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福島瑞穂と渡辺恒雄
11月30日木曜日晴れ △
あの売国奴の福島瑞穂が映画『出口のない海』を観たことについての感想を書いた福島女史のホームページよりの引用です。
http://www.geocities.jp/gender_law/eiga/eiga111606.html
以下引用
この映画を見るのは正直少し恐かった。
そもそも人が死ぬ映画と戦争映画は苦手なのだ。そして、戦争賛美映画だったらどうしようと思っていた。「ついに来たか、日本映画」みたいに、戦意高揚映画だったらどうしようと思っていた。
しかし、そうではなかった。
人間魚雷の図をいわゆる生き残りと言われる人に見せてもらったことがある。びっくりするぐらい狭くて、こんな狭いところに閉じ込められるのだと驚いた。
先日、社民党の千鳥ヶ淵墓苑検討委員会に読売新聞主筆の渡辺恒雄さんに来てもらった。
そのとき渡辺さんは、戦争の悲惨さを存分に語り、「回天(人間魚雷のこと)には内側から鍵はかけられず、外側からしか鍵はかけられなかった。内側からはあけることもできなかったのだ」と怒っていらした。そのことが頭にこびりついている。内側からはもはやあけることはできないのだ。
弾のなかに人間がはいり、大きな弾丸となって飛んでいく。戦争で人が死ぬことはありうることだけれど、人間魚雷や特攻隊では必ずその人間は死ぬのである。
この人間魚雷やそして特攻隊を発明した人間は、わたしの記憶では裁かれていない。
略)
わたしの希望は、こんな映画を見た人が憲法9条を変えないほうがいいという気持ちを持ってくれることである。
しかし、この映画を見た安倍総理は全くそう思わないのであるから、「なんというこっちゃ」と思う。
引用終わり
自分や旦那が支援している過激派のことについてはスルーであるのに、我が国を守るために戦った先人を自分の無知を棚にあげて辱める。
<この人間魚雷やそして特攻隊を発明した人間は、わたしの記憶では裁かれていない。>
自らの命の犠牲にして敵艦を沈める「回天」を考案した黒木博司大尉、仁科関夫中尉、「特攻隊の生みの親」(とされた)大西海軍中将の事は知りもしないし、知ろうともしないのであろう。
黒木博司大尉は徳山湾での指導訓練中に海底に没し、樋口孝大尉とともに殉職した。(殉職後、大尉に昇進)。仁科関夫中尉はウルシー湾で米艦を撃沈、散華。大西瀧治郎海軍中将は「特攻は統帥の外道である」、あってはならない作戦と言い、その一切の責任を一身に負って、昭和二〇年八月一六日、渋谷区南平台にあった軍令部次長官舎にて割腹自決をしている。
その残された遺書は「特攻隊の英霊に日す 善く戦ひたり深謝す 最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり 然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに到れり 吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす 次に一般青少年に告ぐ 我が死にして軽挙は利敵行為なるを思ひ 聖旨に副ひ奉り自重忍苦するの誡ともならば幸なり 隠忍するとも日本人たるの矜持を失ふ勿れ 諸子は国の宝なり 平時に処し猶克く特攻精神を堅持し日本民族の福祉と世界人類の為 最善を尽くせよ」と書かれている。
高齢になり、メッキがはげてその隠していた赤い衣が見えてきたナベツネ、渡辺恒雄氏は、住み良いであろう元の自分の居場所に戻り福島女史やチョンイル新聞の若宮啓文あたりとつるんで喜んでいる
<戦争の悲惨さを存分に語り、「回天(人間魚雷のこと)には内側から鍵はかけられず、外側からしか鍵はかけられなかった。内側からはあけることもできなかったのだ」と怒っていらした。そのことが頭にこびりついている。内側からはもはやあけることはできないのだ。>
と平気でウソを喋って悦にいっている。
「回天」には脱出装置はついていないが、中から搭乗員が天井ハッチの開け閉めができる構造になっていた。日本人を悪者にし、日本軍の残虐さを強調するためであれば、どんなウソでも平気でつく。
こんな腐れ売国奴連中は早く表舞台から消えてほしいものである。
Eさんという初めてのお客様三名様来店。Yさん初めての来店。
飲む。でも、今日は記憶あり。
工藤俊作「雷」による敵兵救助 最終章
11月29日水曜日くもり ×
フォール卿から依頼を受けて、著者・恵隆之介氏はわずか三ヶ月後に、遺族を見つけ出した。工藤俊作氏は終戦後、高畠にあったかよ夫人の実家にいた。苗木の挿し木などをして収入を得ていた。敗戦で、残念なことであるが陸海軍人に対する視点が一八〇度変わった。かっての職業軍人に戦争責任のすべてを転嫁する風潮が全国的に起こっていたのである。ところが、高畠や米沢にはこういった日和見な傾向は微塵もなかった。
工藤俊作の出身地である屋代村村民も同様、戦前戦後の価値観の価値観の転換はなかった。村民は、工藤が駆逐艦艦長時代、碇泊中に郷党の兵が表敬のため舷門を訪ねると、階級にこだわることなく艦長室に招き入れ、歓待してくれたことを決して忘れなかった。
とくに元海軍下士官の二階堂敬三氏は、戦後、何度も感激をもって次の話を村民にしていた。(平成一二年、八一歳で死去)
「水兵時代に『雷』を訪問し、『工藤艦長に表敬したい』と舷門にいる下士官に申告したことがあった。下士官は即座に『兵の分際で、艦長を表敬とは何事か』と怒鳴った。そこに、折良く工藤艦長が通りかかり、『二階堂君ではないか』と、艦長室に案内し、歓待してくれた」というのだ。
工藤は高畠から自転車で、屋代村の兄家族を度々訪ねているが、途中、村人たちは農作業の手を止めて頭を垂れていた。
昭和三〇年、工藤も敗戦のショックからようやく立ち直り、埼玉県川口市朝日に転居する。
かよ夫人の姪が、この地で医院を開業することになり、工藤は事務を、夫人は入院患者の賄い婦としての生活が始まった。
この頃になると、同期や、旧部下が、工藤の所在を探し当てて訪問するようになる。戦後まっ先に工藤を訪ねてきたのが、艦長伝令をしていた佐々木確治氏であった。その次が第一砲塔砲手の橋本衛氏であった。二人とも玄関で、「艦長、戦時中はお世話になりました」と発声するや、後は声にならずただただ、工藤に肩をたたかれて、涙を滂沱するだけであった。
近所もこの寡黙で長身の男が、かっての駆逐艦艦長で、兵学校出身であることに気づく。
少年たちは朝夕、挨拶し、工藤を畏敬するようになる。
海上自衛隊や、クラスが在籍する大企業からの招きも全部断わった。さらに戦後のクラス会には出席しようとしなかった。工藤の日課H、毎朝、死んでいったクラスや、部下の冥福を祈って仏前で合掌することから始まった。楽しみは、毎晩かよ夫人に注がれる晩酌と、毎月送られてくる雑誌「水交」に目を通し、先輩、後輩の消息を知ることであった。
昭和五二年暮れ、病魔に冒される。胃ガンであった。
昭和五四年一月一二日、七八歳の生涯を静かに閉じた。いよいよ最後という時、クラスの大井薫氏や、正木生虎氏が病室を訪ねた。付き添い中の夫人が、「大井さんと正木さんですよ」と耳元で囁いた。
「ああ大井か、正木か。貴様たちはおおいにやっているようだが、俺は独活の大木だったなあ」と言いつつ、静かに目を閉じたという。
この七カ月後に海上自衛隊の練習艦隊が、英国ポーツマスに入港した。練習艦隊司令長官植田海将補が英国海軍連絡士官より工藤俊作海軍中佐の消息調査を依頼された。
著者の恵氏は同じ頃、英国海軍訓練支援艦L十一(一三〇〇〇トン)士官室で、リチャード・ウイルキモ海軍大尉から次の激励を受けていた。
「恵少尉、我々は日本海軍を尊敬している。ドイツが戦後海軍旗を変更したが、海上自衛隊は、帝国海軍旗を世襲した。われわれはこの事に最も敬意を表している」そして「米国にコンプレックスを決してもつな」と言われている。
そして、恵氏は後一年早く知っていれば、工藤元中佐、フォール元中佐の感激の再会が実現していたのにとこの著書に書かれています。
そして、工藤俊作の甥・七郎兵衛氏は「叔父はこんな立派なことをされたのか、生前一切軍務のことは口外しなかった」と落涙した。我国海軍のサイレント・ネービーの伝統を忠実に守って、工藤中佐は己を語らず、黙々と軍人としての職務を忠実に果たして、静かにこの世を去っていったのである。
工藤中佐夫妻は川口市朝日にある薬林寺境内に眠っているそうである。
引用文献
「敵兵を救助せよ」恵隆之介 草思社平成十八年刊
「日本海軍総覧」新人物往来社 一九九四年刊
初めてのお客様Oさん2名様で来店。Hさん大勢様で来店。Yさん来店。最後まで記憶があったつもりなのだが、営業終了後、店を片付けて生ゴミを出した記憶が曖昧・・・・・
本マグロの 目の側の赤身 ほっぺた 咽の奥の身 |
本マグロ 頭肉 カマトロ 目の側の脂身 |
工藤俊作「雷」による敵兵救助4
11月28日火曜日雨のちくもり ×
平成一五年一〇月、フォール卿は日本の土を踏んだ。八四歳を迎える自身の「人生の締めくくり」として、すでに他界していた工藤艦長の墓参を行い、遺族に感謝の意を表したいと願ったのである。しかし、あいにく墓も遺族も所在が分からず、フォール卿の願いは叶えられなかった。部下であった田上俊三大尉などは「戦後間もなく病気で死んだ。子供もいないから、その後どうなったかわからない。墓もわからない」と語気強く言い切ったそうである。それでいて、自分はテレビ局(あのNHK)を連れてきて「救助隊私機関で活躍した」「工藤艦長の兵学校のクラスは大量採用の時代であった」とかたり、それだけでなく兵学校出身者と思えないぐらいの偏った歴史観をもち、それだけでなく、自分自身とフォール卿とは孫をホームステイさせるほどの仲と吹聴している。
田上のそれは平成一五年十一月二一日午前五時三八分に放送された「おはよう日本」のなかで「半世紀を超えた友情」と報道された。
その中で、田上は工藤艦長の名前は一切語らず、いかに自分が敵兵救助に活躍したかを言った。その後、こう熱弁を振るったそうである。
「絶対戦争をしてはいけないということは、この時すでに考えていた。こういうバカなことをやってはいけないと思いながら戦っていた・・・・」
まるで、支那に洗脳された売国奴集団の腐れ「中帰連」なみのバカ男です。
つづく
どの番組か忘れたが、今日、河岸に行く前に見ていたテレビ番組で鳥越俊太郎が鹿島灘の釣りが禁止されている防波堤において、マナー、ルールを守らない釣りバカどもが遭難した場合は、その遺族が捜索費を払うから税金をタダで使っているわけではないとしたり顔で言っていたが、海での遭難の場合は、山とは違って捜索費を請求しないのが普通。どんなマナー、ルールを守らないバカ釣り師どもでも遭難した場合は海上保安庁、漁業関係者の皆様は一生懸命捜索し救助しようとする。そして、その捜索等にかかった費用などは請求されることはない。出演者の誰も鳥越のこの発言に対して注意とか訂正をしなかった。
