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酒たまねぎや飲んべえ日記
平成21年8月分
8月31日月曜日雨(台風) ○
七時過ぎに寝たが、十時半頃には目が覚める。
昼過ぎに台風の中を新宿の金融公庫にて融資の面談。
融資は何とか大丈夫そうなので、公庫の帰りに安心して、ぶっ壊れた部屋のMacの代わりをソフマップに寄り、購入。
今日は電車が台風の影響でダイヤが大きく乱れていました。
今日は酒は飲まず。
さっさと寝る。
飲んべえの会(十四代)
8月30日日曜日晴れのち雨 △
昼頃、選挙の投票に行く。
午後から十四代の飲んべえの会。
NO.1 | 平成21年 十四代 七重二十貫 愛山 | 720ml1本 |
NO.2 | 平成20年 十四代 中取り純米大吟醸 40% | 720ml1本 |
NO.3 | 平成21年 十四代 純米大吟醸 酒未来 40% | 720ml1本 |
NO.4 | 平成21年 十四代 純米大吟醸 龍の落とし子 40% | 720ml1本 |
NO.5 | 平成21年 十四代 純米大吟醸 播州山田錦 40% | 720ml1本 |
NO.6 | 平成21年 十四代 本丸 五百万石55% | 1800ml1本 |
本日、出させていただきましたお酒、四合瓶五本、一升瓶一本が一滴も残らず、全ての瓶が空になりました。
ご出席いただきました皆様ありがとうございました。
今日は最後まで記憶あり。
このぐらいの酒量だと大丈夫なようです。
帰宅後、風呂に入り、ボケ〜とした後に、随分前に古本市で購入した中島みち氏の著書「日中戦争いまだ終わらず マレー『虐殺』の謎」(文藝春秋 平成三年刊)を読む。結局、朝七時過ぎまでかかって読み終わる。
8月29日土曜日晴れ ×
舛添要一厚生労働相が今月の十八日に横浜の街頭演説で派遣村の取り組みに触れた際に、「4千人分の求人票を持って行ったが、1人も手を挙げなかった。大事な税金を働く能力があるのに怠けている連中に払う気はない」と発言したのを<厚労相の「怠けている連中」発言に抗議 年越し派遣村実行委有志>というニュースがネットに掲載されていたが、厚労相の発言のどこが問題なのだろう。
派遣村などという健康体でいながら、働こうとしない怠け者のカスどもの集まりの方がよっぽど問題だろう。
我が国において仕事など探せばいくらでもある。
だから、密航してまで支那人、朝鮮人が押し寄せる。
以前に書いた事がありますが、五体満足の健康体でいて、ニートなどというものもそうです。親、家族が餌をやらなければいいだけの話です。
死にたくなければ、自分でなんとかするでしょう。
あほらし。
初めてのお客様四名様来店。
Oさん来店。
ヒマだったが、Oさんとドンチャン。
記憶はあったと思ったが、そのままカウンターで寝てました。
勘違い
8月28日金曜日晴れ ××××
部屋でゴロゴロしながら買って来た「寿司鉄人」というマンガを読んでいたら、
下記のような場面が出て来た。
いずれの場面も、この中村博文さんという漫画家が「手皿」を上品と思っているから描いているのだろうが、
前も書いた事があるように、和食では手皿は決して上品ではない。
洋食や朝鮮料理と違い和食の場合は器を持って食事をする。
現代で懐紙を持ち歩く方は少ないであろうから、懐紙の代わりと思っている人もいるであろうが、懐紙は茶席にて客側が皿の代わりに用いるし、箸の先を拭いたりして使うが、手は懐紙の代わりにはなり得ない。
食べ物の汁がその手に落ちたらどうするのか。その手を何かで拭かなければならない。手皿をやっている人はその時に何で拭くつもりだろう。
あと、鮪の隠し味として赤ワインを使っているという場面があったが、
<あまり少量だったので、銘柄まではわからないけど、
シャトー・グリュオー・ラローズの香りがしたような。
ビンゴ!>
と書いている。
確かに、グリュオラローズはボルドーの二級シャトーのトップクラスのワインですが、いくらソムリエの卵でも、香りだけで料理の隠し味に使っているワインの銘柄など当てる人は世界中探してもいません。
せめて、「カベルネ・ソーヴィニヨンの香りが」ぐらいにしとけばよかったのに。
滝田ゆう氏の公式サイトを作りましたというご連絡を築地の鮪仲卸松長社員の大塚氏よりご連絡を頂きました。
泥鰌庵 滝田ゆう公式サイト
http://www.d2.dion.ne.jp/~tsukakun/dozeuan.htm
管理人は滝田ゆう氏のご息女の大塚夫人
バンブーさん来店。二名様来店。インチキラクターさん来店。Kくん来店。お疲れのようで、当店が一件目というのにヘロヘロ。
Tさん来店。
ドンチャン。営業終了後、Tさんと「イデアル」さんに伺う。
記憶なし。サル・・・・・
失われた大隊と二度目のバンザイ突撃 その6に一部追記
8月27日木曜日晴れ
日系二世部隊について一部追記させていただきます。
<ポタージュのエピソードは、ダールキスト師団長による第四四二戦闘団閲兵式で終わりを告げる。一九四四年十一月十九日だったと記録されている。
本来なら四千五百人を擁した連隊なのに、整列した員数は数百人に留まる。
「ミラー中佐、他の人員はどこにいるのだ」。
不機嫌な表情で質問した師団長に中佐はこう答えた。
「閣下は全員の前に立っておられます。ここにいる者が連隊の全兵力であります。」
白人将校の中から数人くず折れる者が出た。彼らは一様に号泣した。>
(「棄民たちの戦場」P百八十七)
<十一月十二日、その労を讃えるセレモニーのためにと、再び師団長に「集合」をかけられた日系兵は、午後三時、森の麓に整列した。ラッパが高々と森にこだまし、連隊の音楽隊がどこか力なくアメリカ国歌を奏でる。
日経連対の前に歩を進めた師団長ダールキスト少将は、傍らに立つミラー連隊長代理へ不満げな顔を向けた。
「全員集合させろと命令したはずだ」
ミラーはいつになくきっぱりと答えた。
「イエス・サー。目の前に並ぶ兵がその全員です」
その一ヶ月前にボージュの森に入った時、第四四二連隊の兵力は二千九百四十三名。その後の戦死者百六十一名、行方不明者四十三名、負傷者約二千名。
初めの戦力の三分の一以下となっていたのである。
因に、戦死者のうち十三名は衛生兵であった。>
(「ブリエアの解放者たち」P三百十二〜三百十三)
< 二世たちは勝利を喜んだ。しかしそれもつかの間、I中隊百九十七人のうち、兵士四人と士官一人しか生き残っていないことがわかり、喜びは深い悲しみへと代わった。他の中隊でも、平均三十人から四十人ぐらいしか生存者はいなかった。八十時間の戦いの中で、戦死者、負傷者、行方不明者は千四百人に達した。彼らが救出した兵士のじつに五倍に相当する数である。
十一月十二日、百/四四二合同軍の功績を讃えるため、ダルキスト将軍は全軍行軍の命令を下した。通常、四千人の兵士が堂々と行進するはずだが、その日はわずか数百人の兵士しか行進していなかった。
将軍はそれを見て、
「全軍行進を命令したはずだが、残りの兵士たちはいったいどうしたのかね」
とミラー大佐に尋ねた。
ミラー大佐は目に涙を浮かべ、うなだれながら、
「将軍、これが部隊全員なのです。彼らが生き残りの者たちです。」
と答えた。>
(「ハワイ日系米兵」P百六十四)
このように手元にある四四二連隊関係の数冊のうち三冊に掲載されている有名なエピソードであるが、実施された日にちが十一月十二日と十九日などから細かいところまでそれぞれ違いがあります。副連隊長であったヴァージル・ラスマス・ミラー氏は、当時は中佐だったのではないでしょうか。
日系部隊に対し師団長であるダールキスト将軍より手紙が贈られた。
<第三十六師団は第四四二連隊が本師団を離れ、新たな任務に就く事を残念に思う。
貴下が勤務した一九九四年十月十四日から十一月十八日に至る期間はかつてどの部隊も直面したことのない厳しい地形における最困難な戦闘を記録した。
貴下将兵が示した勇気と揺るぎなさ、歓びをもって臨む姿勢は、かつて発揮された米陸軍の前例にけっしてひけをとるものではない。
師団の全ての将校及び兵士とともに深甚なる敬意を表し、戦闘団の各位に対しご多幸を祈る。
また、将来再び貴軍をわが師団に迎えられるようになることを切に希望する>
しかし、第百大隊長であったゴードン・シングルス中佐は大佐となって軍に残っていたが、大将となったダールキスト将軍との握手を拒否している。
下記はドウス昌代氏の著書「ブリエアの解放者たち」に描かれているその場面である。
<それから数年を経ての話である。軍に残っていたシングルスは、ある軍事式典で今や念願の四つ星の大将となったかつての師団長ダールキストと同席した。シングルスを認めると、大将は自分のほうから手を差しのべ機嫌良く言った。
「過ぎたことは過ぎたことだ。水に流そうじゃないか」
ポージュの森での日系部隊の使い方に明らかな行き過ぎがあったのを、ダールキストはみずからよく承知していたのだった。
大佐の位のシングルスは、この言葉を聞かなかったごとく、差しのべられた手を握ろうともしなかった。
衆目の中、かたくなに敬礼の姿勢を崩さなかった。>
(「ブリエアの解放者たち」P三百二十)
同じく、この著書にはシングルス大佐の人なりが描かれています。
<シングルスは中軸となって大隊を動かす主要将校の人柄と能力をじっくりと観察した。
すでに三十八歳という年齢である。鷹揚な人柄で、こせつくことなく人に接した。
メリーランド州のレンガ造りの自宅でインタビューに応じてくれた時も悠揚迫らぬ態度であった。午前が午後になっても淡々と語り続けてくれた。
大きな安楽椅子がそう見えない程大柄でがっしりした体格である。
肺癌が良くないらしいと聞いたのだが、嘘のように思えた程、人を包む力のある微笑だった。
略)
実戦の経験豊かな前任者の助言に率直に耳を傾け、しかも自分の目で最後の判断を下した。適材適所に部下を配し、彼らを信頼して思う存分にやらせている。そして、最後の責任は司令官たる彼自身が負った。
略)
シングルスは第四四二連隊と同じキャンプ・シェラビーにいて、第百大隊への配属命令を受けている。「なんという幸運か」と口に出たほどの喜びようであった。第百大隊の評判はすでに本国にいた軍人間でも際立っていた。
勲功をさらに期待される部隊の指揮官となることは指揮官自身の手柄おも意味したはずだ。
日系兵の部隊であることの懸念はなかったという。>
(「ブリエアの解放者たち」P百八十四〜百八十五)
ドウス昌代氏が会ったその一ヶ月後にシングルス氏は死去している。
そして、この作戦に関しての報告がまとめられた。その報告書の中で、当時の司令官であったダールキスト将軍が自身の出世の為に日系人を使い捨てにした事が明確に述べられている。ダールキスト将軍は日系部隊である四四二連隊が絶対に命令を拒まない事を知った上で、無謀な作戦に就かせたのだ。
ゴードン・シングルス大佐が握手を拒んだ理由は明白である。
南朝鮮がブラジル新幹線の工事受注に参戦というような記事があったが、南朝鮮に新幹線の独自技術がある?ということを初めて知りました。
あるのは、フランスのTGVの劣化コピー技術だけと思っておりました。
大したもんです。(棒読み)
初めてのお客様Kさん、Hさん来店。Hさん三名様で来店。
マロさん来店。
今日は一通りだけ飲む。
第百連隊 テキサス大隊との乱闘
8月26日水曜日晴れ ○
日系米軍部隊である第百大隊は、一九四二年末の週末土曜日に米国本土のキャンプにて第二師団のテキサス兵と大乱闘をやっています。
<彼らが来て初めての週末の土曜日、事は起った。聞きしに勝る大男揃いのテキサン(テキサス人の通称)は相手が小柄なだけに見くびってかかった。
「ジャップ」
「イエロー・ベリー(yellow belly)は臆病者の意だが、勿論この場合は黄色い日系にひっかけている。
敵兵と同じ顔のイエローが何故かアメリカの軍服を着るのが気に入らんというわけだ。いくらターナーやコメタニに言い聞かされていても、ハワイ・ボーン(ハワイ生まれ)はそういう言葉を受け流すことに慣れていない。
同じ軍服だからこそ黙っていられなかった。
相手は一万五千という師団の編成である。数では問題なくテキサス側が優った。
しかし、気が付いた時には彼らの挑戦を受けて立っていた。
休日用の私服に着替えているテキサンはカーボーイ・ベルトを抜くと、かねの大きなバックルを武器として振り回す。
「カモン、カモン」
と自信たっぷりに言い放った。
日系人は小さくとも動きが早かった。あっという間に大男にむしゃぶりついている。次の瞬間あちこちで尻をついていたのはテキサンの方であった。
戦前、ハワイの日系人間では柔剣道が実に盛んであった。そのための師範が日本から多く招かれている。
第百大隊には少年時代から鍛えられた柔道の有段者が多数いた。
当時マッコイでは彼らを中心に格闘訓練の一環として午後の一時間を柔道に当てた中隊もあった。
飛び出して中に入ったはずのMPはテキサス師団に属している。MPたちの混紡は日系兵に向けられてきた。
よりによって、その柔道を教えていた帰米の有段者、サトシ・フルカワ二等兵(後に戦死)を、テキサンは最初のターゲットとしてからんだといわれる。
フルカワはかつてヨウゾウ・ヤマモトの通っていた日本語学校の先生でもあった。
テキサスはメキシコとの国境の州である。師団にはかなりの数のメキシコ系がいた。日系兵は手はだしていない。メキシコ系がすぐナイフを抜くことは、すでによく知られていた事実だからだ。
彼らも同じ有色少数民族のよしみで、日系兵には向ってこなかった。
大男を柔道で投げ飛ばす小さい兵を、むしろニタニタ笑って見ているだけだった。
「一人、二人、三人の小さなインデアン
四人、五人、六人・・・・・
ああ、三十八人のインデアン」
と、後になって、その思い出になると日系兵は笑って歌ったものだという。
三十八人とはその夜のマッコイキャンプ内の病院に収容された重傷の兵の数である。
足や腕を折られたテキサンだ。
日系兵の方はただ一名。MPに頭を割られていた。入院しないまでも怪我した兵は双方たくさんいた。
マッコイ時代、ターナー隊長はスパルタ町に一軒家を借りて、ホノルルからやってきた夫人と暮らしていた。
略)
その地方始まって以来の乱闘があった次の日、「あの日曜日の朝」とターナー未亡人は微笑する。
未亡人の現在の住まいは、町を一望に収めるホノルル一の高級マンションで、お手伝いがいる生活である。
ヒロ生まれのターナーは、ハワイの特権階級に属する白人である。開戦前はホノルルの大きな木材会社の重役で、戦後は長年社長の座にあった。
略)
本部といっても粗末な木造バラックであった。その前に一台の高級車が止まった。降り立って本部に姿を消した一人は、間違いなく第二師団長であった。
窓から様子を窺っていた日系兵のあるものは、「向こうから挨拶に来た」とこの一件を説明する。こういう解釈の仕方こそ、すこぶる日本的である。
