と命名。限定1000本。芳醇でとてもすばらしい香りの芋焼酎です。
本格芋焼酎「直人原酒」500ml
本格焼酎鑑評会(13酒造年度)鹿児島県代表(首席)知覧醸造、オーナー杜氏の森 正木氏が、芋洗いから、蒸留まで、本当に素直な気持ちで造られた焼酎です。弊社社長大嶋幸治が「直人」と命名。限定1000本。芳醇でとてもすばらしい香りの芋焼酎です。
本格芋焼酎「直人 原酒」200ml
鹿児島県、原口醸造、オーナー杜氏の原口俊一氏が、芋洗いから、蒸留まで、本当に素直な気持ちで造られた焼酎です。芳醇でとてもすばらしい香りの芋焼酎です。
ということは、総生産本数は
本格芋焼酎「直人」900ml×1,000本=900,000ml=500升
本格芋焼酎「直人」1,800ml×1,000本=1,000升
本格芋焼酎「直人原酒」500ml×1,000本=50,000ml=約278升
本格芋焼酎「直人 原酒」200ml=α
500+1,000+278+α=1,778升+αしか造っていないと公言している「限定」焼酎「直人」がどうしてコンスタントに一升瓶換算で1万本売れるだけあるのでしょうか。
算数の苦手な私には理解出来ません。
ようするに、売れれば売れるだけ「造っている限定品」つうことでしょうか。
それぞれの品物に表示されている限定1000本つうのはなんなんでしょう。
まあ、確かに、本格芋焼酎「直人 原酒」200ml つうのは「限定本数」は表示してません。そのαがひょっとして・・・・・
管もアホやが、それを利用してるほうも同じぐらいアホつうことでしょうか。
あほらし
朝、起きると昨日スポーツセンターに行って身体を動かしたせいで、身体中が痛い。特に胸部、背中、両肩。
シャワーを浴びてから銀行、auに行く。
今日はそれ以外に何処へも出かけず。
酒は飲まず。
本多立太郎
第五十一連隊における所属中隊についての疑問追記
9月12日日曜日晴れ ○
<まず大阪の天保山桟橋から船で上海へ行き、さらに揚子江をさかのぼって南京の下関に上陸したんです。それが一九三九年の九月頃です。それから連隊本部のある江蘇省の金壇というところにトラックで運ばれました。私の所属したのは第六中隊ですが、金壇より南に行ったところに長蕩湖という湖があり、その湖畔の下新河という場所に中隊本部がありました。
略)
下新河ではトーチカ勤務です。橋のたもとにあるトーチカにたてこもって警備するわけです。
略)
中隊勤務の時は兵営で寝起きしますが、トーチカ勤務で交代となれば、二、三日はトーチカで眠ります。>
「中帰連 二十六」P六十一〜六十二
<我々のいた金壇は警備地域で治安がいいほうなのですが、いくら治安がいいといっても襲撃されることもあります。
金壇には連隊本部があったのですが、そこではこんなことがありました。ある将校が床屋さんで髭を剃らせていた。そうしたら突然、床屋に剃刀で首を切られて殺されたんです。
略)
ともかくそんな調子でしたからね、この二年間はほとんど気の休まる時なんてありませんでした。金壇には城壁があって、その城壁の上で足をぶらんぶらんさせて下を見下ろしたりなんて事はできませんでした。>
「中帰連 二十八」P四十三
同じ本に掲載されている証言で下記のように全く違う事が書かれている。
<トーチカ勤務から本部のある金壇に帰って集結している時は、日曜日ごとに外出があって、兵隊たちの行き先には「慰安所」もありました。
略)
幸いにして僕は「慰安所」を利用するようなことはなかったんだ。これは親父のおかげです。
略)
毎日のように本を小包で送ってきた。岩波文庫を。
略)
「戦地で忙しいだろうけど、これを読んで、その感想を送ってよこせ」と。怖い親父だったからね。感想を書き送りましたよ。
略)
こんなふうにしてね、休日になると本を持って城壁に上がって、足をぶらんぶらんさせながら本を読んでいた。>
「中帰連 二十八」P四十四〜四十六
他の著書にも、
<<我々の駐留した金壇の小公園で知り合った少年がおりまして、休日ごとに高い城壁の上に足をぶらんぶらんさせながら、日本や家族や未来の夢などを語りました。>
「ボレロが聴きたい」P三十六
この人は矛盾というものを知らないのであろうか。
どうして片や現地の状況が悪く
<城壁の上で足をぶらんぶらんさせて下を見下ろしたりなんて事はできませんでした。>
と書いていながら、
<休日になると本を持って城壁に上がって、足をぶらんぶらんさせながら本を読んでいた。>
<高い城壁の上に足をぶらんぶらんさせながら、日本や家族や未来の夢などを語りました。>
と書いているのであろうか。
もうアホかと。
そして、どうして「第六中隊駐屯地の下新河のトーチカ勤務」であった本多氏が、第六中隊に属した人はほとんど行く機会も無いという二十キロも離れた第五十一連隊本部のあった金壇が「我々の駐留した金壇」になっていて、そちらのエピソードが多いのであろうか。
店を片付けてから、高田馬場にあるスポーツセンターへ行く。
今日は時間もあるので、それぞれのメニューを消化。
それ以外も少し、違ったトレーニングメニューをここでよく会う方に教えていただく。
芳林堂さんに寄り、雑誌などを購入後、店に寄って店頭の花壇に水をやってから帰宅。
今日は酒は飲まず。
平均寿命
9月11日土曜日晴れ ○
ネットにザンビアの女子ボクシングの世界王者についての記事がありました。
以下引用
ザンビアの「ミリオンダラー・ベイビー」、女子ボクシングの世界王者
CNN2010年9月11日(土)10時33分配信
ザンビア・ルサカ(CNN)
エスタ・フィリさん(23)はザンビアの首都ルサカの貧しい町に生まれ、野菜を売る祖母の手伝いをしながら育った。しかし、ボクシングの世界王者となったフィリさんは、今やザンビアでは有名人だ。現在、フィリさんはレビ・ムワナワサ元大統領から授与された家に住み、賞金で購入した不動産を所有している。
まるでハリウッド映画「ミリオンダラー・ベイビー」を思わせるサクセスストーリーだが、その舞台は平均寿命38歳という貧しい国だ。
略)
フィリさんは、富と名誉を手に入れた今も生まれ育った町に住み、市場で野菜を売っていた頃に知り合った人々との交流を続けている。
略)
引用終わり
二十一世紀の現在、ザンビアは三十八歳という平均寿命。
百年前の一九一〇年当時朝鮮半島の平均寿命は二十四歳であった。
当時、我が国における平均寿命は明治四十二年(一九〇九年)から大正二年においては四四歳強。
朝鮮は約三十年後の昭和十七年(一九四二年)には四十五歳と二十年も延びた。
どれほど我が国が併合するまで朝鮮半島が醜い状態であったかを現すものです。
イサベラ・バードの「朝鮮奥地紀行」にある下記の記述の正しさがよく