Wさん来店。御来店前に現場でトラブルがあったそうで、トラブル処理の仕方でその会社の真価が問われる事も多々あるので、明日はそのフォローで大変だそう。マルガリータさん来店。帰ったら愛犬の「エンゾ」くんの散歩とか言いながらドンチャン。結局一番最後の方にお帰りになる。寝ているエンゾくんをたたき起こして散歩に連れて行くのであろうか。(迷惑な・・・・)ITGさん4名様で来店。アンコウ鍋でドンチャン。「イデアル」のオーナーである村上さんYさんと来店。遅い時間Kさん来店。
営業終了後、李さんと飯。李さんは夕方に財布を置き忘れて紛失したそうで、免許証、カード、もちろん現金などを無くし今日は意気消沈。
工藤俊作「雷」による敵兵救助3
11月27日月曜日 雨のち曇り ○
工藤艦長は敵将校たちに「雷」の士官室の使用を許可した。
高橋中将の命により、翌三月三日午前六時三〇分、パンジェルマシンへ入校し、救助された英兵たちは、停泊中のオランダの病院船「オプテンノート」に引き渡された。移乗する際、士官たちは「雷」のマストに掲揚されている旭日の軍艦旗に挙手の敬礼をし、また、向きを変えてウイングに立つ工藤に敬礼して「雷」をあとにした。工藤艦長は、丁寧に一人一人に答礼をしていた模様である。これに比べて兵のほうは気ままなもので、「雷」に向かって手を振り、体一杯に感謝の意を表していた。
「エグゼタ−」の副長以下重傷者は担架で移乗した。とくに工藤艦長は、負傷して横たわる「エグゼタ−」の副長を労い、艦内で療養する間、当番兵をつけて身の回りの世話をさせていた。副長も「雷」艦内で、涙をこぼしながら工藤の手を握り、感謝の意を表明していたという。
捕虜を移乗させた後「雷」は復旧作業が大変だったようだ。以下は当時の乗組員の回想による。
「前甲板の上はビスケットの粉々になったのが彼らの垂れ流した小便でこびりついてつるつる滑る。素足になって海水を流し、デッキブラシでゴシゴシやって、やっと元の甲板に戻りました」
フォール卿はその後どのような捕虜生活を送ったのであろうか。以下はそのフォール卿自身の証言です。
「オランダの病院船からマサッサルの捕虜収容所まで徒歩で行進しました。路上でみた住民たちはかなり親日的で、軒ごとに日章旗が掲揚されていました。それに反して、彼らは自分たちをかなり敵愾心をもって見ているようでした。
捕虜収容所はオランダ軍の施設でした。当初は鉄条網もなく、さほどの束縛もありませんでした。土間に寝起きさせられましたが、後に、小さなベットと蚊屋が支給されました。ここには、英海軍、オランダ海軍、少数の米海軍(撃沈された潜水艦乗組員)の士官を含め兵卒もまじって収容されていました。
ある時、オランダ海軍士官が脱走を試みました。ところが、買収したはずのインドネシア人が日本軍に通報し、それは失敗に終わったのです。これ以降、自分は英国海軍の上級士官から二度とこういう行為はするなと言われました。
日本兵はわれわれが勉強することを許してくれました。そのため、私はこの環境を利用してオランダ語、マレー語、インドネシア語を学んだのです。このことは戦後自分の外交官活動に大変役立ちました。
一九四二年の暮れ、ある日本人のジャーナリストが捕虜収容所を訪問し、私は取材を受けました。彼は長年の滞米経験があり、われわれに同情的でした。彼は私にインタビューし、その内容を東京放送で必ず放送すると約束してくれました。その時、私が語ったのは次のようなことでした。
一、両親あて、私は現在日本の捕虜になっている。日本の処遇はいい。現在語学を懸命に学んでいる。
二、恋人メレーデ(現婦人)へ、私の愛を君に送る。
戦後になってわかったことですが、この放送はロンドンのアマチュア無線家によって受信され、両親に電話で知らされていました。
両親はすぐにこれが偽物でない事を確信しました。なぜならメレーデは、私のフィアンセの愛称だったからです。これは、当時スウェーデンにいたメレーデの兄にも伝えられました。
その後、捕虜は分けられて、セレベスの東岸にあるパマラに移され、そこで終戦を迎え、一九四五年一〇月二九日にリバプールに帰還したのです」
先に書いたようにフォール卿は、戦後、外交官として活躍し、定年退職後、平成八年に自伝『マイ・ラッキー・ライフ』を上梓し、その巻頭に「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と記した。
つづく
午後から出かける。古本屋めぐり。結局、探していた本は無かったが、興味あるのを数冊購入。
TVタックルに出ていた張さんとかいう支那人は「北朝鮮に拉致された日本人を約束どおり返さなかったのは失敗だ」みたいなことを言っていた。すぐに他の方々から、「誘拐犯に返すバカがどこにいる」と言われていた。もう少しまともな支那人を連れてくればいいものを。まあ、朝鮮人も朴一氏だから似たようなものだが。
工藤俊作 「雷」による敵兵救助3
11月26日日曜日 くもりのち雨 ○
間もなく、救出された士官たちは、前甲板に集合を命じられた。
「すると、キャプテン(艦長)・シュンサク・クドウが、艦橋から降りてきてわれわれに端正な挙手の敬礼をしました。われわれも遅ればせながら答礼しました。」
キャプテンは、流暢な英語でわれわれにこうスピーチされたのです。
You had fought bravely.
Now you are the guests of the Imperial Japanese Navy.
I respect the English Navy,but your government is foolish make war on Japan.
「諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。私は英国海軍を尊敬している。ところが、今回、貴国政府が日本に戦争をしかけたことは愚かなことである」
フォール卿はさらに、目を潤ませて語った。
「『雷』はその後も終日、海上に浮遊する生存者を捜し続け、たとえ遙か遠方に一人の生存者がいても、必ず艦を近づけ、停止し、乗組員総出で救助してくれました」
「雷」は午前中だけで四〇四人を救助した。午後は十八人を救助した。(水没したり甲板上で死亡した者を除く)
ちなみに、駆逐艦「雷」の乗組員は約150名である。
この頃、我国にとってはまさに「石油の一滴は、血の一滴」といわれた時であり、また艦内の真水をつくるために造水装置も作動させるにも燃料を消費する。そのため、直接燃料を制御する機関長以下の機関科員は、絶えず燃料節約に努力し、また乗組員は真水を節約するため、洗面や飲料水にも細心の注意を心がけていた。
それを、工藤艦長は、敵兵救助のために艦の停発進を繰り返して燃料を激しく消耗し、重油で汚染された敵兵を洗浄するため、アルコールやガソリンを使い、さらに真水まで使用している。
海の中から上がった喜びも束の間、今度は赤道直下の灼熱の太陽が容赦なく敵兵を襲った。一時間も経過すると、身体の重油を落とすために使用したガソリンやアルコールが災いして、今度は彼らの身体に水泡ができた。
そこで工藤艦長は全甲板に大型の天幕を張らせ、そこに負傷者を休ませた。艦が走ると風も当たり心地よい。ただ、これで全甲板の主砲は使えなくなった。
「雷」はもはや病院船となったと言っても過言ではなかった。
「雷」の上甲板面積は約一二二二平方メートル、この約六〇%は艦橋や主砲等の上部構造物が占める。実質的に使えるスペースは、四八八平方メートル前後である。そこに、約三九〇人(約二〇人から三〇人は士官で、艦内に収容)の敵将兵と、これをケアーする「雷」の乗組員を含めると一人当りのスペースは驚く程狭いスペースしか確保できない。
蘭印攻略部隊指揮官高橋伊望中将はこの日夕刻四時頃、「エクゼター」「エンカウンター」の両艦長を「雷」の付近を行動中の重巡「足柄」に移乗するよう命令を下した。舷門付近で見送る工藤と、両艦長はしっかりと手を握り、互いの武運長久を祈った。
高橋中将は双眼鏡で、「足柄」艦橋ウイングから接近中の「雷」を見て、甲板上にひしめき合う捕虜の余りの多さに、唖然とした。
この時、第三艦隊参謀で工藤俊作と同期の山内栄一中佐が高橋中将に、「工藤は兵学校時代からのニックネームが『大仏』であります。非常に情の深い男であります」と言い、高橋司令長官を笑わせた。
高橋中将は「それにしても、物凄い光景だ。自分は海軍に入っていろいろなものを見てきたが、この光景は初めてだ」と話していたという。
つづく
今日はスポーツセンターに行く気にもなれずに、店を片付けてから部屋に帰る。風呂に入って、布団の中で本を読んでいてそのまま灯りもつけっぱなしで寝てしまう。
教員試験二〇〇人合格
11月25日土曜日晴れ △
「教員試験の合格者六年連続二〇〇人突破」「開学以来のべ四九〇〇人を輩出」これらは、十一月二十二日の聖教新聞の第一面の見出しです。
二年前にも同じことを書きましたが、学校で「創価学会歌」を子供達に教えるような教師が今年も二〇〇人も誕生したのです。
この記事の中に池田大作ダイセンセイのお言葉があります。
「時代・社会の激動を前に、常に犠牲になるのは子供達です。その子らの人権を守るためには、真に責任をもったプロフェショナルと、人権の文化を打ち立てる新たなる価値創造が必要」
「人権の文化」とはどのような文化を目指しているのでしょう。
単純に考えて、自分の子供達がこのような思想の先生に教えてもらいたいと思いますか。
まあ、池田ダイセンセイは本日も二〇一個めの名誉学術賞号とやらをいただいて、その宗教家らしからぬ尊厳のかけらもないお顔をうれしそうに曝しています。
でも、どうしてこんなに世界中から認められているのに、我が国の大学からは一つもないのでしょう。
う〜む不思議ですね。
でもその池田ダイセンセイのお心がよく現れていると思えるのがその下手な和歌ではないでしょうか。
大勲位 よりも尊貴な 菊花かな
君の胸にも 私の胸にも
(「名誉会長 創立記念日を祝し」 平成十八年十一月二十一日聖教新聞第一面より)
千万の 勲章よりも 偉大なる
功徳に満ちたる 三世の生命よ
(「名誉会長 創立記念日を祝し」 平成十八年十一月二十二日聖教新聞第一面より)
池田大作ダイセンセイは竹入元公明党委員長も貰ったわが国政府からの勲章がよっぽど欲しいのでしょうね。流石はイダイなる宗教指導者だけあって名誉欲の塊です。
現世主義の創価学会だけあって、島崎たかよし目黒区議公明党は自家用車の車検、中島ようじ公明党目黒区議は自家用車のカーナビを購入、川崎えりこ公明党目黒区議はデズニ−シーでの土産購入、そして公明党区議団がドンチャン騒ぎをいずれも政務調査費でやり六人全員が辞職したそうです。宮沢信男という議長(自民党)も酷いものです。目黒区民の人怒った方がいいですよ。