実は「責任をどうする」と師団長自ら怒鳴り込んできたのであった。階級からいけば、ターナーは「イエス・サー」と敬礼して、縮み上がらねばならないところである。
だが、彼は軍人を職業としない民間出身であった。戦争が終われば、元の材木会社の重役職に戻るだけである。そこが彼の強みであった。
軍での出世を気にせず、言うべき事が言えた。
「喧嘩は両成敗のはず、しかも師団の編成で大隊を相手とした。もっとも、大隊対大隊でしたら、そちらの勝ち目は全くなかったでしょうが」
ターナーは常に、日系兵に彼らの担う特別の目的を思い出させようとした。
一方で、外部に対しては、少しでも取り扱いに差別が見えると退かない強さを見せた。
略)
このターナーの意が通じたのか、師団長は事をそれ以上荒立てずに戻って行った。その後、二度と乱闘は起きていない。
屈辱を受けて死にものぐるいで飛びついたチビの日系兵に、テキサンはある種の敬意を抱いたようですらあった。後にヨーロッパで「懐かしいなあ、マッコイが」と声を掛けて来たその時の喧嘩仲間が何人もいたという。>
(「ブリエアの解放者たち」P五十五〜五十九)
後にヨーロッパ戦線で大活躍した日系二世部隊の扱いに対して、第五師団より出された「第四四二連隊について」という一九四五年四月四日付けの文書にはジャップという言葉を一番嫌うという文章が最初にあったそうです。
毅然とした態度を取る事は、結果としてお互いの為になるという大切な事を教えてくれている。
今日は河岸が休みでしたが、昨日(今朝?)までの酒で、スポーツセンターに行く元気も無かったです。
Hさん来店。三名様来店。Mさん二名様で来店。Bさん来店。
今日は飲まず。
さっさと寝る。
台湾・馬英九政権と高金素梅
8月25日火曜日晴れ ×××××
八月十四日の読売新聞の「論点」は馮寄台・台北駐日経済文化代表処代表の「台湾・馬政権の対中政策 和解路線で平和追求」と題したものでした。
その内容は「交流協会」が実施した台湾人の意識調査で、我が国が二位の米国を大きく引き離して、一位だったことを引き合いに出しながら、我が国と台湾との関係を語っているものでした。
以下一部引用
馬英九総統は今年を「台日特別パートナーシップ促進年」と定めており、文化交流が重要な任務の一つだ。
略)
一方で、日本には、台湾の対中関係改善を懸念する声もある。
ある日本のフォーラムで「台湾は親中すぎるのでは」との意見が出た。
馬総統が進める対中政策は、両岸(中台)の経済交流を促進し、台湾海峡の緊張を緩和するのが目的だ。しかも、馬総統は「統一せず、独立せず、武力を用いず」の三つのノーを提唱し、任期中には、統一に関する協議を絶対にしないと明言している。
略)
馬政権を「親中」と批判するのはたやすい。しかし、真に台湾の人々の利益を守り、中国の強大な圧力に向き合うには、知恵と勇気、責任ある実務的な政策が必要なのだ。
台湾と日本は、自由、民主主義の価値観を共有している。
台湾が中国の共産党独裁政権に傾倒することは絶対にあり得ない。
馬政権は、「反中」でも「親中」でもない「和中(中国と和解)」路線といえ、中国との論争を棚上げし、平和を追求するつもりだ。
略)
引用終わり
では、「反中」でも「親中」でもないその馬英九氏が下記のように餞別まで渡して激励した国会議員は何をしているのでしょう。
以下引用
<国民党系のラジオ局「中国広播」によれば、「日本が台湾原住民を強制的に高砂義勇隊に参加させるなど原住民を迫害した」として、ニューヨークの国連本部での反日抗議活動のため高金素梅が今日午前台湾を出発した。国民党主席で台北市長である馬英九が見送りに訪れ、この抗議活動に3千米ドルの寄付を行った。
(台湾の声ニュース) 2005.9.15 >
馬英九氏が餞別まで渡して送り出したこの台湾の反日国会議員は、この夏、英霊が祀られている靖國神社境内において何をやったか。
以下引用
反日の台湾女性議員ら靖国神社でもみ合い
反日活動家として知られる台湾の高金素梅・立法委員(国会議員)らのメンバーが11日、東京都千代田区の靖国神社の拝殿前で靖国神社反対活動を行い、制止した神社職員ともみ合いになり、警察官が出動する騒ぎがあった。靖国神社によると、職員数人がけがをしたといい、警視庁麹町署に被害相談している。 靖国神社によると、高金素梅委員ら約50人が11日午前9時ごろ神社に訪れ、同9時半ごろから約20分間に渡り、拝殿前で拡声器で「ヤスクニNO」と訴えたり、持っていた写真やパネルを掲示。このうち1人が拝殿に登ろうとして、制止しようとした神社職員ともみ合いになった。職員数人が突き飛ばされ、打撲などの軽傷を負ったという。 警視庁によると、高金素梅委員は今月7日から11日までの予定で来日し、「平和の灯を!ヤスクニの闇へ キャンドル行動」シンポジウムを開催。8日には中国人強制連行殉難者合同慰霊祭に出席し、9日にも東京・上野でデモ行進をしていた。 (8月11日 産経新聞)
これを、支那中共はどのように報じているか。
以下引用
<高金素梅氏が靖国神社を「急襲」 日本の謝罪を要求
「立法委員」の高金素梅氏一行が10日午前9時30分ごろ車で靖国神社に到着し、「靖国神社に祖先の魂の返還を要求」等が書かれた横断幕を手にしながら、列を組んで堂々と靖国神社の正殿へ歩きながらスローガンを叫んだ。靖国神社の警備員が前進するのを阻み、横断幕を奪おうとし、双方がもみ合いとなり、台湾のグループ数名が軽傷を負ったが、幸いにも大事には至らなかった。現場を離れた高金素梅氏は取材の台湾メディアに対して、メンバー数名が靖国神社で祖先のために鎮魂歌を歌いたいと考えたため、急遽今回の行動を決定したと話した。元々は平和的に行動したかったが、警備員の行動が予想外に乱暴だった、しかしメンバーは一貫して原則を守り、相手側の動きを阻止するだけで攻撃はしなかったと語っている。台湾「中央社」が伝えた。
高金素梅氏によると、これまでは日本の規定に基づき靖国神社に行くことを警察に事前に申請し、警察は神社内の規定の場所で活動することに同意してきた。しかしメンバーがホテルから出ると、右翼分子が多すぎることを理由に警察から神社の外に留められて中に入ることができなかった。日本の警察が約束したことを守らないという教訓があったため、今回は事前に何の手続きもせずに靖国神社を訪れたという。(編集YH) 「人民網日本語版」2009年8月12日>
引用終わり
同じく、どういうわけか、以前には支那中共大使館はこの反日台湾国会議員を守るように要請しています。
以下引用
中国大使館:「高砂義勇隊」遺族の安全確保要求
駐日中国大使館の黄星原・報道官は、日本を訪れている「高砂義勇隊」の遺族らに関して、「右翼の一部が彼らを脅迫しようとしていることに、中国政府は強い関心を寄せている」「日本政府は、必要な措置を取り、彼らの身の安全を確保するべきだ」と主張した。14日付で中国新聞社が伝えた。
「高砂義勇隊」の遺族ら60人は13日、台湾の先住民族出身の立法会議員(日本の国会議員に相当)である高金素梅氏に率いられ、戦死した親族らの靖国神社への合祀に反対するため日本を訪れている。
しかし、先住民らは14日午前10時頃、右翼が靖国神社の周囲を占拠しているとして、神社を訪れることを断念した。(編集担当:田村まどか)
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2005&d=0614&f=politics_0614_003.shtml
この高金素梅という台湾人は、支那人の父親と台湾高砂族の母親との間に生まれた女性で、元歌手や女優をやり不倫により数々のスキャンダルをまき散らしました。
北京中央民族大学に留学し、かっては金素梅と名乗っていたのに、母親が台湾原住民出身ということで、原住民選挙区から選挙に出馬し、当選しました。
問題なのは間違いなく台湾の国会議員であるということです。
我が国の国会議員にも、戦時朝鮮人売春婦、過激派の為に一生懸命な福島瑞穂、バイブレーターにサインしオークションにかける辻元清美女史、南朝鮮までいって、戦時売春婦とともに日の丸に向って拳を振り上げる岡崎トミ子などどうしようもないアホは一杯います。
しかし、いくら福島瑞穂女史や辻元清美女史、岡崎トミ子女史がアホだからといって、我が国の国会議員が他国の慰霊施設でこのような行動をとれば国際問題になるでしょう。
<馬英九総統は今年を「台日特別パートナーシップ促進年」>
ブラックジョークとしか思えん!
我が国の政府だけでなくテレビ、新聞、雑誌などの報道機関の大部分はこれに対し沈黙し、無視をしています。
そして、こんな反日台湾人に対と社民党は繋がっています。その証拠に、この反日台湾人どもが靖國神社境内で暴力事件を起こす前の日は社民党会館に集合し、国会への請願行動を行なっています。
反日どうし繋がっているわけです。
世論調査では台湾国民の多くが現在の馬政権に失望しているそうであるが、その馬政権を選んだのも台湾国民である。
同じ事が我が国で起きようとしている。
小胡子さん、Booちゃん来店。塩月さん二名様で来店。
Oさん二名様で来店。
ドンチャン。
営業終了後、「イデアル」さん、「エムズバー」さん、そして中野の「石松」さんに伺う。
記憶全くなし。サル・・・・・・・・・
今の台湾の姿は明日の日本
8月24日月曜日晴れのち雨 ○
八月十五日、私が靖國神社に参拝させていただくために大鳥居をくぐり進んで行くと、張られたテントでは国民会議主催の集会が開かれていました。
私が行った時は、丁度、在日台湾人の金美齢氏がお話をされているところでした。金美齢氏は馬政権になり「今、台湾人は後悔している。日本もそうなってからでは遅いんです」とおっしゃっていました。
現実に、台湾の人々は馬英九政権になったことを後悔しています。
今月八日に台湾を襲った台風八号によって、多大な被害を被りました。
問題は、その自然災害だけでなく、その後の救援の遅れによる人的被害の拡大です。
永山英樹氏(台湾研究フォーラム)の「台湾は日本の生命線!」(八月十八日版)には「台湾の台風被害―日本はなぜ支援で出遅れているか」として下記の文が掲載されています。
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-852.html
以下引用
台湾では八日からの台風被害によって甚大な被害を出しているが、海外からの支援が遅れている。黄金の七十二時間もとうに過ぎ去ってしまっている。
そうしたなか十六日になり、沖縄の米軍がようやく支援物資を運ぶCー130輸送機を派遣した。十七日には救済に欠かせないCHー53Eヘリも現地へ到着。
それでは日本は何をしているのか。九九年の台湾大地震で国際救援隊を真っ先に派遣したのが日本。それをよく憶えている台湾人の間では、「なぜ」の声が上がっているそうだ。馬英九政権が日本の駐台代表との会見をボイコットしたことへの報復ではないかとの見方も出ているのだとか。
略)
しかし実際には日本は、すでに米国とともに早い段階で支援の申し出を馬英九政権に行っているのである。ところがそれを馬政権によって拒否された。
この驚くべき事実は十四日、その事実を記録した十一日付の外交部(外務省)公文書が暴露されて明るみになった。
なぜそのようなことをしたのか。ここで問題となるのが中国人為政者の伝統的な政治文化だ。「政治優先・人命軽視」の前近代的な文化である。
つまり中国の顔色をうかがったのだとされている。馬政権にとって中国はもはや宗主国のような存在であるが、その中国は自分より先に米国人が台湾入りすることを許すことができない。なぜなら中国は目下、台湾を米国の勢力下から自国の勢力下に組み込もうとしているからだ。
ところが先の公文書が暴露された。すでに中国政府からの義捐金送付の表明も受けている。そこで馬政権はようやく国際援助の要請を行った。苛立っていた米国はこれを受け、直ちに軍を投入した(これを受け、中国は軍の投入を諦めた)。
引用終わり
つまり、自国民の命よりイデオロギーを大切にし、宗主国様の顔色を伺ったのである。
台湾総統馬英九氏が国家安全会議を招集して、初めて災害の事態の深刻さを認めたのが台風から六日も過ぎた十四日であり、記者会見で救援の遅れを認めて謝罪したのが十日も過ぎた十八日である。その間、多くの被災者の人々に救援の手を差し伸べられることはなかった
その間、同胞が被害に苦しむ中、八月十五日には中共福建省アモイから台湾の要塞島である金門島までの遠泳大会が、設置された金門島の海岸線に埋め込まれた鉄製防護柵の一部約三百メートルを撤去してまで、台湾四十八人、中共四十九人が参加し台湾と中共との共催で行われている。
我が国でも平成七年(一九九五年)一月一十七日午前五時四十六分に起った阪神淡路大震災の時に、村山富市氏は同様の行動をとって、同胞を見殺しにしている。
米国の航空母艦を神戸に派遣するという支援の申し入れを断り、自衛隊の出動をためらってまで自分のイデオロギーを守ろうとした。
航空母艦はそれ自体で小さな街である。病院もあれば、食堂もあり発電所もある。地震後に必要なものばかりである。
台湾であった十年前の平成十一年九月二十一日に台湾を襲った大地震の時は、時の台湾総督であった李登輝氏は、我が国の救援隊を一番に受け入れるとともに、ただちに現地入りし陣頭指揮を執った。
我が国の百四十五人の救援隊に対し帰国時に
なんという違いであろう。
流石は、靖國神社の本殿にまで押し掛け、狼藉をはたらき、祀られている英霊を汚した高金素梅という反日台湾国会議員を総統自ら応援するだけのことはあります。
馬英九政権になって後悔している台湾の人々の姿が、民主党政権後の我が国の姿とオーバーラップするのは私だけでしょうか。
腐れ売国奴の村山富市政権のような悪夢の再来の無いことを祈るばかりです。
ちなみに、中共は今回と違って、台湾地震の時は、援助は全て中共政府を通して行うように要請した。そんなことやったら、今度の支那地震の時と同じようにほとんどの援助物資、寄付金が中共政府の連中の懐に入って、被災地の台湾には届かなかっただろう。
今日は今朝までゴロゴロとマンガや雑誌を読んでいたが、昼間前に目が覚める。
近所をプラプラし、昼飯を食った後は古本屋さんに寄り、数冊購入。
酒は飲まず。
面の皮の厚い遺族
8月23日日曜日晴れ ○
南朝鮮のあの赤い大統領だった金大中氏のなんと国葬が今日執り行われたそうですが、それに我が国からは、これまた支那を故郷とする赤い議長だった紅乃傭兵こと河野洋平氏が特使として派遣されたそうですので、ぴったりの人選だったのではないでしょうか。
バカ大統領の盧武鉉氏が国民葬、そして、それにも劣らない金大中氏が国葬だったら、これから南朝鮮では国葬だらけで大変なのではないでしょうか?