わかります。
<私は北京を見るまではソウルを地球上でもっとも不潔な都市、また 紹興の悪臭に出会うまではもっとも悪習のひどい都市と考えていた。 大都市、 首都にしては、そのみすぼらしさは名状できないほどひどいものである。礼儀作法のために、二階家の建造が禁じられている。その結果、二十五万人と見積もられた人々が「地べた」、主として迷路のような路地で暮らしている。その路地の多くは、荷を積んだ二頭の雄牛が通れないほど狭い。実にやっと人ひとりが、荷を積んだ雄牛一頭を通せる広さしかない。さらに立ち並んでいるひどくむさくるしい家々や、その家が出す固体や液状の廃物を受け入れる緑色のぬるぬるしたどぶと、そしてその汚れた臭い緑によっていっそう狭められている。そのどぶは半裸の子供たちやどろどろしたへどろのなかを転げ回るか、日なたで目をぱちくりさせている汚物で汚れた大きな、毛の抜けたかすみ目の犬が大好きでよく行く所である。そこにはまた「小間物」やアニリン染料でけばけばしく色付けされたキャンディーの行商人も居る。その行商人はどぶに厚板を二、三枚渡して店を常設している。その品物は多分一ドルかそこらの値うちしかない。
略)
これらのどぶと隣接している家屋は一般に、深い庇と藁葺き屋根のあばら屋である。 その家は、泥壁の他には通りに何も見せていないが、時折屋根のすぐ下に見られる小さなかみの窓で人の住むところであると示している。 いつも変わらずに、どぶの上の二フィートから三フィートの高さの所に黒くなった煙の穴、煙と熱せられた空気の抜け口がある。 これは家屋の床を暖める役目を果たしている。
略)
反り返った瓦屋根のある上等な家屋も、この下品な外観以上のものを通りに見せてはいない。>
P七一〜七四
<ソウルの「風物」の一つは小川、廃水渠または水路であり、塀で囲まれた、覆いのない広い導水管である。それに沿って、黒ずんだ色の爛れたような流れが、かって砂利だらけの川床であったところを覆っている肥やしや廃物の山の間の、悪臭がする長い広がりをのろのろと進んでいる。そこで、男たちだけの群集に疲れた人は、最下層の女たちの光景で活気づけられるかもしれない。ある女の人は、おたまで手桶に水として通用する混合物を汲んでいる。他の女性は、流れとして通用する悪臭を放つ水溜まりで衣類を洗っている。>
P八十二
「朝鮮奥地紀行一」(イサベラ・バード著、朴尚得訳平凡社東洋文庫五七二)
まあ、この本の訳者である在日朝鮮人の朴尚得氏自身あとがきで、お約束の
<豊臣秀吉の侵略をうけ、四百年の永い年月が経ってもすっかり拭い切れない程の大災難を祖国朝鮮に、朝鮮民族、朝鮮人民にもたらしたのであった。更に朝鮮と日本、朝鮮人と日本人の間に計り知れない程の不和、難問、増悪、忌避などの不幸な事態をきたし、本来一衣帯水で親善、連帯を強められる筈の間柄を極度に悪化させたのである>
P三六九
と朝鮮人らしさ全開で書いています。
何でも悪いのは我が国で、いい事は朝鮮人の努力や資質ということらしいです。
四百年前の朝鮮征伐の影響がいまだに残るすばらしい歴史の国です。
あほらし
Mさん来店。
Kくん四名様で来店。
遅い時間にIさん来店。
今日は飲まずに、サッサと寝る。
本多立太郎への素朴な疑問
軍歴について追記
9月10日金曜日晴れ △
本多立太郎氏の軍歴についての追記です。
本多氏は著書の中でご自分が入隊したのは
<一九三九年、昭和十四年五月に召集。
略)
それで札幌の連隊に入り、それから中国へ、南京と上海のちょうどまん中へんに江蘇省金壇という所がありまして、そこに駐留する部隊に配属され、もう上陸して直ぐ弾丸の下という、殺さなければ殺されるという凄惨な日々を過ごす事になりました。
そして次の年ですか、一九四一年の五月に召集解除になって一端家に帰りましたが一年十ヶ月ほどでまた召集。今度は北千島へ持っていかれました。北千島幌筵島、つぎに占守島という一番端の島まで行って、そこで一九四五年八月十五日を迎え、やれやれこれで帰れるかと思いましたら、その年の十二月にそっくりそのままシベリヤへ持っていかれました。>
「ポレロを聴きたい」p四
<召集先はどこですか。
本多 札幌歩兵第二十五連隊です。いよいよ戦地に送られる事になって、札幌から小樽に軍用列車で行くわけですが>
「戦争出前噺」(本多立太郎・堂本一 みずのわ出版 平成二十年刊)p三十七
(p三十七の欄外に、注としてのちに第五十一連隊に転属となったとあります。)
<最初の召集は札幌です。札幌の月寒にあった歩兵第二十五連隊です。>
「中帰連二十七」p五十八
<一九三九年が最初の出征ですが、送られたのはどこですか。
本多 上海からトラックで一時間。着いた日から弾が飛んできた。ひどいもんだった。>
「戦争出前噺」(本多立太郎・堂本一 みずのわ出版 平成二十年刊)p三十八
<帰郷し入隊して三ヶ月の教育訓練を受けた後、中国へ送られることになりました。
八月の暑い日でしたが、札幌駅前の広場に叉銃して休憩しておりますと、周りを取り巻いて>
「ポレロを聴きたい」p二十一
<その時、私と同じ中隊から中国に渡ったのは二十五人でした。二年半後、共に帰ったのは二人です。四、五人負傷して先に帰りました。同じくらいの数が志願して大陸に残りました。後はみんな死んでしまった。>
「ポレロを聴きたい」p二十四
<一九四一年、昭和十六年の二月十一日から、揚子江渡河に始まる「揚州作戦」が始められました。>
「ポレロを聴きたい」p二十六
<一九三九年、昭和十四年、私が八月に中国に渡った、その年の十二月に黄金山という陣地掃討作戦、私の歩兵第五十一連隊史にあるんですよ。>
「戦争出前噺」(本多立太郎・堂本一 みずのわ出版 平成二十年刊) p五十一
<昭和十八年三月に始まる二度目の応召は、最初から釦を一つずつ掛け違えたようなおかしさがあった。
略)
旭川歩兵二十六連隊の正門前に机を並べて受付が出来ていた>
「ポレロを聴きたい」p六十一〜六十三
<我々が北千島幌筵島柏原湾に上陸した昭和十八年五月>
「ポレロを聴きたい」p六十七
<一九四三年三月、再召集を受けました。今度は千島列島の北の端、北千島に連れて行かれました。>
「中帰連 二十八」p五十二
これがこの本多氏の著書に掲載されている入隊した連隊を記した軍歴です。
これより、本多氏は
昭和十四年五月東京の朝日新聞社に勤めている時に、召集にて札幌の歩兵第二十五連隊に入隊。
入隊して三ヶ月の教育訓練を受けた後に軍用列車で札幌より昭和十四年八月支那大陸へ。
江蘇省金壇に駐留する歩兵第五十一連隊に配属される。
昭和十六年二月十一日からの「揚州作戦」に参戦
昭和十六年五月に召集解除
二年半後、共に帰ったのは二人。
昭和十八年三月に始まる二度目の応召