高知からのお客様Tさん二名様で来店。Tさん四名様で来店。アンコウ鍋でドンチャン。金ちゃん、マロさん来店。御近所に引越していらしたというお客様来店。「エムズバー」のオーナーの三浦さんの御紹介というWさん(御夫妻)来店。
営業終了後、久々に寿司屋さんで李さんと飯。
工藤俊作 「雷」による敵兵救助2
11月24日金曜日晴れ ×
再びフォール卿の回想
「午前一〇時(正確には午前一〇時一〇分頃とおもわれる)、突然二〇〇ヤード(約180メートル)の」ところに日本の駆逐艦が現れました。
当初私は、幻ではないかと思い、わが目を疑いました。そして銃撃を受けるのではないかという恐怖を覚えたのです」
「雷」は直ちに、「救難活動中」の国際信号旗をマストに掲げ、第三艦隊司令部高橋伊望中将宛てに「我、タダ今ヨリ、敵漂流将兵多数ヲ救助スル」と無電で発した。
敵潜水艦に攻撃されるおそれのある中での救助である。それも、その救助する対象は敵将兵である。
工藤は、日本海軍史上極めて異例の号令をかける。
「一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意」
(しばらくして、前甲板に敵重傷者のための日よけの天幕が張られたために、一番砲塔も使えなくなる)
工藤は先任将校(浅野市郎大尉海兵六三期当時二九歳)に救助全般指揮をとらせ、航海長(谷川清澄中尉二五歳)に後甲板を、砲術長(田上俊三中尉二四歳)に中甲板における救助の指揮をとらせた。
佐々木確治一等水兵(二一歳)の回想
「筏が艦側に近づいてきたので『上がれ!』と怒鳴り、縄梯子を出しましたが、誰も上がろうとしません。
敵側から、ロープ送れの手信号があったのでそうしましたら、筏上のビヤ樽のような高級将校(中佐)にそれを巻き付け、この人を上げてくれの手信号を送ってきました。五人がかりで苦労して上げましたら、この人は『エクゼター』副長で、怪我をしておりました。それから、『エクゼター』艦長、『エンカウンター』艦長が上がってきました。
その後敵兵はわれ先に『雷』に殺到してきました。一時パニック状態になったが、ライフジャケットをつけた英海軍の青年士官らしき者が、後方から号令をかけると、整然となりました。
この人は、独力で上がれない者には、われわれが差し出したロープを手繰り寄せて、負傷者の身体に巻き、そして、引けの合図を送り、多くの者を救助をしておりました。『さすが、イギリス海軍士官』と、思いました」
「彼らはこういう状況にあっても秩序を守っておりました。艦に上がってきた順序は、最初が『エクゼター』『エンカウンター』両艦長、続いて負傷兵、その次が高級将校、そして下士官兵、そして殿が青年士官という順でした。当初『雷』は自分で上がれる者を先にあげ、重傷者はあとで救助しようとしたんですが、彼らは頑として応じなかったのです。
その後私は、ミッドウェー海戦で戦艦『榛名』の乗組員として、カッターで沈没寸前の空母乗組員の救助をしましたが、この光景と対象的な情景を目にしました」
浮遊木材にしがみついていた重傷者が、最後の力を振り絞って「雷」の舷側に泳ぎ着いて、「雷」の乗組員が支える竹竿に触れるや、安堵したのか、
ほとんどは力尽きて次々と水面下に沈んでいってしまう。甲板上の乗組員たちは、涙声をからしながら「頑張れ!」「頑張れ!」と呼びかける。この光景を見かねて、二番砲塔の斉藤光一等水兵(秋田出身)が、独断で海中に飛び込み、続いて二人がまた飛び込んだ。立ち泳ぎをしながら、重傷者の体にロープを巻き付けた。
艦橋からこの情景を見ていた工藤は決断した。
「先人将校!重傷者は、内火艇で艦尾左舷に誘導して、デリック(弾薬移送用)を使って網で後甲板に釣り上げろ!」
もう、ここまで来れば、敵も味方もなかった。まして海軍軍人というのは、敵と戦う以前に、日頃狭い艦内で昼夜大自然と戦っている。この思いから、国籍を超えた独特の同胞意識が芽生えたのであろう。甲板上には負傷した英兵が横たわり、「雷」の乗組員の腕に抱かれて息を引き取る者もいた。一方、甲板上の英国将兵に早速水と食糧が配られたが、ほとんどの者が水をがぶ飲みした。救助されたという安堵も加わって、その消費量は三トンにものぼった。便意を催す者も続出した。工藤は先任下士官に命じて、右舷舷側に長さ四メートルの張り出し便所を着工させた。
フォール卿の回想
「私は当初、日本人というのは、野蛮で非人情、あたかもアッチラ部族かジンギスハンのようだと思っていました。『雷』を発見した時、機銃掃射を受けていよいよ最後を迎えるかとさえ思っていました。ところが、『雷』の砲は一切自分達に向けられず、救助艇が降ろされ、救助活動に入ったのです」
「駆逐艦の甲板上では大騒ぎが起こっていました。水平たちは舷側から縄梯子を次々と降ろし、微笑を浮かべ、白い防暑服とカーキ色の服を着けた小柄で褐色に日焼けした乗組員がわれわれを温かくみつめてくれていたのです」
「艦に近づき、われわれは縄梯子を伝わってどうにか甲板に上がることができました。われわれは油や汚物にまみれていましたが、水兵たちは我々を取り囲み、嫌がりもせず元気づけるように物珍しげに見守っていました。
それから木綿のウエスと、アルコールをもってきて我々の身体についた油を拭き取ってくれました。しっかりと、しかも優しく、それは全く思いもよらなかったことだったのです。友情あふれる歓迎でした。
私は緑色のシャツ、カーキ色の半ズボンと、運動靴が支給されました。これが終わって、甲板中央の広い処に案内され、丁重に籐椅子を差し出され、熱いミルク、ビール、ビスケットの接待を受けました。私は、まさに『奇跡』が起こったと思い、これは夢でないかと、自分の手を何度もつねったのです」
つづく
インターネットで面白いというか、アホなニュースがありました。
豊漁で価格低下に怒り…ソウルで魚ばらまく養殖業者
ソウルで、漁業関係者が抗議デモを行い、大量の魚を街中でばらまきました。
怒って魚をばらまいたのは、韓国の養殖業者の団体です。今年は、コノシロが取れすぎているうえに、養殖ものの出荷も増加し、価格が下落しています。この団体は、「価格が下落したのは、政府が何もしないからだ」として、過激な行動に出ました。養殖業者らは「政府が対策に乗り出さない限り、今後も2000トンのコノシロをソウル市内でばらまく」と話しています。
[24日8時35分更新]テレビ朝日
「俺のせいじゃあない。他人のせいだ」ということでしょうか。
日本人だと普通はこんなことせんでしょう。しかし、こんなキチガイが相手でソウルの清掃局の人も大変そう。まあ、随分前にテレビでアホな事を言いまくっていたアホ在日朝鮮人と同じ精神構造ということがよくわかります。→http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sumire/7933/genejan/
ケイザブロウさん来店。古酒の件。K@神奈川さん来店。二名様来店。マロさん来店。うーちゃん、ヨウコさん、塩月さん、トシキさん、大野さん来店。大野さんのレバノン土産であるワインをごちそうになる。遅い時間に今は神戸にいるハナちゃん久しぶりに来店。
今日もドンチャン。
工藤俊作 「雷」による敵兵救助
11月23日木曜日 勤労感謝の日だそうな 雨のちくもり ○
つづき
駆逐艦「エンカウンター」は、旗艦「エクゼター」が停止した時、その「各艦適宜行動せよ」という命令に従い、単独での航行を続けた。艦長モーガン少佐は「エクゼター」の乗組員を救助すべきかと、一瞬迷ったが、「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」沈没の際の日本海軍の行動を覚えていたので、こう決断したのである。
しかし、その「エンカウンター」も日本艦隊の追撃を受け、八千メートル東方の海域で、三〇分後に撃沈された。この時、二〇歳の砲術士官だったフォール卿は、こう証言している。
「艦長とモーターボートに乗って脱出しました。その直後、小さな砲弾が着弾してボートは壊れました。・・・この直後、私は艦長と共にジャワ海に飛び込みました。」(昭和一七年三月一日、午後二時過ぎ)
「間もなく日本の駆逐艦が近づき、われわれに砲を向けました。固唾をのんで見つめておりましたが、何事もせず去っていきました。」(恵氏は駆逐艦「曙」と推定)
この時期には、米蘭の多くの潜水艦がジャワ海で行動しており、わが国の艦艇も犠牲になっていた。三月一日には、この海域で輸送船「加茂川丸」が敵潜水艦の攻撃を受け沈没。船長であった工藤の兵学校時代の教官であった清水巌大佐(海兵三九期)が船と運命を共にしている。
戦闘詳報には二月二七日から三月一日にかけて、ジャワ海で「敵潜水艦合計七隻撃沈」の報告もなされている。それほど危険な海域なのである。敵の攻撃をいつ受けるか分からない状況では、国際法上は、海上遭難者を放置しても違法ではない。
「エンカウンター」の乗組員たちは、約二一時間も漂流し、「エクゼター」の場合と異なり、沈没艦から流出した重油の海につかり、多くの者が一時的に目が見えなくなる。
フォール卿の証言では
「救命浮舟に五、六人で掴まり、首から上を出していました。見渡す限り海また海で、救命艇も見えず、陸岸から一五〇海里も離れ、食糧も飲料水もない有り様でした。この時、ジャワ海にはすでに一隻の連合軍艦船も存在せず、しかも日本側はわれわれを放置してしまうという絶望的な情況に置かれていました。」
「私は、オランダの飛行艇がきっと救助に来てくれるだろうと盲信しておりました。
ところが一夜を明かし、夜明け前になると精気が減退し、沈鬱な気分になっていきました。死後を想い、その時には優しかった祖父に会えることをひそかに願うようになっていたのです」
「一九四二年三月二日の黎明を迎えました。われわれは赤道近くにいたため、日が昇りはじめるとまた猛暑の中にいました。
仲間の一人が遂に耐えられなくなって、軍医長に、自殺のための劇薬を要求し始めました。軍医長はこの時、全員を死に至らしめてまだ余りある程の劇薬を携行しておりました」
このような情況の中、そこに偶然、通りかかったのが、駆逐艦「雷」だった。二番見張りと四番見張りからそれぞれ、「浮遊物は漂流中の敵将兵らしき」「漂流者四〇〇以上」と次々に報告がはいる。工藤艦長は「潜望鏡は見えないか」と見張りと探信員に再確認を指示し、敵潜水艦が近くにいない事を確認した後、午後一〇時頃「救助!」と命じた。
つづく
今日のチョンイル新聞(すごい、イッパツ変換)の社説は「クラスター爆弾 日本も廃絶の旗を振れ
」というものであった。
その中に次のような文章があった。
以下引用
