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倉沢愛子の歴史観

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


平成19年9月10日月曜日くもり時々雨
 手元に<「大東亜」戦争を知っていますか?>と題された本があります。
「大東亜」戦争としているのは、著者の倉沢愛子氏によれば、<戦後この名称を使うと、戦争肯定派だと思われる傾向があった。略)それと混同されるのは困るから、括弧をつけて「大東亜」戦争と呼ぶことにしている。>(p28)だそうです。
 倉沢氏は実の娘に語りかける形式でこの本を書いています。
 倉沢氏は別の著書「日本占領下のジャワ農村の変容」でも、日本軍による虐殺行為をでっち上げていると高山正之氏に指摘されたことがありますが、
この著書でも随分変な所があります。
在日朝鮮人と強制連行については
 <
これは単に、「日本に滞在している朝鮮人」というような単純な意味じゃあないんだよ。戦争当時は日本の一部であった朝鮮半島の住民は、有無をいわさず、日本や、当時は日本領であった樺太や千島の工場や、鉱山その他で働くために、故郷の家族から引き離されて連れてこられたの。当時(一九三九年以降)は徴用令という法律があって、日本人はもちろんのこと、朝鮮半島や台湾の住民、つまり日本帝国の「臣民」として見なされていた人たちも、「これこれの仕事のために来い」といって呼び出されれば、拒否することができなかったのよ。拒否すれば、「非国民」ということになってしまう。つまり「強制連行」ね。
 終戦になった時、その人たちは、その労働から解放されたのだけど、
帰国に関しては何の手だてもほしょうされなかった自力で帰国するしかなかったの。費用がなかったり、手続きがわからなかったりして、そのまま日本に残留せざるをえなかった人々も多く、そこから「在日朝鮮人」というカテゴリーの住民が誕生したわけ。つまり、強制連行されて帰国できなかった人たちとその子孫たちが、現在日本に住む朝鮮人の大多数を占めているの。
 略)
いずれにしても「在日」といわれる人たちはほとんどが、やむなくこの地に居を定めた人たちなの。このような朝鮮人の運命のことは知らない人もいるのよね。「なぜ、日本にこんなにたくさんの朝鮮人がいるんだろう」と疑問に感じても「きっと隣の国だから出稼ぎに来たのね」くらいに思っているんじゃない?
>p130〜131

 いまどき、ここまでアホな事を言っている人はあまりいません。徴用令が朝鮮半島で実施されたのはいつだと思っているのでしょう。ましてや、戦後は朝鮮人は進駐軍はすべて帰したがっていたので、帰国船も用意していました。希望者はすべてタダで朝鮮半島に帰る事ができました。このような程度の女性が東京大学を卒業し慶應大学で大学教授をやっているのです。

 まったく同じような内容は、『朝鮮人差別とことば』に掲載されていた梶原一騎・矢口高雄両氏と少年サンデー編集部への抗議文にもそれがみられます。この抗議文は「おとこ道」というマンガの中で朝鮮人が敗戦後の我国でやってきた非道を描いたものに対しての抗議文ですが、この抗議文が一部の歪んだ在日朝鮮人の人たちの精神性をよく表しています。
<敗戦当時、日本に居住していた在日朝鮮人・中国人は、植民地支配と侵略戦争によって強制ないしは、なかば強制的に日本に連行されて来た人たちとその子供たちで、日本帝国主義の犠牲者以外のなにものでもない。>
日本朝鮮研究所運営委員会
『朝鮮人差別とことば』内海愛子、梶村秀樹、鈴木啓介編 明石書店1994年刊 

 この内海愛子女史の名前もこの著書にはよく出て来ます。類友なのでしょね。
 この倉沢女史は序文で<たくさんの聞き書きの中から、大勢の人が一様に語ったことだけを「事実」として仮定して歴史を組み立ててみたの。「大勢の人が一様に語った」といっても、それがたとえば国家による思想教育などによってそのように語るように仕向けられていることだとしたら、これはデーターとして採用するわけにはいかないわよね。それが聞き書きによる歴史の怖いところなの。当時のインドネシアの国定教科書に書かれていることが必ずしも真実だというわけではないのよ。だからデーターの新偶成に関するスクリーニングは、お母さんが一番苦労したところです>p一五〜一六
って、自分のイデオロギーにそった発言だけしか認めないってことなのでしょうか。
 在日朝鮮人に関しての事だけでも、この倉沢女史の程度がわかりますが、そのような人からこの本の副題である「東南アジア研究にとりくむ著者が若い世代に語る日本の戦争の真実」って・・・・・・
倉沢女史のお話まだまだ続きます。