旭川歩兵二十六連隊
昭和十八年五月
北千島幌筵島柏原湾に上陸
その後、占守島に移る。
昭和二十年八月十五日
占守島にて終戦
昭和二十年十二月
シベリヤへ送られる
昭和二十二年八月
舞鶴に帰る。
以上のような軍歴になります。
本多氏は昭和十四年五月に札幌で札幌歩兵二十五連隊に入隊後、軍用列車で札幌をたち、同じ中隊より二十五名がのちに少なくとも昭和十四年八月には支那にて歩兵第五十一連隊に転属した事になっています。
二回目の召集は書いてあるように旭川歩兵二十六連隊です。
最初に本多氏が属した札幌歩兵二十五連隊は支那大陸へは昭和十三年三月徐州会戦に参加し、翌昭和十四年五月、ノモンハン事件にも参加しています。
しかしながら、昭和十五年十月に帰還しております。
そして、昭和十五年十一月より樺太・敷香町に移駐し国境警備に当たります。
昭和二十年四月同じく樺太・逢坂に移駐し、八月十五日の終戦後より二十三日まで、卑劣なソ連軍と戦闘します。
終戦時所在地・樺太
本多氏が二回めの召集にて属した旭川歩兵二十六連隊の場合はどうでしょう。
終戦時所在地・帯広
ちなみに、二冬を過ごし、終戦を迎えた「はず」の占守島では陸軍の主力は第九十一師団で、その創設は昭和二十年四月十二日。
その最終所属部隊である歩兵七十三旅団、歩兵七十四旅団は旭川で編成されているが、両旅団とも昭和十九年四月十二日に編成されている。
私が持っている本多氏の著作物において、占守島における具体的な所属を書いたものは無い。
唯一下記のような記述があるだけです。
<いよいよ北海守備隊第何部隊ということになって旭川出発の軍装検査でえらいことが発覚した。>
「ボレロが聴きたい」p六十五
<そういう土地で、僕は二冬を過ごしました>
「中帰連 二十八」p五十三
本多氏はこのように旭川歩兵二十六連隊に入営後の軍歴があやふやです。特に二冬を過ごしたという占守島における具体的な記述は無い。
もちろん、占守島における主力部隊第九十一師団への転属も書かれていなければ、最終所属部隊である歩兵七十三旅団、歩兵七十四旅団についての記述もない。本多氏が所属していたという歩兵第五十一連隊の金壇における各種記述とは大きな違いがある。
本多氏は「SAPIO」に書かれていたジャーナリストの水間政憲氏による「捕虜殺害から従軍慰安婦問題まで中国で土下座行脚する『戦争の語り部』の大嘘」と題した「SAPIO」平成十七年九月七日号p三十〜三十三の記事について、著書「戦争出前噺 ――元日本兵は語る 」 (みずのわ出版 平成二十年五月刊)において、その水間氏の記事を否定しながらも自らは「歩兵第五十一連隊に入隊していた。自分が除隊したあとで歩兵第五十一連隊は南方へ行きそしてビルマのその作戦に参加している。」と語っています。
確かに、歩兵第五十一連隊だと、
昭和十八年六月 ビルマ方面に移動
昭和十九年インパール作戦参加
そしてタイ・ワンボウにて終戦ですので、本多氏の第一回目の召集から召集解除まで支那にて移駐していました。
本多氏は第五十一連隊に転属したときの事を下記のように書いている。
<札幌を出発する時、中国へ行くということを知らされていたんですか。
ええ、歩兵五十一連隊に転属するという命令でしたからね。三重県の津に原隊のある部隊です。>
「中帰連二十六」p六十一
我が国の陸軍の構成は、大正十四年に第十三・十五・十七・十八師団が軍縮により廃止され十七師団になったのち、大東亜戦争開戦時には六十六個師団、終戦時には百九十二個師団となりました。
第十五師団(通称祭 敦賀)はビルマ戦線において、第十五軍を三十一師団(通称・列 甲府)、三十三師団(通称・弓 宇都宮)そして、予備としての五十三師団(通称・安 京都)とともに構成し、 兵力二万五百八名のうち一万五千二百七十三名もの戦没者を出す。
手元にある陸軍最終配置図によると、五十一連隊の属する第十五師団は第十八方面軍(中村明人中将)第十五軍の第十八方面軍直轄部隊として、タイ・カンチャナブリとなっています。(渡左近中将)
「丸 別冊 太平洋戦争証言シリーズ 悲劇の戦場 ビルマ戦記」(潮書房 昭和六三年刊)P三九
「日本帝国の最後」(新人物往来社 平成十五年刊)P百九十八〜
帝国陸軍の場合、連隊を編成している兵はその管轄地域の徴兵によって充足されるため、東京の近衛連隊以外はその連隊はそれぞれ出身地別に分かれる場合が多いはずです。
牧野弘道氏の著書「戦跡に祈る」(産經新聞社)などでも五十一連隊と十五軍を形成していた三十三師団(弓兵団)・歩兵第二百十五連隊のビルマ・マンダレーにある慰霊碑の事が出てきます。
高崎連隊である第二百十五連隊は群馬県、長野県の出身者で構成されていました。
そして、歩兵第五十一連隊は三重、京都、奈良の出身者で構成されていました。
三重県護国神社内にある「歩兵第51連隊慰霊碑」の碑文は下記のようです。
「聯隊は明治38年創建、樺太等に出兵、爾後神都守護の大任を以て、三重縣久居市に駐屯す。 然るに大正14年5月、軍縮により廢止せらる。 昭和13年7月、日華事變の擴大に伴ひ再建、三重、京都、奈良で編成を完結、第15師團の隷下に入り同年8月渡支、南京東南地區に分駐し、治安警備並に各作戦に参加、赫々たる武勲を収む。 大東亜戰急を告ぐるや、昭和18年8月ビルマに轉進、インパール作戦に加はり眞に特攻精神を發揮す。 昭和20年8月15日大命により終戦。 此の間軍旗の下盡忠報國祖国繁栄を祈念しつゝ國家の人柱となられた戦友は實に4千有餘柱に及ぶ。 茲に護國の神となられた英霊の名を誌し供華臺に納め鎮魂の碑となす。 昭和51年4月 歩兵第51聯隊 (祭第7370部隊)生存者一同」
このように、歩兵第五十一連隊は三重、京都、奈良の出身者からなる連隊です。その連隊に北海道出身であり東京有楽町で働いていたはずの本多氏は、召集で一端札幌の歩兵二十五連隊入隊」し、その後、どのような経過で「三重、京都、奈良出身者」で編成されている歩兵第五十一連隊に入隊したのか。
その経過がこの本多氏の著書「ポレロを聴きたい」「戦争出前噺」には書かれておりませんでしたが、「中帰連二十六」と「中帰連 二十八」には下記の様に書いています。
<この五十一連隊に入ってみて驚いたんだけれども、連隊のなかで一番古い兵隊は東京・神奈川あたりから来ている四年兵なんですが、これがなんと二・二六事件に参加した兵隊なんだ。あの時の反乱軍の将校は処罰されて、兵隊は関東軍に転属されて満州に行かされたんだけども、それが残っておったんだね。
略)