我が国でいえば、売国奴村山富市氏を国葬にするみたいなものでしょう。
ありえね〜
まあ、この国葬については産經新聞の黒田勝弘氏が実にわかり易い記事を書いておられます。
以下引用
【金大中氏死去】「国葬」で物議 バランス欠いた要求?
2009.8.20 22:12
【ソウル=黒田勝弘】韓国政府は金大中大統領の葬儀を23日、「国葬」で行うことになったが、退任した大統領への国葬は過去に例がなく、遺族など国葬氏側が国葬を強く要求したこともあって物議をかもしている。生前、何かと話題の多かった金大中氏だが、死してなお議論のタネを残した形で、世論には「いかにも金大中氏らしい」などの声が出ている。
韓国の歴代大統領で国葬が行われたのは、在任中に暗殺事件で亡くなった朴正煕氏が唯一。李承晩初代大統領などは「家族葬」、5月に自殺した盧武鉉前大統領など2人は「国民葬」だった。
法律では、大統領経験者は「国葬ないし国民葬にできる」とあるだけで詳しい基準はない。ただ国葬は費用をすべて国が負担し、官庁が休日になるなど国民葬より格が上。政府は今回、氏の例もあって当初、国民葬を考えていたが、遺族や側近たちが国葬を要求。最後は李明博大統領の配慮で国葬に落ち着いた。
略)
金大中政権は当時、自らを「国民の政府」と称していたことから「国民葬」が順当なところだったが、本人の死後、遺族や側近が欲を出して「国葬」にこだわったようだ。
引用終わり
勝手に密入国してきたくせに被害者面して、強制連行されてきたとか、売春婦のくせにこれまた被害者面して泣きわめいている嘘つき朝鮮人売春婦ババアが多いのは理解していたつもりですが、国葬にするように遺族が要求するという、これまた普通、我々日本人からは考えも及ばない出来事は、朝鮮人の面の皮の厚さがよく判る一例でした。
今日は午前中にスポーツセンターに行き、昨日出来なかったメニューを消化。
その後、店に寄りたまっていた伝票の整理。
今日は酒は飲まず。
8月22日土曜日晴れ ×
午後からスポーツセンターに行く。
今日は時間がなかったので、胸、背中、腹筋、背筋のみのメニューを消化。
Oさん来店。二名様来店。二名様来店。
ドンチャン。でも記憶あり。
藤田嗣治とGHQの戦後占領政策
8月21日金曜日晴れ △
藤田嗣治、今でもその名前をよく耳にする洋画の大家です。
先日もこの藤田画伯の絵が盗難にあったというニュースがあったばかりであり、春には夫人の遺骨がフランスの藤田氏が眠る礼拝堂へという記事が掲載されていました。
以下引用
君代夫人の遺骨、藤田嗣治画伯の眠る礼拝堂へ 仏北部ランス
産經新聞2009.4.25 20:16
【ランス(フランス北部)=山口昌子】世界的な日本人画家、故藤田嗣治氏の未亡人で、2日に東京で98歳で死去した君代夫人の遺骨が25日、ランスの画伯が眠るフジタ礼拝堂に埋葬された。
藤田画伯と夫人は第二次世界大戦後後、フランス国籍を取得しカトリックの洗礼を受けた。納骨式には在仏日本大使館の渡邉啓貴公使らが出席。安置された君代さんの遺骨の前で遺族に代わり弁護士が、礼拝堂に遺骨を埋葬することは君代さんの遺言だったと説明した。
君代さんは5番目の夫人。1935年に一時帰国していた画伯と出会い、翌年に結婚。細面の美人で画伯のひと目惚れといわれる。画伯は「乳白色の肌」の優美な美しさでパリ画壇の寵児(ちようじ)になった。第二次世界大戦中は帰国し「アッツ島玉砕」などの傑作を描いたが、戦後、日本画壇から戦争協力者のように誹(ひ)謗(ぼう)された。
このため君代さんは、日本での画伯の画集の出版などを拒否したが、画伯の生誕120周年を記念した京都国立近代美術館での展覧会(2006年)などには協力的だったという。
略)
引用終わり
この記事にある
「第二次世界大戦中は帰国し「アッツ島玉砕」などの傑作を描いたが、戦後、日本画壇から戦争協力者のように誹(ひ)謗(ぼう)された。このため君代さんは、日本での画伯の画集の出版などを拒否した」
とはどういうことか。
掲載した絵はネット上にあったその藤田氏の「アッツ島玉砕」ですが、
手元にある水間政憲氏の著書「筑紫哲也を切る」には「GHQの旗ふりをした文化人は誰か」として下記のような事が書かれています。
以下引用
GHQ占領下に大量発生した進歩的文化人の先駆けとして、旗を振った人物を明らかにします。
我が国の文化勲章の受賞者は、昭和十二年の第一回目には九名中、藤島武二、横山大観など四人の画家が受章した時から平成十二年までで、二百九十五名中六十八名は美術家が占めています。
このことから見ても、我が国の文化全般に直接与える影響というよりも、社会的に文化界へ与える美術家の存在は、一般社会の耳目を集めるところです。
そのことを計算したとしか思われない記事が、昭和二十一年十月十四日、朝日新聞「鉄筆」欄に掲載されました。
それは画家・宮田重雄の「画家の節操」という投稿記事です。
「新聞の報ずるところによると戦後都民の文化的慰安を兼ね、進駐軍に日本美術を紹介するために油絵と彫刻の会を開催するという。その企画自身はまことによろしい。がその油絵を幹施する画家たちの名前を見て、唖然たらざるを得なかった者は私だけであろうか。曰く藤田嗣治、曰く猪熊弦一郎、曰く鶴田五郎。これ等の人たちは人も知る、率先美術協会を牛耳を抜(ママ)って、戦争中ファシズムに便乗し通した人たちではないか。まさか戦争犯罪者も美術家まで及ぶまいが、作家的良心あらば、ここ暫くは筆を折って謹慎すべき時である。今さらどの面下げて、進駐軍への日本美術紹介の労などがとれるか。芸術至上の孤塁を守って、戦争画を描かなかった画家たちを、非国民呼ばわりした者は誰たちであったか。自分の芸術素質を曲げて、通俗アカデミズムに堕し、軍部に阿諛し、材料その他の旨い汁を吸った茶坊主画家は誰だったのだ。
その連中が舞台が一変すると、厚顔にも掌を更えて、幕開きに飛び出してくる。その娼婦的行動は、彼等自身の恥ばかりでない、美術家全体の面汚しだ」
宮田重雄はこう息巻いています。
この一文が、共産主義者が口にする「造反有理」に基づく我が国の文化人の第一声なのです。
略)
朝日新聞の投稿記事を全文引用したのは、戦後の進歩的文化人のジャンルを問わず、この投稿記事に「進歩的文化人」のすべての原点が現れているからです。
このような宮田重雄の投降が朝日新聞に掲載された背景には、GHQの公職追放政策への謀略が潜んでいたのではないか、と私は推測しています。
また、当時、名指しされた画家は後日、その美術展の企画には無関係だったことが証明されています。
略)
宮田重雄に名指しで批判され、戦前の画壇の戦争責任をすべて押しつけられた形でフランスに飛び立って行った藤田嗣治は、すでに戦前のフランス画壇で、エコール・ド・パリの作家の一人として世界的に著名な存在でした。その藤田が、同年十月二十五日付け朝日新聞の同じ欄に反論を寄せています。
少し長くなりますが、戦時中の文化界の状況を良く説明できていますのでまた全文を引用しますが、読んでみて下さい。
「画家の良心 藤田嗣治
過日本欄に投降された宮田重雄君の『画家の節操』と題する一文は、全然事実に相違した同君の軽率さと無責任なる態度とに、起因するものであった。
これは宮田君も認め私と猪熊君とに宛てて謝罪の手紙が来た位で、私自身の気持ちはすでに晴れている。然し事実が正しく認められなければならぬ点と宮田君の文章が全画家の問題にふれて居る点とに私は敢てこの一文を書くわけである。
此展覧会に関しては私も猪熊君も少しも関知していない。主催者より何の相談も無く両名の姓名を無断で使用した無責任なジャーナリスト(筆者注 「毎日新聞」昭和二十年十月二日掲載記事)の誤報の被害者に過ぎない。これは開催された海上に私達の作品を発見できなかった事で解る筈だ。又戦中便乗したりうまい汁を吸ったり等の同君の邪推は全然的外れである。元来画家と云うものは真の自由愛好者であって軍国主義者であろうはずは断じて無い。
偶々開戦の大詔喚発せられるや一億国民は悉く戦争完遂に協力し画家の多数の者も共に国民的義務を遂行したに過ぎない。
尚多くの犠牲を払わされたものも、こうした画家たちであった。現に猪熊君を始め多くの友人等は今日も尚健康を害して居り、材料の点に於いても手持ちの得難き資材をこのために惜しまなかった実情であった。こうした問題に対する同君の誤れる批判が同日同欄に掲載された石川達三氏の『似而非文化』と題する文章に比して余りに用語の劣悪さと、卑俗さとに私はむしろ画家の一人として恥ずかしさを禁じ得なかった。
戦争傍観者が時勢の変遷を機として手柄顔で大言壮語する類に対する石川氏の言論こそ正しいと思う。
戦争中国家への純粋なる愛情を以て仕事を成した画家は勿論、凡ての画家も今敗戦の事実に直面し、心からの謙譲と良心とを以てその敗因を正視し反省し、軍官によって成された世界観とその指導との誤れる今日迄の国家の方針を一蹴して世界平和と真の美への探求を研め、精一杯の勉強を成さねばならぬと思う。
こうした意味で各国との芸術交流によって日本文化の純化向上に努力する事を私は切望する所以である。今こそ正しき良心を以て我等画家は須く日本への愛情を世界への愛情と一つに結ばなければならない」
この藤田の発言で、画壇及び文化界の戦時中の問題は説明されており、その後問題にする必要が無いにもかかわらず、現在、我が国は、占領下より陰湿に戦時中の芸術家に対する攻撃が実行されています。
そのことからして、宮田発言は単なる個人としての発言ではなく、政治的目的を背景とした、大きな組織的思想運動の始まりと見る事ができます。
引用終わり
「筑紫哲也を斬る」(水間政憲 日新報道 平成十五年刊)p四十四〜四十九
実際には此の後、昭和二十一年一月四日「公職追放令」が発令され、三月十日には「軍国主義指導者の追放」が指令されます。
その中の付属書A号にはA〜G項まで七項目に分類し、Gには文化人も含むと規定された。Gはドイツでは適用されなかった。
なおかつ、ドイツにおける検閲と我が国における検閲の最大の違いはドイツにおいては一切が公然と行なわれた事である。
(参考 「閉された言語空間」 江藤淳 文春文庫 平成六年刊)
まだ、我が国はその戦後のGHQによる占領政策から逃れられていません。それどころか、その毒により我が国の国体が蝕まれています。
今度の選挙に民主党が大きく勝利する事があれば、その進行はますます加速される事になるでしょう。
バンブーさん来店。YさんHさんと来店。Aさん四名様で来店。
Sさん二名様で来店。
ドンチャン。記憶はめずらしくあったように思います。
「日本人の心」3
8月20日木曜日晴れ ×
下記は先日日記に引用させていただいた産經新聞に掲載された中静敬一郎氏の文章の後半部分です。
以下引用
終戦直後、米海軍カメラマンのジョー・オダネル氏(今年8月、85歳で死去)の心を揺さぶったのも、靴磨きの少年と似た年回りの「焼き場の少年」であった。
原爆が投下された長崎市の浦上川周辺の焼き場で、少年は亡くなった弟を背負い、直立不動で火葬の順番を待っている。素足が痛々しい。オダネル氏はその姿を1995年刊行の写真集「トランクの中の日本」(小学学館発行)でこう回想している。
「焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には2歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。(略)少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足下の燃えさかる火の上に乗せた。(略)私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。私はカメラのファインダーを通して涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った」