<90年代初め、NGOの連合体が対人地雷全廃のキャンペーンを始めた。国連組織が合流し、カナダ政府の呼びかけで国際協議が始まり、97年12月、生産、使用、備蓄などを禁じる新条約が調印された。この運動を主導したNGOと活動家にはノーベル平和賞が贈られた。
当初、日本政府は条約案に反対していたが、当時の故小渕恵三外相が「世界の大きな趨勢(すうせい)を踏まえて、やるべきことはやらねばならない」と異議を唱え、政府の方針を覆した。歴史の方向性を見定めた英断だった。
日本の自衛隊も数千個のクラスター爆弾を保有しているとみられている。上陸してきた敵部隊の掃討に使うというのだが、国民が被害を被るのでは使いようがない。必要のない兵器である。
そもそも武力紛争が起きないようにするのが第一だが、紛争が終わったあとも人々を苦しめ、復興の足かせとなるこの兵器は全廃する必要がある。日本はノルウェーの呼びかけに応え、廃絶への動きに貢献すべきだ。>
引用終わり 朝日新聞平成十八年十一月二三日社説
自称平和主義者の連中は「先守防衛」というものをどう考えているのであろうか。かって、我が国は長い海岸線を守るために一〇〇万個の地雷を保有していました。日本の先守防衛兵器の最たるものである地雷。何しろ、攻めてこなければ使いようがない。日本の地雷は飛行機からばらまくのではなく、埋めておくタイプで、何処に埋めたか電子的な装置で分かるようになっていました。そのために、必要がなくなった時にはすぐに掘り出すことができました。そのために、他国の地雷より高価でした。この地雷を二〇億円の費用をかけて処分したのです。小淵という総理大臣のアホさかげんがわかります。
ちなみに、支那は一億個以上、ロシア七千万個、アメリカ千百万個の地雷を保有している。
自分達だけが丸裸になったからといって、周りもも丸裸になるとはかぎらない。世の中にはキチガイもいる。そんな武器を持ったキチガイから身を守るのにはどうするか。政治家は国民を守る義務がある。理想論だけ、きれいごとだけでは国民は守れない。都合の良い時だけの「先守防衛」・・・・・
まあ、あの辻元清美のように「国会議員って言うのは、国民の生命と財産を守るといわれてるけど、私はそんなつもりでなってへん。
私は国家の枠をいかに崩壊させるかっていう役割の国会議員や」と言っているアホというかバカというか日本人としてどうしょうもない国会議員もいますけど・・・・・・
今日は勤労感謝の日でて全国的にお休み。午後よりスポーツセンターに行く。しばらくはスロートレーニング。
最終の新幹線までということで、仙台のIさん来店。クリプトンのコンサート帰りのYさん来店。Fさん来店。神田に開かれたお店の経営者として忙しそう。
今日は体調がイマイチなので飲まず。
工藤俊作 駆逐艦「電」
11月22日水曜日 △
二月二八日、スラバヤに帰投していた「エクゼター」は被弾箇所の応急修理を終え、午後六時、「エンカウンター」と米駆逐艦「ポープ」を護衛につけて、インド洋のコロンボへと逃亡を図った。
まもなく、日本の探索機によりこの艦隊を発見する。そして、三月一日には別行動をとっていた「雷」第六駆逐隊第二小隊の僚艦「電」を含む日本の駆逐艦隊に取り囲まれ、攻撃を受けた。
北西側より重巡「足柄」「妙高」駆逐艦「曙」「電」、南東側から重巡「那智」「羽黒」駆逐艦「山風」「江風」に挟撃される。
午後一二時三五分、「電」は指揮官旗を翻す「エクゼター」に距離一五〇〇〇メートルにまで接近して砲撃を開始した。「エクゼター」はボイラー室に被弾して、航行不能に陥った。午後一時一〇分、高木司令官より「撃ち方止め!」の号令が下され、敵艦に降伏を勧告する信号が発せられた。しかし、艦長オリバー・ゴードン大佐は降伏せず、自沈作業を開始した。やがてマストに「我艦を放棄す、各艦適宜行動せよ」の旗流信号を掲げ、僚艦に自艦を見捨てるよう指令した。
その時「エクゼター」の乗組員たちは、次々と海中に飛び込み、日本艦隊に向かって、泳ぎ始めたのである。
午後一時三〇分、「電」が接近して魚雷二発を発射、間もなく「エクゼター」は右舷に傾き、艦尾から沈んでいった。そのとき「電」艦内に、「沈みゆく敵艦に敬礼」との放送が流れ、甲板上の乗組員達は、一斉に挙手の敬礼をした。その敬礼に見送られて、「エクゼター」は船尾から沈んでいった。
この海戦で、おびただしい数の連合軍将兵が乗艦を撃沈され、漂流することになる。
「エクゼター」では、士官が兵に対し、「万一の時は、日本艦の近くに泳いでいけ、必ず救助してくれる」といつも話していた。「プリンス・オブ・ウェールズ」沈没の際の日本海軍の行動が記憶にあったのだろう。
まもなく「海上ニ浮遊スル敵兵ヲ救助スベシ」の命令が出された。(恵氏は発令者は第三艦隊司令部と思われるとしている)
それにより、救命ボートに乗っている者、救命用具をつけて海面に浮かんでいる者に対して、「電」の乗組員は、縄ばしごやロープ、救命浮標などで、救助にあたった。蒼白な顔に救出された喜びの笑みをたたえ、「サンキュウ」と敬礼して甲板にあがってくる者、激しい戦闘によって大怪我をしている者などが、次々と助け出された。
甲板上に収容された将兵には、乾パンとミルクが支給された。「電」によって救助された「エクゼター」乗組員は三七六名に上った。
また、恵氏は「電」艦長竹内一少佐は救助の命令を受ける前から、脱出した「エクゼター」の乗組員の状況を司令部に発信し、救助の許可を仰いだものと推測しています。
恵氏はその理由として、旗艦「足柄」は、「エクゼター」沈没以前に、「エンカウンター」と「ポープ」攻撃のため高速で東方に移動しており、「エクゼター」のその後を視認することはできなかった。要するに、時間的に見て「エクゼター」の乗組員である敵兵救助命令は「電」からの許可の要請がない限り出せないものと思われると書いています。
この「電」による救助活動によって助けられた元英海軍士官二人が、平成一六年六月現在、英国に御健在だそうで、現地で恵氏のインタビューに「日本海軍は偉大だった」(グレム・アレン元英海軍大尉)と答えています。
つづく
今日は掛け持ち飲み会だというマルガリータさんの希望により店の開ける時間をちょっとだけ早くして営業。マルガリータさんシオちゃんと来店。アンコウ鍋。ナベちゃん王さんとニコニコ来店。オガピー来店。二名様来店。マロさん来店。マロさんんいよると、今日は金ちゃんは新橋あたりで、上司との付き合いで不味い酒を飲んでいるとの事。二名様来店。Kさん来店。Kさんは南朝鮮の企業で働いているそうで、現在はソウル在住。いろいろ生情報が面白かったです。今日は初めてのお客様多し。遅い時間I@仙台さん二名様で来店。
明日は勤労感謝の日という訳の分からない旗日なので、河岸にも行かなくてよく朝はゆっくりということで、ドンチャン。飲んだ割には記憶あり。めずらしい・・・・・
工藤俊作 日本海軍の武士道精神
11月21日火曜日晴れ △
昭和一六年一二月四日午前、工藤は高雄港に錨泊中の「雷」の前甲板に全乗組員を整列させた。マストには、日本海海戦で初代「雷」が使用した軍艦旗がひるがえる。
工藤は、海軍少佐の礼装で、勲四等旭日章をつけ全員に開戦を告げた。
昭和一六年一二月八日に大東亜戦争開戦。その大東亜戦争開戦の二日後、昭和一六年一二月一〇日、日本海軍航空部隊は、英国東洋艦隊を攻撃し、最新鋭の「不沈艦プリンス・オブ・ウェールズ」と戦艦「レパルス」を撃沈した。
駆逐艦「エクスプレス」は、海上に脱出した数百人の乗組員たちの救助を始めたが、日本の航空隊は救助活動にはいると一切妨害せず、それどころか、手を振ったり、親指をたてて、しっかりたのむぞ、という仕草を送った。さらに救助活動後に、この駆逐艦がシンガポールに帰港する際にも、日本軍は上空から視認していたが、一切攻撃をしなかった。
こうした日本海軍の武士道は、英国海軍の将兵を感動させた。
工藤の敵兵救助とは、こうした武士道の表れであり、決して、例外的な行為だったわけではない。
昭和一七年二月一五日、シンガポールが陥落すると、英国重巡洋艦「エクゼター」と駆逐艦「エンカウンター」は、ジャワ島スラバヤ港に逃れ、ここで、アメリカ、オランダ、オーストラリアの艦船と合同して、巡洋艦五隻、駆逐艦九隻からなる連合部隊を結成した。
そして、二月二七日午後五時にスラバヤ沖海戦が始まった。
当初、「雷」は開戦以来、敵潜水艦二隻、哨戒艇一隻撃沈という戦闘力の高さを買われて、艦隊後方で指揮をとる主隊の護衛任務についていた。
そこに「敵巡洋艦ヨリナル有力部隊発見、我交戦中」との信号を受けて、主力は戦場に向かった。しかし、到着した時には、敵艦隊はスラバヤに逃げ込んで、肩すかしを食らった。
敵艦隊は重巡「エグゼタ−」「ヒューストン」、軽巡「デ・ロイテル」(旗艦)「バース」「ジャワ」、駆逐艦米四隻、英三隻、蘭二隻に対して、日本艦隊はこの連合部隊に、日本海軍の重巡「那智」「羽黒」以下、軽巡二隻、駆逐艦一四隻の東部ジャワ攻略部隊が決戦を挑んだ。日本海海戦以来、三七年ぶりの艦隊決戦である。
そして、午後六時三〇分頃、巡洋艦「エグゼタ−」が被弾し、艦隊最後尾にいた蘭駆逐艦「コルテノール」に軽巡「神通」が発射した魚雷が命中し、轟沈した。この海戦において英海軍の英雄的行動もあった。被弾損傷した「エクゼター」を守ろうとして、英駆逐艦「エレクトラ」が「エクゼター」の日本艦隊側側面に進出してきて、「朝雲」「峯雲」の二艦がこれに至近距離から集中砲火を浴びせ撃沈した。
「英駆逐艦「エンカウンター」は、被弾損傷した「エクゼター」を護衛し、かつ「コルテノール」の乗組員一一五名を救助してスラバヤに帰投した。
この救助活動は地上基地から発進した偵察機から視認されていたが、日本海軍は一切妨害しなかった。
つづく
河岸は昨日の天候が悪かったので少し心配でしたが、「活けヤリ」「活けクエ」とかが入荷していて一安心。
マグロの仲卸しの慎吾ちゃんところの若い衆であるヒロシくんの奥さんは漫画家の故「滝田ゆう」のお嬢さんと聞いてビックリ。
今日のニュースで「刺し身向けマグロ卸売価格、輸入減で最大2割高見通し」というのがあった。
「国際的な需要の高まりやマグロ資源の減少の影響が出ている」というこの「国際的な需要の高まり」というのは支那の影響がでかいとニュースでやっていた。支那でも回転寿司が大流行りだそうな。
でも、七〜九月実績として、冷凍の刺し身向けマグロ全体の一キロあたり平均卸売価格が一二%高の一三九八円でメバチは一三%高の九四一円て数字は、どの価格帯のマグロが多いかを物語っている。ところで、ホンマグロの平均はいくらぐらいなのだろう。いつもマグロの競り値と関係なく仕入れさせてくれている慎吾ちゃんに大感謝。
女性の方二名様二度めの来店。名古屋の「まほらま」のお客様であるwさん来店。
ヒマということで、一〇時過ぎからwさんとドンチャン。