だから荒れて荒れて、そりゃもう怖いのなんの。将校が命令したって動かないしね。彼等古参の関東の兵隊の下に京都や三重いった関西出身の兵隊がいたのですが、さんざんいじめられましたよ。そこへ今度は僕たち関東や北海道の兵隊でしょう。そこへもって、ついに四年兵たちも召集解除になって帰っていってしまった。関西の兵隊たちが最古参となりやりたい放題です。もうさんざんやられましたね。
この恨みは忘れませんよ。
そしたら、また、私達の下に関西出身の兵隊が来た。今度は俺たちの番だって(笑い)。いや全く軍隊なんてこんなものだね。>
「中帰連二十六」p六十一
<我々はもともと中国戦線ではなく、本当は対ソ連戦、ノモンハン戦のために召集されたんです。僕らは一九三九年の五月に召集され、三ヶ月の教育を受けて、やっと兵隊として役に立つようになってみたらノモンハン戦はその月に日本が惨敗して終わってしまった。それで中国戦線へまわされたんだね。>
「中帰連 二十八」p四十一「証言 戦争を語り続けて」
それに対して「誰も書かなかった日本陸軍」には、日本帝国陸軍の編成について下記の様な記述がある。
<陸軍の歩兵隊の兵員は、その歩兵隊のある師管の連隊区から徴集するのが原則である。
したがって、歩兵連隊の場合は、同じ連隊区から徴集されているので、出身地が同じで、近隣の人達が多く、郷土部隊になる。それだけ団結心も助け合う心もあり、軍隊から帰ってからでも、家族ぐるみで付き合い、家族のような親密さが保たれる。>
「誰も書かなかった日本陸軍」p百一
本多氏の記述とは大きな違いである。
写真は築地本願寺にある蓮。
花も散り、葉も少し茶色の部分が目立ち始めました。
暑い日が続いていますが、少しずつ秋めいて来ているようです。
今日は珍しく大忙し。
初めてのおお客様Fさん三名様で来店。
バンブーさん来店。
Oさん、Iさん二名様で来店。
Sさん二名様で来店。
初めてのお客様Hさん来店。
Wさん御夫妻来店。
いよいよ麻布十番に移転されるそう。
Sくん来店。
ホロン部員Yさん来店。
Yさん二名様で来店。
大阪からIさん来店。
Tさん来店。
ドンチャン。
営業終了後、ホロン部員Yさんのお勧めという大塚のビールバーへ、Sくん、Iさんとともに伺う。
今日はそれなりに記憶あったと思うが、タクシーを降りた後の記憶がない。
でも、サルよりマシ。
本多立太郎
軍において上官を殴る事とは
9月9日木曜日晴れ △
本多氏は自分の著書に
<無抵抗の人間を殺すのは、まさに罪です。とても許されるものではない。だけどじゃあ、私が「それはできません」と言えば、陸軍刑法という法律で最も重い、敵前坑命罪に問われます。いきなり隊長が腰のピストルを抜き、ズドンと私を撃っても文句は言えない。>
「戦争出前噺」p三十一
このように軍規の厳しさを書いておきながら、
< ある休日の夜の事、将校と兵隊が取っ組み合いの喧嘩をしているわけですよ。
略)
これは余程の事です。何があったかというと、これは口にするのも恥ずかしい事なんだけれども、日本からの女性というのは、当時は売春禁止法の施行以前だから、吉原などの遊郭から来た女性たちで、三十代から四十代の人だったんです。朝鮮半島の、いわゆる強制連行をされてきた女性たちは二十代半ばぐらい。戦場で捕まえられて連れてこられた中国の女性たちは十代です。将校にしてみると和解女性のほうがいい。それで兵隊用の「慰安所」へ将校が行くわけだ。兵隊は「俺の女を将校が取った」と言って、取っ組み合いの喧嘩をしているわけですよ。こういう問題では階級もなくなってしまうね。>
「中帰連二十八」P四十五
と平気で書く。
普通、軍隊において兵が将校を殴るなどという事があればどういうことになるか。
あれば、その兵はまさに陸軍刑法によって罰せられ前科者となる。
陸軍刑法第六十条
上官ヲ傷害シ又ハ之ニ対シテ暴行若ハ脅迫ヲ為シタル者ハ左ノ区別二従テ処断ス
一、 敵前ナルトキハ一年以上ノ有期懲役又ハ禁錮二処ス
其ノ他ノ場合ナルトキハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処スル
下記は手元にある本の阿南惟幾陸軍大将の本にも軍規を乱した兵に対する軍法会議についてのエピソードがあります。
もっとも、このエピソードは阿南陸軍大将の人なりを現したものですが、酒の上とはいえ上官を殴るということは軍法会議にかけられ、前科がつきます。
<阿南の鹿児島第四五連隊留守隊長時代の部下であった松本鹿太郎大尉が、当時の思い出を書き残している。
中隊長であった松本はある日、彼の部下の吉田という志願兵が酒の席で助教の中原軍曹をなぐったという事実を知った。松本は酒の勢いをかりて教練の不平をぶちまけ、上官に暴行するなどとは許しがたい事だ。これは軍規の問題だから上官暴行事件として検察処分に付し、軍法会議に提訴すべきだと考えた。
だが連隊本部の上官はみな「酒の上の事だ」と反対し、連隊長も「連隊の不名誉」という理由で不同意であった。
このとき何も言わなかった阿南中佐が、後刻松本を呼んで、「連隊全員が反対でも、中隊長の決意は変わらないか」とたずねた。
「連隊長が検察処分取止めの命令を出されない限り、やります」という松本の答えに、阿南は微笑を浮かべて、「中隊長の意見に同意だ。思いきってやれ」といった。
松本が検察処分の書類を提出したことを知ると、阿南はまた彼を呼んで「捜査は一段落したようだが、現在の君の心境は?」と問いかけた。
「酒癖が悪い吉田が哀れでなりません。私がそれをもっと早く知って教育すべきでしたが、知らなかったことを申訳なく思っています」
「そうか。では何か打つ手はないか。軍法会議では中隊長は司法警察官であるが、また特別弁護もできることになっているが…」と教えた。
判例なども調べた松本が、ぜひ特別弁護をしようと決心し、それを阿南に申し出た。
略)
裁判は六ヶ月の禁錮刑が要求されたが、禁固三か月執行猶予一年半の判決となり、松本は吉田を連れかえることができた。
吉田は始め松本を恨んでいたが、裁判後は深く感謝し、のち一般徴集で合格した時は、ぜひ松本の中隊に入れてもらいたいと願い出た。>
「一死、大罪を謝す 陸軍大臣阿南惟幾」(角田房子 PHP文庫 平成十三年刊)P六十〜六十二
このように上官、部下に対しての軍規が厳しくなければ軍隊は成り立たない。
ましてや、将校と兵が女の取り合いでなど殴り合ったら只で済むはずがない。
まさに「嘘つき本多立太郎」の面目躍如です。
写真は今日の日刊ゲンダイ。
流石は小沢後援会公認会誌だけあって笑わせてくれます。
今日は昨日の台風の影響で河岸の魚の入荷が薄い。
Yさん三名様で来店。
初めてのお客様一名様来店。
当店のURAホームページを見てくださり、御来店いただいたそう。
感謝。
初めてのお客様二名様来店。
初めてのお客様一名様来店。
Kさん来店。
Hさん三名様で来店。
Tさん来店。
今日は早い時間から大忙し。