この写真は、今も見た人の心をとらえて離さない。フジテレビ系列の「写真物語」が先月放映した「焼き場の少年」に対し、1週間で200件近くのメールが届いたことにもうかがえる。フジテレビによると、その内容はこうだった。
「軽い気持ちでチャンネルを合わせたのですが、冒頭から心が締め付けられ号泣してしまいました」(30代主婦)、「精いっぱい生きるという一番大切なことを改めて教えてもらったような気がします」(20代男性)。
1枚の写真からそれぞれがなにかを学び取っているようだ。
オダネル氏は前記の写真集で、もう一つの日本人の物語を語っている。
激しい雨の真夜中、事務所で当直についていたオダネル氏の前に、若い女性が入ってきた。「ほっそりとした体はびしょぬれで、黒髪もべったりと頭にはりついていた。おじぎを繰り返しながら、私たちになにかしきりに訴えていた。どうやら、どこかへ連れていこうとしているらしい」
それは踏切事故で10人の海兵隊員が死亡した凄惨な現場を教えるための命がけともいえる行動だった。オダネル氏は「あの夜、私を事故現場まで連れていった日本女性はそのまま姿を消した。彼女の名前も住所も知らない。一言のお礼さえ伝えられなかった」と述べている。
苦難にたじろがない、乏しさを分かつ、思いやり、無私、隣人愛・・・。
こうして日本人は、敗戦に飢餓という未曾有の危機を乗り切ることができた。それは自らの努力と気概、そして米軍放出やララ(LARA、国際NGO)救援物資などのためだった。
当時、米国民の中には、今日はランチを食べたことにして、その費用を日本への募金にする人が少なくなかった。日本がララ物資の援助に感謝して、誰一人物資を横流しすることがないという外国特派員の報道が、援助の機運をさらに盛り上げたのだった。
こうした苦しい時代の物語を、親から子、子から孫へともう一度語り継ぐことが、今の社会に広がる病巣を少しでも食い止めることになる。
(中静敬一郎)
2007.11.06産経新聞「やばいぞ日本」
引用終わり
(写真はネット上にあったものであり、新聞に掲載されていたものより鮮明になっています)
我々日本人が忘れてはならないもの、失ってはならないものがこの写真にあるように思います。
何度も書きますが、国に求める前に、国に国民としてすべき事がある。
西村真悟代議士はご自分のメルマガ「西村真悟の時事通信平成二十一年八月十四日号」において下記のように書いておられます。
以下引用
驚くべき国政選挙である。政治的未熟児の「真夏の夜の夢」に国民が付き合わされている。このマニフェスト選挙とは、税金による買収競争である。従って、国家と国民は戦後体制からの脱却を希求しているのに、戦後体制に安住する政治が与野党協力してそれを阻んでいる。
ケネディーのアメリカ大統領就任式における演説を思い出す。 「アメリカ国民よ、国が君に何をしてくれるのかを問うな。君が国のために何ができるかを問え」
戦後体制とこの度のマニフェスト選挙とは、国民を「国に何をしてくれるのかを問う」だけの存在として位置づけるものである。戦後体制は、日本国民が「国のために何ができるか」を問い始めることを許さない。それが始まれば、戦後体制が崩れ、与野党の政治的未熟児の安楽な生活がもたないからである。
引用終わり
この日本という国を守るためにどうすればよいか。
我が国の為にできることを自分なりに
Hさん二名様で来店。Oさん四名様で来店。Yさん三名様で来店。Kさん二名様で来店。
ドンチャン。記憶なし。サル
ドウス昌代氏の著書にみる日系部隊
8月19日水曜日晴れ ××××
ドウス昌代氏の著書「ブリエアの解放者」は、同じタイトルで文藝春秋に昭和五七年五月号から十二月号まで連載されたものを加筆し発売されたのは昭和五八年(一九八三年)の事であり、終戦後四十年近くも経っているとはいえ、日系二世兵士はもちろん、「親父」と慕われた第百大隊大隊長故ファーレスト・ターナー大佐未亡人ヘレン・ターナー、第百大隊副大隊長ジェームス・ラベル、第百大隊長ゴードン・シングルス中佐、ヤング・オーク・キム大尉、第二大隊長ジェームス・ハンリー、情報部ケンダル・フィルダー大佐などの元四四二連隊および第百大隊関係者、米軍関係者が健在であり、ドウス昌代氏は直接その方々より話を伺っている。
巻末の多くの取材協力者をみると、その取材の過程において、ゴードン・シングルス中佐、ケンダル・フィルダー大佐など御亡くなりになった方もいらっしゃることがわかる。
その他にもキム大佐はオレゴン州で退役生活を送っていたが、平成十七年(二〇〇五年)に御亡くなりになっている。
その中には日系部隊を巡る貴重な多くのエピソードが書かれていますが、そのエピソードなどを「日系二世部隊」にいくつか書き加えさせていただきました。
ただこのすばらしい著書にもいくつかの疑問点などもあるのも事実です。
書かれているエピソード一つであるキム大尉が「電信線」を引きちぎったとあるが、この場合は「電話線」のほうが普通でしょう。
たしかに、「電信柱」とは言うが、ダールキストの「声」が聞こえてくる無線機に接続しているのですから「電話線」という単語が適当とおもいます。
著者の最大の間違いというか問題点はキム大尉の「祖国」朝鮮についての歴史観です。
<父は首都ソウル市に近い漢江の辺りで、小規模ながらも土地持ちの農家に生まれている。彼が育った朝鮮は日本の統治下にあった。徹底した日本の武断政治下に、自分たちの母国語さえ禁じられた故国を、従兄弟と二人して船底に隠れてアメリカへ逃亡している。後妻である継母と合わない複雑な家庭の事情もあった。十六才のときである。>
(同書p六十七)
何度も書いているように、我が国が朝鮮を併合したのち朝鮮語を禁じた事は一度も無い。
むしろ、ハングル文字は我が国の統治より朝鮮の人々に普及した。
ましてや、キム大尉は、少尉として第百大隊に配属時、昭和十八年(一九四三年)二月初めに二十四才である。朝鮮という国を我が国が併合したのは明治四十三年(一九一〇年)です。何年にキム大尉の両親が米国に渡ってきたかは不明ですが、米国で一九一九年にキム大尉が生まれたわけですので、少なくともそれ以前のはずです。
統治数年でそこの民族の言葉を禁止して、統治が成り立つものか普通で考えたらわかりそうなものです。
現実に、官庁では昭和十四年(一九三九年)まで朝鮮語学習を奨励する朝鮮語奨励賞が支出されている。
つまり、日本人に朝鮮語を学ばせ、朝鮮人には日本語を学ばせてお互いの意思の疎通を図っているのである。
朝鮮のように我が国に併合されたところ、あるいは植民地において、その国の言葉を学ばせるのはあたりまえであり、住民にとっても不利となる。それを強制と非難されるいわれは無い。
フィリピンにおいては、スペイン統治時代はスペイン語、アメリカ統治時代は英語を学ばなければ、フィリピンの人々にとり、ありとあらゆる面で不利となる。
この同書にある下記の記述はある意味、よく朝鮮人というものを現しています。
<現在、キムの八十を過ぎた母親は、ロスアンゼルス市にある日系老人ホームで余生を送っている。
しかし、長男が二世部隊に配属されたと知ったその頃は、軍の処置が納得できなかったという。彼女はそれまでに、日系人だけは決して家に上げようとしなかった。キムや三人の弟たちが近所の日系の友達と遊ぶのも厭がった。その二年前に亡くなった父親も、輪をかけた日本人嫌いであった。>
(同書p六十七)
日系二世部隊については、順次追記させていただきます。
午後からスポーツセンターに行く。
Oさん四名様で来店。Sさん二名様で来店。Sさん二名様で来店。二名様来店。
りえさん、りかさん来店。
早い時間からドンチャン。
「エムズバー」さんに伺う。
全く記憶なし。サル
ピースボート訴えられる(お笑い)
8月18日火曜日晴れ △
あの反日組織ピースボートが訴えられたというニュースが先週ありました。
以下引用
ピースボートを提訴 火災など客船のトラブル多発で
産経2009.8.12 14:10
非政府組織(NGO)ピースボートが主催する「地球一周の船旅」をめぐり、客船のトラブル多発で日程変更を強いられ、健康被害も出たとして、参加者24人が11日、ピースボートの吉岡達也共同代表と旅行会社などに計約2700万円の損害賠償を求めて東京地裁に提訴した。 原告は、横浜港を昨年5月に出港した第62回の参加者20人と、同9月出港の第63回の参加者4人。 訴状によると、航海に使われたパナマ船籍の「クリッパー・パシフィック」は、航行中にエンジントラブルや船体への亀裂、小規模火災などが相次ぎ発生。第62回は予定より10日遅れ、昨年9月4日に帰港。3日後に第63回の航海が始まったが、ギリシャで航行不能となって乗客が別の客船へ乗り換える事態となり、原告4人は嫌気がさして自ら空路で途中帰国したという。
ピースボートは「訴状を見ていないので、コメントできない」としている。
毎日新聞
ピースボート:参加者が損賠提訴 整備不良の船で日程変更
国際交流NGO「ピースボート」(東京都新宿区)の「地球一周の船旅」に参加した24人が11日、客船の整備不良で快適な旅行ができなかったとして、NGOの吉岡達也・共同代表と旅行を企画運営した「ジャパングレイス」(同)、米国の客船保有会社に計約2760万円の賠償を求め東京地裁に提訴した。
原告は148万〜320万円の旅費で参加した40〜80代の男女。訴状によると、使われた客船(70年建造)は老朽化が激しく、08年5月出航ではベネズエラへの寄港が中止になった。同9月出航もギリシャで航行不能となり、帰国が約1カ月遅れた。【大場弘行】
◇ピースボートの話
訴状を見ていないのでコメントできない。
◇ジャパングレイス広報部の話
ご迷惑をおかけしたが、おわびして見舞金を払うなど最大限の道義的責任は果たしたと考える。
引用終わり
そして、この船とはクリッパー・パシフィック号(Clipper Pacific)という下記の船のようです。
■時事ドットコム:「ピースボート」の出港許可=フロリダで船体修理へ−米(2008/7/18)
【ニューヨーク17日時事】米沿岸警備隊は17日、設備に問題があるなどとしてニューヨークに足止めしていた非政府組織(NGO)「ピースボート」の客船「クリッパー・パシフィック」(2万2945トン)に出港許可を与えた。「地球一周の船旅」の途中だった同船は船体修理のため、フロリダ州タンパに向かった。 担当の旅行代理店によると、修理の影響で今後の旅程が一部変更されるものの、8月25日の横浜帰港予定に変わりはないという。船の乗客は約960人、乗員は約300人。
この記事にある六十二回、六十三回のトラブルについて、週刊新潮の記事を基にして、「ピースボートの詭弁」と題して、昨年
ホームページに書かせていただきました。
http://www.tamanegiya.com/pe-suaho20.9.29.html
「乗船するといきなり、廊下のカーペットを張り替えている工事の人がいた。そのまま出航しました」
「二段ベッドなのにハシゴがついていないし手すりもないので落下した」
などというのについては下記の方がこの船の貴重な?出航前の写真を掲載されております。
http://blogs.yahoo.co.jp/ogakujira0934/8325626.html
こんな構造だと、そりゃあ、落ちるわな。
へたすりゃ、死ぬで!