工藤俊作 駆逐艦「雷」艦長に着任
11月20日月曜日雨のちくもり ○
工藤俊作は駆逐艦「雷」の艦長として、昭和十五年十一月一日として着任する。工藤の艦長としての勤務は駆逐艦「太刀風」に昭和十三年三月に就任して以来四隻目となる。
工藤は駆逐艦艦長としてはまったくの型破りで、乗組員たちはたちまち魅了されていった。
身長一八五センチ、体重九五キロと大きな体に、柔道三段で得意技は跳ね腰の猛者でありながら丸眼鏡をかけた柔和で愛嬌のある細い目をしていた。とても猛禽類の」ような目をした駆逐艦艦長のイメージでなかった。
着任の訓示も、「本日より、本官は私的制裁を禁止する。とくに鉄拳制裁は厳禁する」というものだった。乗組員は目を白黒させる。
乗組員たちは当初工藤をいわゆる「軟弱」ではないかと疑った。ところが工藤は決断力があり、当時官僚化していた海軍でも上に媚びへつらうことを一切しなかった。しかも辺幅を飾らず、些細なことにはこせこせしなかった。
洋上訓練が終了し単艦行動に移った時には「ようそろー横須賀」と号令し、速力を上げて寄港した。そして下士官兵を労り、接岸すると非番下士官兵を即座に上陸させた。
しかも、酒豪で、何かにつけて宴会を催し、仕官兵の区別なく酒を酌み交わした。
酒豪で何かにつけて宴会を催し、士官と兵の区別なく酒を酌み交わす。 好物は魚の光り物(サンマ、イワシ等)で、仕官室の食堂にはめったにでないので、兵員食堂で光り物が出る時、伝令のと自分のエビや肉と交換したり、自ら兵員食堂まで仕官室の皿を持って行って「誰か交換せんか」と言ったりもした。
工藤は日頃士官や先任下士官に、「兵の失敗はやる気があってのことであれば、決して叱るな」と口癖のように言っていた。
見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望鏡と間違えて報告しても、見張りを呼んで「その注意力は立派だ」と誉めた。
このため、見張りはどんな微細な異変についても先を争って艦長に報告していたという。工藤艦長の指導の結果、見張りには、四〇〇〇メートル先のい潜望鏡を識別でできるベテランが続々と誕生する。当時、これほどの識別能力を確保していれば潜水艦の電撃を充分回避できた。
(当時世界最強といわれたわが国の九三式酸素魚雷の性能は速力五〇ノット、射程二万メートル。他国の魚雷は速力二〇ノット、射程八〇〇〇メートルであった)
二ヶ月もすると、「雷」の乗組員たちは、工藤を慈父のように慕い、「オラが艦長は」と自慢するようになり、「この艦長のためなら、いつ死んでも悔いはない」とまで公言するようになっていった。艦内の士気は日に日に高まり、それとともに乗組員の技量・練度も向上していった。
駆逐艦「雷」
「特型駆逐艦」または「吹雪型」と称される大正十二年度の建艦計画で設計され、大正十五年から昭和八年まで二四隻が就航した、日本海軍建艦史の中で最多のシリーズである。
「雷」は特型V型、二三番艦として造られた。
基本排水量一六八〇トン 全長・全幅一一八・五メートル 一〇・三六メートル
速力三八ノット 機関艦本式タービン二基二軸
主要兵装 一二センチ砲六門 一三ミリ機銃二挺 六一センチ魚雷発射管九門、魚雷一八本
(「日本海軍総覧」新人物往来社 一九九四年刊より)
つづく
あのバカ放送局TBSの朝の番組「ピンポン」(だったかな)で「八月一五日は?」として「太平洋戦争 無条件降伏」と表示していた。さすがはTBSとしか言い様がない。太平洋戦争は戦後アメリカが強要した呼び名であり、ましてやドイツと違って無条件降伏ではない。
今日は昨日のスポーツセンターでのメニューを消化したおかげで、胸部、背中、三頭筋、太股などが張って痛い。今日は飲まず。飯を食いに出かけた以外は部屋で一日中ゴロゴロ。
久しぶりにスポーツセンターへ
11月19日日曜日雨 ○
今日は寒いし、雨が降っている中を店を片付けてから久しぶりにスポーツセンターへ行く。恐る恐るベンチプレス。六〇、八〇、九〇キロまで大丈夫。でっ、百十五キロ・・・右肩が痛くて、やっぱ、ダメ。ということで当分は、またスロートレーニングをやることに。でも、スロートレーニングって、見た目と違ってきついからいやです・・・・・
名誉校長
11月18日土曜日くもり △
今日の公明新聞の「議員OB座談会」では「恩知らず 学歴詐称の竹入を暴く」と題されて竹入義勝初代公明党委員長が槍玉にあがっています。
ここしばらくは、この話題が続いています。竹入元委員長が「陸軍航空仕官学校」出身(五九期)といっていたのが、下士官養成の「陸軍特別幹部候補生」出身だったのいうのです。
竹入元委員長が池田大作氏の逆鱗に触れたのは、勲章コレクターの池田氏が欲しくてしかたがなかった日本の勲章(それも勲一等旭日大綬章)をもらい、なおかつ著書で日中国交回復についてつい正直に池田大作ダイセンセイのお力と強調しなかったために、ボロクソに言われております。
以下部分引用
「もともと竹入は、コンプレックスのかたまりみたいな男だったが(略)」
「竹入はどうして私は尋常小学校高等科卒ですと、自分の生き方に誇りを持ち、堂々と胸を張って言えなかったのか?世間には学歴がなくとも人格が光る指導者はたくさんいる」
「その通りだ。むしろ、それでこそ「大衆とともに」の立党精神にふさわしい生き様じゃあないか」
「彼のように、人生の晩年で醜態をさらすほど恥辱はない。支持者、国民を欺いた「学歴詐称男・竹入」の汚名は、子や孫のだいまで語り継がれるのは間違いない。バカなことをしたもんだ」
引用終わり
まあ、ずいぶんな言われかたですが、多くの著名人と会い、多くの著書を書き、多くの勲章、名誉教授、名誉市民、そして名誉村長までもらっている池田大作ダイセンセイはどうなのでしょう。なんか、「もともと竹入は、コンプレックスのかたまりみたいな男だったが(略)」
なんてところは「竹入」のところを「池田」に入れ替えても変わりはないように思うのですが。
ちなみに、その前日(十一月十六日)の聖教新聞第一面は
「ロスアンゼルスのアメネサ小学校
池田SGI会長夫妻を名誉校長に」
というものでした。
さすがは発行部数日本第三位???を誇る天下の聖教新聞の第一面・・・・・・・・
すばらしい!!!!!!!!・・・・
まあ、池田大作ダイセンセイがアメリカかどこかの小学校の名誉PTA会長になったことさえ第一面に掲載されるぐらいですから、名誉校長ともなれば、キチガイ信者、いや、創価学会員のみなさまにとれば大変な出来事なのでしょう。
でも、いつも思うのですが、なんで、「ガンジー・キング・イケダ」なのでしょう。偉人いわれている二人と「創価学会信者だけの脳内偉人」であり、俗物の塊である宗教家らしからぬ池田大作ダイセンセイとではあまりにも違和感ありすぎ!
あほらし。
アンコウ鍋の御予約をいただいていたので、今日も活けのアンコウを競り落としてもらう。昨日がメチャ高だったので心配していたのですが、今日は千円以上安い。
今日は静岡からわざわざKさん、Yさん来店。Sさん御夫妻。大台さん来店。後で、友人の方合流。
天界酒造さん廃業
11月17日金曜日晴れのちくもり △
島根県安来市にある天界酒造さんが十一月いっぱいで廃業と長谷川酒店社長のブログにありました。早稲田より神楽坂に移った時に当店にわざわざ来ていただいたこともあり、お世話になっていました。
大阪の山本酒店さんの酒の会や長谷川酒店さんの酒の会などで何度か御一緒させていただきました。
大英勇さんに続いて天界さんの廃業。これが酒業界の現実でしょうが、寂しいことです。
バンブーさん来店。まだ調子が悪そう。Aさん二名様で来店。大台さん二名様で来店。京都の甘泉堂の羊羹をお土産にいただく。
一通り飲む。でも記憶はあり。
教育基本法採決と朝日新聞
11月16日木曜日晴れ △
今日のチョンイル新聞(一部では朝日新聞ともいう)社説は「 教育基本法 この採決は禍根を残す」と題したものです。
以下引用
教育基本法 この採決は禍根を残す
教育基本法の改正案が衆院特別委員会で、与党の単独採決により可決された。野党は採決に反対して欠席した。
教育基本法は、未来を担う子どもたちを育てる理念や原則を定めたものだ。政権が代わるたびに、内容を変えていいものではない。
国会は多数決が原則とはいえ、与党だけで決めるのは、こうした大切な法律の改正にはふさわしくない。単独採決はまことに残念だ。
私たちは社説で、政府の改正案には疑問があることを何度も主張してきた。
略)
成立を急ぐあまり、肝心の国民が置き去りにされるようでは、将来に禍根を残すことになる。
引用終わり
朝日新聞社説2006年11月16日(木曜日)付
では、朝日新聞が一〇月七日の社説に<安倍氏の従来の主張に期待した人々にとっては、拍子抜けだったかもしれない。不安を抱いた私たちは少し安心した>と
安部総理が受け継ぐと言ったから朝日新聞は安心したという「村山談話」とはどのような経過を経て発表されたものか。
以下は西村慎吾議員のメルマガよりの引用です。
以下引用
この村山富市談話は、戦後五〇年の国会謝罪決議の後に、突如発表されたものである。
それまでの歴代内閣は、歴史に対する評価は後世に任せる、総理大臣が、良かったとか悪かったとか公表する問題ではない、との態度であった。
そのなかで、村山富市総理大臣が、我が国の歴史は悪かったので反省して謝罪するとの談話を発表したのである。
これこそ、総理の立場を私し、その立場を利用したイデオロギーによって歪められた個人的妄想の表明に過ぎないのだ。
一九九五年、平成七年、内閣は自社連立の社会党内閣であった。社会党は、先の細川内閣で与党となり大臣病患者が大量に発生する。そして、その病状につけ込まれて自民党との連立に走り、自民党は与党に返り咲くのである。
その与党返り咲きのために、自民党は社会党的左翼的妄想にすり寄り同調するのである。
即ち、日本は悪い国だから、戦後五〇年を契機に、国会で謝罪決議をするということになる。
以後、詳細は省略するが、私また多くの野党になった同志は、謝罪決議阻止のために行動を起こし、自民党のなかにも阻止に立ち上がる者が出てきたのである(尊敬すべき同志であった)。
その結果、当時の野党新進党と与党自民党とも、謝罪決議の本会議に臨めば、分裂した採決になるという状況になった。
そのような緊迫した状況になった金曜日の夕刻、今でも不可解であるが、新進党議員に対して、党国会対策幹部から、
「本日は本会議が開会されないので各自選挙区へお戻りください」という伝達があった(この幹部は、現在の自公連立の一員である)。よって、私どもは、新幹線や飛行機で帰省し始めた。
すると、謝罪決議阻止派が東京からいなくなったのを見届けてから、土井たか子衆議院議長は、午後七時前に本会議開会のベルを押した。