ドンチャン。
記憶あり。
サルよりマシ。
本多立太郎
支那人捕虜殺害追記
9月8日水曜日大雨のち曇り ○
支那は本多立太郎氏の特集ページまで作っています。
http://news.sohu.com/s2005/rwrblaobing.shtml
本多立太郎氏は著書の中で自分がやったという捕虜刺殺について書きのように書いています。
<ある日、我々は六十名ほどの小隊で、十人ほどの捕虜を連れて歩いていました。すると待ち伏せをくって、突然四方から弾が飛んできた。とうてい捕虜をつれて歩くような状況ではありませんから、当然うちの隊長は「放せ」と言うと思っていました。しかし、彼はタダ一言、「処分せい」。つまり殺してしまえと言ったのです。
銃剣で捕虜を一人ずつ岸辺の方に行く事を強制し、水車小屋を背にして立たせる。胴と足を柱にくくりつけ、こっちを向かせる。十メートルくらい離れた所で銃剣を構え、やーっと叫んで、ダーと走ってグサリと突く。抜く。傍らの兵が縄を切って川に蹴り落とす。捕虜は流れていく。>
「戦争出前噺」(本多立太郎・堂本一 みずのわ出版 平成二十年刊)p三十一
<本多「昭和十四年十月、新兵として、私は訓練の中で、一名の中国人捕虜を自分の手で殺した。
この悪夢は一生忘れません。」
「私は、中国人捕虜を殺しました。捕虜が『あぁー』と長江の流れの中に沈み、血が長江の中からさかんにわき上がっていた。あっちこっちに死体があった。私は永遠にその時の『あぁー』の声を忘れない」>
(支那における講演にて)
引用先は「SAPIO」平成十七年九月七日号p三十一
この「SAPIO」にある支那での発言のソースが不明でしたが、探していたらネットの新華網の記事にありました。
<「私は中国人の捕虜を1人殺した。彼は両手を縛られていて、こっちを向いて笑ったんだ。夕日が当たって金色の顔になってた・・・。」 日本軍の将校が軍刀を振り回し、「早く彼らを処理しろ!」と力の限り叫んでいた。私はぶるぶる震えながら、彼の胸に刀を入れた。彼は「ぎゃー」と叫び、長江の大波の中に消えて行った。その血が長江の中で逆巻いていたよ。四方に死体が転がっていた。それが我々が犯した罪だったのです。
私は彼のその叫び声と金色の顔を永遠に忘れることはできないだろう。」>
二〇〇五年五月十九日新華網
片や作戦中、片や訓練と違っているが、捕虜を刺殺したと言っている。
これに対して、本多氏が属していたと言っている五十一連隊第二大隊六中隊の伊藤良治氏(当時八七歳)の証言
「まったく、話にならない。そもそも、本多氏が六中隊に本当にいたとすれば、六中隊が駐屯していたのは、金檀から約二十キロ南西の下新河です。下新河から長江は六十キロぐらい北で、六中隊は行く事はほとんどない。当時、そんなことがあったら大事件で、我々六中隊のものが知らないはずがない。
どうしてこんなデタラメをいうのか」
(ちなみに、金檀から長江までも四十キロもあることになる。)
つまり、本多氏はひと突きで捕虜を長江まで四十〜六十キロもぶっ飛ばしたことになります。
SAPIOに掲載されていた第五十一連隊の部隊配置図
![]() |
金檀 五十一連隊本部 第二大隊本部
漂水 第一大隊四中隊 第一機関銃中隊 下新河 第二大隊六中隊 黄塘鎮 第三大隊七中隊 天王寺鎮 第三大隊九中隊 句蓉 第三大隊本部 十中隊 丹陽 第三大隊十二中隊 |
本多氏は「戦争出前噺」において下記のように断言しているような人物であるから、物事において矛盾というものを感じないのであろう。
<常本:
略)
これは一部は伝聞も入って、ちょっと脚色をしているよというような意味なんでしょうか。
本多:それはないですね。
常本:100%ありませんか。
本多:絶対ありません。特に僕は語り部という言葉が大嫌いなんです。語り部の"部"はね、会社の営業部、総務部の部なんです。そうするとね、語る役目だから語るってことなんです。僕は役目だから語っているわけではないんです。自分が体験した事実だけを聞いてもらおうと。「そっと置く」という表現はつまり聞いていただくということですから。ですから私の言葉でいう、証言でないからって言って推論が混じっているということは全くありません。
略)
常本:まぁ、私の聞いた範囲ですけれど、ある人によったら、本多さんがなさっている一番刺激的な部分と言いますか、捕虜刺殺の部分、そこはちょっとディテールに欠ける部分もあって、まぁその人は戦争出前噺をよく聞いているんでしょうね、そこだけは伝聞じゃないかという声も聞いたんですが、それもないですね。
本多:ないです。
常本:100%ないですね。
本多:ないです。戦場を語っている限りはないです。>
「戦争出前噺」P四十六〜四十八
因に、本多氏は水間政憲氏の「捕虜殺害から従軍慰安婦問題まで中国で土下座行脚する『戦争の語り部』の大嘘」と題するサピオの取材記事に関して下記のような事を述べている。
以下引用
<本多:実は小学館の発売している「サピオ」という雑誌に、あるジャーナリストと称する人が証言をして表題に"本多立太郎の大嘘つき"と。
それを僕が知らないうちに人が調べてきてくれて、周囲の者はとんでもない名誉毀損で訴えたらと。私はね、その記事の冒頭に、本多立太郎を直撃したと書いてあるんだけど、ジャーナリストが直撃したということは直接取材したということですよね。
ところが僕は全然見もしない、もちろん取材もされたことがない。
略)
本多立太郎の捕虜刺殺の事件を被害者の我々がそれを実証しようじゃないか。
それでねぇ、南京の近くの金檀という街のハン・ガクキ先生という年配の立派な学者さん。その先生がチームのトップになってプロジェクトチームをつくって、女性から会社の社長だとかそういう土地の人たちが丹念にそれを掘り起こしてくれた。
そうしたらね、なんと一九三九年、昭和十四年、私が八月に中国に渡った、その年の十二月に黄金山という陣地掃討作戦、私の歩兵第五十一連隊史にあるんですよ。あれは大激戦だったらしくて十七人の戦死者がでる、日本の。これは珍しいんですよね。
そういう作戦のなかで、一九三九年の十二月八日にこの金檀の近くの村へ共産軍の兵隊が一艘の船に十体の死体を乗せてその村に運んできて葬ってくれと言って去った。ところが他人の死体を自分の墓に入れるわけにいかんからといって村の人が三、三、四と分けて、三艘の船で八百メートルぐらい離れたところへ運んでそこで埋めて塚を建てた。それを突き止めて、その時に運んだまだ青年だったおじいさん二人とその時子どもだった少年ひとり、この三人を見つけ出してきた。
そうして私を呼んだんです。
で、今年の五月に僕は中国へ行って、それでそこまで連れていかれた。その人たちはねぇ、全く好意でやってくれているんだけれども、その結果がねぇ、自分の犯した犯罪を実証することになる。
