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飲んべえ日記平成19年11月分
「デートの時に飲みたいお酒」ランキング
11月30日金曜日くもり
「デートの時に飲みたいお酒」ランキングというのがクチコミポータルサイト「SHOOTI(シューティ)」で掲載されていました。
一位は「カクテル」二位「ビール」三位は「ワイン」だそうですが、四位は「焼酎」で「日本酒」は最下位だそうな。
焼酎にも負けるとは。
大台さん来店。k@横浜さん来店。TさんOさんと来店。大台さん再びSさんTさんなど四名様で来店。Yさん来店。
メジャーワインの価格
11月29日木曜日くもり ×
以前も書いた事がありますが、ワインのことでお世話になっている埼玉の酒屋さん「中田屋」さんからのメールで、ワイン・インデントの案内をいただきました。それに「メジャーなワインの今の相場を見る参考にもなるかと思います。」と書かれていましたが、小久保さんがお書きになられている通り、メジャーなワインは凄い価格です。(とくに若いヴィンテージ)
CH.LAFITE ROTHSCHILD |
2000 |
\324,402 |
CH.MARGAUX |
2000 |
\243,191 |
CH.LATOUR |
2000 |
\275,535 |
CH.HAUT BRION |
2000 |
\178,516 |
CH.MOUTON ROTHSCHILD |
2000 |
\172,731 |
CH.LA CLUSIERE |
2000 |
\356,395 |
CH.AUSONE |
2001 |
\244,205 |
CH.PETRUS |
2000 |
\849,602 |
CH.LE PIN |
2000 |
\687,895 |
LA ROMANEE CONTI |
2000 |
\1,280,968 |
ちなみに、中田屋さんは、ワインをこよなく愛する御主人が一九四五年からのオールドヴィンテージワインをそろえているお店です。お誕生日のワインなど探されている方は御相談されてはいかがでしょう。
お誕生日ワインといえば、「一つ星」(満点は五つ星)の年で、手許の「ワイン・ヴィンテージ案内」(マイケル・ブロードベンド著 柴田書店 一九九六年)に「記録上最悪の夏に入るが、一部にはすばらしいものを造ったところもある。だが、今ではお目にかかることはめったにない。あったら飲んでしまうこと」とまで書かれている、間違いない「大カス」が私の生まれ年。そのボルドーの一級シャトー筆頭であるシャトーラフィット・ロートシルトはインターネットで探すと十五万七千五百円から二十四万八千円。
でも、「素晴らしい当たり年。もっとも魅力的で、最高にエレガントなクラレットの理想の姿。」と書かれている最高の五つ星である一年前の五十三年は三十九万三千円から五十万円もします。
ひえ〜
ヒマ〜でオチャッピーかなと思っていたら、
YUUKOさん来店。マロさん来店。
ドンチャン。
グラス
11月28日水曜日くもり ○
先日注文してあったグラスが十一ダース届く。うち一ダースは本当は購入予定でなかったシャンパングラス。他は三オンスグラス。来月の磯自慢35%の一〇年間の垂直の会のためのもの。
今日、その磯自慢35%の蔵元出荷が十二月一日土曜日という連絡を頂きましたので、当店に入荷は三日火曜日となります。
Oさん二名様で来店。御予約いただいていたアンコウ鍋。遅い時間に大台さん来店。
営業終了後に届いたグラスを洗浄。十一ダース、百三十二客を洗うのはそれなりの時間がかかる。
お約束
11月27日火曜日くもり ××××
なんともわかりやすい人々・・・
以下引用
日本のプロ野球史上、最高の右腕投手として評価を受ける稲尾和久さんが去る13日の午前1時、福岡のある病院で死亡しました。享年70歳。
韓国系として知られ、韓国に来て我が国の選手の指導もした稲尾さんは、去る10月30日に脳に悪性腫瘍ができて入院しました。当初、医師団は1週間ほど治療をすれば退院出来ると診断していたが、急に症状が悪くなり帰らぬ人となった。
略)
姜秉徹監督は、「稲尾さんに関して韓国系という噂が流れ、本人がこれを正式には明らかにしなかったが、骨格やスタイルから見て韓国系だと誰も分かっていた」とし、「彼は健康体質だったし、少し太っていて肉をよく食べる飽食家だった」と回想しています。
筆者は80年代後半に、大田(デジョン)球場で稲生さんに会った事あります。その姿は、66年のイングランド・ワールドカップでイタリアを1-0で破った北朝鮮サッカーの英雄、パク・ドゥイクさんにそっくりで驚きました。体型が太くて丸い印象の中堅俳優、ペク・イルソプさんを連想すればいいと思います。韓国に度々訪れた稲尾さんは、自分の心服だったモトイやシマバラなどのコーチを韓国に紹介しました。
略)
海の向こうの日本だが、神話的な制球力で伝説の大記録を残した稲尾さんの死は、我が国の野球人にも悲しみと思い出を更に刻み込んでいます。
NAVER/OSEN(韓国語)
http://news.naver.com/sports/index.nhn?ctg=news&mod=read&office_id=109&article_id=0000097191
でっ、その後
以下引用
野球人稲尾和久はすぐれた実力と立派な人柄で尊敬を受けた。しかし、社会人稲尾は正反対だった。
略)
稲尾が11月13日、福岡市内のある病院で享年70歳で他界すると、韓日プロ野球界が惜しんだのもこのような活躍のためだった。ところで、韓国国内で珍しい事が起きた。亡くなった彼が韓国系だという主張が出たのだ。もっと珍しい事に、稲尾が韓国系という事実を裏付ける根拠が、わずかな風説と同監督の骨格論というのだ。それなら果して稲尾は韓国系だろうか?
略)
「8年間、日本のプロ野球で活動しながら、自ら韓国人だと明らかにした選手は張勳(チャン・フン、日本名:張本勲)が初めてと同時に最後だった。」キム前監督の言葉だ。キム前監督は南海入団当時、
日本のスカウトから「阪急ブレーブス(オリックスの前身)に入団した米田哲也も韓国系」という言葉は聞いた記憶がある、と言った。米田は個人通算350勝で金田正一に続き歴代個人通算最多勝2位に上がっている伝説的な投手だ。しかし米田は死ぬまで自分が韓国系なのか否かを言わなかった。
稲尾が韓国系かどうかを確認するために、日本のスポーツ記者たちと連絡をとったが帰って来た返事は専ら初耳だった。稲尾は1937年、大分県別府で生まれた。お父さんは伝馬船で釣りをする漁師だった。小学校2年生の時からお父さんを手伝って漁師をした稲尾は「お父さんは愛国心が強い人」と回想したが、愛国の対象はもちろん日本だった。
稲尾は立派で模範的な野球人だった。しかし、彼の父親に似て、あふれる愛国心を抑えられなかったのか晩年には極右主義者になった。藤岡信勝東京大学教授は1997年「自由主義史観に即して新しい教科書を作って普及させよう」と「新しい歴史教科書を作る会」を作った。言葉が自由主義史観であっても、彼らの目的は中学校教科書に明記された従軍慰安婦の内容を削除しようとすることだった。それに日本人の優越性を強調して侵略戦争を右翼の観点から肯定的に記述した教科書を作ることが目標だった。
1997年2月1日、日本の代表的な右翼新聞<産経新聞>に「新しい歴史教科書を作る会」を支持する各界人士200人の名前が載った。日本の野球人たちの名前もあった。川上哲治と藤田元司、王貞治、稲尾和久などだった。4人全員、日本野球を代表する大スターだから当時、日本は彼らの賛同宣言に大きく驚いた。しかし、王貞治は賛同を勧める'新しい歴史教科書を作る会'側の最初の提案時から「従軍慰安婦記述削除に同意することはできない」と拒否意志を現わしたことが明らかにされた。
稲尾は王貞治とは違った。4人の中で一番積極的に作る会を助けたし、2004年賛同者名簿を更新する時も名前をひっこめなかった。作る会のホームページにはまだ稲尾の名前がかかっている。根拠のない
流言から出た稲尾の韓国系主張が日本で嘲笑される理由だ。稲尾の肩に集中せず、スポーツが人種主義的観点と国籍にかかわる以上、第2の稲尾はいつでも出現する可能性がある。
スポーツ2.0(韓国語)韓国系に化けた稲尾和久
http://www.sports2.co.kr/feature/feature_view.asp?AID=179753
自分達で勝手に朝鮮人だ、そうに違いない、きっとそうだと騒いでおきながら、この有り様。
さすがです。
しかし、「野球人稲尾和久はすぐれた実力と立派な人柄で尊敬を受けた。しかし、社会人稲尾は正反対だった。」
「稲尾の肩に集中せず、スポーツが人種主義的観点と国籍にかかわる以上、第2の稲尾はいつでも出現する可能性がある。
」ってなんざんしょ。
そして、「晩年には極右主義者になった。」って、そんなこといったら、朝鮮なんて極右だけしかおらんでしょう。
あと、さらりと「しかし米田は死ぬまで自分が韓国系なのか否かを言わなかった。 」って、書いてるし。
もちろん、米田氏は御健在です。
いまさらですが、アホ!!!!