この方のホームページのコメントにも
「各所で未完成部分多数でした。 航海中に改装間違いナシだと思います。 次回8月の帰港の時に完璧になって戻ってくることを願いたいです。」
「4人部屋は下段のベッドはともかく、上段のベッドは狭くて使い難そう。それに落ちそうですね。」
と乗客の方の発言を裏付けられるコメントが掲載されています。
また、引用させていただいた週刊新潮の記事にも、いかに船が醜い状態だったか憤慨されている方の話などが掲載されています。
「デッキの板が腐っているのか、歩くとブヨブヨする。部屋の蛇口からは茶色い水が出るし、バーで出る飲料水も濁っている。それを飲んで下痢する人も多かったです。何より唖然としたのは、避難訓練をした際、救命胴衣のベルトが壊れていたり、用具の部品がなかったりした」
「米国の沿岸警備隊でした。何と、船底に亀裂が入っていて、他にも防火装置や救命ボートの破損など六〇ヵ所以上もの安全上の問題があると指摘」
私も、主催者は何よりも船に乗船している乗客の安全、健康面を考えなければいけないのに、それを軽視してそのまま運用していることが問題だと思います。
それを、ホームページ上にはいっさい掲載せずに、いかにもトラブルの無い安全で楽しい航海であると装っていいます。
そして、私が日記に
「そして、驚く事に、この同じボロ船ですでに九月七日に第六三回クルーズに出港していることです。九月四日に帰港してたった三日間で、問題点がすべて改善されたのでしょうか。もし、改善されないで出航したのであれば、大きな問題ではないでしょうか。」
と書きましたが、
今回の訴訟により、それらが一切改善される事無く、乗客の安全、健康を無視したまま九月の六十三回めの航海に出航したことが今回の訴訟で明らかになりました。
平和とか抜かしているピースボートという連中の程度は所詮こんな程度なのです。
平和を口にする前に、乗客の安全をなんとかしろ。
このカスども
今日はメチャヒマ。
Oさん来店。
でっ、早い時間から飲む。
一名様来店。
冷蔵庫
8月17日月曜日晴れ ○
今朝までゴロゴロとしながら本を読んでいたが、少し寝た後に、生ゴミと昨日店を片付けた時に出た大量のゴミがあり、今日どうしても朝八時頃の回収時間までにゴミを間違いなく出してしまわなければ、明日からの店の営業にさしさわる為に朝早く起きて店に行く。
その後、昨日掃除し電源を切ってあった冷蔵庫の電源を入れる。
しばらく様子を見なければいけないが、まず大丈夫なように思います。
外気温が上がる今の時期はどうしても冷蔵庫の庫内温度を冷却する効率が悪くなる。
ちなみに、今、当店にはネタ用の冷蔵庫が一台、酒の保存用として七台、ワインクーラーが二台(一台はシャンパンと酒が占領)の合計十台の冷蔵庫があります。
購入時期もバラバラですし、メーカー、形式、容量もバラバラですので、夏になると不安です。
午後から新宿の「日本政策金融公庫」に融資の申し込みに行った後、さっさと帰る。
途中、古本屋さんにより数冊購入。
従兄弟から淡路島に残っている家の事で電話あり。
まあ、好きな事をやって一生を送った親父がいろいろと周りに迷惑をかけていたから、息子の私がやらなければいけないのは仕方が無い事と思いながらも、
・・・・・
酒は飲まず。
DVD
8月16日日曜日晴れ ○
昨日、靖國神社参拝のおりに購入した二枚のDVDをパソコンで再生して観る。
このDVDは終戦六十年特別企画DVDとして、
「自由アジアの栄光 戦うビルマ独立義勇軍 インド国民軍」
「独立アジアの光 大東亜戦争とインドネシア・マレーシアの独立」
の二枚でいずれも企画制作は日本会議事業センターで平成十七年制作。
手元にある本でしか見た事の無い人の映像も多くあり、貴重なDVDでしたが、登場した人々の言葉はすべてそのまま流し、字幕スーパーにすべきだったと思う。
貴重な証言なのですから、やはり言葉として残すべきであったと思います。
このようなDVDを学校の教材に使えばいいと思うのだが、日本が嫌いで祖国は支那、朝鮮、ロシアだと思っている腐れ日教組連中だから無理か。
今日は酒は飲まず。
靖國神社参拝
8月15日土曜日晴れ ○
今日は、昨年に続き昇殿参拝のためスーツにネクタイに着替えて、靖國神社へ向う。
今回も西村真悟代議士の事務所の皆さんにお世話になり、
「日本再生同士の会」にて昇殿参拝。
西村眞悟代議士は早朝に昇殿参拝を済まされたそう。
店に寄り、冷蔵庫の掃除。
まず、冷蔵庫の中の物を他に移して、電源を切り、中と外を掃除する。
掃除機で気が付いたところだけでいいから掃除する。
その後、電源を切ったまま数時間冷蔵庫を明けっ放しにする。
冷却ガスが抜けていたり、コンプレッサーがダメになっていたり、その他部品の故障でない限り、
少し冷えにくくなっている冷蔵庫の原因は、冷却パイプに氷が着いていたり、ゴミなどによるフィルターが目詰まりなどしている場合が多いので、
たったこれだけでも、冷え方が大きく違ってくる。
まあ、ダメで元々ですから。
一番左の写真は、今日、掃除した冷蔵庫のものではないが、冷却パイプに付着していて、落ちて来た氷。
この氷が付着しているだけで冷蔵庫内の温度が数度違う。
その後は、スポーツセンターに行く元気も無くさっさと帰る。
日本人の心をもって2
8月14日金曜日晴れ ×
また、アリヨシ氏は下記のようにも述べています。
以下引用
<日系人の会議があって、日本に行ったときの事だ。今の天皇がまだ皇太子だったときで、われわれはご進講をした。二、三人が一緒にいて、そこにブラジルから来た日系人もいた。
私は彼に聞いた。「あなたは何人」「私はブラジル人です」「でも日系人でしょ」「いやブラジル人です」
彼は決して日系人と言わなかった。
略)
ご進講では、皇太子に通訳をするためスピーチの内容をあらかじめ提出していたが、私は、そのブラジル人の顔を見て考えた。私は彼の事を心配した。自分の順番になったとき、通訳の人が出てきたが、その通訳を断って私は、「考え直した事がありますから、話を変えます。日本語は巧くありませんが、自分で話します」と言って話をした。
「私が戦後一年くらいで日本に来たときは、大きなダメージを受けた破壊された国そのものだったが、今、それからあまり時間が経っていないのに(そのときは昭和三十二、三十三年頃)、こんな立派な国になっている。それはどういうことだろう。
日本はモンタナ州にすっぽり入ってしまうくらい小さく狭い国で、資源もなく、すべてを輸入しなければならない国なのに、こんなに強く立派になった。
私は、その答えは一つしかないと思う。
日本人は国を愛して、子供のため、将来のため、国のため、と一生懸命に身を粉にして働いたからだ。
私も同じ日本人の血を受け継いでいるのだから、たとえ世界のどこに行っても、日本人はいかなる問題があってもやっていけるんだという気持ちを持って、各国に帰って欲しい」
私は例のブラジル人の顔を見て話した。そうしたら、彼は涙を流しながら聞いてくれた。そのあと、彼は私の手を握ってくれた。
ブラジルの日系人が、自分の事を「ブラジル人」というのは、もちろんかまわない。しかし、日系人だということを隠してはいけないのだ。隠すという事は、他のブラジル人よりも自分を下に見る事になる。
略)
どんなときでも、自分が、誰か他人のようになりたい、という気持ちがあってはいけない。日本人が白人と同じになりたいと思ってはダメだ。同様に、フィリピン人が他の人のようになりたいと思ってもダメだ。
というのは、他の人になりたいと思うことは、自分が他の人よりもよくないと思っているからだろう。そう思うことは、自分を抑えてしまうことだ。自分のことをダメだと思ってしまうことだ。
夢というものは、たとえそれが実現しなくても、その方向に向かっていけば自分を向上させることができる、そういうものだ。
それがとても大事なことだ。
ハワイの日系人が、自分の事を「アメリカ人」というのは当然だが、アメリカ人というのはある一つの人種や文化だけではなくて、いろいろな人が集まってできているものなのだ。そして、自分は他人よりもよいということではなくて、他の人と同じ、他の人に負けない、と思う事が大事なことなのである。>
P三二一〜三二三
<人種割当で雇う人数を決めたり、入学定員を決めたりすることがあったが、私はそれにとても反対した。誰でも、できるだけ自分の力を使って、自分で勉強する事が大事なのだ。それが平等にできるところまでは政府がしなければいけないが、そこから先はフェアにやって、日系人だろうと白人だろうと黒人だろうと、一番優秀な人が採用され、入学を許されるべきだ。
アメリカでは今まで、白人はたくさんいるからもう白人は雇わないとか、日系人の先生が多いから今度はフィリピンの人を雇うということをやってきた。でも、私はそれをしたくなかった。もしも日系人はハワイに二十二、三%しかいないのに、学校の先生は五十%が日系人だからといって、日系人だからといって、日系人の先生を採用しなくなれば、今から十年もの間、日系人は一人も教師になれないことになる。私は、こうした制度にはとても反対だ。誰でも、自分がなりたいことになれるようにするのが政府の責任だ。
フェアな競争をするべきである。私が、もしも自分より成績のいい人に負けたのなら残念だとは思わないが、私よりも成績が悪いのに、人種が違うから負けたのなら、とても怒るだろうし、決して許さないだろう。
日本がここまで立派な国になったのは、日本人の努力の賜物である。他の国の人よりも、一生懸命に頑張るつもりできたからこそ、よくなったのだと思う。>
P三二五
我が国もアリヨシ氏がおっしゃっているような悪しきアメリカのような制度が存在します。「同和利権」と言われるものがそうです。
京都府などで明らかになった採用枠です。
そして今、「アイヌ利権」と言われるものができようとしています。
これについては改めて書きたく思います。
午後から新宿の国民金融公庫(今は日本政策金融公庫というらしい)に借入申込書をもらいにいく。
帰りにソフマップに寄り、ぶっ壊れた部屋のマックの代わりを見る。
いろいろとあり目移り・・・
今回の融資がおりたら・・・・・・
今日はお盆休みでどうせヒマだろうと思っていたら、トシユキさん二名様で来店。N@横浜さん来店。小胡子さん、Kさんと来店。姫、お父上と来店。
マルガリータさん、Sさんと来店。二名様来店。
遅い時間というか、もう営業時間が終わっている時間に金ちゃん、リエちゃん、そしてマロさん来店。
ドンチャン。まったく記憶なし。
日本人の心をもって
8月13日木曜日晴れ 暑い △
「日本人の心をもって」と題されたインタビューが「ハワイ日系米兵」に掲載されています。
これは元ハワイ州知事であったジョージ・アリヨシ氏のインタビューです。
アリヨシ氏は四四二連隊ではありませんが、米国陸軍に入隊し、戦後、我が国に進駐軍の一員として派遣されています。
以下引用
<進駐軍と一緒に日本に行った。戦後一年後のことで、それもあまり長い間ではなかったので、日本をよく見たとは言えないだろう。
私が一番感心し、印象的だったのは、東京の郵船ビルにいたときに、最初にあった靴磨きの七才の男の子と話したときの事だ。彼はとても困っていて、お腹が空いていた。ハワイでも、靴磨きの子は貧しい家の子だったから、郵船ビルで食事をしたとき、パンにバターとジャムを付けてナプキンに包みポケットに入れて、彼にあげた。
すると、彼はそれを箱に入れてしまった。「どうして?お腹が空いていないの」「空いてるよ。でも、これはマリコに持って帰るから。マリコと一緒に食べるんだ」という。
「マリコって、誰?」「三つの妹です」
私はとても感心した。普通だったら、七つの子供なら、たとえお腹が空いていなくとも、欲しいものはすぐに食べてしまうだろう。それを、彼はものすごくお腹が空いていたのに、妹の事を考えたのだ。
それから私は、いつもPXに行ってハンバーガーを買いポケットに入れて、彼にあげた。そういうところから私は、日本人の気持ちがよくわかるようになった。>
引用終わり
このジョージ・アリヨシ氏の話題について、二年程前の産經新聞に掲載された「忘れてしまったもの」と題されたコラムに中静敬一郎氏が書いていた事を思い出しました。
以下引用
忘れてしまったもの
81歳、進駐軍兵士だった元ハワイ州知事、ジョージ・アリヨシ氏=写真=から手紙(英文)が、記者の手元に届いたのは今年10月中旬だった。
親殺し、子殺し、数々の不正や偽装が伝えられる中、元知事の訴えは、「義理、恩、おかげさま、国のために」、日本人がもう一度思いをはせてほしいというものだった。終戦直後に出会った少年がみせた日本人の心が今も、アリヨシ氏の胸に刻まれているからだ。
手紙によると、陸軍に入隊したばかりのアリヨシ氏は1945年秋、初めて東京の土を踏んだ。丸の内の旧郵船ビルを兵舎にしていた彼が最初に出会った日本人は、靴を磨いてれくれた7歳の少年だった。言葉を交わすうち、少年が両親を失い、妹と二人で過酷な時代を生きていかねばならないことを知った。
東京は焼け野原だった。その年は大凶作で、1000万人の日本人が餓死するといわれていた。少年は背筋を伸ばし、しっかりと受け答えしていたが、空腹の様子は隠しようもなかった。
彼は兵舎に戻り、食事に出されたパンにバターとジャムを塗るとナプキンで包んだ。持ち出しは禁じられていた。だが、彼はすぐさま少年のところにとって返し、包みを渡した。少年は「ありがとうございます」と言い、包みを箱に入れた。
彼は少年に、なぜ箱にしまったのか、おなかはすいていないのかと尋ねた。少年は「おなかはすいています」といい、「3歳のマリコが家で待っています。一緒に食べたいんです」といった。アリヨシ氏は手紙にこのときのことをつづった。「この7歳のおなかをすかせた少年が、3歳の妹のマリコとわずか一片のパンを分かち合おうとしたことに深く感動した」と。
彼はこのあとも、ハワイ出身の仲間とともに少年を手助けした。しかし、日本には2ヵ月しかいなかった。再入隊せず、本国で法律を学ぶことを選んだからだ。そして、1974年、日系入として初めてハワイ州知事に就任した。
のち、アリヨシ氏は日本に旅行するたび、この少年のその後の人生を心配した。メディアとともに消息を探したが、見つからなかった。
「妹の名前がマリコであることは覚えていたが、靴磨きの少年の名前は知らなかった。私は彼に会いたかった」
記者がハワイ在住のアリヨシ氏に手紙を書いたのは先月、大阪防衛協会が発行した機関紙「まもり」のコラムを見たからだ。筆者は少年と同年齢の蛯原康治同協会事務局長(70)。五百旗頭真防衛大学校長が4月の講演で、元知事と少年の交流を紹介した。それを聞いた蛯原氏は「毅然とした日本人の存在を知ってもらいたかったため」と語った。記者は経緯を確認したかった。
アリヨシ氏の手紙は「荒廃した国家を経済大国に変えた日本を考えるたびに、あの少年の気概と心情を思いだす。それは『国のために』という日本国民の精神と犠牲を象徴するものだ」と記されていた。今を生きる日本人へのメッセージが最後にしたためられていた。
「幾星霜が過ぎ、日本は変わった。今日の日本人は生きるための戦いをしなくてよい。ほとんどの人びとは、両親や祖父母が新しい日本を作るために払った努力と犠牲のことを知らない。すべてのことは容易に手に入る。そうした人たちは今こそ、7歳の靴磨きの少年の家族や国を思う気概と苦闘をもう一度考えるべきである。義理、責任、恩、おかげさまで、という言葉が思い浮かぶ」
凛とした日本人たれ。父母が福岡県豊前市出身だった有吉氏の“祖国”への思いが凝縮されていた。
略)
(中静敬一郎)
2007.11.06産経新聞「やばいぞ日本」
引用終わり
今の我が国の現状をジョージ・アリヨシ氏も憂いておられます。
そのアリヨシ氏の手紙に書かれていた
「荒廃した国家を経済大国に変えた日本を考えるたびに、あの少年の気概と心情を思いだす。それは『国のために』という日本国民の精神と犠牲を象徴するものだ」
というものをもう一度思い出すときではないでしょうか。
そうすれば、国に求めるばかりで、国に奉仕しようとしない、あの社民党のバカどもがいっしょになって騒いでいた派遣村のれん中の「仕事、住むところ、給料を国が補償しろ」などということがいかにみっともない事か理解出来ます。
今回の選挙も「生活が第一」などと戯けた事をいっている政党が躍進しようとしています。
生活ななどというものは日本という国があって初めて語れるものです。
日本という国の背骨が溶けてしまってはどうにもなりません。
そのひとつが我が国を造ってきた先人に対しての姿勢だと思います。
明日、麻生首相は靖國神社参拝をすべきです。
それだけでも、今吹いている風が違うものになると思います。
明日から河岸が三日間の休みに入る。
Iさん来店。カトリーヌさん三名様で来店。珍しく日本人の方もご一緒。Mさん二名様で来店。
ドンチャン。記憶あり。
ユダヤ人収容所解放と日系二世部隊
8月12日水曜日晴れ 暑い △
日系兵士で構成された第四四二連隊戦闘団(442nd Regimental Combat Team’)は下記のようになっていた。
第百歩兵大隊(四四二連隊旗下になったときに第一歩兵大隊に相当) 100th Battalion
大隊本部中隊 Battalion Headquarters Co.