そうして村の人がわっと集まってきて、このなかにねぇ、自分の父が兄がと言って胸倉つかまれたら俺はどうするかっていう。同行したなかに片山通夫さんがいたんですが、私はもうまるで死人のような顔色であったと片山さんは言っていますけどね。その塚にはちゃんと一九三九年十二月八日と碑(日?)が入っているんですよ。五十一連隊史とつき合わせるとピタリとあう。ですからそのひとつを見ても私はウソを言ってない。
ですからこれはもう言いがかりであってね、言い訳をするつもりは全くありません。
常本:本多さんは反論をするつもりはないと。言いたい者には言わせておけと。そうすると意地の悪い勘ぐりようによっては反論できない、つまりウソだとなりますが、そうじゃないということですね。
本多:そう。だからいつでも来なさいと。その反論はちゃんと書いてメモにして持っています。
常本:なるほど。今日はそのジャーナリストを連れてきたほうがよかったですね。
本多:だからね、僕はむしろ一緒に、小学館へ行けばそれが誰だかわかるんだから、その当人と二人でね、現地へ行きたかったの。おそらく彼は行かんでしょうね。とても恐ろしくて行かんでしょう。>
「戦争出前噺」P五十〜五十二
ところが、本多氏の小隊で連行していた捕虜の数は、
<あるとき、我々の小隊(六十名程)で十五名ほどの捕虜をつれて歩いていました。>
「ボレロが聴きたい」p三十一(一九八六年大阪経済大学 池野ゼミでの講演にて)
<僕のいた部隊が十人ぐらいの捕虜を連れて歩いていたんです。>
「中帰連二十八」p四十八(二〇〇四年三月刊)
<ある日、我々は六十名程の小隊で、十人程の捕虜をつれて歩いていました。>
「戦争出前噺」p三十一(二〇〇八年刊)
これって、支那人の調査が全然あてにならない事になりませんか。
ましてや、支那では農村部では農歴という旧暦を使っているそうなので、
<その塚にはちゃんと一九三九年十二月八日と日が入っているんですよ。>
という日付はどうなんでしょう。
水間氏にはぜひ詳しい取材経路をお教えいただき、本多氏の嘘を暴いていただきたいものです。
今日は午前中に凄い雨だったらしい・・・・・
らしいというのは今朝まで飲んでいてそのままバタンキュウでそのまま気が付かなかっただけの話です。
初めての女性のお客様二名様来店。
ご近所に引っ越していらして二年程経つそうで、今日はお母様とお二人で来店。
Sさん、Sさん来店。後にマルガリータさん合流。
私の方は、今日はあまり飲む元気もなく、営業終了後、すぐに寝る。
統一教会と極真会館との関係
9月7日火曜日晴れ ××××
私の部屋の近所に朝鮮の気違い宗教「統一教会」の拠点の一つがあります。
この統一教会は極真会館とも密接な繋がりがありました。
<大山ひいては極真会館と友好関係にあることは極真会館関係者ならば周知の事実だった。
実際、「月刊パワー空手」には統一教会の関係紙「世界日報」の広告が常時掲載されており、全日本選手権でも「世界日報」は「大会後援」に名前を連ねていた。>
「大山倍達正伝」(小島一志・塚本佳子 新潮社平成十六年刊)P五八〇
<統一教会に関する噂
大山倍達が統一協会の信者であるという噂は、ずいぶん前に耳にしたことがある。
実際、統一協金とは不可分の存在である世界日報は、古くからの全日本大会のスポンサーであるし、一九八四年に行なわれた第三回世界大会には、日本統一協全会長の久保木脩己が、大全特別相談役として副委貝長の席に座り、顔写真入りでパンフレットにメッセージを寄せたこともある。
その後の大会では役員から久保木の名前こそ消えたものの、世界日報は現在でも極真会館の有力なスポンサーの一つとして名前を連ねている。
極真全館、大山倍達と統一協会の繁がりは古く、時期的には第一回全日本大会が行なわれた一九六九年より少し前から付き合いが始まったようだ。両者の橋渡し役となったのは、現在は極真を離れアメリカで他流派を興しているO兄弟である。O兄弟の父親は当時の日本統一協会にあって、金銭の出入りをかなり自由に任されるほどの大物で、日本におけるコネクションが欲しかった統一協会と、スポンサー不足に悩んでいた極真全館との利害が一致し、ある種の協力関係が生まれた。
では実際に大山倍達が信者だったのかという問いに対しては、智弥子未亡人は言下に否定した。
「確かに主人は統一協全に何人か友人がいました。久保木さんがよくうちに訪ねてきた時期もあります。まあ、どっちが呼んでたのかは知りませんけどね。最初はおだてられて協力してたんじゃないですかね。
でも、主人が信者でなかったことは断言できますね。もし本当に主人が信者だったのなら、協会からお金を借りるなりして、新しい本部の建物だってもっと早く建っていたはずですよ。それに主人がお世話になっていて、こんなことを言うのも何ですが、うちは私も娘もみんな統一協会が嫌いでしたから」
智弥子未亡人はこんなエピソードも語ってくれた。
「何年か前に協会の方が会館に来て、主人に壷を持たせて写真を撮っていったことがあったんですよ。そしたらその写真が霊感商法みたいなことをやっている会社の広告に使われてしまって。『大山総裁は統一協会の信者なんですか』という電話が会館に何本もかかってきて。あの時は本当に怒ってらっしゃいましたよ。そんなこともあって、ここ最近はあまり協会の方とのお付き合いも少なくなっていたようてすね」
しかし、昨年十月に行なわれた全日本大会のパンフレットを見る限りでは、極真会館と統一協会の関係はいまだに現在進行形である。後援には世界日報の名前があり、相談役の中にも日本統一協全の実力者である、梶栗玄太郎の名前が見える。
ある意味ではこれまで付かず離れずの関係を続けてきた極真会館と統一協会だが、大山倍達の死によってそのパワーバランスに狂いが生じつつあるという説もある。これをきっかけに関係は薄れていくのか、それとも大山倍達存命中には考えられなかったような介入を許すのか。取材を行なった何人かの関係者からは、後者の事態を危惧する声が圧倒的に多かった。>
「大山倍達未亡人・独占取材! 極真会館の跡目争いとゴッドハンドの生涯」 (宝島30 94年9月号)
O兄弟とは大山茂氏、泰彦氏の兄弟であろう事は間違いない。
そして、この久保木修己氏に関しては、下記のような記述がある。
<久保木修己(くぼき・おさみ)略歴
1931年、中国丹東市(旧満州安東市)生まれ。終戦とともに引き揚げ、13歳で帰国。慶応中等部では野球部に所属、甲子園にも出場。慶応大に在学中、立正佼成会に入会、会長秘書を務める。