Mさん四名様で来店。一名様来店。
営業終了後、阿佐ヶ谷「ひげ」さん、その後、中野「石松」さんにてドンチャン。
帰りは石松のマスターともう動いていた地下鉄。でも乗り過ごす・・・・
江田島と円谷幸吉
11月26日月曜日 晴れかな? ○
今日はプリンターのインクを買いに外に出た以外は一日中部屋にいた。随分前に早稲田の古本市が開かれている時に買ってきてあった本で、戦前に海軍兵学校の英語教師であったセシル・ブロックの「江田島 イギリス人教師が見た海軍兵学校」(銀河出版 一九九六年刊)を読む。
序文には、この本が書かれたのは昭和一四年(一九三九年)夏からで、その後、ヨーロッパにおいて戦争が始まった時には著者は出版する考えを捨てたが、我が国が宣戦し大東亜戦争が始まった時に出版を決意したことが書かれている。
そして「私は、香港における日本軍人の野蛮な行為に関する報道を読んだ今日でも、これを書き替えたり、あるいは、書き足したりすることを欲しない。一九三九年に書いたままの、日本の海軍兵学校生徒及び海軍仕官の印象を公にする訳である」と書いています。
エール大学卒業後すぐに昭和七年から三年間、江田島の海軍兵学校に英語教師として赴任したセシル・ブロック氏は海軍兵学校の時間制の厳しさを「驚くべき日課」と表現し、自身オックスフォード大学(体育カレッジ)のクロスカントリーの代表選手で、エール大学ではアメリカの学生たちにラグビーを紹介し、自らキャプテンとコーチの二役をこなし、同時にクロスカントリーチームのキャプテンを勤めていたスポーツマンであるが、日本の教育制度を認めている。
それには、<兵学校の新入生は、日本国民のあらゆる階級層を代表する青年の集まりといってよい。たとえば私が最後に見た新入生の中には二人の皇族がおり、同時に漁師の息子もいた。このように兵学校の生徒が国民全体の各階層を代表するものであることは、私に深い印象を与えた。
我々イギリス国民は、民主主義を誇りとしている。しかし、イギリス海軍の士官が特権階級と中流階級の上層から出ていることは、否定することのできない事実である。
日本では、海軍軍人は一般国民から非常に尊敬されている。それゆえ、海軍兵学校へ入学するには大変な競争が行なわれる。>p二二
と書かれている。
セシル・ブロック氏はこの著書に弥山登山競争の事も書いている。弥山は宮島にある海抜五三〇メートルの山ですが、海軍兵学校では毎年秋の一日に、頂上までの各分隊ごとの合計時間を競ったそうです。
それは、大東亜戦争時に派遣されたニューギニアのブナで、約一二時間泳ぎ続けて九死に一生を得、任務を完遂されたという経験を持つ、幹部候補生隊第三大隊長鈴木靖隆旧海軍少佐は、弥山登山走と同じように陸上自衛隊久留米にある幹部候補生学校近くの高良山登山走をさせて、限界を体験させることは幹部候補生にとって必ずや人生の中で役に立つであろうと昭和二七年ごろから考えられたそうですが、実際には昭和三〇年(一九五五年)から訓練に取り入れられて続いているそうです。
これまで延べ四万人が参加してきたという高低差一五〇メートルの登山道五・六キロを走るこの行事において、昭和四一年(一九六六年)の一八分九秒という最高記録は四一年間やぶられてない。急勾配なこの山道を一〇〇メートル一九秒代で走るという驚異的記録保持者は、昭和三九年におこなわれた東京オリンピックのマラソン銅メダリストである円谷幸吉氏だそうです。
11月25日日曜日くもり? ○
店を片付けてから、スポーツセンターにいく。久しぶりにインチキラクターさんが運動をしに来ていた。私は今日もスロートレーニング。
部屋に帰り、途中、高田馬場にある「芳林堂」で購入した「売国奴」を読む。
黄文雄氏、石平氏、呉善花氏の三氏による対談集。
なかでも、石平氏の「支那の軍隊は支那という国軍では無く、人民軍という名の支那共産党の軍である。それは、日本でいえば、自民党が軍隊を持っているようなものである」というのは、言われてみればそうであるが、私は気がつかなかったので、新鮮であった。
それぞれの国について客観的に発言しており、おかげさまで楽しく読み終えた。
今日、つけていたテレビで、ビートたけしが主演の「点と線」をやっていたが、その中でビートたけしが、柳葉敏郎にむかって「関東軍ですか、あの在留日本人を置いて自分達だけ逃げ帰った」というような内容のセリフを言っていた。
すこし、歴史をかじったものならば、満州において卑劣なソ連軍に対して、先人がどのような戦いをしたか、知っているでしょう。このような言葉は吐けないはずです。
脚本がそうなっていたのだろうが、ビートたけし程の芸能人ならば、脚本を書き換える事ぐらいできるでしょうから、これが彼の歴史観なのでしょう。
戦後の三国人 「田岡一雄自伝」より
11月24日土曜日晴れ ××××
手元にある「田岡一雄自伝 電撃篇」(田岡一雄 一九七一年初版 徳間書店)よりの引用
<その日のうちに神戸は修羅場と変貌した。
敗戦の報に茫然自失する市民とは対照的に、これまで過酷な労働で軍部から抑圧されてきた第三国人たちは欣喜雀躍とし、略奪、報復の火蓋をきったのである。
その日の午後七時。徒党を組んだ三国人は国鉄深川駅構内の貨車を襲って配給物資を強奪。これを皮切りに市内随所で襲撃略奪事件を起こし、婦女子を暴行し、わがもの顔に跳梁しはじめた。
終戦当時、国内には二百万以上の三国人がいたが、とくに兵庫に多く、昭和一八年に一三万五千人、四八都道府県の七%強を占め、大阪、東京につぐ三位という勢力をもっていた。
略)
三国人たちは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街をのし歩いた。
通りすがりの通行人の目つきが気に食わないといっては難くせをつけ半殺しにし、 無銭飲食をし、白昼の路上で見境なく集団で婦女子を暴行する。
善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。
彼ら不良三国人は旧日本軍の飛行服を好んで身につけていた。 袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って町をのし歩いた。
腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を引っさげ、略奪、暴行をほしいままにした。
警官が駆けつけてきても手も足も出ない。
「俺たちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人が何をいうか」
警官は小突き回され、サーベルはヘシ曲げられ、 街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。 >p一九〇〜十九三
<昭和二〇年八月末、わたしは所用の帰途、女の悲鳴をきいた。人通りもすくない東山病院の裏手である。白熱の太陽がキナくさい焼跡に照りつけていた。
一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。
途中で四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。
「どないしたんや」
「おかあちゃんが、おかあちゃんが」
少女はわたしに泣きじゃくりながらしがみつく。
この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。
「ここにいるんやで。ええな」
私は少女をその場において一目散に走った。
少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。飛行服の、三国人の男たちだった。
彼らは不適な薄ら笑いで女の手足をおさえつけ、一人がその上に乗っている。女は狂ったように絶叫していた。
<汚ねえ・・・・>
うめくと、わたしは遮二無二彼らに突進していった。>p一九四
<昭和二一年二月、神戸生田署の岡政雄巡査部長が彼らに拉致されて暴行殺害され、同年四月、須磨署佐藤進巡査部長がやはり彼らの手によって射殺された。
そればかりではない、警察の威信を根底からくつがえす不祥事さえもちあがった。すなわち不良三国人三百余人は兵庫警察署を襲撃し、署長はじめ幹部署員たちを人質として電話指令交換室を占拠したのである。>p二一四
田岡氏の著書に出てくる「三国人」はほとんどが朝鮮人です。
それは、下記のような箇所の記述からわかります。
<朝鮮人同盟からの果たし状だ>P二一二
<やはり三国人との抗争事件で丹波篠山へ朝鮮人征伐にでかけた>P二二六
ちなみに、この本には、田岡氏の昭和二一年夏の山口組三代目襲名式には当時の自民党代議士・佃良一氏が出席(P二三二)と記されているが、自民党は昭和三〇年(一九五五年)に自由党と日本民主党が合併してできたものですから、昭和二一年当時は自民党がまだないので、自由党か日本民主党かの間違いでしょう。
今日、河岸の場内のある飲食店には大勢の人がならんでいた。まさに異常といっていいぐらい。テレビとか、雑誌などで紹介されたのでしょうが、河岸で働いている人いわく「河岸にならんでまで食う価値のある店はない」・・・・
Oさん来店。大台さん二名様で来店。SさんHさん来店。横浜からKさん二名様来店。今日はどうせ中日でヒマだろうと思って早くから飲んでいたら、K@京城さん来店。マロさん来店。二名様来店。ドンチャン。
閉店後、K@京城さん、K@横浜さんと彼女といっしょに中野の「石松」さんに酒を持ち込みドンチャン。帰りは石松のマスターと同じタクシー・・・・・さるサル猿SARU・・・・・・
倉沢愛子のウソ「日本軍による虐殺」
11月23日金曜日 新嘗祭 △
倉沢女史は我が国を貶めるためだと、ウソなど何も思いません。そのウソすでに多くの方に否定されているが、倉沢女史はそれを訂正することもない。流石は厚顔無恥の売国奴らしい行動です。
以下、倉沢女史の著書よりの引用
<現実にインドネシアには、いまなお戦争の傷跡がいろいろなところに残っている。
略)
そのひとつは、戦争中、スマトラ地区の司令部がおかれていた、西スマトラのプキティンギという高原の町を訪れたときのことである。
このまちには、日本軍のつくった巨大な地下壕が残っている。プキティンギのグランドキャニオンといわれる大渓谷の斜面に掘られたこの地下壕は、連合軍が攻めてきた場合、スマトラの日本軍が最後にたてこもる場所として建設されたものである。ジャワ島その他から連れてきた大量のロームシャ(現地では労務者をそのままこのように呼んでいた)を使用して建設したが、従事したロームシャたちは秘密保持のために、建設が終わると全員殺されたと言われている。そのため。この地下壕の存在は、地元の人々のあいだでも長い間全く知られていなかった。
ところが、一九五六年に地元の人が山で薪を探していて、穴の入口を見つけた。ただしその段階では、日本軍が掘った地下壕だというだけで、建設の経過など詳しいことはわからず、長い間そのまま放置されていた。
私は一九七四年にここを訪れたことがあるが、その時は、外から穴の入口を眺めることができただけである。
略)