その結果、本会議は大量の欠席者があったものの,強引に開会され、出席者の全会一致で謝罪決議は衆議院で採決されたのである。
本会議開会のベルが押されたとの連絡を受けたとき、私は新幹線で浜松付近を走行していた。そして、名古屋で列車を降りて乗り換えてまた東京に引き返した。
しかし、とっぷりと暮れた国会は、ライトアップされているだけで、もぬけの殻であった。
「ちくしょう、だましやがったなー」と地団駄を踏んで国会を見上げた。
その直後、私は、
「夜陰に乗じて、衆議院決議を窃取した卑劣な輩」と社会党内閣を非難する報告書を同志に送った。
だが、我々の、国家の名誉と英霊への忠誠をかけた謝罪決議阻止の行動により、謝罪決議は窃取されたものの、参加者少数の権威なき決議になったのである。
さらに賛成した議員でも、謝罪決議の内容を覚えているものはいないであろう。つまり、社会党内閣存続のための自社首脳の保身からでた権威亡き決議、欠陥決議、外交上引用できない決議、となったのである。
そこで、登場してくるのが。村山富市謝罪談話である。
即ち、あくまで、我が国家を謝罪させねばならないとの妄想に駆られた村山富市という老いた左翼が、総理大臣の地位にあることを奇貨として、衆議院本会議決議の欠陥を補うために苦し紛れに発表したものが、村山談話なのだ。
この村山談話に対して、マレーシアのマハティール首相は、はっきりと、「日本は謝る必要はない」と異例のコメントをした。
また、同じマレー語のインドネシアのスハルト大統領が、如何なるコメントをしたかは知らないが、彼は、日本軍が教育したインドネシア独立義勇軍の一員で、大統領になったとき、独立義勇軍時代の教官であった日本に住む土屋大尉に電話をかけて、
「教官殿、私は大統領になりました」と報告した男であったのだ。マハティールと同様に、村山談話の謝罪に首を傾げていたことは明らかだ。
さらに、スハルトの前任者であったスカルノ大統領は、昭和二〇年八月一七日、ジャカルタの野村海軍少将の自宅でインドネシア独立宣言書を起案し、しかも、独立宣言の日付に、西暦ではなく我が日本の皇紀二六〇四年を使用した大統領であった。
そのスカルノ大統領が、開催したバンドン会議五〇周年の席上で、我が総理大臣は、あの村山という老人の妄想を朗読したというわけだ。
村山氏といい小泉氏といい、知識がない、不勉強だという前に、
政治家なら最低限持つべき、国家・お国に対する「忠誠心」が欠如しているのではないか。
忠誠心のレベルに達しなくともよい、
人間として、国民として最低限のお国に対する「愛」もないのか。
以上、村山富市談話を、現総理大臣が権威あるもののように外交の場で朗読する風潮を憂い危惧して、述べた。
私にとって、謝罪決議阻止は、忘れ得ないことである。
一〇年前の衆議院の謝罪決議と村山談話は、我が国の国益を毀損し続けている。
我が国周辺は、謝れば済むという文化ではない。
謝れば、ますますつけ込んでくるという文化なのだ。
それは、北朝鮮、韓国、中国の現在の言動で証明されている。これらは、謝れば謝るほど、嵩に懸かってきているではないか。
この度も、中国の駐日大使が、自民党内で講演し、内政干渉も甚だしい靖国神社参拝非難を堂々と述べると共に、中曽根内閣以来、靖国神社を参拝しないとの日中の協定があるとの発言をした。この国家の沽券に関わることを言い放たれるのも、今まで謝罪してきたからだ。
一〇年前から、私はこのことを指摘して不用意な謝罪は、国益を損ねると言い続けてきた。即ち、福沢諭吉の「脱亜論」をこそ読み返し、先人の苦労と経験に学び直すべき時なのだ。
引用終わり
西村慎吾の時事通信 No.192 平成17年 4月29日(金)
どうであろう。朝日新聞は当時、多くの国民が反対していたのにも関わらず、このようにして採決された「五十年決議」に対しその成立過程に「与党だけで決めるのは、こうした大切な法律の改正にはふさわしくない。単独採決はまことに残念だ」とも書いた事無ければ 「肝心の国民が置き去りにされるようでは、将来に禍根を残すことになる」と書いた事もない。 疑問を呈したことも、もちろん糾弾した事もない。その後、発表された村山談話に対してももちろん同じである。
今回の教育基本法改正については、一〇〇時間におよぶ議論をムダに費やし、「反対のための反対」という態度で採決において棄権したのは野党である。
民主党はもはや社会党なみである。
村山富市首相、土井たか子衆議院議長、河野洋平外務大臣のこの時代は我が国に重大な損失をもたらした。それを許した我々日本国民の責任も重大である。
まだ、その河野洋平が責任もとらずに衆議院議長を務めて、一生懸命支那、朝鮮のために働いている・・・・・・
今日はボジョレー・ヌーボーの解禁日ということで、あっちこっちでお祭り騒ぎがあったことでしょう。当然ですが、当店は関係無し・・・・
Iさん三名様で来店。Sさん二名様で来店。Yさん、Nさん、Yさん来店。Kさん二名様で来店。
営業終了後、Yさんたちと歌舞伎町のお店で合流。その後、みなさんで四川料理のお店に流れる。ドンチャン。
部落解放同盟
11月15日水曜日晴れのち一時大雨 ×××
部落解放同盟の部落解放同盟県連の奈良市支部協議会副議長であった中川昌史とかいうバカが捕まったそうです。
でも、「机に足がたまたま当たっただけ」というのも笑える。足が当たっただけで、ひっくり返るようなテーブルってどんなテーブルなんでしょう。中川って名前以外にも偽名を使っていたようです。
旧姓で建設業経営-奈良市の休職職員 (2006.10.23 奈良新聞)
http://www.nara-np.co.jp/n_all/061023/all061023a.shtml
病気と偽って休職し給料を満額受領していた奈良市の男性職員(42)が部落解放同盟県連(川口正志委員長)の奈良市支部協議会(岡田隆雄議長)の副議長であることから、同協議会は21日夜、同市横井町の人権交流センターで、緊急支部長会を開催。男性職員は副議長であるとともに古市支部長で、この日の会合は欠席した。岡田議長は「会合の内容については話せない。男性職員の職業は建設業だと思っていた。公務員であることは知らなかった」とし、“偽名”で建設業に専念していたほか、支部活動も続けてきたことが分かった。
この日の会合は「公開ではない」として、取材は拒否された。
岡田議長や当日出席した関係者らによると、市内に10の支部があり、男性職員は古市支部長として、本名と異なる
旧姓で役職に就き、県連に提出する書類もすべて、これを使用していたという。副議長に就任したのは「4、5年前と思
う。くちききは、市議会議長していた親族の力を借りたものであり、部落解放同盟県連と結びつけらるのは、非常に迷
惑だ」と語っている。
また本人の自宅である市営住宅(註:2戸1)に置いた建築事務所は無届で規定以上の増築がされており、数年前
から市より指摘を受け、解体すると約束を交わしたものの、現状では解体されていない。
引用終わり
本名と異なる・・・・・・・http://www.zenkokuren.org/past/taikai/past/taikai0503.html全国大会は、南畑安太郎実行委員長(古市支部長)の「仕事、住宅、医療、教育、生活、いのち、もうこれ以上だまっているわけにはいきません。差別糾弾闘争で部落民の権利を奪い返しましょう」との開会宣言ではじまりました。
りっぱなものです。家賃滞納にタカリ。さすがです。「差別、差別」と騒ぐ事により利権を保持し続ける部落解放同盟。
その手法は在日朝鮮人で差別差別と騒いでいる連中と全く同じです。
今日はアンコウ鍋の御予約をいただいていた。幸いというか今日は活けのアンコウは河岸競り場にたった二匹のみ。一・七キロと一・四キロ
「一吉」の社長がどちらも競り落としてくれて一安心。(写真はそのアンコウ二匹)
Hさん四名様で来店。HIROKOさん五名様で来店。アンコウ鍋でドンチャン。金ちゃん二名様で来店。マロさんが後で合流。マルガリータさん来店。Tさん来店。今日は昨日と違って大忙し。ドンチャン。
明日が怖い。当店とは全然縁の無いボジョレーヌーボーの解禁日だし・・・・・
猿梨?
11月14日火曜日晴れ ×
今日はいかにも当店らしく、めちゃひま。北海道よりHさん二名様で来店。「春(現石松)」のマスターと数年前にいらしてくださった以来。大台さん来店。
写真はベビーキウイという商品名で河岸で売られているものですが、我が国にも「サルナシ(猿梨)」という名前で自生しているらしいです。
淡路島にはなかったように思うのですが・・・
工藤俊作の生い立ち3 海軍兵学校の教育
11月13日月曜日 晴れ ○
工藤俊作は海軍兵学校五一期として大正九年に入校する。この時代は八八艦隊構想により、入学人員の大幅な増員により二九三名だった。
海軍は徴兵制の戦前においても、一水兵に至まで志願制で、海軍独特のリベラリズムの気風があった。とくに海軍兵学校は「士官たる前に紳士たれ」とされ昭和二十年十月に閉校するまで継承されたライフスタイルは、長髪をゆるされ、英国流で洗練されていた。
この「敵兵を救助せよ」の著者である恵隆之介氏が引用されている写真集に書かれている言葉がある。幸いなことに私もこの写真集を持っているので、恵氏の引用文より少し長くなるが引用させていただく。「海軍兵学校」(真継不二夫 国書刊行会 昭和五三年 初版は大東亜戦争中に出版されたものであり、これは回天の考案者のひとりである仁科関夫中尉の遺筆となった書き込みをそのまま復刻させたもの)には、海軍兵学校生徒の印象について真継氏は次のように書いている。
「兵学校に来て、私が強く印象づけられたのは、生徒の顔の端正なことである。これほど揃って、整った容貌を持つ聖徒が、他の学校にいるであろうか。眉目清秀の謂いではない。精神的なものの現れた、きびしい美しさである。鍛えたものの美しさだといってもよい。無垢で、清純で、玲瓏である。そして、ここには一号、三号、四号の段階を、明瞭に現している。清純なうちに可憐さを残す四号生徒に比して、一号生徒には鍛えたものの美しさが一層強く現れている。環境は人をつくるというが、私は兵学校へ来て、男の男らしい美しさを見た」
(「写真集 海軍兵学校」あとがき 海軍兵学校を撮る p一二八)
鈴木貫太郎中将(海兵一四期)が校長として赴任し、約半年の十一月末までであるが工藤たち五一期はその影響を強く受けていくこととなる。
海軍兵学校校長に着任した鈴木は、大正八年十二月二日、兵学校の従来の教育方針を大改新を敢行する。
・鉄拳制裁の禁止
・歴史および哲学教育強化
・試験成績公表禁止(出世競争意識の防止)
日露戦争以降、兵学校の校風は、スパルタ式訓練が定着し、上級生による鉄拳制裁が恒常化していた。
ロシア革命の原因を引用し、「ロシア軍将校による兵への慣習化した殴打が主因であった」と強調して、将来、部下指導の際の戒めとした。