A中隊(ライフル歩兵中隊) Company A
B中隊(ライフル歩兵中隊) Company B
C中隊(ライフル歩兵中隊) Company C
D中隊(重火器歩兵中隊) Company D
E中隊 Company E (四四二連隊旗下になったときに解消)
F中隊 Company F (四四二連隊旗下になったときに解消)
米陸軍第四四二連隊戦闘団The 442nd Regimental Combat Team
司令部中隊 Regimental Headquarters Co.
対戦車砲中隊 Anti-Tank Co.
砲兵中隊 Cannon Co.
医療衛生分遣隊 Medical Detachment
戦務(補給)中隊 Service Co.
第二歩兵大隊 2nd Battalion
大隊本部中隊 Battalion Headquarters Co.
E中隊(ライフル歩兵中隊) Company E
F中隊(ライフル歩兵中隊) Company F
G中隊(ライフル歩兵中隊) Company G
H中隊(重火器歩兵中隊) Company H
第三歩兵大隊 3rd Battalion
大隊本部中隊 Battalion Headquarters Co.
I中隊(ライフル歩兵中隊) Company I
K中隊(ライフル歩兵中隊) Company K
L中隊(ライフル歩兵中隊) Company L
M中隊(重火器歩兵中隊) Company M
第五二二野戦砲兵大隊 522nd Field Artillerry Battlion
大隊本部中隊 Headquarters Battery
砲兵A中隊 A Battery
砲兵B中隊 B Battery
砲兵C中隊 C Battery
砲兵戦務中隊 Service Battery
医療衛生分遣隊 Medical Detachment
第二三二戦闘工兵中隊 232nd Combat Engineer Co.
第二〇六陸軍軍楽隊 206th Army Ground Force Band
衛生分遣隊
支援中隊
本部中隊
このような構成になっているのは、自己完結型の独立連隊であるからです。
そして、本来ならば、四四二連隊に編入された第百大隊は四四二連隊第一大隊と呼ばれるはずであるが、第百連隊のそれまでのすさまじい戦功により、第五軍司令官クラーク中将、第三十四師団長ライダー少将が第百大隊の栄誉を称えて、そのまま第百大隊を名乗ることを許したのである。
このうち第五二二野戦砲大隊についてのエピソードは興味深いものがあります。
昭和十九年(一九四四年)十一月九日、第四四二連隊戦闘団は前線を離れたが、十月十五日から十一月九日まで僅か四週間たらずの戦闘で、百四十名もの戦死者、千八百名もの負傷者を出して、戦力は半減していた。
十一月十九日、第三十六師団から離れ、十二月にフランス・リビエラとアルプスのパトロール任務に就いた。
昭和二十年(一九四五年)三月二十八日、冬の間に編成を回復した第四四二連隊戦闘団はフランスを離れイタリアに向ったが、第五二二野戦砲大隊は本隊から分かれて、第七軍がライン河を超えてドイツ本国に攻め込む戦いに参加し、終戦まで所属を転々としたが、正確で素早い射撃は高い評価を得た。
その第五二二野戦砲大隊がドイツ・ミュンヘン北郊のユダヤ人ダハウ(ダッハウ)捕虜収容所を解放しました。
<「こじ開けるように入った収容所には骨と皮のユダヤ人たちが亡霊のように固まっていた」
彼らは水筒を取り出した。蓋を開け水を飲ませたという。ポケットにあったチョコバーや飴などを与え、介抱した。
「その時でした。オランダ人系の中年女性が目を大きく開いた。私達を指して『ニッポンジン』とつぶやいたのです。私はそれを忘れる事はできません。杉原さんは一人で数千人のユダヤ人を救った。私達大隊もまた五千から六千人のユダヤ人たちを保護しました。同じ血をわけた私達で少なくとも一万人の生命を助けたことになります」>
平成八年(一九九六年)三月に渋谷シナゴーグ(ユダヤ教会)にて開かれた杉原千畝氏を讃える会にて、第四四二連隊戦闘団第五二二野戦砲大隊に属していた元兵士の証言。
(「棄民たちの戦場」p四十四〜四十五)
五千人収容を限度としていたが、実際は三万千四百三十二人が解放されている。一九四五年四月二十九日、四四二連隊戦闘団に組み込まれていた第五二二野砲大隊は、日系軍団として単独でライン川下流域では依然として死守されていたジークフリート線を突破、ミュンヘン市のダッハウ収容所に近接、戦車でゲートを、他のゲートには速射砲を送り込んでこじ開けた。戦闘は全く交わしていない。ほとんど骸骨の極限状態に追い込まれていた収容者だけが取り残されていた。
第五二二野砲大隊は正確な距離測定、百五十五ミリ、八インチ砲など多種兵器の同時発射、一人ひとりの兵士の持つ数学能力で米軍一と謳われた部隊であったが、このダッハウ作戦に限定すれば、情報が極端に少なく、また凱旋時期が一九四六年になってからであった。
(「棄民たちの戦場」p八十二)
これは、日系米軍部隊が次々と記録する優秀な戦果を公表したくない米国の考え方の現れであり、現に日系二世部隊がダッハウ収容所を開放した事が報じられたのは一九九〇年代になってからであった。
日系人に対する土地所有を認めたウオルター・マッカラン法がトルーマン大統領の拒否権動議をわずか一票さで破り成立したのは、終戦から七年も経た昭和二十七年(一九五二年)六月二十七日であった。
これにより、日本人の米国移民も可能になった。
今日は午後よりスポーツセンターに行く。
初めてのお客様来店。小胡子さん、BOOちゃん来店。初めてのお客様Wさん二名様で来店。Y@横浜さん来店。Bさん来店。Yさん二名様で来店。初めてのお客様Fさん来店。
ドンチャン。
今日も珍しく記憶あり。
失われた大隊と二度目のバンザイ突撃 その7
8月11日火曜日くもりのち晴れ △
テキサス州知事ジョン・コノリーは、日系戦闘団全員に名誉州民の栄誉を贈った。
同じく、このころ米第九十二師団から、「リトル・アイアン・メン(ちびの鉄人)」というあだ名を奉られる。
名誉勲章(Congressional Medal Of Honor:メダル・オブ・オナー)一
一回の作戦につき師団の中から一人にのみ贈られる最高の勲章であり、名誉勲章受章者に対しては、相手の階級に関係なく自分から敬礼し答礼を受ける事が慣例となっています。
(サダオ・ムネモリ上等兵=第百大隊A中隊、終戦まで後僅かの昭和二十年四月五日、投げ込まれた手榴弾に覆い被さり自らを犠牲とし二人の米軍兵の命を救った。二十二才)
その後、二〇〇〇年六月当時のビル・クリントン大統領は人種差別があったとの理由から第二次世界大戦の叙勲を見直しを断行し、
殊勲十字章受賞者十九名を格上げし名誉勲章枠に入れて表彰した。
四四二連隊の勇士と遺族はホワイトハウスに招待されて、クリントン大統領より直々に名誉勲章を贈った。
(他に中国系一人、フリピン系一人)
ジョー・S・高田軍曹(第百大隊B中隊)を足して二十一名の受章者となっている。
日系米軍部隊の戦功の見直しには五十五年もの歳月が必要だった訳です。
第二次世界大戦中の日系二世部隊に対しての不当な扱いというものがよくわかる事例です。
一回の作戦において師団からたった一人にのみ贈られる最高の勲章が一つの連隊で二十一名もの兵士に贈られたのである。
第二次世界大戦に限れば、四六四の名誉勲章のうち二十一名が第百大隊・四四二連隊であった。
殊勲十字章五十二、
殊勲章一、
シルバー・スター章五百八十八、
功労章二十二、
銀星樫葉章十二、
銅星樫葉章三十八、
銅星章五千二百十、
パープルハート(従軍負傷章)九千四百八十六、
仏殊勲十字章十二、
仏功労十字勲章二、
伊戦争功勲章二、
大統領部隊感状七、
軍団感状三十六、
師団表彰八十六、
衛生部隊感状二、
殊勲部隊感状五、
戦闘従軍章(部隊)七、
その他にも
上級歩兵戦闘徽章と歩兵戦闘徽章、衛生徽章があり、多くの日系二世兵士が受章している。歩兵徽章をもらった兵士には、毎月十ドルが給与に加算される仕組みとなっている。
大統領部隊感状は、個人に与えられる名誉勲章に匹敵する最高位の部隊表彰で、連隊旗、大隊旗に吹き流しとして着用される。
所属兵も、金色で囲んだ青色リボンを右胸ポケット上に飾るならわしがある。
戦死傷者、将校二百六十五人、兵卒九千九百六十八人にのぼる。
「個人勲章獲得総数・全米軍部隊中一位」
「累積死傷率三百二十%・全米軍部隊中一位」
「名誉負傷勲章獲得者・全米軍部隊中一位(一人あたり平均二個)」
という前代未聞の凄まじいものであった。
栄光の部隊名は、米国陸軍予備役として現在残る唯一の陸上戦闘部隊である第四四二歩兵連隊第一〇〇大隊として継承され、ハワイ州兵の第二十九歩兵旅団戦闘群に所属している。
もちろん、日系米国人兵士だけの部隊ではないがハワイという土地柄日系人が多いそうである。
朝方に地震。
いくら鈍い私でも目を覚ましました。
今日はめずらしく忙しい。
Iさん来店。バンブーさん来店。Sくん来店。初めてのお客様Kさん二名様で来店。初めてのお客様Hさん、Sさん来店。Kくん二名様で来店。ご近所にお住まいというカップルのお客様来店。二名様来店。マロさん来店。
明日が怖い・・・・・
ドンチャン。
なんとなく、記憶はあったように思う。
失われた大隊と二度目のバンザイ突撃 その6
8月10日月曜日くもり一時大雨 ○
昭和十九年(一九四四年)十一月十九日、第百大隊、四四二連隊合同軍の功績を讃えるため、ダールキスト将軍は全軍行進の命令を下した。
通常四千五百人が堂々と行進するはずであるが、わずか数百人の兵士が行進したのみであった。
将軍はそれを見て、不機嫌そうに
「全軍行進を命令したはずだが、残りの兵士たちはいったいどうした」
と副連隊長であったヴァージル・ラスマス・ミラー中佐に尋ねた。
ミラー中佐は目に涙を浮かべて、
「閣下は全員の前に立っておられます。ここにいる者が連隊の全兵力であります。」
と答えた。
白人将校の中から数人くず折れる者が出た。彼らは一様に号泣した。
日系部隊に対し師団長であるダールキスト将軍より手紙が贈られた。
<第三十六師団は第四四二連隊が本師団を離れ、新たな任務に就く事を残念に思う。
貴下が勤務した一九九四年十月十四日から十一月十八日に至る期間はかつてどの部隊も直面したことのない厳しい地形における最困難な戦闘を記録した。
貴下将兵が示した勇気と揺るぎなさ、歓びをもって臨む姿勢は、かつて発揮された米陸軍の前例にけっしてひけをとるものではない。
師団の全ての将校及び兵士とともに深甚なる敬意を表し、戦闘団の各位に対しご多幸を祈る。
また、将来再び貴軍をわが師団に迎えられるようになることを切に希望する>
しかし、
大戦終了後、将軍に昇格した当時第四百四十二連隊長だったチャールズ・W・ペンス大佐はこのダールキスト将軍との握手を拒否している。
そして、この作戦に関しての報告がまとめられた。その報告書の中で、当時の司令官であったダールキスト将軍が自身の出世の為に日系人を使い捨てにした事が明確に述べられている。ダールキスト将軍は日系部隊である四四二連隊が絶対に命令を拒まない事を知った上で、無謀な作戦に就かせたのだ。
将軍に昇格したチャールズ・W・ペンス大佐が握手を拒んだ理由は明白である。
今朝までの酒が残っており、体調はイマイチ。
天候は台風の影響もあり、一時的に物凄い雨。
今日は散歩にも出かけずに一日中部屋にいた。
今年も部屋では一度もクーラーの電源を入れずに終わりそう。
酒は飲まず。
8月9日日曜日晴れのち雨 ×××××
午前中にスポーツセンターに行く。
午後三時より午後六時までという予定で、蔵元の濱川社長にもご参加いただき、美丈夫の飲んべえの会。
出品酒
NO.1 | 平成21年 美丈夫 鑑評会出品酒 二本 |
NO.2 | 平成21年 夢許 純米大吟醸 30% |
NO.3 | 平成21年 美丈夫 純米大吟醸 40% |
?NO.4 | 平成21年 美丈夫 純米大吟醸 45% |
NO.5 | 平成18年 美丈夫 大吟醸 45% |
NO.6 | 平成21年 美丈夫 純米吟醸 タマラベル |
NO.7 | 平成21年 美丈夫 中取り 舞 純米吟醸 松山三井50% |
NO.8 | 平成21年 美丈夫 純米吟醸うすにごり50% |