一九七四年には中に入れなかったこの地下壕は、一九八六年に州政府によって歴史的遺跡として整備され、周囲も公園化されて、観光の名所となった。その間、戦争中この地にいた日本の元軍人たちが団体で訪れ、地下壕建設の経過について語ってくれたため、詳細がわかるようになったのだという。
「ジャパニーズ・トンネル」と書かれた壕の入口には、ロームシャが強制労働させられている様子が彫り込まれた大きな壁画がある。
略)
さらに、ロームシャ用の台所や食堂のほか、ロームシャを閉じ込めた牢獄や、死体をほうりこんだと言われる穴なども残っている。>
P一六九〜一七〇
この穴については、すでに加藤裕・元産経新聞ジャカルタ支局長により完全に否定されています。
以下「二十年目のインドネシア」(倉沢愛子 草思社一九九四年刊)より引用
「史実に反する。正しい歴史を」 戦友会有志、小冊子で訴える
太平洋戦争中にインドネシア・スマトラ島の防空壕(ごう)で、旧日本軍がインドネシア人労務者三千人を虐殺したとする誤った史実を現地人のガイドが観光客らに説明していることが分かった。戦友会や有志は「虐殺は史実に反する」と当時の事情を記した小冊子を編集、現地で無料配布する。
防空壕は、ブキティンギ市内の断層のがけを利用して旧日本陸軍第二十五軍が築造。壕内奥から断崖(だんがい)に向けて複数の穴がある。これが「築造にかかわったインドネシア人労務者を殺害、放棄に使った穴」とされた。一九八七年にインドネシア政府、地元州政府が防空壕跡を整備して国立公園に指定した際、「銃剣を手にした日本兵に殴打されながら強制労働にかりだされた労務者」を描いた巨大なレリーフが壕入り口に設けられた。その後、日本で同壕跡が「虐殺が行われた日本の穴」として観光案内や研究者の論文で取り上げられ、「三千人虐殺」が事実として独り歩きを始めた。
これに疑問を抱いたジャーナリスト、加藤裕氏や旧スマトラ新聞記者、菊地秀廣氏が防空壕築造担当の旧日本軍関係者などから「史実と異なる」との証言を得て、インドネシア政府に通告。インドネシア側も間違いを認め、九七年にレリーフは撤去された。ところが、その後も現地では観光客に対し、観光ガイドが「虐殺の地」と説明していると指摘があった。
このため、加藤氏や第二十五軍司令部戦友会有志が中心になって小冊子「スマトラ・ブキティンギ第二十五軍防空壕築造由来概略」を作成した。小冊子には防空壕の設計築造、監督に当たった元第二十五軍主計大尉、本庄弘直氏の「築城では現地労働者には日当も支払い、虐殺はおろか負傷者も出ていない。複数の穴は通気口、緊急避難用で工事中は廃土、残土の捨て穴」との証言をインドネシア語、英語、日本語で紹介している。
加藤氏らは「正しい歴史を伝え、日本とインドネシアの友好促進に役立てたい」として現地配布への協力を求めている。
連絡先は「第二十五軍司令部戦友会・“日本の穴”の史実を正しく伝える会」事務局(〒152‐0022 東京都目黒区柿の木坂1ノ15ノ5ノ203、TEL03・3723・9903)の加藤裕氏まで。
引用終わり
平成一六年十一月十日(水) 産経新聞
この記事に倉沢女史のウソに対しての反論が全て含まれます。
<従事したロームシャたちは秘密保持のために、建設が終わると全員殺されたと言われている。そのため。この地下壕の存在は、地元の人々のあいだでも長い間全く知られていなかった
略)
ロームシャ用の台所や食堂のほか、ロームシャを閉じ込めた牢獄や、死体をほうりこんだと言われる穴なども残っている。>
↓
<「築城では現地労働者には日当も支払い、虐殺はおろか負傷者も出ていない。複数の穴は通気口、緊急避難用で工事中は廃土、残土の捨て穴」>
<戦争中この地にいた日本の元軍人たちが団体で訪れ、地下壕建設の経過について語ってくれたため、詳細がわかるようになったのだという。>
↓
<防空壕築造担当の旧日本軍関係者などから「史実と異なる」との証言を得て>
倉沢愛子という女性がいかに心が卑しく、醜い女ということがよくわかる事例です。
こんな醜い女性が慶應大学の教授をやっているのです。
鳥取からURAホームページの掲示板に投稿してくださっている、浩乃さんお子さんお二人と来店。初めてのお客様Yさん御夫妻来店。HIROKOさん二名様で来店。今日は着物。昨日のSさんもそうでしたが、やっぱ、日本人は着物がよく似合う。金ちゃん、マロさん来店。
飲む。結構酔っ払う。
倉沢愛子の醜い反日活動
11月22日木曜日晴れ ×
反日活動家としての倉沢女史の面目躍如だったのは平成三年、オランダ植民地軍司令官がカリジャティで、今村均第一六軍司令官に降伏した日から五〇周年に当たる三月九日にジャカルタで開催された「日本軍制五〇周年を再考する」国際フォーラムでしょう。
これについては倉沢女史がその著書で自慢話を書いています。
以下「二十年目のインドネシア」(倉沢愛子 草思社一九九四年刊)より引用
<研究者として私が前々から心に温めていたアイディアをひそかに、このシンポジウムの開催の陰の仕掛人となって実現させたのである。日イ双方とも、いつまでも避けあっていないで、ひとつの空間に集まって、この問題を正面から学問的に取り上げる必要があると前々から痛感していた私は、今回ジャカルタに来てからまずそのアイディアを、旧知の友であった科学院のタウフィック・アブドゥラ博士やラピアン博士に話し、賛同を得ていた。そして開くからには、単に日イの研究者だけでなく、第三国の研究者も招いた国際シンポジュウムにしようということになった。
このような青写真のうえに立って、私は国際交流基金の日本文化センター所長の小宮山猛氏に、財政的に助成してもらえないかと頼んだのだった。
略)
小宮山所長には、日本占領の問題を日本側がこれまでいかに避けてきたか、そしてそれをインドネシア側がいかに不満に思っているかという現状を話し、この際、この問題を一度フランクに、しかし学問という客観性のうえにたって日イ双方が徹底的に話し合う必要があると説得した。>
<ただし、「日本占領期」という言葉を正面から出すと何かと問題が多いので、「国際的視点から見た現代セミナー」と銘打ったほうがいいと助言してくれた。
略)
結局、開会式を除いて、シンポジュウムは非公開でおこなわれること、微妙なテーマについてふれないようにするという条件付きで許可になったという。>P一六四〜一六五
<それをきっかけとしてまた、日本の残虐行為だとか労務徴発だとか慰安愚問代が、マスコミによって浮上してくることを大使館が恐れる気持ちは私にもよくわかる。しかし、一方で、日本があまりにもその問題から逃げ続けているので、インドネシア側がある種のわだかまりを感じている、というのも事実なのだ。>P一六六
<その意味でシンポジュウムは大きな成果をもたらした。事前にインドネシア科学院の研究者たちとのあいだで何度も準備会を開いて討議し、日本、インドネシアのほかに、オーストラリア、アメリカ、ブルネイから研究者を招いて三日間にわたって開催されることになった。歴史研究者たちだけでなく、芸術家やジャーナリストにも参加してもらうほか、歴史の体験者を招いて彼らになまの証言をしてもらおうということになった。そしてこれがとてもよかった。>P一六七
<私自身はジャワのある村の人たちの目を通して見た日本占領期を、自分のインタビュー記録を再現して紹介した。日本が来た事によって、とてつもなく大きな変化の渦の中に投げ出された村びとたちの庶民史である>P一六八
<これが、日本大使館の「配慮」のため、マスコミなどを通じて広くインドネシアに報道されなかったのは残念である。なぜなら、日本は戦争の歴史をおざなりにしているという批判の一端を切り崩す、よい機会になったに違いないからである。しかも、戦後補償の問題で、兵補だとか慰安婦だとかいう問題がクローズアップされている、そんなときであるからこそ、日本は歴史から逃げていないということを示すべきだったと思う。>P一六八〜一六九
このような倉沢女史などの活動の結果、わが国は一九九七年三月二六日に、売国奴橋本龍太郎(首相)がインドネシア大統領にあてた謝罪の手紙が日本大使館を通じて届けられ、それを受けてアジア女性基金の山口達男と社会省のアスモロ次官の間でMOUが調印され、このMOUに基づいて、日本政府はアジア女性基金を通じて三億八千万円を一〇年間にわたり拠出することになった。
なによりも大きいのはこのような売国奴の活動により、わが国の先人の名誉が奪われた事である。
ケイザブロウさん来店。Nさん二名様で来店。マロさん来店。Sさん二名様で来店。Tさん来店。初めてのお客様Oさん来店。
遅い時間から飲む。
倉沢愛子と売国奴つながり
11月21日曜日水曜日 晴れ ×××
倉沢女史は日本国インドネシア・ジャカルタ大使館に勤務しながら、いかに日本という国を貶めるかということに腐心していたわけです。
ところが、インドネシアの人々は倉沢女史の思う通りに反日活動をしてくれないのを歯がゆく思っていたようです。
以下「二十年目のインドネシア」(倉沢愛子 草思社一九九四年刊)より引用
<事前の広報活動のひとつとしてさらに日本政府はインドネシアのおもだったマスコミ関係者一五名を、二度に分けて日本へ招き、略)
その席上、外務省から講師として呼ばれた国学院大学の日本近代思想史の大原康男教授が、日本のインドネシア占領は侵略ではなかったという趣旨の発言をし、これがただちに東京から打電され、翌日のジャカルタのいくつかの新聞に掲載されてセンセーションを巻き起こした。
略)
いちばん言ってはいけないタブーなのだ。インドネシア民族は独力で独立を勝ち取ったと信じているし、それは事実である。
略)
ジャカルタ在住の日本人の多くがこのような日本寄りの見解を信じて、インドネシア人は日本に感謝している、などと信じているのだ。つい先頃も、わが国の大臣が二人も続けて、日本のアジア侵略に肯定的な発言をし、アジア諸国の抗議をうけてポストを失ったが、こういう考えはけっこう多くの日本人の心のホンネの部分に巣くっているようだ。
その教授の不用意な発言のおかげで、せっかくスムーズに進んでいた事前の広報活動も無意味になってしまうかと危ぶまれたが、インドネシアのマスコミはさほどこの問題に執着せず、事なきを得た>P六六〜六七
倉沢女史にとっての「せっかくスムーズに進んでいた広報活動」とはどういう広報活動か想像がつきます。
<天皇、皇后訪問の二週間ほど前に、三浦朱門氏が外務省の以来でインドネシアへやって来て、日本留学経験者の同窓会が運営するプルサダ大学で天皇制に関する講演がおこなわれた。
略)
このなかで三浦氏は、天皇には戦争責任がないことを、当時の制度や状況を説明しながら強調した。それに対してインドネシア側のパネリストからも、あるいは会場からもほとんどたいした質問や反論は出なかった。ただ一人、会場で聴講していた共同通信の特派員が食下がった。>P六五〜六六
この食下がったという共同通信の特派員とは、共産主義者であり、北朝鮮マンセー、殺人鬼小野悦男を冤罪と騒ぎたてて無罪にし、今はあの同志社大学の教授に成り上がって、少し前にセクハラで週刊誌ネタになったあの浅野建一氏ではないでしょうか。
手元にある「検証・拉致帰国者 マスコミ報道」(社会評論社刊)によると、