そして、こう力説した。
「日本の下士官兵は諸外国に比べて品行方正、優秀である。また、日本古来の武士道には鉄拳制裁はない。これらの観点から、部下指導には公務のための威厳を主とする時は別として慈愛をもって臨め、鉄拳制裁は一種の暴行である」(要約)
工藤ら五一期生は、この教えを忠実に守り、鉄拳制裁を一切行わなかったばかりか、下級生を決してどなりつけず、自分の行動で無言のうちに指導していた。
鈴木中将は、大正八、九年の両年にわたって、明治神宮鎮座祭当日に「明治天皇の御遺徳を偲び奉る事に就いての訓話」を行っている。この祭、
明治天皇御製、
「 四方の海皆はらからと思ふよに
など波風に立ちさわぐらん」
を披露し、明治天皇の「四海同胞」の精神を称えている。
鈴木中将はこの時、明治天皇が、水師営の会見の際、「敵将ステッセルに武士の名誉を保たせよ」と御諚され、ステッセル以下列席した敵軍将校の帯剣が許されたことを生徒に語っている。
大正六年三月八日、ロシア黒海艦隊で水兵の反乱が起きた。その際に水兵が、司令官アレクサンドル・コルチャコフの指揮刀を取りあげようとしたところ、「旅順で自分を捕らえた日本軍でさえ、この刀を取り上げはしなかった」と発言、直後に自らそれを海に投げ捨てている。
昭和一九年夏、海軍兵学校を訪ねた鈴木は、時の井上成美校長に「井上君、兵学校教育の本当の効果があらわれるのは、君、二十年後だよ、いいか、二十年後だよ」と繰り返し言っている。
井上も敗色濃厚な時代ではあったが、兵学校のカリキュラムを普通学に重点を置いたエリート教育を行った。恵氏は、工藤俊作の兵学校在学中に最も影響を与えた人物は、この鈴木貫太郎中将をあげ、その発言したとおりに、二十年後、大東亜戦争中に開花し、それを最も具体的な形で示したのが工藤俊作であると書かれています。(p九一)
ちなみに、いわゆる「五省」
一ツ 至誠に悖るなかりしか
一ツ 言行に恥ずるなかりしか
一ツ 気力に欠くるなかりしか
一ツ 努力に憾みなかりしか
一ツ 不精に恒るなかりしか
満州事変勃発から七カ月後の昭和七年四月二十四日、軍人勅諭下賜五十周年を記念して、生徒自習室に東郷平八郎元帥謹書の勅諭を掲げた。これと同時にこの五省が始められたので、工藤俊作の在校時にはなかった。
つづく
今日は食事に出かけた以外は一日中部屋にいた。朝というより昼に近い時間に起き、風呂に入り、買ってきた古本を読んで一日が終わる。
工藤俊作の生い立ち2
11月12日日曜日晴れ ○
工藤は米沢興譲館中学に大正四年四月七日に合格順位三位で入学した。(正式名称は山形県立米沢中学校)米沢興譲館中学はその元を旧米沢藩の名君第九代藩主鷹山(上杉治憲)により明和八年(一七七一)に藩校として設立されたもので、「興譲館」と正式に命名されたのは、創立から五年後の安永五年(一七七六)九月一九日である。
明治に入り山形県立米沢中学校となり、米沢士族の学校としてステイタス・シンボル的な学校で、海軍大将三名、中将一六名、少将一二名を輩出している。この数は旧制中学では群を抜いている。軍人のみならず戦前財界のトップリーダーであった池田成彬、民法学者の我妻栄、国際ジャーナリストのカール・カワカミなどである。
工藤は五年間、現在の上新田にあった親類の家に下宿して、約三キロの道のりを徒歩で通学した。
工藤は兵学校進学希望者の進路指導担当であった英語教師の我妻又次郎(我妻栄の父)の熱心な教えもあり、難関中の難関である海軍兵学校には興譲館の入学成績が一位、二位の級友の小林英二、近藤道雄とともに進んでいる。
当時、一流中学校の成績抜群で体力のすぐれた者が志すのは、きまって海軍兵学校への受験。次が陸軍仕官学校、それから旧制高等学校、ついで大学予科、専門学校の順であった。
日本の兵学校の凄さは、欧州のそれが貴族の子弟しか入校できなかったのに比べて、学力と体力さへあれば、誰でも入校できたことである。しかも、入学資格は、中学四年終了程度とされていたが、戦前義務教育課程であった高等小学校しか出ていなくとも(現在の中学校卒業相当)、専検に合格さえすれば受験できた。
高木惣吉少将(海兵四三期)は専検合格の学歴で入学した。
その所在地より英国のダートマス、米国のアナポリス、日本の江田島、これらは戦前世界三大海軍兵学校の代名詞とされていた。
つづく
今日は店を片付けた後、まだ、右肩が痛いせいもあり、スポーツセンターに行く気にもなれず、部屋に帰る。
途中、BOOK OFFに寄って何冊か古本を購入。
風呂に入ってさっさと寝るつもりが、明日が休みなので今日買ってきた古本を読んでいて気がつくと外が明るくなっていました。相変わらず、不健康な生活。
醴泉の垂直
11月11日土曜日雨のちくもり ×
今日は多くのお客様が御参加くだささり、そして蔵元である山田敦社長をお迎えしての「醴泉の垂直」。
出品酒
NO.1 平成13年 醴泉正宗 純米大吟醸35% 5年古酒
NO.2 平成14年 醴泉正宗 純米大吟醸35% 4年古酒
NO.3 平成15年 醴泉正宗 純米大吟醸35% 3年古酒
NO.4 平成17年 醴泉正宗 純米大吟醸35% 1年古酒
NO.5 平成18年 醴泉正宗 純米大吟醸35%
NO.6 平成17年 醴泉 蘭奢待 大吟醸35%
NO.7 平成18年 醴泉 蘭奢待 大吟醸35%
NO.8 平成18年 醴泉 純米大吟醸 山田錦40%
NO.9 平成18年 醴泉 純米吟醸 山田錦50%
S@名古屋さん、Mさん二名様、大台さん二名様、G23さん二名様、Kさん、ソニアさん、わ。さん、酔狂師さん、Y@横浜さん、Hさん、金ちゃん、マロさん。そして、遅い時間に美丈夫の蔵元である濱川社長の奥様が来店してくださる。
山田社長のいろいろな酒造りについての御苦労などを伺いながらの楽しい時間でした。九時に終わる予定がいつもどおりドンチャン・・・・・最後は日にちが変わっていました。
多くのお客様御参加いただきありがとうございました。
中日・韓日???????
11月10日金曜日晴れ ×
わが国では普通は「日中」(ほんとは日支と言ってほしい)「日韓」と表記するが、あのキチガイ新聞「聖教新聞」においては、「中日」「韓日」と表示する。たとえば、平成一八年一〇月一九日の記事では
「韓日友好の大道を共に!
慶尚高校一行が関西創価学園へ
文化大恩の国・韓国の皆さん、ようこそ!」
そして、同じく一〇月二七日の記事では
「中日両国の友情のメッセージ」
まるで、支那、朝鮮の報道です。
これはどういうことでしょうか。大田区の朝鮮人部落出身ともいわれていますが、詳しいことは不明とされている池田大作氏の生い立ちのためでしょうか。
Kさん@神奈川山来店。Oさん来店。Hさん五名様来店。酔狂師さん来店。Hさん来店。Tさん二名さまで来店。Oさん二名様で来店。
アホ
11月9日木曜日晴れ ○
今日、久しぶりにgoogleに「酒たまねぎや」と入れて検索してみたところ、「酒たまねぎやURAホームページ」が二つ出てくる。
http://www.tamanegiya.com/ura.html
http://aigoooooo.jog.buttobi.net/tamanegiya/ura.html
です。
ひとつは当店のホームページをそのままそっくりコピーしたものです。
キャッシュでは
http://72.14.253.104/search?q=cache:DHrgMBoXEW4J:aigoooooo.jog.buttobi.net/tamanegiya/ura.html+%E9%85%92%E3%81%9F%E3%81%BE%E3%81%AD%E3%81%8E%E3%82%84&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=15&ie=UTF-8&inlang=ja
このアホの元ページはhttp://aigoooooo.jog.buttobi.net/
となっている。
そこに
「日本ネチズンに大人気のサイトニダ<丶`∀´>
でも全部無断転載ニダ<〃`∀´>ホルホルホル
雑誌の掲載やリンクは連絡不要。勝手にしる!」
と書いてある。
当時の当店のページをすべて無断転載しただけでなく、それぞれのページにネット広告を掲載している。
ナナちゃんの写真が掲載しているページもそのまま引用。
http://aigoooooo.jog.buttobi.net/tamanegiya/nekohyousi.html
もちろん、それにもネット広告を掲載しています。
つまり、リンクではなく、転載しそれをネット広告を掲載し利用しているのです。きっと、何人かは酒たまねぎやホームページと思って御覧になっている方もいらっしゃるでしょう。
まあ、ひどいものです。
こんなアホな輩はそれなり罰を受けてもらいたいものです。どうしようかな〜(とりあえず、画面の保存、保存)
しばらくはネタになりそうです。
こんな腐れページに広告を載っけている会社はろくなもんではないでしょう。
仙台よりIさん三名様で来店。初めてのお客様Mさん来店。Nさん、Tさん来店。Hさん来店。
あれれ
11月8日水曜日晴れ ○
昨日のホームページのアクセス解析とかいうのを見てみました。
統計開始日時 : 2006年11月08日(水) 07時00分.
解析対象期間 : 2006年11月06日(月) 23時59分 〜 2006年11月07日(火) 23時59分 (1.00 日).
ドメインレポート
リクエスト数: バイト数の割合 (%): ドメイン
------------: ------------------: --------
20262: 77.15%: .jp (日本)
2789: 8.52%: .net (ネットワークサービス)
1680: 7.36%: [未解決IPアドレス]
1062: 5.27%: .com (商業団体)
62: 1.11%: .sg (シンガポール)
82: 0.29%: .mil (米国軍事機関)
34: 0.07%: .fi (フィンランド)
25: 0.07%: .fr (フランス)
9: 0.06%: .ru (ロシア連邦)
32: 0.03%: .in (インド)
14: 0.02%: .hk (香港)
1: 0.02%: .my (マレーシア)
6: 0.01%: .org (非営利団体)
2: 0.01%: .de (ドイツ連邦)
2: 0.01%: .au (オーストラリア)
2: : .th (タイ)
1: : .mx (メキシコ)
1: : .se (スウェーデン)
1: : .uk (英国)
1: : .ro (ルーマニア)
2: : .edu (米国高等教育機関)
1: : [未知ドメイン名]
1: : .ae (アラブ首長国連邦)
1: : .ar (アルゼンチン)
米国軍事機関??????