倉沢愛子 慰安婦と補償問題
10月4日木曜日晴れ ○

なぜ、戦時売春婦に対して我が国が補償をしなければいけないのか。倉沢女史はそれについて下記のように書いています。 
以下引用
 こういった訴えに対して、一九九四年に、女性のためのアジア平和国民基金(通称アジア女性基金)という民間団体が設立され、民間からの寄付金を集めて、元従軍慰安婦であったことが認定された女性に対して、償い金を支払うことになった。この組織の運営には、政府の補助金が拠出されているが、あくまで民間団体である。補償は民間の団体ではなく、日本政府が直接取り組むべきだという反対意見などもあるが、すでに、韓国やフィリピンの一部の被害者には、償い金が支払われている。しかし、インドネシア政府社会省は、一九九六年に、「アジア女性基金からのお金は個人的に受領する事は認めない。養老院などの社会福祉施設の充実の為に使う」という方針を発表した。そしてその目的のために、アジア女性基金は、三億八〇〇〇万円を一〇年間でインドネシア政府の社会省へ支払う事になった。しかし、恥を忍んで名乗り出た元従軍慰安婦の人たちは、当然それでは不服であり、前述のマルディエムさんもそれを怒っていた。年老いて、医療費も十分払えないような状況にいる老女たちにとって、ともかくいますぐ必要なのは現実的な解決方法ではないだろうか、と私は思う。なぜなら、マルディエムさんが言うように、もう時間がほとんど残されていないのだから。
引用終わり
P168〜169
<「大東亜」戦争を知っていますか。>倉沢愛子 講談社現代新書より引用

 これだけで、売春婦に対して我が国が補償しなければいけない理由を見い出す事ができる方はいらっしゃるでしょうか。売春という仕事をして稼いで、年をとったから日本政府が金を出せと言っているだけなのです。

<もう時間がほとんど残されていないのだから。>どうぞご勝手に!

 同じく我が国の戦後補償について倉沢女史は下記のように書いています。
以下引用
 ところで日本が独立を回復したのち、最初に片付けなければならなかった問題は、何だったと思う?そう、戦争の傷跡をなんとか癒して、各国との間にあるしこりを取り除いていくことよね。つまり、単に条約というような法的な解決だけじゃあなくて、本当の意味で「仲直り」しねくちゃならなかったの。そしてそのための第一歩としてまず問題になったのが、戦争賠償の支払いという問題だった。他人に何か迷惑をかけたとき、「損害賠償」を支払うでしょう?それを国と国との間でもやりましょうというわけ。
 それで、実際日本は、どんな形でいくらぐらい支払うべきかを、相手方との話し合いのなかで決めて行く事になり、それが戦後最初の本格的な日本の東南アジア外交の課題になったのよ。そして一九五〇年代を通じて支払い対象国との間に賠償交渉が行なわれ、それが妥結してからは、分割でその支払いが行なわれたの。
 略)
そんなふうに日本は一応きちんと賠償を払ったの。でもそれでも、実はいまだに、戦後処理が未解決だっていわれるのよね。P234
略)
 ところが、一九八〇年代になって、東南アジア諸国の開発政策も一定程度の成果を生み出して一段落してくると、日本に対する眼差しも多極化してくるようになった。そんな時、一九八二年に、文部省の検定で、日本の高等学校の歴史の教科書の記述をアジアへの「侵略」から「進出」という曖昧な用語に書き換えさせたという報道がなされ、これに対し、アジア諸国が激しく異義を唱えたのであった。これ以降、日本政府も歴史教科書検定基準として「近隣アジア諸国間の近代史の歴史的事実に対する取扱いに国際理解と国際協調の見地で配慮する」という、いわゆる「近隣条項」を導入せざるをえなかったほどである。このことは、アジアにおいて日本が残した戦争の傷痕は、決して経済協力によって免罪されてなどいないということをはっきり示していた。
 そのようななかで今度は、一九九〇年代初めに韓国において、元従軍慰安婦だったとして名乗りを上げる女性達がでてきて、日本への個人補償要求が持ち出された。これまで日本は個人補償はいっさい拒んできた。そしてそれまで支払われた賠償は、あくまで国家に対するものであり、個々人への補償ではなかったのである。
P239〜240