<私が共同通信ジャカルタ特派員だったときにも、日本軍に補助兵として雇用された兵補だったひとたちや遺族が未払い賃金と軍事郵便貯金の返還を求めていた。>P四二
ほぼ同時期にジャカルタにいたことが書かれていますし、倉沢女史のこの著書にも<共同通信の浅野記者といっしょに、ジャワの西の端にあるメラクの海岸までいってみることになった>P一六一と名前が出てきます。
つまり、ここでも朝日新聞と同じく売国奴どうしということで、仲良く協力しているだけの話です。
そして、倉沢女史がいう「何だかのわだかまり」が「何かの拍子に顕在化してくる可能性を帯びている」とは、倉沢女史らがマッチポンプになって活動していることです。
一九九〇年(平成2年)代に入って、オランダ最大の強硬団体「対日道義的債務基金」が設立され、わが国に対して個人的補償を求め裁判を起こしました。平成六年からは毎月一回、日本大使館にデモをかけています。これと、ほぼ同じ頃(一九九一年)よりソウルで朝鮮人戦時売春婦が同じ事やっています。
同じように一九九〇年代からインドネシアでは兵補や慰安婦が補償を求めて運動が騒ぎ出しました。これらは偶然ではありません。
インドネシアにおいては倉沢愛子女史は大活躍しています。
<私は事あるごとに新聞記者に話してきたが、長い間どこの記者も取りあげようとはしなかった。たまたま数年前に朝日新聞大阪本社の緒方謙記者が関心を示し、彼自身インドネシアへ渡って取材したのち、終戦記念日の特集記事で取り上げてくれた。
これが、戦後補償のもろもろの問題と取り組んでいる市民グループの目にとまって、ちょうど天皇、皇后がインドネシアを訪問した年の夏、東京で開かれた「戦後補償を考えるフォーラム」に、各国の代表にまじってインドネシアから兵補の人たちを招きたいという申し出があったのだった。この段階で兵補を支援する会が一部の日本人有志によってつくられた>P六九
ここに書かれている「朝日新聞大阪本社の緒方謙記者が関心を示し、彼自身インドネシアへ渡って取材したのち、終戦記念日の特集記事で取り上げてくれた。」というのは、倉沢女史自身があっちこっちの新聞記者に話して火をつけたその成果だったわけです。
それが、同じ倉沢女史の調査による<インドネシアにおける慰安婦調査報告>http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/531.htmlでは、「慰安婦問題に関するマスコミ報道の始まり」として下記のように書かれています。
以下引用
<その当時たまたまジャカルタに長期滞在していた筆者の記憶では、この問題が大きくインドネシアのマスコミを賑わせるようになったのは1992年7月以降のことだった。1992年7月6日付けの全国紙「コンパス」が、「読売新聞」の記事を紹介し「日本軍が第2次大戦中、アジア諸国の女性を慰安婦として募集するにあたって、軍が関与していたという事実を証明する文書127点が発見された」と伝えた。
略)
さらに「コンパス」紙は、日本大使館情報文化担当畠書記官の談として、インドネシアの従軍慰安婦に関する4つの資料が発見されたと述べている。>
つまり、この「インドネシアにおける慰安婦調査報告」では倉沢女史は日本インドネシア大使館に「特定の研究テーマ(日本占領期のインドネシア史を専門)」委嘱されて調査業務を担当していた専門調査員としての勤務と書かずに、「たまたまジャカルタに長期滞在していた」と書いているのです。そして、「日本大使館情報文化担当畠書記官の談として、インドネシアの従軍慰安婦に関する4つの資料が発見された」という書き方をしているのです。
普通でしたら、その畠書記官への情報は専門調査員よりのものである可能性は非常に高くなるわけです。倉沢女史のこのような書き方に意図的なものを感じるのが普通だと思います。
そして、朝日新聞とも連携をとっているのです。売国奴繋がりなのでしょう。
<その行動には政治的背景は何もない>P六九と女史が書くインドネシアの兵補協会については、「インドネシアにおける慰安婦調査報告」で「同じく高木健一弁護士が、この協会の本部を訪れた時、「慰安婦の実態調査をしてみたらどうですか」と持ちかけたのがきっかけだという。そして、兵補協会の全国支部のネットワークを利用して1995年8月に登録受付が開始された。」となっています。
ここでも同じ売国奴の高木建一氏と繋がってきます。
午後よりスポーツセンターに行く。今日から来年の一月いっぱいくらいまでスロートレーニングをやることにする。
帰りに乗った地下鉄で、本を読んでいたら、途中からぷ〜んと食い物の臭い。早稲田から乗ってきて隣の席に座った若い女性がブタマンをむしゃむしゃと食っていました。ブタがブタ(マン)を食っていたわけです。写真を撮れなくて残念。
ヒマ〜と思っていたら、初めてのお客様二名様来店。Nさん、Mさん、Oさん三名様で来店。二名様来店。早い時間からドンチャン。そのまま、中野の「石松」さんでマルガリータさんとドンチャン。
倉沢愛子の醜い反日活動
11月20日曜日火曜日くもり △
倉沢愛子女史は他のその手の人間と同じく、自分のイデオロギーのためだとウソをついて人を騙すのも何も思わない人間です。
それについては今までも指摘してきましたが、倉沢女史の著書には女史の反日活動について書かれています。(本人はそうは思っていないでしょうが)
まず、倉沢女史は一九九一年五月から一九九三年までインドネシア大使館にて専門調査員として勤務している時に、天皇、皇后両陛下のインドネシア行幸があった。
この時に倉沢女史は参考資料をまとめることについて下記のように書いています。
以下引用
<私に課せられたのは、日本とインドネシアの関係を歴史的にまとめる仕事。実は、このなかには第二次大戦中の日本軍の占領という、実に扱いの難しい、評価の定まらない歴史の重大な一局面が含まれている。ちょうど、朝鮮半島と東南アジアの各地で、慰安婦問題などが浮上し、日本政府に戦後補償を要求する声が高まりつつあるときでもあった。
天皇が訪問するとなると、どのアジアの国々でも必ずといっていいほど、戦争責任の問題が出てくる。昭和天皇自身ではないから多少反応は小さいとはいえ、アジアの人たちは明仁天皇も基本的には同じ目で見ている。
略)
しかし、同時にこれは私の腕のふるいどころでもあった。これまで二〇年間にわたって、日本軍のインドネシア占領の歴史一筋に取り組んできた私にとって、その成果を多少なりとも世間のお役にたてることができるということは、研究者冥利につきる。しかも、これまで、日本軍の占領の歴史は日本の社会に正しく伝わっていない、というのが私の持論であったから、これは真実を伝えるよいチャンスでもあった>
「二十年目のインドネシア」(倉沢愛子 草思社一九九四年刊)P六〇〜六一
つまり、御進講資料を倉沢女史は自身のイデオロギーに基づいて書いているのです。それは下記の文章でも明らかです。
<「御進講」資料のなかで私は、インドネシアにおける占領政策は、たとえフィリピンやシンガポールなどにくらべれば、住民に与えた被害は相対的に小さなものだったかもしれないが、しかし絶対的にさまざまな被害を住民に与えていること、現在の日本との関係を考慮して、インドネシア人は露骨に批判することはないにしても、多くの人が過去においては何だかのわだかまりをもっていたことは事実であり、それが、いままでも何かの拍子に顕在化してくる可能性を帯びていることを強調した。戦争の思い出は、ここではそう甘くないのである。>P六一
<兵補の記者会見の様子は、翌日多くの新聞が取り上げ、略)私は、早朝の報道担当官室で、現地新聞の要約という任務を遂行していた。
略)
私は天皇に兵補問題の存在を知らせるよい機会とばかり、興奮しながらできるだけ詳しく伝達した>P六八
<天皇が、スハルト大統領主催のレセプションで、いわゆる「おことば」を述べるとき、はたして戦争の問題にふれるだろうか、ということが大きな関心事になっていた。結局、インドネシアの前に訪問したタイやマレーシアでの表現とまったく同じで、「日本は先の誠に不幸な戦争の惨禍をふたたび繰り返す事のないよう平和国家として生きる事を決意・・・」と述べるにとどまった。
略)
もし自分ならこう答えるという、次のような想定回答を心のなかで考えていた。「不幸な戦争の惨禍があたかもどこから降ってわいたような言い方をしていますが、これはやはりアジア諸国の人々にとっては不満でしょう。それに対する責任は日本にあることを明言したほうがよかったと思います。結局こんなふうにいつまでも逃げているから、アジア諸国のほうでもいつまでも忘れてはくれないのです」>P七二
倉沢女史の歪んだ精神というものが、この女史の著書によく現れています。
この項続く
漫画家のK先生がさばくところを見たいということで、一吉の社長にお願いしてあった活けアンコウは今日は二・四キロのもの。三時頃から実演????その後、K先生、Mさんとアンコウ鍋。
でっ、普通に営業が始まって、Sくん御夫妻来店。アンコウ鍋。初めて野お客様Hさん二名様で来店。
三日ぶりに飲む。酔鯨の1BY、2BY、13BYの状態がまた変わっていた。三日めに飲んだ時よりもいい状態。
元駐日中国大使館員に死刑 日本へ機密漏洩の疑い
11月19日月曜日晴れ ○
先日、中国国際友好連絡会(友連会=会長、黄華元外相)の王慶前・常務理事が、日本人に軍事情報を漏洩した罪で、猶予二年付きの死刑判決を受けたというニュースがありました。
この死刑判決の理由は、昨年夏ごろ、軍事資料をある日本人に渡し、その一部が公表されたことが摘発の端緒になったという。
支那では昨年、前駐韓大使が機密漏洩容疑で更迭され、今年九月には新華社通信の前外事局長が同じく隔離審査になるなどしています。
友連会とは支那軍系列の対外民間交流団体として八四年に設立されたもので、日本船舶振興会(現日本財団)の故笹川良一会長が、トウ小平、王震両氏と意気投合し、一〇〇億円の笹川平和基金を提供して政治的後ろ盾と資金力が備わった対日交流の中心団体です。
しかし近年、対日交流をビジネス化し利権をあさる傾向に疑問を持った日本財団(笹川陽平会長)は今年三月、友連会との関係を解消したそうです。
こんな事件は支那がわが国への仕掛けたという事実が判明しているだけでも数多くありますが、わが国にはスパイ防止法がないために他国では考えられないほどの微罪でしかなりません。ですから、わが国はスパイ天国といわれています。
わが国には支那の公館として、東京に大使館、総領事館が札幌、名古屋、大阪、福岡、長崎にあります。
その中でダントツに大きい東京支那大使館ですが、駐日大使は外交部副部長クラスといわれています。推定二〇〇人いるといわれる支那駐日大使館員は全員が「日本専門家」ともいえる存在で、併設されている領事部の窓口業務の数人以外は運転手から調理人まですべて支那人のみです。領事部と本館とはつながってはいるものの、全く別の建物になっているので、原則として支那人以外は本館には自由に出入りできない。
大使館員の中には当然支那の対外情報機関である「国家安全部」の人間も派遣されてきています。