1962年世界基督教統一神霊協会(統一教会)に入会。1964年、会長就任。1970年、朴正煕大統領と会見。同年、日本武道館でWACL(世界反共連盟)世界大会を開催し、議長を務めた。1971年、蒋介石総統と会談。同年、ローマ法王(パウロ6世)と会談した。
国際勝共連合会長、国際文化財団理事長、アジアサファリクラブ会長、国際友好釣連盟会長、北米極真空手会長、世界日報社会長、世界平和連合会長等を歴任。中華民国中華学術院名誉哲学博士。1998年、逝去。67歳。
著書に、『愛天愛国愛人』(世界日報社)、『愛こそすべて』(光言社)、『久保木修己講演集』(光言社)、監修として『文鮮明師と新ソ連革命』(光言社)、『文鮮明師とダンベリーの真実』(光言社)等、遺稿集として『美しい国・日本の使命』(世界日報社)がある。>
何も関係ない人間が北米極真空手会長を務める・・・・・・
Wさん御夫妻来店。
初めてのお客様二名様来店。
Aさん来店。
Aさんから頂いた空軍五十周年記念バッジ
営業終了後、Aさんと久々に歌舞伎町ゴールデン街へ。
何軒ハシゴしたか覚えていない。
ドンチャン。
記憶無し。
気が付いたら当店の床で寝ていました。なんで、床なんだろう・・・・・
サル以下
出品酒
9月6日月曜日晴れ○
飲んべえの会を開きます。
次回は鑑評会出品酒でドンチャンです。
日時9月25日土曜日
午後3時から6時まで。
会費10,000円
定員6名様
下記の銘柄より6銘柄。
出品予定酒
瀧自慢
喜正
松の司
東洋美人
上喜元
磯乃澤
三井乃寿
御湖鶴
浅間山
南部美人
あぶくま
鳳凰美田
瀧自慢、喜正は一升瓶です。他は全て五百mlとなりますので、今回は二日間に分けての会となります。
(二回めの日時は未定)
六時三十分より平常営業(のつもり)
どうぞよろしくお願いいたします。
今日は朝起きて、イマイチ気が乗らず、シャワーを浴びてから、コーヒーを入れて、野菜ジュースを飲んでマンガを読んでゴロゴロとしてボケ〜と一日が過ぎる。
出かけたのは銀行と食事のみ。
今日は酒は飲まず。というか部屋には今は酒は置いてません。
Hajimeさんへ
9月5日日曜日晴れ △
昼頃、高田馬場にあるスポーツセンターへ行く。
今日は久しぶりにビッチリとメニューを消化したので三時間近くスポーツセンターにいた。
ビックボックスで開かれている古本市に寄った後に銭湯に行き汗を流し、伊勢勇さんが経営している都立家政にある「Hajime」さんに伺う。
Wさん御夫妻。室長さん、めぐ蔵さんと合流。
今日の「Hajime」さんは満席でした。予約しておいて良かった。
結局、六時過ぎから十一頃までドンチャン。
途中から一歩社長も混じり、ドンチャン。
今日は珍しく記憶あり。
先日、大学時代から付き合いのあった先輩との連絡を絶ったことこの日記に書きましたが、店の電話、携帯の着信歴をみると毎日何回も、そして店には朝の五時頃とかにも電話をかけてきている。
もうアホかと。
なんで、私が連絡を絶ったのか。考える頭も無いのだろう。
日刊ゲンダイ
9月4日土曜日晴れ△
我が国のジャーナリズムの特徴として佐藤貴彦氏が下記のように書いています。
<日本のジャーナリズムの明らかな特徴は、「国家権力」への激しい憎悪と、その「犠牲者」への盲目的崇拝である。このような心理構造から言えば、本来加害者であるはずの犯罪者の方が、逆に「国家権力」の「犠牲者」ということになってしまう。>
「本当は恐ろしい『平和』と『人権』というファシズム」(佐藤貴彦 夏目書房 一九九九年刊)p一〇〇
しかし、日刊ゲンダイの場合はこれも当てはまらないようです。
数々の「迷ヒット紙面」伝説のある日刊ゲンダイですが、今日の日刊ゲンダイもその一つだと思います。
普通、「一応」どんなに程度が低くても「一応」中立を装っている我が国のマスコミのひとつが、ここまで露骨に小沢一郎氏の肩を持つか・・・・・
<外国人を含む誰か分からない「民主党員」と称する集団が、
「大変劣悪な日本人」か「非常に劣悪な日本人」
かのどちらかを選ぶのである。
従って、どちらの結果も劣悪であろう。>
これは西村眞悟氏が御自身のメルマガ「西村眞悟の時事通信 平成二十二年九月四日号」において、今回の民主党党首選について書かれている事ですが、まったくそのとおりで、どちらが首相になっても、国益を考えない売国奴が首相になるという我が国国民の不幸がここにあります。
普通の国の場合は左翼だ、右翼だと言ってもそれは国内においてであって、国外に対してはどちらも国益を第一に考えるが、我が国の場合は左翼とは売国奴を指す。
本多立太郎氏のインタビュー記事が掲載されているというので、中帰連に注文してあった機関誌が届く。
遅い時間まで電話がチリンとも鳴らず、今日もオチャピーかなと思っていたら、Tさん御夫妻来店。
先日御来店いただいたOさん御夫妻来店。
ドンチャン。
今日は記憶あり。
サルよりマシ。
大山倍達追記
9月3日金曜日晴れ △
大山倍達氏について帰化した事を書いてある「国際空手道連盟極真会館総本部」というところのホームページを見つけました。
http://www.mas-oyama.com/bin/mas-oyama/siteup.cgi?category=1&page=0
<1923.6.4(新暦7月27日)父・崔承玄、母・芙蓉の4男として、この世に生を受ける。
1931 満州の姉の家が経営している牧場に預けられる、
ここで働いていた武術の達人「李相志」から「借力」という拳法を習う。
1937.4山梨航空技術学校に入学。
1946.4早稲田大学体育学科に入学。
1946.10早稲田大学を中退して身延山に入山
1947.9京都丸山公会堂で開かれた戦後初の全日本空手道選手権に
出場して優勝。
1962この年に日本国籍に帰化する。>
相変わらず、嘘の羅列ですが、今まで調べた極真関係で唯一帰化について書いてありました。まあ、どこにも朝鮮から我が国に帰化とは書いてないのですけど
<ここで働いていた武術の達人「李相志」から「借力」という拳法を習う。>
「借力」という拳法を習った事はない。
<1937.4山梨航空技術学校に入学。>
大山氏は同校に入学したのは昭和十五年(一九四〇年)四月であり、昭和十七年九月に繰り上げ卒業している。
<1947.9 京都丸山公会堂で開かれた戦後初の全日本空手道選手権に
出場して優勝。>
すでに書いたが、戦後二年しか過ぎないGHQの占領下にある我が国で全日本空手道選手権など開かれていない。
<1962この年に日本国籍に帰化する。>
大山氏が家族そろって帰化したのは昭和四十三年(一九六八年)であり、其の五年後に南朝鮮でも洪順浩夫人とそのたった五年後の昭和四十九年に南朝鮮で「崔永宣」として入籍し平気で重婚をしている。
どうしてこう嘘を書く必要があるのでしょうか?
