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丸山眞男
平成18年9月8日金曜日晴れ○
<この本は丸山さんの仕事の中でも「最もすぐれた作品」だと、わたしも思います。これほど、「同時代に即した文章であるにもかかわらず、同時代を超える深さや普遍性がある」著作はそう滅多にありません。
略)ほかの方には悪いけど、この本を担当した編集者としては、ちょっと胸がすーとしますね。(笑い)>?p三三〇
<丸山さんはそうではなくて、いかなる場合も、広く深い学問的・時代的経験に立って、全人格的といいますか、全身体的といいますか、持てるものすべてを出しきって、書く主題とわたりあうようにして書かれているように思います。>?p三三五
<丸山眞男の努力目標は「国民の政治意識」の「低さ」を少しでも高めるべき国民に働きかけるというような根気のいる啓蒙活動ではありませんでした。ただもう「あばこうと試みる」暴露と、軽蔑と、嘲笑だけが目指すところのすべてだったのです>?p一〇三
?は今発売されている朝日新聞社の「論座」二〇〇六年一〇月号に掲載された未来社編集者だった松本昌次氏の言葉です。?は谷沢永一氏の著書「悪魔の思想」の丸山眞男氏について、丸山氏のその著書「現代政治の思想と行動」よりの引用などから丸山氏を批判したものです。同じ男の同じ著書を読んでもこれだけ違うのです。
丸山眞男氏について、谷沢氏は「国民を冷酷に二分する差別意識の権化」として、丸山氏の著書よりの引用として
<次に問題へのアプローチの仕方として前もつておことわりしておきたいのは、日本ファシズムをいう場合、何よりファシズムとは何かということが問題になってきます。「お前いきなり日本ファシズムというが、日本にそもそも本来の意味でのファシズムがあったか、日本にあったのは、ファシズムではなくして実は絶対主義ではないのか、お前のいうファシズムの本体は何であるか」という疑問がまず提出されると思います。これについても私は一応の回答は持っておりますが、ここで最初にそれを提示することはさけます。そういうことを、お話すると勢いファシズム論一般になってきます。ファシズムについてはいろいろな規定がありますけれども、こういった問題をここでむしかえす暇はとてもありません。そこでここでは不明確ではありますが、ひとまず常識的な観念から出発することにします。>
「増補版 現代政治の思想と行動」(昭和三九年五月三十日・未来社)?p三〇
これは丸山氏が昭和二二年六月二八日に東京大学法経二五番教室において「日本ファシズムの思想と運動」と題しておこなった講演です。谷沢氏は問題の根幹をなす日本ファシズムの本体は何かという解答はこの講演録だけでなく、丸山氏の著書「増補版 現代政治の思想と行動」のどこにもでてこないと指摘しています。
根拠も示さずに丸山氏は<それは日本ファシズム運動も世界に共通したファシズム・イデオロギーの要素というものは当然持っているからであります。>?p四〇
と書きます。
そして、丸山氏は日本にファシズム運動があったか否かのなんの検証もしないままに、
<日本におけるファシズム運動も大ざっぱにいえば、中間層が社会的な担い手になっているということがいえます。しかし、その場合に更に立ち入った分析が必要ではないかと思います。わが国の中間階級或は小市民階級という場合に、次の二つの類型を区別しなければならないのであります。第一は、たとえば、小工場主、町工場の親方、土建請負業者、小売り商店の店主、大工棟梁、小地主、乃至自作農上層、学校教員、殊に小学校・青年学校の教員
村役場の官吏・役員、その他一般の下級官吏、僧侶、神官、というような社会層、>
<第二の類型としては都市におけるサラリーマン階級、いわゆる文化人乃至ジャーナリスト、その他自由知識職業者(教授とか弁護し)及び学生層>?p六三
<学生層ー学生は非常に複雑でありまして第一と第二の両方に分かれますが、まず皆さん方は第二類型に入るでしょう。こういったこの二つの類型をわれわれはファシズム運動をみる場合には区別しなければならない。>