しかし、その大使館内の国家安全部人間が直接スパイ活動をおこなうよりも基本的なやり方は、長期間にわたり工作対象と良好な関係を結び、無意識の協力者をつくったり、留学生、企業に就職させたりして企業の機密を盗むなどの事が多いようです。そして、個別に収集した情報を統括する人間が各国大使館や領事館にいることは、自らが在オーストラリア・シドニー支那総領事館の一等書記官中に、平成一七年五月に妻子とともにオーストラリアに政治亡命を求めた陳用林氏が発言しています。(SAPIO 平成一八年三月二二日号P一〇)
陳用林氏は同じページで「オーストラリアに支那人スパイが一〇〇〇人以上いる、米国にはさらに多くのスパイがいる」と、米国の公聴会で述べていますが、SAPIの記事ではわが国には「オーストラリアより多くいるはずだ。これは法輪功のような反政府分子を弾圧する目的というより、日本の技術を盗むためだと言っていい。アメリカから盗んでいるのは、核やミサイルの技術だが、日本の場合は(軍事転用が可能かどうかにかかわらず)最先端技術に関する情報だ。
日本企業に就職している中国人技術者は、入社当初はスパイでなくとも、途中でリクルートされて、エージェントになるケースが多い。研究者をスパイとして使う理由は、彼らが中国に必要な技術が何か見極める能力を持っているからだ。さらに日本には(国家安全部が作った)多くのダミー会社があることは間違いない」と述べています。
これについては、わが国は他国より支那工作員にとっては活動しやすい国でしょう。スパイ防止法が無いだけでなく、支那への忠誠を誓うような国を売るのを生き甲斐としている河野洋平、山崎拓、加藤紘一などの政治家、旧社会党(現民社党)などの政党、創価学会まで事欠きません。
企業に潜り込ませて情報を盗ませるというやり方は大手自動車部品メーカー、デンソーの製品設計図のデータが入ったパソコンが持ち出され、コピーされた可能性があり、そのパソコンのハードディスクが御丁寧にも壊されていたという事件がありました。この四一歳の支那人の社員は処分保留で釈放されていますが、過去に中国軍需産業管理機関傘下企業在籍していたことが判明しています。
日本人を協力者に仕立て情報収集をするという支那の典型的手口として事件になったのが、旧防衛庁元技官の情報持ち出し事件。この元技官がコピーを持ち出した潜水艦の高張力鋼は、薄くて軽量だが、圧縮にも引っ張りにも強い世界最高レベルの鋼材で、支那としてはのどから手が出るほど欲しい技術だそうな。
その元技官にからみ、元貿易会社社長も絡んでいた事がわかっています。どちらも支那では間違いなく死刑判決でしょう。
スパイ防止法のないわが国の歪な現状です。
参考 「SAPIO 」平成一八年三月二二日号 小学館
「軍事研究 ワールド・インテリジェンスVOL3 北朝鮮&中国の対日工作」ジャパン・ミリタリー・レビュー
「別冊宝島 中国の黒いワナ」宝島社
今日は何処にも出かけることなく、朝から風呂に入ったり、一日中部屋でゴロゴロして終わる。
11月18日日曜日晴れ ○
店を片付けてからスポーツセンターへいく。今日は時間もあるので、三時間近くいて、最後のバイク(二〇分)までの一通りのメニューを消化。最近、少し背中のメニューを変えてやるようにしてから、翌日の背中の張りがきつい。
新宿で買い物を済ませてから帰宅。
今日は酒は飲まず。
靖國神社へ
11月17日土曜日晴れ ○
今日は用があったので、九段下に行ったついでに靖國神社へ参拝して帰る。
途中、映画「南京の真実」(南京攻略の時に、支那人を日本帝国陸軍が虐殺したなどというプロバガンダについての真実を伝える映画)のビラが配っている方々がいらっしゃった。
当店のお客様も製作委員会に支援されている方もいらっしゃる。
映画「南京の真実」製作委員会
私も、自分なりにできる事をと思っています。
「磯自慢の中取り35%の十年の垂直」について、寺岡社長と電話で話をしていて、ホロン部員Yさんのフィンランドからの四八時間滞在での参加について話をすると驚くとともに大喜び。
おかげさまで参加人数が一四名様(+寺岡社長、醴泉の山田社長)となりましたので、
出品酒は下記のようにさせていただきます。
磯自慢35%一四本(四合瓶)
磯自慢40%四本(四合瓶)
磯自慢大吟醸一本(一升瓶)
磯自慢純米吟醸 多田信男一本(一升瓶)
醸造年度は下記のようになります。
出品予定酒
NO | 醸造年度 | 種類 | 精米歩合 | 出品本数 |
NO.1 | 9BY | 純米大吟醸 | 35% | 1本 |
NO.2 | 10BY | 純米大吟醸 | 35% | 1本 |
NO.3 | 11BY | 純米大吟醸 | 35% | 1本 |
NO.4 | 12BY | 純米大吟醸 | 35% | 2本 |
NO.5 | 13BY | 純米大吟醸 | 35% | 1本 |
NO.6 | 14BY | 純米大吟醸 | 35% | 1本 |
NO.7 | 15BY | 純米大吟醸 | 35% | 1本 |
NO.8 | 16BY | 純米大吟醸 | 35% | 2本 |
NO.9 | 17BY | 純米大吟醸 | 35% | 2本 |
NO.10 | 18BY | 純米大吟醸 | 35% | 2本 |
? | ? | ? | ? | ? |
NO.11 | 18BY | 純米大吟醸 山田錦 | 40% | 2本 |
NO.12 | 18BY | 純米大吟醸 愛山 | 40% | 2本 |
NO.13 | 18BY | 大吟醸 | 45% | 1本(1800ml) |
NO.14 | 18BY | 純米吟醸 多田信男 | 50% | 1本(1800ml) |
産経抄にみる「素材にこだわる名店」とは
11月16日金曜日晴れ △
本日の産経新聞の第一面に掲載されている「産経抄」と題するコラムはこの新聞の顔の一つと思います。
その「産経抄」に素材にこだわる名店として下記のような事が書かれていました。
以下引用
20年ほどまえから、たまに顔を出す居酒屋がある。今でこそ素材にこだわる名店として、雑誌やテレビで紹介されるようになったが、開店してしばらくは、閑古鳥が鳴いていた。ある日のこと、魚市場で見事な太刀魚を仕入れたのに、やっぱり誰も来ない。
翌日訪れた常連客が、ゴミ箱に突っ込んである銀色に輝く魚を見つけた。焼いたらおいしそうだ。「食べたい」「刺し身で食べさせるつもりだったのだからいやだ」。頑固な主人とのすったもんだは、今も常連客の間で語られる物語のひとつだ。
引用終わり
私のいなかの淡路島でも太刀魚はよく釣れていたので、極々普通の魚でした。このコラムを書いた産経新聞の方は、「刺身で食べさせるつもりで仕入れた」魚を客が来なかったから捨てた。それが頑固なこだわりだと誉めています。
この産経新聞の人間は救いようのないアホとしか言い様がありません。普通は、仕入れたものがなんであれ、その仕入れたものを無駄にしないようにそれなりに工夫するものです。時間の経過により、刺身で食べられないものは、焼いたり、煮たり、揚げたりといろいろな調理をして、無駄なく使うのが普通だろうと思います。ましてや太刀魚は刺身だけでなく、塩焼きでも、揚げても美味しく食べられます。もちろん、刺身で食べられるものだから焼いてはもったいないということもありません。刺身で食べられるような新鮮な素材を焼いても、調理法法の違いだけであり、美味しく食べられる事が大切なはずです。それを客に出さずに捨てるとはアホな店主ですし、それを「素材にこだわる名店」と誉めるのはもっとアホです。
まあ、仕入れた翌日に客の目につくように「わざわざ」ゴミ箱に太刀魚を突っ込んであったという不自然さを不自然と思わずに、そのアホな店主のポーズに乗っかってしまったアホな人間というだけかもしれません。
ただ、この書いてある事が事実だったらという前提ですが。というのは、この書いてある内容があまりにも不自然です。
客がどうしてゴミ箱に捨ててある太刀魚を見つける事ができたのでしょう。どなたか、居酒屋に飲みにいって、厨房(あるいはカウンターの中にある)のゴミ箱の中を御覧になった方はいらっしゃいますでしょうか。普通は何処の飲み屋でも、厨房のゴミ箱はお客様の目につかない位置に置きます。カウンターだけの店で、対面形式の所も同じです。そして、ゴミ箱には臭いがしないように、虫などがたからないようになどという理由で、普通は蓋がついています。確かに、大きな店、忙しい店などは一杯になったゴミを営業終了後、毎日ある一定の場所に移しますので、蓋は開けっ放しで営業しますし、ヒマな店でも仕込み中などは蓋を開けっ放しというのもあるかもしれませんが、毎日ゴミ箱のゴミがいっぱいにならない店は、すぐに生ゴミの臭いがしますので、普通は営業中蓋は閉めておきます。そのようなゴミ箱に「わざわざ」客の目につくように太刀魚が突っ込んであったてのはいかにも不自然過ぎます。もしそうであれば、その店主の意図的なものを感じます。わざとでなければ、その店は太刀魚がはみだす程小さなゴミ箱を使っていたという事でしょうか。
何にしても、先に書きましたように、単なる素材を無駄にするような店主の客に対してのわざとらしいアホな行動でしかないのに「素材にこだわる名店」と書く人間のアホウさに驚きました。こんな程度の人間が、この新聞社の顔だとは呆れ返ります。
金曜日だというのにヒマ〜と思っていたら、Sさん四名様で来店。理科大ラグビー部のOB御一行一二名様来店。Yさん来店で、満席。
ドンチャン。記憶はあり。
農業政策
11月15日木曜日晴れ ×
<農業政策「農家に優しい党」 自民、民主競い合う>という毎日新聞の記事がありましたが、内容は「これまで公共事業にばかりカネが行っていた。今度は農家に支払えばいいんだ」「コメ緊急対策で備蓄米の積み増しを政府に認めさせた」「品目横断対策の要件に満たない規模の農家でも市町村など地域の判断で支払い対象とする」「コメの生産調整に参加しやすくするため飼料米生産を支援する」など補正予算では一〇〇〇億円超の事業費を目指す。とありました。
こんなバラマキ行政による小手先のことよりも、もっと大切な事があるように思うのですが。
久しぶりにスポーツセンターに行く。バタバタと一通りのメニューを消化。
Sくん来店。Wさん、Iさん二名様で来店。Sさん二名様で来店。
早い時間から飲む。営業終了後、「エムズバー」さんに伺う。久しぶりに好きなテキーラのひとつである「ドン・フィリオ」(Don
julio)を飲む。
人権侵害
11月14日水曜日晴れ ○
死刑が確定した麻原彰晃について、日弁連が「重い精神障害があるのに治療を受ける機会を奪い、基本的人権を侵害した」として、収容先の東京拘置所に医療刑務所での治療などを行うよう勧告したとかいうニュースがありましたが、テロリストというか気狂い宗教の親玉よりも、その気狂いどものために被害にあった方々の人権はどうなのでしょう。
これは控訴審弁護団が人権救済を申し立てたそうですが、この弁護団は引き延ばし戦術とか、いろいろアホな事をやってきています。今回もそのアホな戦術の一つなのでしょうか。
こんなくだらん事に国費を使わずに、さっさと市中引き回しのうえで死刑にして欲しいものです。
昨日、二時間ほどで定員になった磯自慢の会について、夕方に下記のようなメールがあり。
…まだ空いてます?
