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下川耿史の「日本残酷写真史」にみる捏造と偏向
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
平成20年9月10日水曜日晴れ ×
先日、古本市で購入した「日本残酷写真史」(下川耿史著 作品社 二〇〇六年刊)を読む。この本に挟まれていたパンフレットには「写真は、日本人の残酷さを写し出してきた。」と書かれている。この本を読んで、気になるのはこのパンフレットにあるような著者の偏った考え方による文章です。
<つまり名称は日清戦争でも、狙いはあくまで朝鮮支配であった。だから戦場となったのも朝鮮半島がほとんどで、清国内で戦場になったのは朝鮮半島に隣接する遼東半島と、黄海をはさんで対岸にある山東半島のみにすぎない>P四八
<要するに「朝鮮支配」という日本の近代化の大命題はこういう形でスタートし、以後八〇年近く続くのである。それは必然的に見せしめとしての残虐行為を乱発させることにもなった。>P六〇
我が国にとって、地政学的にも朝鮮が独立国として存在した方が、我が国の防衛、そしてアジアの安定からも、最も望ましいとして、当時の総理大臣である山縣有朋の明治二三年一二月六日の衆議院第一回通常会議における「利益線を保護すること」との演説にもあるように、我が国政府の一貫した姿勢です。
<日清戦争から一〇年目の一九〇四年(明治三七年)二月、日本は、今度はロシアを相手に戦争を始めた。
略)
しかし、この戦争も朝鮮を抜きには語れないことを、いくついかの資料によって知る事ができた。そのポイントは二つある。第一に日本は日清戦争後、国家的命題である朝鮮支配をますます押し進めた。一方、ロシア側は満州の市場独占を図ってどんどん南下してきた。日本とすれば朝鮮支配を確立するためには、ロシアの圧迫を食い止める事がなんとしても必要だったのである。この見方に対しては、「いや、日本も満州の経済的利権を狙っていた」とか、「この頃、ロシアの侵略の意図はかなり露骨で、朝鮮から日本を排除することを目論んでいた」といった主張もあるようだが、それは政治史の論題であって、「われわれの内なる残酷さとは、どんなものか」という私のテーマからはずれるので、ここでは問題にしない。>P六二
<ところで残酷性という観点から日露戦争を見直すと、その特徴は日清戦争で見られたような、あるいは、のちの満州事変や日中戦争、太平洋戦争では当たり前のようになった虐殺行為が起こらなかった事である。
略)
日露戦争では、どうして虐殺が起こらなかったのか、その理由についてはいくつかのことが推測される。
略)
虐殺しようにも相手がいなかったということもあるだろう。
略)
あまりにも戦死者が多いところから、戦闘を一時中止してお互いに友軍の遺体を収容した事が記録に残っているし、
略)
つまり戦争中にタンマの時間が生じて敵味方の区別がなくなり、ただ死者を悼む感情だけが戦場に流れたのである。こういう状況下では、とうてい虐殺という気分にはなれないのだろう。>P七〇
<日本がロシアと対決したのは、アジアの心意気を示すためではなく、
略)
具体的には朝鮮を植民地化することを世界に認めさせるためだったからである。>P七一
そして、写真のキャプションの違いとして。
<処刑された人々。総督府は運動を徹底的に弾圧するため正規軍を投入。デモ隊に無差別発砲する事件が相次いだ。>
「目録20世紀 1919」(講談社 平成一〇年)P三
<日本の警察によって公開処刑にされた、朝鮮の「抗日義兵」。逮捕するや裁判もなしに直ちに処刑した、とされている>P七二
かたや大正八年(一九一九年)の「三・一暴動」(三・一運動と書いてますけど)の時の写真として掲載し、この本では、「写真で知る韓国の独立運動」(高柳俊男・池貞玉訳 国書刊行会 一九八八年)よりとして、日露戦争のころの話としています。
同じ写真なのに、この違いは何でしょう。
また、著者は
<三・一運動では一ヶ月で七九〇九人を殺害し、その中には京畿道水原郡で教会堂を焼き払って住民数十人を虐殺し、その痕跡を隠すため堤岩里という村全体を焼き払ったこともあった。教会堂の中にいたのはほとんどがキリスト教の信者だったので、アメリカやヨーロッパの宣教師に事件を知られるのを恐れたのである。>P一一二
これについては、すでに「宇都宮太郎大将の日記と朝日新聞」 、 「講談社にみる三・一運動の描き方」において、その犠牲者数、堤岩里協会事件の背景などについて書いております。少なくとも、この七九〇九人という犠牲者とされる数値について調べるとそのいい加減さに気づくはずです。歴史というものを書くのであれば、もう少し調べてから書いてもよさそうなものですが、この筆者はそういう気持ちもないようです。
また、「日中戦争と虐殺の広がり」というコーナーでは、<中国人に対する虐殺を南京に限定して語る事ができるかどうかという点である。当時、従軍していた人々の手記や戦記を読むと、中国の他の戦場では虐殺や私刑は日常的に行われており、それだけで分厚な「虐殺辞典」ができるほどである>とまで書いて、
それはあくまで<日本人の残酷さ、日本人が遭遇させられた悲惨さを、残された写真によって振り返るというのが目的の本書>P一七五
と書きながら、保護された朝鮮人慰安婦の写真、ナチスによるユダヤ人虐殺の写真、そして、我が国への米軍による無差別爆撃による写真、米軍のイラク人捕虜の虐待写真まで掲載しているのに、支那人による通州虐殺事件などには触れてもいない。
筆者の偏った思考がよくわかる。