<わが国の場合ファシズムの社会的基盤となっているのはまさに前者(第一の類型)であります。第二のグループを本来のインテリゲンチャというならば、第一のグループは疑似インテリゲンチャ、乃至は亜インテリゲンチャとでも呼ぶべきもので、いわゆる国民の声を作るのはこの亜インテリ階級です>?p六四
<先にあげた第一の範疇(「小工場主、町工場の親方」以下を指す)は実質的に国民の中堅層を形成し、はるかに実践的行動的であります。>
<しかも彼らはそれぞれ自分の属する仕事筋、或は商店、或は役場、農業会、学校など、地方的な小集団において指導的地位を占めている。日本の社会の家父長的な構成によって、こういう人達こそ、そのグループのメンバーー店員、番頭、労働者、職人、土方、傭人、小作人等一般の下僚に対して家長的な権威をもって臨み、彼ら本来の「大衆」の思想と人格とを統制している。(中略)にもかかわらず彼らの「小宇宙」においてはまぎれもなく、小天皇的権威をもつた一個の支配者である。いとも小さく可愛らしい抑圧者であります。>?p六五
と、驚いた事に日本の中間層がその日本ファシズムの担い手であったと断定し、弾劾し、職業によって二つに分けます。
谷沢氏は東大でおこなわれた丸山氏のこの講演について
<日本社会の中堅層をここまで軽蔑して、見下して、踏みつけにして、悪しざまに罵った文献は史上最初の出現ですから、日本人による日本国民への徹底した罵倒として、外国人の立場からまことに、まことに興味ぶかく多くの人の手から手へ読みまわされたことでありましょう。>と著書「悪魔の思想」に書いています。?p八六
丸山氏自身がその著書「現在政治の思想と行動」の執筆動機について、みずからの回想として
<私は日本社会の恥部をあばこうと試みている>「後衛の位置から」p一〇
と自認しています。
丸山眞男その2
9月11日月曜日雨のちくもり○
先日(9月8日)よりの続きです。
無理を重ねて、それでも日本にファシズム運動があると言い張らねば気のすまぬ丸山眞男氏について谷沢氏は「身に安全なものは罵り、危険なものには擦り寄る卑屈」と断じています。p九〇〜九一
同じ様に丸山氏について、平成大学学長である中村勝範氏が「正論」二〇〇三年一一月号において「変節者の典型であった丸山眞男の神国日本論」という論文を発表されています。以下はその中村氏の論文によるものです。
中村氏は<生きとし生けるものは、環境に適応しなくては生き残れない。軍国主義時代に反軍主義を声高に唱えて世に棲むことは困難である。平和到来と同時に昨日までの主戦論者も途端に宗旨がえをし、誰よりも強く高く、平和教を吹聴しまくることが、生活巧者という者である。>p二六〇
<丸山はマルクス・レーニン主義が青白い秀才達にもてはやされている時代にはその走狗となり、軍国主義の時代にはそれに追従し、敗戦・占領下においては占領軍の奴隷であった。>p二六一
と丸山氏の事を書いています。
「マルキシズムの勉強ばかりしておった」(「緑陰に語る」昭和二四年)
マルクス主義者にもコミュニストにもならなかったが、若い時に決定的といっていいほど影響を受けたのはマルクス主義だと埴谷雄高氏との対談で述べています。(「文学と学問」昭和五三年)
丸山氏が旧制高校の時の昭和八年四月、丸山氏は長谷川如是、戸坂潤らの唯物論研究会の第二回講演会を聞きに行き、本富士署に検挙、拘留されている。そして、翌九年、東京帝国大学法学部政治学科に入学早々、大学学生課から思想犯被疑者として呼び出される。その後、特高から要注意人物としてされていた。昭和一五年六月に東京帝国大学法学部助教授に任ぜられるまで、定期的に特高刑事の来訪や憲兵隊への召喚を受け、陸軍監閲点呼の時に憲兵隊から訊問されていた。(『丸山眞男集』第二巻所収の「年譜」)
丸山氏は昭和九年、東京帝国大学法学部政治学科入学後、夏休みに岡義武の課題リポート執筆のために岩波書店の「日本資本主義発達史講座」を読み耽った。
これは「三二年テーゼ」とされる国際共産党組織が「日本における情勢と日本共産党の任務についてのテーゼ」と題する文書をつくって、日本共産党に授けたもので、日本左翼人にとって、絶対的な心の拠り所です。そして、正統をもって任ずる学者たちが集まって共同執筆し、集大成であり金字塔が「日本資本主義発達史講座」(昭和七年)です。