店主)ええっ、マジですか????
でっ、参加決定。
ですが、出発地 フィランドのヘルシンキ・・・・
ヘルシンキ水曜日出発ロンドン経由
土曜日成田発
日本滞在四八時間・・・・・・・
サッカーのW杯とかで弾丸ツアーってよく聞きますが、当店の飲んべえの会で弾丸ツアー・・・・
今回も静岡から二名様(別々の方)とかありますが、さすがにこれは最長不倒距離ではないでしょうか。
ホロン部員Yさん待ってます。
でっ肝心の営業の方は、今年三回目のおちゃッピーでした。さっさと寝る。
沖縄戦虚構の「軍命令・強制」集団自決
11月13日火曜日晴れ ×
河岸から帰ってきて、仕込みを済ませた後に飲んべえの会「磯自慢中取り35%の一〇年の垂直」のメールを出す。当店の飲んべえの会ではロマネコンティの会と同じになる最高金額。
でも、メールを出したのが午後一時五五分、おかげさまで定員になったのが、午後三時四〇分の静岡のKさんからのメール。二時間弱・・・・・
ありがとうございました。
開店準備をバタバタと済ませて、電話の応答メッセージを入れ、入り口にはり紙を張って六時二五分頃に急いで店を出る。内容は「本日の開店は八時からです」
行き先は、近くの牛込箪笥区民ホール。今日、ここで、「―沖縄戦「集団自決」検定―虚構の「軍命令・強制」説の復活を許さない! 国民決起集会」が開かれるとHIROKOさんがメールで知らせてくれたのです。
途中、前を早足で進む大柄な若い方。思わず「箪笥区民ホールに行くのですか」と声をかけそうになった。でっ、やっぱり、同じ会場でした。
会場に着くと、ちょうど君が代が斉唱され始めているところ。その後、沖縄戦で散華された方々に対して黙とう。
会場は八割程度埋まっていましたが、後で入ってこられる方もいて、ほぼ埋まっていたように思います。
渡部昇一氏の講演を聞き終わったところで帰ってきましたが、途中、ちょっと顔をだしただけで帰る国会議員連中のために、他の方の講演時間が削られるのはどうかと思う。
HIROKOさんが酉の市で買ったという熊手をわざわざ持ってきてくださって来店。二名様来店。Iさん来店。
早い時間からドンチャン。ただ、日曜日に残った酔鯨の「1BY大吟醸 斗瓶取り 生」、「2BY純毎大吟醸 斗瓶取り 生」の変わり様にびっくりというかがっかり。もう少し置いておくつもりですので、今後の変化はわかりませんが、やはり、生は難しい。
エノラ・ゲイ(原爆投下にみるアメリカ人の感覚)
11月12日月曜日晴れ ○
エノラ・ゲイの航空日誌が四一〇〇万円で落札というニュースがありました。
以下引用
エノラ・ゲイ航空日誌、4100万円で落札=原爆投下の時間記述?米
(時事通信)
【ニューヨーク29日時事】1945年8月に広島へ原爆を投下した米B29爆撃機「エノラ・ゲイ」の航空日誌がこのほど、テキサス州ダラスの競売商ヘリテージ・オークション・ギャラリーズで競売に掛けられ、35万8500ドル(約4100万円)で落札された。同社が29日、明らかにした。
この航空日誌は、エノラ・ゲイの搭乗員だったセオドア・バン・カーク氏が記述。一番左に通過地点が地名や経緯度で、次いで通過時間が同機の出撃したテニアン島の現地時間で記されている。
「Bomb Away」(爆弾投下)の欄には、原爆投下の時間を示す「0915 15」(日本時間午前8時15分15秒)と鉛筆で書かれている。右の余白には10時52分(同9時52分)に「Cloud Gone」との記述もあり、帰還中の同機からは1時間半以上にわたって原爆のきのこ雲が見えていたことが分かる。
[時事通信社]
[ハ2007年10月30日9時22分?]
どうして、このようなものに四〇〇〇万円以上もの値段がつくのか。そのわけは、日本に落とした原爆をアメリカ人がどのように考えているか。それにより答は導かれます。
広島に原爆を落としたボーイングBー29・エノラ・ゲイ号は、現在、スミソニアン航空宇宙博物館に展示されている。スミソニアン博物館の設立趣旨は「我国(アメリカ)の航空及び宇宙飛行の発展を永く記憶にとどめ、歴史的に興味深く意味のある航空及び宇宙飛行機器を展示し、その歴史を研究するための歴史的資料を提供する」となっている。(この博物館の設立を提唱したアリゾナ州選出上院議員バリー・ゴールドウォーターの議会公聴会での言葉)
この趣旨に沿って、ライト兄弟の「ライト・フライヤー号」、リンドバーグの「スピリット・オブ・セントルイス号」、アポロ十一号などが展示されている。
つまり、エノラ・ゲイは歴史的に意味のある記念すべき飛行機であるとしているのです。
それについて、高山政之氏の著書「情報鎖国・日本 新聞の犯罪」によると、一九九九年の暮れに、同じアメリカのUSA・TODAY紙がバックアップするメディア博物館「Newseum(ニュージアム)」が「二〇世紀に起こった百大ニュース」という全米のジャーナリスト、シンクタンク研究者、大学の政治、近代史関係教授などの専門家を対象に行なわれたアンケート結果で、第一に「広島、長崎への原爆投下」となっています。それにより日本が降伏したからだそうですが、これがアメリカ人の考え方です。
ちなみに第二位は「アームストロング人類初めて月面に立つ」、第三位「日本、パールハーバーを奇襲」です。
高山氏がネバダ州にあるエネルギー省の核実験サイトを訪れた時、アメリカ政府核実験リストを見る機会があり、それには一九九四年現在までのアメリカが行なった七二四回に及ぶ核実験が、日付け順に記載されていたそうで、下記のようになっていたそうです。
第一回、実験地 ニューメキシコ州アラモゴルド、核爆弾の種類 プルトニュウム型、実験タイプ 塔の上に固定。
第二回、実験地 ヒロシマ、核爆弾の種類 ウラン型、実験タイプ 空中投下、規模一・五トン、状況 戦時下。
第三回、実験地 ナガサキ、核爆弾の種類 プルトニュウム型、実験タイプ 空中投下。
アメリカにとっての広島、長崎への原爆投下は「人体実験」であり、無差別殺戮だったということをアメリカ政府が自ら認めているわけです。
手元の他の本には下記のような記述もあります。
<標的選定委員会は最初の選択として、京都、広島、横浜の各都市および小倉市内の軍需工場一ケ所を核攻撃することを勧告した。アーノルド将軍は北九州北部に位置する小倉をとくに支持した。というのは、小倉と本州はトンネルで結ばれているので、トンネルが水没するのかどうか、どの程度激しく漏水するのか、および原爆のなんらかの効果が北側の入口に伝わるかどうかといったトンネルに対する原爆効果を、アーノルドは見たかったのである>
「アメリカの日本空襲にモラルはあったか」(ロナルド・シェイファー著 深田民生訳 草思社 一九九六年刊)P二〇二
、<兵器技術に対する陸軍航空軍の血迷った関心は、炸裂効果を見極める関門トンネルに原爆の爆風を送り込みたいという期待によく表されているように、人道的犠牲は実験の持つ軍事的価値にまさるかどうか、あるいはそもそもそれと比較評価できるものかどうかといった核兵器が提起する道義的問題に無関心を示唆していた。
略)
戦中戦後の陸軍航空軍の指導者たちの行為や声明を検討してみると、彼らは本当のところ、自分たちの行為の道義的次元を認識しており、日本国民に対しておこなったことについてさまざまな正当化を図っていたことがわかるのである。>
同P二一一〜二一二
こういう事実は、アメリカ人がよくいう「大東亜戦争を終わらせるために原爆を投下した」という言葉がいかに虚しい言葉であり、ウソであるかをよく現しています。
今日は午後から古本屋さんに行った以外は部屋に居た。
酔鯨の飲んべえの会
11月11日日曜日雨 ×
本日は夕方より酔鯨酒造の石元茂治取締役工場長にも参加いただき、久しぶりに酔鯨の飲んべえの会を開催。
出品酒
NO 醸造年度
NO.1 1BY 大吟醸 金賞受賞酒 生 30%
NO.2 2BY 純米大吟醸 斗瓶取り生 30%
NO.3 13BY 純米大吟醸 斗瓶取り 生 30%
NO.4 17BY 純米大吟醸 斗瓶取り 生30%
NO.5 18BY 純米吟醸 松山三井 新酵母
NO.618BY 山内家ゆかりの酒 復刻酒(75%精米)
NO.7 18BY 純米吟醸 生うすにごり(45%精米)
NO.8 18BY 中取り純米 生 (55%精米)
まず、H1BYの大吟醸金賞受賞酒で乾杯。少しヒネ香はあるがバランスはすばらしく、みなさん絶賛。
同じく、私が一〇年前に飲んだ時には、バランスが崩れていたH2BYの純米大吟醸もすばらしいバランスで一番人気でした。
生酒を当店の冷蔵庫での長期貯蔵だったので、心配でしたが今回はすべて楽しく飲めました。
3億1078万円
11月10日土曜日雨 ×
国会議員に一人当たり経費三億円以上もかかっているというニュースがありましたが、あの河野洋平、加藤紘一、福島みずほ女史などの売国奴にもこんなに金がかかっている・・・・・
香港からHIME来店。グラシアンに行って来そうな。マルガリータさんとハタ鍋でドンチャン。金ちゃん、マロさん来店。塾長来店。