いつも通り、ドンチャンで、修了時間はメチャメチャで、いつ終わったのかわからないまま、
二次会三次会で「イデアル」さん、「エムズバー」さんに伺うというか、ご迷惑を・・・・・
まったく記憶なし・・・・・・
写真は後日アップいたします。
今日はその元気もありません・・・・
失われた大隊と二度目のバンザイ突撃 その5
8月8日金曜日晴れ △
師団長であるダルキスト少将の無能ぶりを示す有名なエピソードが、ドウス昌代氏の著書「ブリエアの解放者たち」(文藝春秋 昭和五八年刊)に描かれています。
日系第百大隊における唯一の朝鮮系兵士であるキム大尉に、本部より有線電話が入り、キム大尉と話したい人物がいるという。
替わった電話の相手は師団長であるダルキスト少将であった。 その時、キム大尉がとった行動は、この師団長がどのように部下から思われているかを物語る者であった。
キム大尉は何も喋らず突然電話線を引きぬいてしまったのである。そして、傍らにいたシングルス大隊長に言った言葉は「電話線は砲撃で不通になりました」であった。
優秀な戦闘指揮官であるキム大尉はダルキスト師団長がどのような人物であるかを見抜いていた。
もちろん、シングルス大隊長も同様であったがために、キム大尉のこの行動に理解を示した。
ダルキスト少将は自分の無能さを知らないだけでなく功名心にはやった人物であった。
そのため、自ら最前線に出てきて、陣頭指揮をするのである。
その様子が「ブリエアの解放者たち」「棄民たちの戦場」に描かれている。
「ブリエアの解放者たち」にはダルキスト師団長が、自ら第百大隊司令部第三大隊のキム大尉に電話掛けた時もダルキスト師団長は前線にいて、敵情視察と称し歩き回っている時に、森の中に布陣して待機していた第百大隊C中隊のマサナオ・オオタケ少尉指揮の小隊に遭遇し、直ちに前進突撃することを命じた。
オオタケ小隊はC中隊本部に連絡することも許されぬまま、この無能な師団長の命令に従いドイツ軍機関銃陣地に突撃して行った。
そして、戦死したのである。
「棄民たちの戦場」にも、同じくこの無能な師団長による第四四二連隊第三大隊に対する命令の場面が描かれている。
ドイツ軍の猛射に釘付けになった第三大隊I中隊のシグ・土井二等軍曹は、突然目の前にダールキスト師団長が立ち、シグ土井二等軍曹をどやしつけて、
「前進を続けろ。兵士よ、前に進め。ここ六一六高地で君らにできることは何も無い」
と言った。
敵前視察に登ってきたダールキスト師団長の「兵士に剣をつけさせろ。突撃するように命令するのだ」という言葉に対して、第四四二連隊第三大隊長アルフレッド・パーソール中佐は、師団長の胸を突き、揺り動かし、唸るように叫んだ。
「お前が殺そうとしているのは、俺の兵士だ。
お前に俺の兵士は殺させない。
俺はお前に、俺の子供達を殺させはしない。
もし、私の兵士に攻撃命令が出るならば、
命令を出すのはこの俺だ。
兵士を指揮するのは、お前ではない。
この俺だ。
お前に見せてやる。
俺たちが立ち向かっている相手を」
パーソール中佐の凄まじい気迫と眼光を浴びて、ダールキスト少将はたじろいで息をのむ。
その後、パーソール中佐はダールキスト少将と副官ウエルシール・ルイス大尉と自分の当番兵であるルディ常磐を伴い、敵情視察をする。
林少尉が指揮するK中隊の一個小隊近くに潜むドイツ軍を指差して、中佐が
「あれが機関銃の巣だ。あそこに機関銃隊がいる。あそこに狙撃兵が隠れている」
と説明している時に、ドイツ軍狙撃兵により、副官であるルイス大尉が撃たれ即死する。
この事により、このイタリア戦線時代から、「戦争知らずの事務屋」と陰口をたたかれていたダールキスト少将は、その時の戦場というものを理解する。
第四四二連隊第三大隊長アルフレッド・パーソール中佐は先頭を切るK中隊とI中隊の陣頭指揮をとった。
米国で刊行されている兵士の証言、記録をまとめたBridge of Love より
(私は「棄民たちの戦場」p一五四〜一五六より引用)
このような師団長の下で日系部隊は戦ったのです。
ご予約いただいた二名様来店。でも、うちの店でもなくってもよかったように思う。「日本酒しかないのですか?」
別に、今日、今から十五〜六名様でというお電話を頂いたが、当店では対応出来ないのでお断りさせていただく。
私は今日は一通りだけしか飲まず。当然、記憶あり。
失われた大隊と二度目のバンザイ突撃 その4
その丘は「バンザイ・ヒルズ」と名付けられた
8月7日金曜日晴れのち夕立 △
十月二十九日が終わろうとしている時に、第百大隊で点呼が取られた。
A中隊生き残りは七十七人、
B中隊同じく七十六人
C中隊は八十人であった。
戦闘兵力の半数が失われていた。
攻撃主力中央に位置した第三大隊のI、K中隊の被害も甚大であった。
十月三十日、「マーカー6」と名付けられたドイツ軍が立てこもる遮蔽物に対して、その傷だらけの日系部隊が突撃し多くの犠牲を払い制圧する。
この時点で、将校としてたった一人生存し、指揮を執っていたバイアーン大尉に率いられたI中隊とそれを追うK中隊、そして第百大隊は「バンザイ」という雄叫びをあげながら帯剣したM1カービン銃をかざして突撃する。
友の屍を踏み越えて丘にたどり着いた勇敢な日系二世部隊は、午後一時半ころまでに「マーカー6」を制圧した。
強固な敵陣地を落とす方法はこれ以外になかったのである。
後に、戦場記録者はこの丘を「バンザイ・ヒルズ」と名付け、米国国務省に報告した。
そして、テキサス大隊救出行で成功への足がかりを築いた勲功は「バンザイ作戦」の異名をとり、米陸軍はシルバー・スター章(銀星章)を贈って、バイアーン大尉の勇敢な行為を讃えた。
ジョセフ・バイアーン大尉は、作戦終了後、第百大隊が地雷の除去作業をすすめている時に、地雷原に触れ即死した。
午後三時、ミネアポリス出身のタケオ・ケンザキ軍曹に率いられたI中隊のパトロールは、ついに「失われた大隊」に到達した。
雑木林で見張りについていた、ニューヨーク市出身のエドワード・ガイ三等軍曹の前に、現れた日系二世兵士は言った。
「誰か、タバコ、欲しいか」
I中隊マット・サクモト二等兵だった。
他にも多くのエピソードを生んだ。
霧をついてよろめき出た指揮官の一人が、
「なんだ、ジャップ部隊なのか」
とつぶやいた。
喜び勇んで立礼姿勢をとった第百大隊B中隊トシモ袖谷少尉は態度を豹変させた。
「この野郎、ジャップとはなんだ、無礼な。ジャパニーズと言え」
と胸倉を掴みながら言われた相手は
「えっ、ああ、そうか、そうなんだ。ありがとう。きみたちこそ、真のアメリカ兵だ。ぼくが間違っていた。許してくれ」
と謝罪し、それに対して、袖谷少尉は威厳を正して、再び気をつけの姿勢をとり
「第四四二歩兵連隊戦闘団第百大隊B中隊長代理、トシモ袖谷少尉であります。ただいま到着いたしました。敵軍は包囲を解き、後退した模様です」
と言った。
幾重もの防御線を突破してトラバン・デ・ソールにたどり着いた救出軍は、もはや軍隊の体裁をなしていなかった。
正面突破の重責を担った第三大隊K中隊のうち生きて「失われたテキサス大隊」と接触出来たのは、チェスター田中技術三等軍曹、ルディ常磐、ツトム吉田三等軍曹、ビクター・イヅイら十七名だけであった。
I中隊は百九十七人の兵士のうち兵士タケオ千崎三等軍曹、シグ土井二等軍曹、マット・サクモト二等兵、ハリー中田、ジュンジ・シロヤマら八人だけしか生き残っていなかった。
両中隊合わせた生存兵はわずかに二十五人であった。
三百八十六分の二十五であった。
B中隊でも五体満足な兵士は十一人しか残っていない。
他の中隊でも、平均三十人から四十人しか生存者はいなかった。
米陸軍が「史上最も重大な十の戦闘の一つ」にあげている八十時間のこの戦いにおいて、日系兵士の戦死者、負傷者、行方不明者は千四百人に達した。
この後、著書に「棄民たちの戦場」おいて橋本明氏は下記のように書いているが、これは明らかに間違いであると思う。
<二百十一人のテキサス兵を救出するため、日系兵士八百人の戦死が必要だったからだ。>p一八三
また、この著書のプロローグにおいても
<結果を先に言えば、包囲されたテキサス大隊二百十一兵を救うため、日系兵八百人が氷雨に煙るボージュで死んだ計算になる>同書p一二
と書いている。
たしかに、日系部隊の累積死傷率は三百二十%であり、全米軍部隊中一位と凄まじい。
だから、個人勲章獲得総数も米国陸軍歴代一位の受勲を誇るのであるが、他の資料からわかる事は、四四二連隊および第百大隊の第二次世界大戦における戦死者は六百八十名と六十七名の行方不明者です。
つまり、この戦いにおける四四二連隊の損害は「戦死」八百名ではなく、「死傷者」である。
橋本明氏の明らかな誤解である。
「第一四一連隊ここにあり。第四四二連隊は我らとともにあり。われらは彼らを愛す」
第三十六師団司令部に届いた電報である。
後に米陸軍は、第二のカッシーノ戦と呼ばれたこの戦いを米陸軍史上最も重要だった「十大戦闘」の一つに数えて、ペンタゴンの壁に永久表彰画として掲げる。
今日は夕方に激しい夕立。
バンブーさん来店。川西からTさん御夫妻来店。今回は「青春十八切符」を使っての旅だそう。
Hさん来店。ナベちゃん来店。
飲む。でも一通りだけなので記憶あり。
失われた大隊と二度目のバンザイ突撃 その3
8月6日木曜日晴れ ×
日系二世米軍の現場の白人指揮官は、日系米兵の先頭に立って戦った
米陸軍でも最強という自負心だけがそうさせたのではない。
上官を敬い大切にする直情、命令を完璧に消化する真摯な取り組み、戦友に示す限りない友愛、秩序感といった勇敢な日系二世に畏敬の念と愛情を抱き部下に持つ誇りがそうさせたのであった。
しかし、師団長クラスは違った。
師団長であるダールキスト少将が採用した作戦は、「失われた大隊」を救出するために大軍をようする作戦ではなかった。
イタリア戦線、ブリュイエール攻略戦でも、果敢に先頭に立ち戦った日系二世部隊を第三十六師団の錐の先端に見立てた作戦であった。
ボージュの森でも、日系部隊は先陣を担って敵陣に揉みこみ突破口を開けるその役目であった。
捨て駒とみなした作戦要領であった。
敵陣を維持しているドイツ軍は第九三三連隊、第百九十八連隊を含む第三百三十八歩兵師団であった。
十月二十八日朝、寒い雨模様の中、米軍は一斉攻撃を開始した。
米軍の第一波攻撃により独軍は後退し、米軍が「六一六高地」と名付けたテート・ド・ラ・ルビエールという開けた高地の東峰で第百大隊B、C中隊は塹壕を掘った。
後退するドイツ軍を狩り出しながら進む日系部隊に対して、引きつけた後、ドイツ軍は数百発の迫撃砲弾と野砲弾の雨を浴びせた。
この攻撃だけで、戦死五名、負傷者三十七名にのぼった。
第三大隊K中隊の先頭に立っていた小隊を率いていたのは、ゴードン山城最先任上級曹長であった。
ゴードン山城最先任上級曹長は敵の位置を割り出すため、身を屈めて一人で小隊から先回りし、待ち構えているドイツ軍最前線の砲火を一身に浴びる形で注意力を引きつけた。
このゴードン山城最先任上級曹長が時間を稼いでいる間に、K中隊本隊は敵遮蔽物に向け砲門を据え付けた。
そして、三人一組のドイツ兵を軽機関銃で葬りさったが、小隊の進撃開始をまた掩護しようとして、ドイツ軍狙撃兵に撃たれて戦死する。
まさに、日系二世部隊を錐にした戦法である。
日系部隊の死傷率の多さの原因は、その勇気、忠誠心だけでなく、この起用方法もひとつであることは間違いないことである。
やっちゃんが娘さんのナナちゃんと来店。聞いても私が顔も思い浮かばなかった芸能人のコンサートに金沢から来そうな。
Kくん来店。Hさん来店。
ヒマ。でっ、早い時間から遅い時間までドンチャン。
記憶はなし。サル。
失われた大隊と二度目のバンザイ突撃 その2
8月5日水曜日晴れ ×
十月二十六日午前零時、疲労の抜け切らない第四四二連隊戦闘団第二連隊は第百四十一テキサス連隊第三大隊と交替を命じられて、真っ暗な中を通常の二倍の装備を背嚢に詰め込み出陣する。
ビフォンテーヌ北東方向に僅か三百メートル入った地点で、正面と両側面からドイツ砲兵と軽銃器射撃部隊により前進を阻まれ、塹壕を掘り朝までしのぐ事になる。
この同じ朝、これまで情報兼戦闘団として働いていた白人編成のフェルバー特別部隊は、原隊復帰命令を受け解散する。