そんな丸山氏の転向については、その転機を昭和一三年だったと中村氏は書いています。なぜ、一三年か。二月に労農派マルクス主義教授グループである東大教授有沢広巳、大内兵衛など三八名が一斉に検挙された。(第二次人民戦線事件)
そのころ丸山氏は、同じ東京帝国大学の文学部に新たに設けられた国体講座を担当する平泉渉教授の講座をオール出席で聞いている。平泉教授は国粋主義者、皇国史観の主導者として有名であり、学内において右翼思想団体朱紅会をつくっていた。
昭和十四年九月、同じく東京帝国大学文学部に日本倫理思想講座として設けられた和辻哲郎の講座も毎回受講するようになる。
昭和十五年春、丸山氏は「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」を発表。六月、東京帝国大学法学部助教授に昇進した。七月、従七に叙された。
昭和十七年六月、同じく「神皇正統記に現れたる政治観」を発表。これは「神代より後村上天皇に至るまでの、皇位継承を中心とする歴史」を叙述した『神皇正統記』の中に現れている著者北畠親房の政治思想を検討した論稿。中村氏によると中身は真っ赤であるが、偽装としてもとにかく天皇親政、ヒエラルヒー統治を認めたと書いています。
昭和十九年七月、丸山氏は二等兵としての教育のために召集。その時に「国民主義の『前期的』形成」を書く。第一節は「まえがき」。第二節の冒頭に「長く輝かしい国民的伝統を担った我国に於いても(国民意識と国民主義の誕生にはー中村氏要約)明治維新を俟たねばならなかった。もとより我国家体制の特性に基づく神国観念乃至は民族的自恃は建国以来脈々として国民の胸奥の裡に流れ続けてきた」と時勢に迎合する文字を並べている。
これについて、中村氏は「営門がこわかったのである。軍隊の門を入り無事であるためには身にしみついた赤いものはすべて洗い落としておかなければならぬ。丸山は入隊するに当り、私はこのように転向しましたという証文として書いたのが該論文である」?p二六九と書く。
丸山氏は大東亜戦争が終わってすぐに、「超国家主義の論理と心理」(「世界」昭和二一年五月号)を書いた。
それには「国民の政治意識の今日見らるる如き低さ」P十二と言及している。
結語として中村氏は
<丸山は平成八年八月、八二歳で永眠した。丸山への追悼文が『丸山眞男の世界』に収められている。その中でテツオ・ナジタは、丸山は長年にわたり揺る宜ない一貫した姿勢を維持し、学者として知的な批評家として非難の余地のない高潔さこそが丸山の魅力だったと述べている。またマリウス・B・ジャンセンは、丸山ほどのビジョンと強固な意志をもった人物は、日本では明治維新以来ということになるのでないか、と書いている。いずれも読む者が赤面せざるを得ない>P二七〇
と書く。
そして、続いて
<そもそも「非難の余地のない高潔さ」などという言葉は学者のいうべきことではない。古来、日本には、たたいて埃の出ないものはないという。まことに知恵深い諺がある。またマルクス主義が猖獗をきわめた時にはその侍女となり、国家社会主義的革新の風潮時代にはそれにつき、戦争下においては神国日本・一君万民に唱和し、占領下においては占領軍公認の「超国家主義」の尺度により、丸山自身がかって神国日本とたたえた祖国を罵倒した丸山である。変節につぐ変節である。これほど節操のない丸山が、日本国民の中に存在したことは日本民族の恥辱である。>?P二七〇
「論座」に松本昌次氏が絶賛していた丸山眞男氏についての「丸山さんはそうではなくて、いかなる場合も、広く深い学問的・時代的経験に立って、全人格的といいますか、全身体的といいますか、持てるものすべてを出しきって、書く主題とわたりあうようにして書かれているように思います。」という言葉が非常に空しく響きます。
以上の引用は?「論座」朝日新聞社 平成十八年一一月号
?「悪魔の思想」谷沢永一著 クレスト社 平成八年
?「正論」平成十五年一一月号
「増補版 現代政治の思想と行動」(昭和三九年五月三十日・未来社)よりの引用は?の「悪魔の思想」に記載されている引用文による。