でっ、リンク先
リクエスト数: URL
------------: ---
8108: http://www.tamanegiya.com/ura.html
1816: http://www.tamanegiya.com/index.html
1667: http://www.tamanegiya.com/
870: http://www.tamanegiya.com/baikokudoretudenn.html
753: http://search.yahoo.co.jp/search
15: http://search.yahoo.co.jp/search?p=空母&fr=top_v2&tid=top_v2&ei=euc-jp&search.x=1
12: http://search.yahoo.co.jp/search?p=堂本暁子&fr=top_v2&tid=top_v2&ei=euc-jp&search.x=1
10: http://search.yahoo.co.jp/search?p=朝鮮総連&fr=top_v2&tid=top_v2&ei=euc-jp&search.x=1
でっ、検索された単語
上位 100 検索単語
リクエスト数: 検索単語
------------: --------
29: 空母
22: 土井たか子
22: 福島瑞穂
19: 朝鮮総連
17: 朝鮮総連
17: 大橋巨泉
16: 売国奴
15: 堂本暁子
これって、なんざんしょと思って、思い当たったのが、六日の産経新聞の記事。
以下引用
中国艦上戦闘機 調達へ
露製五〇機 空母計画に関連か
戦力の近代化を進めている中国軍が、ロシア製の艦上戦闘機スホイ三三(SU−三三)を最大五〇機購入する方向で最終調整していることがわかった。防衛庁は中国の空母建造計画と密接な関係があるとして事実確認を始めた。
中国軍の動向を追っているウェブサイト「チャイナ・ディフェンス・トゥデー」などが、ロシア兵器輸出公社ロソボロン・エクスポート社と中国当局の交渉が最終段階に入ったと報じた。情報によると中国はまず二機を試験導入し、技術・能力評価を行い、その後一二機を追加導導入しパイロットの熟練訓練を本格的に開始、最終的に五〇機調達する予定という。
略)
空母建造計画に大きな関心を持っている防衛庁情報本部や海上自衛隊では、中国の艦載用SU三三導入の意図や背景を探るため米軍などと情報交換しながら警戒感を強めている。
産経新聞一八年一一月六日朝刊
インターネットで空母と検索して出てきたのが飲み屋の親父のやっているこんな拙いホームページでがっかりしたことでしょう。
まあ、確かにあの腐れ犯罪国家の北朝鮮が何かやる度にアクセス数が異常に増えますけど・・・・・・
今日は久しぶりにスポーツセンターにいく。インナートマッスルトレーニングのメニューを消化した後にベンチプレスをやるが、九〇キロのウエイトまで問題なくあげることができたが、一一二・五キロをあげると先日、酔っぱらって落っこちた時に痛めた右肩が痛いので、急きょ中止。他のメニューを消化。また、これから数カ月間はスロートレーニングメニューをやることになりそう。
今日は初めてのお客様Aさん二名様で来店。何度もいらしてくださっている女性の方が友人の方と来店。大台さん来店。
今日は飲まず。
工藤俊作の生い立ち
11月7日火曜日くもり
工藤俊作は、明治三十四年一月七日、山形県東置賜郡屋台村竹森、現在の高畠町大字竹森で父七次三十三歳(大正十一年、七郎兵衛襲名)、母きん二十九歳の次男として生まれた。
(七歳年上の兄新一、十歳年上の姉きんがいた)
工藤の幼年期に最も影響を与えたのは、祖父七郎兵衛であった。
祖父は寺子屋で教育を受けており、士族に負けないほどの博学であった。算術と漢学が得意で、とくに漢学は武田竜湖の薫陶を受けていた。
この祖父は、明治十九年八月、長崎に入港した清国海軍水兵が市民に暴行をはたらいた事件と、五年後、清国海軍の軍艦六隻が神戸と横浜に入港したことを知った時「日本は、本格的海軍を持たないと、隣邦にさえバカにされる」と発言していたという。
その後、日清、日露の両戦争で、海軍が勝利の決定的要因を占めたことを知って、自分の考えに間違いなかったことを確認した。そして、孫の俊作を何としても海軍に進めたいと思うようになった。
祖父が幼少の頃、アジアは列強の侵略を受け、蚕食され尽くしていた。わが国も列強から不平等条約を押し付けられて、辛うじて独立を維持する状態にあった。
祖父九歳の時、幕府は、ペリー提督率いる米国艦隊の威嚇に屈して日米和親条約に調印、その結果権威を失墜した。
祖父二十二歳の時大政奉還、これに続いて発足した明治新政府と、東北諸藩が対立して戊辰戦争が勃発する。まさに動乱の時代を祖父は生きてきた。
一方、ロシアは満州を占領し朝鮮半島に迫ったため、明治三十七年二月十日、日本はロシアに宣戦を布告、翌年五月二十七日、東郷平八郎大将(英国ウ−スター商船学校卒)が指揮する日本帝国連合艦隊は日本海においてバルチック艦隊を破り、一躍世界五強国の一つになった。
工藤俊作は明治四十一年四月に屋代尋常小学校に入学。明治四十三年四月十五日に先に書いた佐久間艇長乗り組む第六潜水艇の事故があり、当時屋代尋常小学校では、佐藤貫一校長が、佐久間艇長の話を朝礼で全校生徒に伝え、責任感の重要性を強調し、呉軍港に向かって全校生徒が最敬礼した。
佐久間艇長の遺書を読む佐藤校長の声は涙で途切れ、校内は厳粛な雰囲気に包まれたという。
工藤はこの朝礼の直後、担任の淀野儀平先生に「平民でも海軍仕官になれますか」と尋ねている。淀野先生は「なれる」と言い、米沢興譲館中学への進学を勧めた。
この時代、小学校の身上書には「士族」か「平民」かを記載する欄が設けられていた。
工藤は、三学年後半から、猛然と勉強するようになり、屋代尋常小学校創立以来の高得点を維持し続け「神童」と称されるほどになっていた。
大正四年三月、屋代尋常小学校高等科卒業時には、同期三十六名代表として答辞を読んでいる。
つづく
今日は風が強く、各地で被害があったようで、北海道では九人もの方が竜巻きによりお亡くなりになったそうな。
開店早々、Sさん二名様で来店。I本さん来店。結局、三名様のみ。
でっ、明日はネズミランドが大好きという奥様のために有給をとったというI本さんと飲みだしドンチャン。奥様からは早々と「もう寝る」というメールがありました。きっと、明日に備えてでしょう・・・・・
私の方も明日は河岸が休みなので、I本さんがお帰りになった後は歌舞伎町に酒を持ち込みドンチャン。その後は四川料理のお店で李さんと飯。
火遊び?
11月6日月曜日くもり ○
今日の朝日新聞で「復讐裁判」と書いてあったフセイン元大統領の裁判ですが、我国に対して連合国が行った東京裁判については、朝日新聞は「復讐裁判」と表現したことはあったのであろうか。
朝日新聞のマッチポンプにより支那、朝鮮が騒ぐようになった「いわゆるA級戦犯」とされた先人の皆様の靖國神社合祀についても、戦争法規違反の命令者でもなければ実行者でもなく、敗戦国の指導者であったためだけに当時の国際法にもないものにより巣鴨の処刑台に露と消えたのです。
自らが関与していない一般将兵による通常犯罪にたいする責任と、近代法治国家においては最も恥ずべき事後法による「平和に対する罪」「人道に対する罪」などというものにより、戦勝国の裁判官により裁かれたのです。
これぞ、「復讐裁判」以外のなにもでもない。それは同時にアジア各地でおこなわれた伝聞さへ証拠となったB・C級裁判においても同じです。
TBSの「N23」で次期国連事務総長の朝鮮人に対して筑紫哲也はわざわざ「日本のナショナリズム」「靖國問題」を持ち出していた。それに対して「その国の問題」と言いながら「日本は違う」「正しい歴史認識を持ってほしい」「安部首相は参拝しないと思う」と言っていた。
腐れ売国奴の筑紫哲也らしいインタビュー内容であり、そして、じつに朝鮮人らしい答えでした。
多事争論では「日本の核武装論議」について「危険な火遊び」といい「どこでそのような実験をするのであろうか」といかにもアホな事を言っていた。流石は筑紫哲也です。だてに長く売国奴はやっていません。
筑紫哲也には早く消えてくれるか、北朝鮮にでも行ってほしいものです。
今日は飯を食いに出かけた以外は部屋にいた。先日、ヨッパラッテ寝ていて椅子から落っこった時に打った右肩がまだ痛い。
体調悪し
10月5日日曜日晴れ ○
店を片付けた後、夕方から国分寺へ行く。国分寺にある名古屋コーチンのお店「串串(クスクス)」さんにお世話になる。
MIKAさん、マルガリータさん、Sさん、ケンちゃん、ゆみちゃん夫妻、Tさんの六人。でっ、さすがに体調がいまいち・・・
最終にやっと間に合って帰宅。
どういうわけか大忙し
11月4日土曜日くもり一時雨 ×××
河岸に行く時に昨日の酒が残ったままでした。
連休の中日だからどうせヒマだろうと思っていたのですが、FILIPPOさん、Yさんなど御予約いただいただけでなく、多くのお客様が御来店。
T先生三名様で来店。FILIPPOさん4名様で来店。アンコウ鍋の御予約をいただいていたのですが、今日の築地には活けアンコウは一匹も入荷なし。活けクエを買ってクエ鍋。Tさん二名様で来店。披露宴に出席後MIKAさん来店。マルガリータさん、Sさん来店でMIKAさんとラターシュ1998を飲む。Sさん御夫妻来店。Yさん御夫妻来店。
いつも通りに飲み始め、今日も懲りずにドンチャン。
誕生日パーティ
11月3日金曜日晴れ ×××××
今日は香港でお世話になったMIKAさんの誕生日パーティが当店で開かれ、姫、マルガリータさん、Sさんなど大勢の皆さんが来店。午後七時ごろから始まり遅い時間までドンチャン。御開き後、MIKAさん、姫、マルガリータさんとグラシアンのピンクを持ちもう一件。ドンチャン
井筒和幸というアホ
11月2日木曜日晴れ ×
在日朝鮮人のウソをそのまま信じて映画にまでし、今度また恥の上塗りの映画製作中という井筒和幸氏が東京スポーツの自身のコラムで「防衛省になったら軍事予算増加必至」と題してアホを曝しています。
「それにしても、日本の政治家はコスタリカを見習えよ。軍を廃止して、丸裸の国ですよ」(「井筒和幸だ シバキ!ハンダづけ」東京スポーツ十一月二日)
だそうです。
中南米の人口四〇〇万人たらずの小国であるコスタリカには確かに国防軍は存在しないが、強力な警察力があり、沿岸警備隊、空港警備隊、麻薬取締、特殊襲撃等の特別部隊も存在する。そして、警察力の約半分に当たる四四〇〇人によって組織される市民警備隊は有事に備えて対戦車ロケット砲などの重火器を装備しています。
自国の憲法により軍を廃止し永世非武装中立を宣言していますが、これはあくまで常設軍の廃止であり、非常時には軍隊を組織し徴兵制を敷く事を憲法では認めている。そして、米州相互援助条約(リオ条約)という集団安全保障体制加盟国であり、地域内安保・外交的安保(集団的自衛権)両方で他加盟国と協調関係にある。
治安対策費に百十三億ドル(GDP比〇・七六%)という中米では第三位の金額を使っている。(イギリス戦略研究所「ミリタリー・バランス」二〇〇〇〜二〇〇一)
世の中に自ら国民を守ることを放棄しているなどという国などあるはずがなく、コスタリカはアホの井筒の言うように丸裸の国などではないのです。
ケイザブロウさん来店。KさんEさん来店。大台さん二名様で来店。Mさん二名様で来店。Tさん二名様で来店。
今日もドンチャン。営業終了後、ケイザブロウさんとワインを持ち込み歌舞伎町でドンチャン。その後、四川料理のお店でドンチャン。飲み始めが遅かったせいもあり今日も珍しく最後まで記憶あり。
醴泉の会
11月1日水曜日晴れ ×
河岸から帰ってきて仕込みをしていたら、醴泉の蔵元の山田社長より電話あり。バカッ話しのついでに蔵元に在庫があるということで、十一日の飲んべえの会の出品酒の変更。
NO.1 平成13年 醴泉正宗 純米大吟醸35% 5年古酒
NO.2 平成14年 醴泉正宗 純米大吟醸35% 4年古酒
NO.3 平成15年 醴泉正宗 純米大吟醸35% 3年古酒
NO.4 平成17年 醴泉正宗 純米大吟醸35% 1年古酒
NO.5 平成18年 醴泉正宗 純米大吟醸35%
NO.6 平成18年 醴泉 蘭奢待 大吟醸35%
NO.7 平成18年 醴泉 純米吟醸 山田錦50%
NO.8 平成18年 醴泉 純米吟醸 雄山錦55%
↓
NO.1 平成13年 醴泉正宗 純米大吟醸35% 5年古酒
NO.2 平成14年 醴泉正宗 純米大吟醸35% 4年古酒
NO.3 平成15年 醴泉正宗 純米大吟醸35% 3年古酒
NO.4 平成17年 醴泉正宗 純米大吟醸35% 1年古酒
NO.5 平成18年 醴泉正宗 純米大吟醸35%
NO.6 平成17年 醴泉 蘭奢待 大吟醸35%
NO.7 平成18年 醴泉 蘭奢待 大吟醸35%
NO.8 平成18年 醴泉 純米大吟醸 山田錦40%
純大と大吟ばっかしになってしまった・・・・・・
初めてのお客様Mさん四名様で来店。Aさん二名様で来店。Hさん来店。龍星さん来店。初めてのお客様Oさん女性ばかりで三名様で来店。マロさん、金ちゃん来店。
昨日は飲まなかったので、調子がよい。でっ、遅くまでドンチャン。記憶はあり。