機動偵察まで日系部隊に全ての任務をあずけてしまったのである。
待機命令を受領し、たった三十六時間の「特別休養時間」を貰った第百大隊と第三大隊は十月二十七日午前四時に僚軍を追う。
第百大隊に七五三戦車大隊B中隊、四四二連隊砲兵中隊から一分隊、八十三化学臼砲大隊D中隊、三三二工兵隊一小隊。
第三大隊には第五二二野戦砲大隊(四四二連隊)。第百三十一野戦砲大隊が掩護体制を整え、七五二戦車大隊D中隊、三化学臼砲大隊C中隊が随伴している。
午前十時、第百大隊は武器弾薬、食糧点検後行動を起こした。
B中隊はシャンの森を屋根伝いに突破する為、ぬかるみ道の両側に進路をとった。
A中隊はその右翼につき、西斜面を目指し、その後をC中隊が追った。
第三大隊は東側斜面に取り付き、第百大隊の左手に出ようとし、第二大隊はさらに左翼を行く。
中央を行く第三大隊を先導しているのは、I中隊とK中隊であった。
二十七日午後三時頃、その両中隊の左側側面にドイツ装甲車群が戦車を押し立て、殺到してきた。
ドイツ戦車はK中隊から数百メートル地点より直接攻撃をしてきた。
この時、「ゴー・フォー・ブローク」と一声、高らかに四四二連隊のモットーを叫んだのはK中隊所属のマツイチ・ヨギ一等兵であった。
そして、ヨギ一等兵はバズーカ砲を掴み、戦車から三十メートル付近まで単身で走り込み、命中させ戦車を仕留めた。
ヨギ一等兵にカツオトシ・P・佐野一等兵が走り寄り、二発目のロケットを装着し、続いてヨギ一等兵はドイツ兵二人組のバズーカ砲チームに発射し、一人を葬り、さらにもう一人を自分のM1ライフル銃で葬った。
これによりドイツ軍は火力を失い後退した。
米陸軍は後に、ヨギ一等兵の一撃がナチスドイツ戦車に炸裂するこの場面を絵画にし、ペンタゴンに掲げている。
今日は冷蔵庫の事で一日中バタバタしていました。
Tさん、Tさんと来店。初めてのお客様Uさん二名様で来店。
小胡子さん来店。Nさん二名様で来店。ホロン部員Yさん来店。
Mさん三名様で来店。
ドンチャン。記憶なし。サル
日系二世部隊
失われた大隊と二度目のバンザイ突撃 その1
8月4日火曜日くもり ×
第四四二連隊が休息と補給のためベルモンに後退した時、第三六歩兵師団第一四一歩兵連隊(元テキサス第一連隊、アラモ連隊の異名をとる)第一大隊がビフォンテーヌ東方に前進、十月二十四日にドイツ軍に対して攻撃を開始するが、逆襲により第一大隊は側面を守っていた第三連隊から切り離され、A中隊、B中隊およびC中隊の一部、D中隊の一個小隊など二百七十五名が大隊長と大隊の残りの部隊から離れて孤立してしまう。
第一四一歩兵連隊の第二大隊、第三大隊が救出に向うが、失敗する。
第一四一連隊は米国にとり、単なる歩兵部隊ではない。米国陸軍にあって、歴史的に大事に扱われてきた部隊である。
その連隊旗に染め抜かれた星は、単星である。
一八三六年、テキサスで創設されたアラモ連隊がこの原隊であり、デビー・クロケット大佐、ジム・ボウイ、ウイリアム・トラビス大佐を知らない米国人はいない。
そのため、十二月二十五日にドイツ軍に包囲され完全孤立のニュースが伝えられた時には、議員らが大統領に「名誉ある絶滅は受け入れられない。テキサス・ボーイズを助け出せ」と攻め立てた。
政治圧力により、大統領直接指揮という形で、第三十六師団ダールキスト師団長にこの「失われた大隊」救出命令が出された。
そして、ダールキスト師団長は、長期任務による戦闘により疲労困憊の日系二世部隊に出動命令を出す。
戦い疲れ切っていた第四四二連隊戦闘団に対し、「大統領の個人命令である」という但し書きが付箋として添えられた師団長命令が告げられたのは欧州時間で十月二十五日午後二時半であったという。
連隊長チャールズ・W・ベンス大佐は突然休養を打ち切られた指揮官クラスを招集し下記のように述べた。
「第百四十一連隊第一大隊がドイツ軍の手に落ちた。
我々はテキサス大隊救出命令を受けた。
命令はアメリカ大統領の個人的要望に基づいている。この戦いに勝ち抜け。そうすれば、君たちの戦争は君らの勝利で終わるのだ」
と日系二世の差別と偏見に対しての勝利で終わる事を告げる。
日系二世部隊である第四四二連隊戦闘団の第二大隊の休養地には直接、ダールキスト少将が現れ、口頭で出動命令を発した。
第二大隊は確かに四四二連隊の中では一番早く休養に入った部隊であるが、たった二日間であった。
第三大隊と第百大隊には待機命令が出た。
敵性国民という不当なレッテルと差別を受け苦しむ親、兄弟を救い出だすために、米国に忠誠を誓い、米国の為に戦い、名誉ある地位を得ようという日系二世部隊にとってドイツ軍の戦線を突破し、ただ前進あるのみだった。
河岸から帰ってきて、店に入り、まず各冷蔵庫の温度計をチャックするのが日課ですが、ある冷蔵庫に設置してあるデジタル温度計を見て「・・・・・」
生ものの保冷に使っている冷蔵庫の庫内温度が八度・・・・・
あかんやろ
ということで、急遽、仕込み前に冷蔵庫の電源を切り、中を片付け、様子をみる。
冷蔵庫はいっぱいあるので問題ないが、不便。
Mさん三名様で来店。Sさん来店。
飲むが、冷蔵庫の事もあり、ドンチャンという程の事なし。
フランスにおける日系米軍部隊
ブリュイエール(Bruyeres)・ビィフォンテーヌ(Biffontaine)
8月3日月曜日くもり ○
昭和十九年(一九四四年)九月一日、連合軍はイタリアのアルノ川を超えた。
ローマからアルノ川までの六十キロを前進する間に、第百大隊および第四四二連隊は千二百七十二名もの犠牲者を出した。
(戦死二百三十九名、戦傷九百七十二名、非戦闘負傷四十四名、行方不明十七名)
これは、この連隊の部隊全兵力の四分の一以上に当たる。
同じ九月、ドイツ軍はドイツ本土決戦用に温存されていた戦車隊を連合軍の前線に突っ込ませる大反抗作戦「バルジの戦い」を開始する。
四四二連隊は十月十三日、のちに数々の無能ぶりを発揮し伝説を作ったジョン・アーネスト・ダルキスト中将が師団長である第三十六師団に配属され、ただちにフランスの地方都市ブリュイエールをドイツより解放する為の戦いに向う。
数十年に一度という大寒波が欧州を襲ったため、四四二部隊はドイツ軍だけでなく、寒さと飢えにも襲われる事となった。
十九日までに、ブリュイエールを含む四つの高地全ての確保に成功する。
しかし、C陣地を取った第百大隊が二十日、ダルキスト中将の命令により予備部隊となり、離れた隙に、翌朝に別の師団がC高地に近づいたときは、ドイツ軍に押さえられており、再度取り戻さねばならなかった。
無能な者が上になると部下を殺すというわかり易い例です。
疲労困憊で、補給物資も少なくなった第百大隊に対してビィフォンテーヌを取るように命令が下る。
これは第百大隊がドイツ軍前線から十一キロも後方に入り込む事を意味し、当時の無線も砲兵の支援も届かない無謀な戦いであった。
しかも、当時のビィフォンテーヌは作戦上取る価値が少なかった。
第百大隊がビィフォンテーヌの町に入った時、ドイツ軍は町を包囲し四方から攻撃してきた。激しい市街戦となった。
二十三日に第三大隊がビィフォンテーヌを見下ろす高地を押さえ、増援と補給が第百大隊に届けられた。
ゴードン・シングルズ中佐指揮の第百大隊は、二十一人の戦死者と二十二人の負傷者を出しながら、町を確保し続けた。
この十月十四日から二十三日にわたる戦いで解放されたブリュイエール(Bruyeres)・ビィフォンテーヌ(Biffontaine)にて、日系部隊がどのように地元住民に接していたかを「棄民たちの戦場」の著者橋本明氏は、著書の中で歴史家のピエール・ムラン氏が橋本氏に話した言葉として下記のように書いています。
「僕の出身のブリュイエールを救ったのは、日系米兵士でした。彼らはものの見事に武士道を体現している。
だから私は彼らをアメリカのサムライとたちと呼ばずにはいられないのです。
そして、彼らの行為はその後もフランスで語り継がれている。あなたが見たブリュイエールは日本の心に満ちています」
(その「日本の心」とはという橋本氏の問いに)
「兵士一人ひとりの行いと、規律ある軍隊の姿勢そのものです。
欧州では領土拡張といえば強い領主が弱い領主の土地を武力で切り取り、財宝を略奪し、女性を犯し、家屋に火を放ち、農産物を抑えることだった。
そうして自分を太らせてきた。
そういう脂ぎった歴史の上に成り立っています。」
ドイツ軍人は最もいい家屋を没収し、奇麗な女を抱いた。彼らのよって町からは食糧も強奪された。
ゲシュタボやSSを前面に出して、ドイツ軍は恐怖政治を四年間にわたり続けたのであった。
ピエールは日系兵士が日常的に行動で示した内容が、かって君臨したドイツ人らと比較してどのように優れていたか、次のように例証した。
「女性を人間として扱い、いたずらなど絶対にしなかった。お年寄りとみれば駆け寄って助け、微笑みを浮かべて話をする。子供達に親切で、飴やチョコレートを与え、自分たちの空腹をよそに市民に食べ物を配ってくれた。
自分たちがどのように苦労しても鼻にかけず、いつも静かで礼儀正しい。
がやがや、騒々しく話す輩はいなかった。控えめでありながら凄い勇気と決断力を持っていた。
いろいろと教えてくれたのがあのニッポンジンたちでした。
つまりひと言でくくれば真の武士道精神を体現していたのです。
その日系兵士たちがボージュの深い森の中でどれ程の生命を落としたか」
(同書P八十〜八十一)
橋本氏は取材でブリュイエールを訪れた時に、図書館勤務のニコラ・マリリエ氏から四四二連隊について
「もちろん、知っています。忘れることなんて一刻たりともありません」
図書館で初対面の住民ローラン・シャルル氏より
「四四二連隊はブリュイエールの誇り、あなた方と同じ日本人」と言われ、二人に仏米戦勝記念碑に案内されている。
ひときわ高い場所に建てられた鉄兜を置いたその記念碑には、慰霊の意味だけでなく、いかに日系米兵士が果敢に戦い当地のフランス市民を解放したか、尊敬と愛情を込めて記録されている。
その解放者たちは隊伍を組み、戦闘服を装着した姿で目抜き通りから町役場や教会が集まるドゴール街に行進した。
しかし、その解放者たちはあのナチスドイツの枢軸側、日本人の顔をした白人将校の肩の辺りまでしかない小柄な兵士たちであった。
町の人たちは自分たちよりはるかに背丈の低い軍人が、秩序を持って行進を続ける姿に、畏敬の視線を走らせた。
このリュー・ジョッフルにつながる一方の通りを、町の人々はその小さな解放者に敬意と感謝をこめて「第四四二歩兵連隊戦闘団通り」と名付けた。
多くの日系二世部隊の故郷である米国ハワイ州ホノルル市とブリュイエールは姉妹都市関係を結び、今でも毎年十月二十日の戦勝記念日には交流を持ち、多くの元四四二部隊兵士たちが招待されている。
一九九五年の終戦五十周年には三百五十名もの年老いた日系二世部隊の元兵士が招待を受け、この通りを勲章をつけ堂々と行進した。
今日はまだ酒が残ってかったるく、何もする気になれないので、ボケ〜として一日を過ごす。
昼頃、に起きて、シャワーを浴び、近所をブラブラする。
酒も当然飲まず。
8月2日日曜日くもり一時雨 ×××
午後よりスポーツセンターに行く。
今日は昨日出来なかった肩、腕、下半身と有酸素運動のメニューを消化。
夕方より、スポーツセンターでお世話になっているインストラクターのTさんと酒。
高田馬場にある「カヴェルナ」さんにてドンチャン。
その後、神楽坂に移動して「イデアル」さんでドンチャン。
やっぱ、体を動かした後の酒のまわりは早いように思います。
記憶なし。
サル
8月1日土曜日晴れ △
午後よりスポーツセンターに行く。
どっかの高校生や大学生の体育会系グループがいくつか来ており、あっちこっちでペチャクチャとしゃべってばかりで鬱陶しい。
ここに来るこういったグループの共通点は、統制がとれていないため、同じ器具を使ってメニューを消化しても、
時間がとんでもかかる事である。
普通、体育会系の場合はもう少し統制がとれているものだと思うが。
胸部と背中のメニューを消化して帰る。
Fさん四名様で来店。Tさん二名様で来店。マロさん来店。副店長さん来店。
先日、西大島の「輿兵衛寿司」さんでお会いしたUさんが、会議のため東京にでていらしたということで、
よってくださる。
ドンチャン。記憶あり。