 これはつまり、正式に結ばれた国家間の条約だけではない。もっと金を出せといっている朝鮮人売春婦や支那の国がらみの集りと同じ事をこの倉沢女史はいっているのです。他の売国奴と同じくこの近隣条項が誤報が発端となり結ばれたという経過を書いていません。また、同じく「アジア各国」ではなく、支那、朝鮮だけがその時に馬鹿マスコミの御注進により騒いだという事も書いていません。
 我国の大東亜戦争による被害を騒ぐのであれば、どうしてこの倉沢女史は専門であるはずの三〇〇年以上にわたるオランダのインドネシア植民地統治を騒がないのでしょう。そして、そのインドネシアがオランダより独立する時に、オランダはインドネシアに対して残した資産の代金として莫大な金を要求し、インドネシアはオランダにその金を支払った事を書かないのでしょう。
 同じ事であれば、我国は支那、朝鮮、台湾に莫大な資産を残してきており、その国々が独立する時にそれぞれの国々に資産を買い取らせることができたはずなのに、逆に朝鮮には賠償金という名目ではないが金をやっています。
このような事を倉沢女史などはどうして指摘しないのでしょう。
胡散臭い女性です。

倉沢愛子 朝鮮語抹殺
10月5日金曜日晴れ一時小雨 ×

 この倉沢女史は大学教授と思えぬほどの無知ぶりを発揮しています。
以下引用
 朝鮮では一九三八年から学校教育において朝鮮語の学習が禁止され、翌一九三九年には朝鮮人も日本名に改名する事を命ずる法令が公布(P80)

 周知のように、朝鮮、台湾では日本語が「国語」として位置付けられ、教育の場から民族の言葉を抹殺する試みが行なわれた。朝鮮では、授業時間外に友人どうし会話する時にも「国語=日本語」の使用を義務付け、それをチェックするために、校内に「国語常用箱」を設置した。朝鮮語を使用した聖徒を見たら、その名を書いてこの箱に入れることになっており、投書された生徒は週末に処罰されるというほど徹底していた。(P199〜200)
<「大東亜」戦争を知っていますか。>倉沢愛子 講談社現代新書より引用終わり

 とても正気とは思えません。
 何度も書いていることですが、我国が統治している間に、朝鮮語が禁止された事は一度もなく、ハングル文字が普及したのは我国の朝鮮統治時代であるのは明らかです。
 日本が朝鮮半島の普通学校(小学校)で朝鮮語教育を止めたのは一九四一年(昭和一六年)であるが、授業が無くなっただけで、禁止したわけではない。一九三八年には選択制になったが、朝鮮人校長の学校ではすぐ朝鮮語教育を止めたのに対し、日本人校長の学校の方が続けたとの事です。
 いずれにせよ、我国の統治時代のそれまで三〇年近くは朝鮮語が必修科目であったばかりでなく、官庁では一九三九年まで朝鮮語の学習を奨励する朝鮮語奨励費が支出されている。約三〇年為政者は朝鮮語を学び、朝鮮人には日本語を学ばせ、意思の疎通を図るように努力したのです。

 明治四三年(一九一〇年)併合後の日本は朝鮮半島における学校教育で朝鮮語を必修科目とし、その後、朝鮮半島では昭和一二年(一九三七年)まで必修であり、その間に初等教育の普及は大幅に進んだ。
毎日申報は終戦までハングル文字の新聞を発行していたし、京城帝国大学では朝鮮語学科および朝鮮史も終戦まで続けられていた。
 倉沢女史はこのような事実も無視して、「教育の場から民族の言葉を抹殺する試みが行なわれた」と書くのです。

 この倉沢女史は他の本の巻末にも下記のような事を書いています。
以下引用
「占領地インドネシアにおける日本語教育で重要なことは、植民地であった朝鮮や台湾のように、被支配民族の言語を否定して、学校教育の場で日本語だけを使うよう強制するようなことはせず、あくまでインドネシア語の使用を第一とした点でである」
引用終わり
「日本占領下 バリ島からの報告」(鈴木政平著 草思社刊)の巻末解説p二九七より

 事実を事実とせずに、自分のイデオロギーに基づいた考え方によってしか、物事を見ていない典型的な例です。

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