あほらし
今年も、店先に置いてある柑橘類の鉢に蝶の幼虫がいるのを見つけました。
ヤモリは東京都レッドリストに掲載され、絶滅危惧種になったというニュースが七月頃ありましたが、当店でも毎年見たガマガエルとヤモリは今年は一度も見ていません。
やっぱ、いなくなっちゃったのでしょか。
IさんEさんと来店。
Oさん二名様で来店。
Tさん来店。
Nさん来店。
Wさん御夫妻来店。
Kさん来店。
ドンチャン。記憶あり。サルよりマシ。
赤城神社
9月2日木曜日晴れ△
久しぶりにスポーツセンターに行く。
それなりにメニューを消化。
初めてのお客様Mさん二名様で来店。
Iさん来店。
ホロン部員Yさん来店。
小胡子さん来店。
赤城神社の話になり、どんな人間があのマンションに入居するのだろう。日本人だとどういう神経の持ち主なんだろうか不思議でしょうがない。
再生プロジェクトについてとしてホームページには下記のように書いている。
< 700年にわたり牛込総鎮守として鎮座してきた赤城神社は、平成22年秋の竣工をめざし、本殿、幣殿、拝殿、神輿庫、神楽殿、境内末社などを再生するプロジェクトを進めています。境内に高木を残し神域を守り、参堂を整備し、70年後には、再び、境内の緑地として蘇らせ、静寂な神域を守っていく息の長いプロジェクトです。
略)
どうぞ赤城神社再生の主旨をご理解いただき、ご支援ご協力をお願いいたします。
平成21年2月 赤城神社 宮司 風山栄雄>
そして、「御神木」と題して下記のような事が書いてある。
<平成21年04月25日
御神木
最近の境内の様子です。
赤城神社の境内にある大きな楠木。 周りは工事中ですが、今年も美しい緑色の葉を出しました。
社殿などの姿がなくとも、ちゃんとそこには、 かみさまが宿っているのだな、と感じます。>
私が写した、かっての赤城神社の様子です。
そして、下記のような事も書いてある。
<平成22年08月16日
赤城神社 遷座祭 「遷御の儀」ルートのお知らせ
8月22日に斎行される本殿遷座祭において、 19時30分からの「遷御の儀」では御祭神が白い絹垣に囲まれ神楽坂の町に出ます。
略)
参加者は神職、総代、個人奉納者、建築関係者が中心となり約100名程度の予定です。 全員、装束や裃(かみしも)など日本古来の衣服で臨みます。
この「遷御の儀」は、一般の方も御参観できます。 但し、建物の上からの覗き見は禁じられています。>
<建物の上からの覗き見は禁じられています。>
マンションの上からいつも赤城神社の神様を「見下ろして」暮らし、神様が乗る神輿を踏みつけて生活する。
ここまで悪い冗談つうのはあんまりないと思う。
ドンチャン。
営業終了後アンブラさんに伺う。
記憶はあったと思うが、余り自信無し。
でもサルよりマシ
「誰も書かなかった日本陸軍」
9月1日水曜日晴れ△
河岸にて昨日購入した「食用ほおずき」の一パックだけ前のロットか何かで傷みが激しいので、持って行く。
もちろん、すぐに交換してくださる。
今日はメチャヒマ。
初めての方が二名様ご来店。
のみ・・・・・・・
酒は飲まず。
おかげで、随分前に古本屋市で見つけて購入してあった「誰も書かなかった日本陸軍」(浦田耕作 PHP 平成十四年刊)を予定よりえらく早く読み終える。
喜んでいいのか悲しんでいいのか・・・・・
著者の浦田氏はで同志社中学入学後、昭和十九年八月十五歳の時に陸軍特別幹部候補生として第三十一航空通信連隊(兵庫県篠山町)入営。
陸軍航空通信学校召集下士官学生・暗号課程を二番という優秀な成績で修業。終戦時に十六歳五ヶ月という陸軍史上最年少で陸軍軍曹任官された方です。
私は本多立太郎氏の札幌で歩兵第二五聯隊に入営してなぜ3ヶ月後に派遣される時に、第五十一聯隊に転属(著書「戦争出前噺」p三十七の欄外に、注としてのちに第五十一連隊に転属となったとあります。)になったのか。
そのような転属があるのか何か少しヒントになるものでもと思って読んでいたが、連隊が替わるというものについては何も得るものがなかったが、この「誰も書かなかった日本陸軍」は、我が国陸軍の組織などの基本的な事を知るだけでなく、
<陸軍と海軍が終戦時に完全に焼却したアメリカ軍の暗号電報の解読記録を、終戦の際に、外務省が完全に残してしまって、連合軍の手に渡ったなどは、機密管理としては、最低のお粗末である。>
同書P五百二十九
と書かれているように、暗号解読に関わった浦田氏の経験など読み物として非常に面白いものでした。ただし、国が負けても国は続いている。そのため「法律よりも倫理としての陸軍の守秘義務」と辞めてからも守秘義務があると浦田氏が書かれているように暗号の内容に関しては一切書かれておりません。
これは同じ篠山連隊で教育を受けた五味康祐氏、大木淳氏、そして、浦田氏の上官であった関口正三曹長こと佐野周二氏(関口宏の父上)も同様と書いています。
浦田氏は靖國神社について下記のように書かれています。
<「体当たりするまでの間、特攻隊員は、「靖國神社」の「ヤスクニ」を連呼し、その声が止まったところで、体当たりの時間とした。
それを知っている私たちは、靖國神社に参ると涙がこぼれる。
靖國神社を参拝する大臣に、毎年、踏み絵のように「公人ですか。私人ですか」と、問いかける姿を見ると、戦死された方々や私たちが、命を懸けてこの国を守ろうとしたのは、何だったのかと情けなくなる。
日本人として靖國神社に参るのである。
私たちにとって、遠隔の地の墓所のある戦死した上官・戦友の冥福を祈る場所は、靖國神社以外にはない。>
「誰も書かなかった日本陸軍」(浦田耕作 PHP 平成十四年刊)P五百二十〜五百二十一
普通の国に早くなってほしいものです。
自分なりにできる事を。