営業終了後、高円寺のイタリアンにお酒を持ち込みさせていただき、Sさん、HIME、マルガリータさんとドンチャン。
外国人犯罪
11月9日金曜日曇りのち雨 ×××
国内最大の女子刑務所の受刑者の二十五%が、支那人を筆頭とする外国人であるというニュースがありましたが、我が国の刑務所は、更生施設であり、出所後は社会人として自立してもらうための施設として設けられています。
そのために、待遇は良く、様々な職業訓練も受けられます。虫歯まで無料で治療してくれます。健康診断もあります。刑務所で働いた分は賃金も払われます。
日本人に対してはそれでいいのでしょうが、受刑後は、国外追放の外国人に対して、刑務所の中で教育しても我が国に何ら貢献しません。
支那の刑務所の醜い環境が報道されている支那人などからみたら、三食、健康診断から虫歯までも治療してくれ、金までくれる日本の刑務所はまさに天国でしょう。
そんな外国人と日本人と同じ受刑環境であるということがおかしいのです。
在日朝鮮人は現実問題として、殺人を犯しても国外追放されませんが、一九九六年に追放令を強化したアメリカでは、この
一〇年間に九〇〇人以上の合法移民朝鮮人が刑期満了後に国外追放されています。
その内容は単純窃盗が六四・四%、暴力犯罪が二十・九%、麻薬使用などその他一四・七%だそうです。
KBSニュース
http://news.kbs.co.kr/article/world/200707/20070721/1394556.html
単純窃盗、暴力犯罪、麻薬使用で国外追放。
我が国でもぜひ取り入れて欲しいものです。
香港からMIKAさん来店。AIさん、マルガリータさん、Sさんとアンコウ鍋でドンチャン。Oさん来店。バンブーさん来店。二名様来店。Yさん六名様で来店。
今日、呼んだコンドルタクシーの運転手の「一一八番の小倉」という運転手は、MIKAさんが泊まっている東京ミッドタウンにあるリッツ・カールトンも知らず、酷い運転だったそうな。
タクシー運転手であれば最低限有名ホテルぐらいは覚えておくべきだろう。コンドルタクシーは以前も二台呼んで、一台しかこかった事が二回続いたりしている会社。
ドンチャン。記憶あやふや。
金大中に一〇〇〇万円
11月8日木曜日晴れ
今日発売の週刊新潮に、金大中前大統領の立命館大学のたった一時間の講演に一〇〇〇万円の講演料が支払われたという記事が掲載されています。
その講演料とともに驚くのが「朝鮮半島の平和と韓日関係」と題されたその講演内容です。
「最近の日本の急激な右傾化がわれわれの気持ちを暗くさせている。
憲法改正論や歴史教科書の改悪など、右傾化傾向の根本的な原因は、なによりも過去の帝国主義時代の歴史に対する教育が不足しているため」
「日本が過去に戻ることはできないという歴史認識と、改悛(かいしゅん)の態度を見せるとき、日本を安心して信じ、友人として付き合えるようになる」
その上で、 歴史をしっかりと知らずにいるために反省することができず、反省をしないから謝罪や補償を行う考えが出てこないと指摘し、日本の歴史歪曲(わいきょく)と右傾化を周辺国が大きく懸念、警戒していると述べた。
「われわれが望むことは、過去を大きく反省し歴史教育を徹底しているドイツから日本は学ぶべきだということだ」と強調した。
日本で福田新政権が発足したことについては、福田内閣が隣国に対し誠実に配慮しようとする姿を見て大きな期待を持って注視していると述べた。
<連合ニュース >
http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2007/10/30/0200000000AJP20071030002800882.HTML
このようなアホな内容のたった一時間の講演(実際の講演は三十分、あとは質疑応答)に一〇〇〇万円もの講演料を集めたのは、金大中シンパで
「日本だけが世界的に見て異常だということだ。我々は普遍的な考え(南京大虐殺、植民地支配)を受け入れられない日本を正常化しなければならない」と主張しているあの徐勝教授だそうです。
こんな在日朝鮮人が教授ができる日本の大学。
あほらし
酔狂師さん三名様で来店。アンコウ鍋でドンチャン。Hさん来店。一名様来店。大台さん来店。三名様来店。
ドンチャン。
最後のアボリジニ
11月7日水曜日晴れ ○
タスマニア島では三万七〇〇〇人(*1)いたとされるタスマニア・アボリジニですが、一八四七年、フリーダース島の収容所で生き残ったたった四七人のタスマニア島に送り返された。
その時の状況について「オーストラリア歴史の旅」に下記のように書かれている。
以下引用
この移動の主な理由は、フリンダース島の施設は経費がかかりすぎるという点にあった。彼らの行き先は、健康上有害という理由で放棄された衆人収容所であった。
ここでは、アボリジニはより大きな自由と少しは栄養のある食事を一時的に与えられたが、マラリアなどの伝染病によって一八五四年までに彼らの数は一七人となる。一八五五年に自治政府がタスマニアに成立した後は、食事が減らされ、収容所は廃虚のような有り様を呈する。慈悲深い人道主義者たちの来訪も途絶えがちとなり、タスマニア政府は、彼らの滅亡を願って、最小限の支出さえも惜しむようになった。こうして、一八六八年にはついに三人のアボリジニが残るのみとなった。
「オーストラリア歴史の旅」藤川隆男著 朝日新聞社 p六〇
そして、一八六七年五月八日に最後の純血タスマニア・アボリジニであったトルゥガニニが死に、その血は絶えた。
一八一二年に生まれたトルゥガニニの母はアザラシ捕りの一団に刺し殺され、妹は同じくアザラシ捕りに誘拐され、のちに射殺されている。また彼女の婚約者は、彼女が木こりたちに誘拐されるのを防ごうとして溺れ死んだ。
彼女は亡くなる時にその故郷に埋葬される事を望んだが、彼女の遺体はホーバート病院に移され、植民地首相の命令で、五月一一日に葬儀が行なわれて遺体は教会の前に手厚く葬られたが、イギリス人がその墓をあばき、三つのグループにより盗み出される事になる。最初のグループが頭部を盗み出し、次のグループがばらばらに切断された四肢と胴体を盗み出した。 最後のグループはわずかな肉片しか残ってなかった。彼女の遺骨は考古学上の珍品として高い値がついたそうであるが、一八七八年、タスマニア王立協会の博物館がその遺骨を入手し、一九〇四年から一九四七年までその博物館で一般に公開された。タスマニアン王立協会のストックウェル博士にいたってはトルゥガニニの皮膚で煙草入れを作成し愛用していたという。
やっとタスマニアのアボリジニの要求で政府が彼女の遺骨を火葬にすることを同意したのは一九七四年になってからです。
このタスマニア・アボリジニに対してのイギリス人の接し方は、大東亜戦争における我国の捕虜収容所における収容者に対しての扱いと共通するところが多々あります。
そして、アボリジニの人権が認められたのは大東亜戦争後、一九六〇年代になってからです。
*1
タスマニア・アボリジニの人口については私の手元にある本でも下記のように分かれます。
「一八一八年までに、アボリジニの人口は推定四〇〇〇人から約二〇〇〇人に半減し」・・・・「オーストラリア歴史の旅」藤川隆男著 朝日新聞社 p五一
三七〇〇〇人・・・・「侵略の世界史」清水馨八郎著祥伝社p一四四
十数万・・・・・・・「情報鎖国・日本 新聞の犯罪」高山正之著 廣済堂)p一七三より
午後よりスポーツセンターへ行くが、まだ酒が残ったまま。「キノさん、帰った方がいいよ」「目がまだ充血しているよ」とみなさんから言われる。
調子は最悪ながら、セット数を少なくしてメニューを消化。
トレーナーの久保さんから探していたトレーニング用グローブなどが掲載されているカタログをいただく。
下の写真は当店のすぐ隣の場所に、大家さん(の息子さん)が植えている多くの花を咲かせているトランペットという樹だそうです。しかし、植えられているのは地植えではなく鉢ということに驚かれる人が多いです。
メチャヒマ。大阪からTさん来店。のみ。
飲まずに寝る。
タスマニア・アボリジニの悲劇
11月6日火曜日雨のちくもり ×
タスマニア・アボリジニはオーストラリア大陸のアボリジニと人種的に別だったといわれていますが、すでにタスマニア・アボリジニが虐殺により全滅してしまった現在ではわかりません。
アボリジニは、肌が黒いという以外は近隣のメラネシア人やアフリカの黒人とはまったく似ていない人種です。アボリジニの多くは金髪であり、特に子供においてはその特徴は顕著です。
アボリジニに対してのイギリス人はどのように接したか。「オーストラリア歴史の旅」(藤川隆男著)に下記のように書かれている。
アボリジニは食糧のかわりに女性を提供したが、深刻な労働力不足に悩んでいた入植者は、女性よりも子供に魅力を感じた。
略)
入植者はすぐにもっと手っ取り早い方法、誘拐で労働力の確保を目指すようになった。
略)
アボリジニは、ヨーロッパ人との間にギヴ・アンド・テイクの原則に基づく友好的な関係を築き、侵略者と共存する用意はあったが、従来の生活様式その他すべての文化を棄て、ヨーロッパ人の社会に吸収されるつもりはなかった。他方入植者の側には、アボリジニを先駆者あるいは正当な土地の所有者として受け入れるつもりは全くなく、土地を奪い取った代価を払う必要があるなどとは考えてもみなかった。
p五一
白人侵略者の徹底した掃討作戦によってアボリジニが絶滅の危機に瀕していた時、一人の救世主が現れた。その名をジョージ・オーガスタス・ロビンソンという。彼は副総督アーサーの要請に基づいて、非定住地域に残るアボリジニを集め、白人の殺戮の手が届かない場所へ移住させる計画に着手した。
略)
アーサーは、一八二六年の時点ではタスマニア北東部に原住民保護区を作る考えであり、ブラック・ラインのときには、タスマン半島をその安住の地とするつもりであった。しかし、そのいずれもが失敗した現在、アーサーはロビンソンの提案に同意し、バス海峡(タスマニアとオーストラリアを隔てる海峡)に浮かぶ小島に、残ったアボリジニを収容する施設を作ることに決定する。
ロビンソンは、アボリジニの救世主ではあったが、白人の神に仕えていた。彼は、先祖伝来の土地から引き離すことによってのみ、アボリジニをキリスト教化し、優れた文明の本質を教え込むことができると信じた。彼は、アボリジニの文化をすべて奪い取ることが、アボリジニの救済の前提条件だと信じていたのである。このような考え方を当時の裁判所長官ベダーは、次のように批判している。
「もし、アボリジニを離島へ送れば、彼らがこれまで亭受してきた移動の自由や狩猟の自由はなくなり、希望のない監獄に閉じ込められた生活の中で、彼らはすぐに衰減するであろう」
しかし、ペダーに対し、アーサーは次のように反論した。
「たとえアボリジニが離島の中で、我々のあらゆる善意に囲まれて滅亡したとしても、それは白人との戦いの中でアボリジニが英雄のごとく滅亡していくよりもはるかに望ましい」
ロビンソンは、彼が集めたアボリジニがペダーの予言どおりに、白人の監視下で次から次へと死ぬのを横目で見ながら、彼らを絶滅から救うために、生き残ったアボリジニのすべてをタスマニア全島から集めることに全力を傾けた。いまやロビンソンは手段を選ばなかった。実現するはずのない約束や銃の力を用いてもアボリジニの捕獲を続けた。バス海峡にあるフリンダース島の収容施設には、一八三三年に四三人のアボリジニが、翌年には四二人が送り込まれた。しかし、この二年間で五一人のアボリジニが死亡している。
フリンダース島では、アボリジニたちはヨーロッパ文明の「恩恵」を拒絶し、農業に従事することを拒んだ。監督官たちは、これを口実として肉や新鮮な野菜をアボリジニに与えなかった。アボリジニ一人が一日につき配給された食料は、塩づけ肉四五〇グラム、小麦粉四五〇グラム、ビスケット二二五グラム、砂糖七グラム及び塩である。アボリジニは塩づけ肉を食べられなかったので、栄養不足を補うには狩猟をせざるをえなかった。しかし、多くの者は病気で狩猟ができないか、狩りを禁じられているか、あるいは何も狩るものがないかのいずれかであった。
p五八
タスマニア・アボリジニが紳士と言われるイギリス人により亡ぼされた様子がよくわかります。そして、白人は他の地域でも同じ事を繰り返したのです。
今日も河岸で「食用ほうずき」を購入。魚の方は久しぶりに活けの「ハタ」など。
Iさん来店。もうすぐ御家族が三人になるので、愛車の買い替えをどうするか思案中。前を通っていてず〜と気になっていたとおっしゃって一名様来店。スポーツセンターについて盛り上がる。Kくん二名様で来店。
営業終了後、高円寺のイタリアンでドンチャン。途中、愛犬の「エンゾ」くんを夜中に散歩中のマルガリータさん合流。体重四〇キロというエンゾくんは流石にでかい。中野の「石松」さんに寄ってから帰る。
誹謗中傷
11月5日月曜日 ○
今日、午前中に注文してあった本棚が届く。本は本棚は二つとカラーボックスに収めているのだが、机の上に溢れてもうどうしようもない状態で、一日何回も雪崩がおきるありさま。
届いた三つの本棚を組み立てて、夕方までかかってやっと本を収納。
N23で筑紫哲也氏が「誹謗中傷」というものについて喋っていたが、誰に言われても、さんざん偏向報道を繰り返してきた筑紫氏にだけは「誹謗中傷」などと言われたくはないだろう。
ところで、筑紫氏のカツラとともに民主党の渡部氏の頭も気になってしかたなかった。
戦後まもない昭和二二年、東京帝国大学法学部教授の身分で「こんどの戦争で、日本は極端な侵略戦争を行い、その戦争中において、また驚くべき暴虐行為を行つた(ママ)」「戦争犯罪の理論については、実質に重きをおかなければならない。形式にとらわれてはならぬ。まして、形式上のささいな不備などを理由とし、技術的な論理をもてあそび、実質を無視するようなことがあってはならない」と書いて、大東亜戦争を侵略戦争と断じ、東京裁判を全面的に支持する「戦争犯罪論」を書き、「民主主義のてっていという点から見れば、日本の新憲法などは、まだまだ不十分であり、微温的というべきものである。一つの例をあげてみれば、天皇制を維持したこと、つまり君主制を保存したことがそうである。略)かように、特定の人が世襲によって特別な地位、身分、権利を有することは、民主主義の根本理念に反する」とまで書いた「戦争の放棄」、「いわゆる万世一系の血統に生まれたというだけの理由によって、当然に、右のような(天皇としての)特殊な権力をにぎり、特殊な利益を受けている」「これらのことを統合してみれば、天皇制を維持する理由はないといわなくてはならない」と書いた「天皇制」の著者。そして、その後、最高裁長官にまで上り詰め、文化勲章まで授与され、国際技術財団理事長の時には「皇太子殿下と妃殿下の御臨席を願う」と自伝に書いた横田喜三郎という生き方に賛同などできるはずはないであろう。
流石は小沢一郎氏の側近であったというだけのことはある。
文化の日?
11月3日土曜日晴れ ××××
文化の日と言われても何が文化なのかわからん。「明治節」(天長節)といえば明治天皇のお誕生日であるとわかる。これも、日本から歴史というものを抹殺するためにおこなったGHQの政策の一つです。
戦後すぐの昭和23年の「国民の祝日に関する法律」(祝日法)によって祝祭日は一旦、全て廃止され、国民の祝日がそれに代わったのです。
そして、今また売国奴公明党がもっと醜いものにしようとしている。
今朝までの酒が夕方まで残り、調子はイマイチと思いながら営業突入。どうも蒸留酒は最近残りやすいように思う。
河岸でお世話になっているノブちゃん、フミちゃん夫妻来店。Mさん道場の門下生と六名様で来店。二名様来店。Sくん来店。AさんOさん来店。Cさん3名様で来店。マロさん来店。
大忙し。途中から酒もさめてきていつもどおりにドンチャン。
淡路島タマネギに支那産タマネギ
11月2日金曜日晴れ ××××
私の故郷である淡路島のタマネギに支那産タマネギを産地偽装していたというニュースが今日の産経新聞に掲載されていた。
それによると、偽装の過程では、支那産を淡路島に運び込み、現地産の箱などに詰め替えて産地偽装する業者が暗躍しているそうである。
アホな事をしてしまったものである。これで、先人が作ってきた「淡路島タマネギ」のブランドも
地に落ちた。
支那からの輸入などいち農家ができるはずもないから、それなりの規模だろう。いなかの事だから、調べればどこがやっているかすぐわかると思うのだが・・・・
I@仙台さん2名様で来店。初めてのお客様Tさん2名様で来店。大台さん来店。Yさん来店。
営業終了後、Yさんと阿佐ヶ谷の「ひげ」さんにおじゃまする。その後、「ひげ」のマスターともう一軒。ドンチャン。
11月1日木曜日くもり一時雨 ○
昨日というより今朝までソウルから仕事でいらしているKさん、浜松のタカさんとドンチャン。後片付けをした後、いったん部屋に帰り、シャワーを浴びてから、醴泉の蔵元である玉泉堂酒造の会長の告別式出席のため、新幹線で岐阜羽島へ向かう。新幹線の中では持っていった本も読まずに爆睡状態。乗り過ごさなくてよかった。
河岸には、今日は仕入れ無しという事を電話をする。
岐阜羽島から告別式会場までタクシーで五〇〇〇円弱。
告別式の前に顔見知りの皆さんとお話をしていたら、酒臭いと言われる・・・・そうだろうな〜
告別式が終わった後に初亀、磯自慢、美丈夫、松の司などの蔵元さん、大阪の山本さん、乾さん、岐阜の館さん、東京の長谷川さんなどの酒屋さんのみなさんと食事というかラーメン屋さん。焼肉以外にもう少し選択が欲しいもの。
帰りは松瀬社長に岐阜羽島まで長谷川さんと一緒に送って頂き、新幹線で帰京。
夕方五時半に東京駅着。バタバタと開店。
Sさん二名様で来店。
今日は飲む元気もなくさっさと寝る。