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毎日新聞・久木田照子
日記の文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
毎日新聞・久木田照子氏は第2の松井やより?
平成22年8月16日月曜日晴れ 暑い ○
毎年この時期になると、先の大戦は「悲惨だった」「我が軍は悪い事をした」「我が国は他国を侵略した」というような新聞記事、テレビ番組ばかりが掲載され、放送されます。
今年もアホ首相によるアホ談話、アホ国営放送によるアホ番組、そしてアホ新聞社によるアホ記事。
一番のアホ記事は昨日、エロ日新聞(通名毎日新聞)に掲載された下記の記事でしょうか。
以下引用
<元日本兵>捕虜刺殺私が命じた 話すことが責任…体験語る
2010年8月15日22時16分 毎日新聞
終戦から65年を迎えた15日、和歌山県の元日本兵(90)が、中国人捕虜を刺殺するよう部下に命じた経験を初めて語った。兵隊の訓練のためにやむを得ないと自分を納得させてきたが、「むごいことをした」との思いが消えなかった。90歳の今、「人に伝えておかないと、世の中が再び戦争に向かう恐れを感じる」と、取材に対し口を開いた。【久木田照子】
20歳だった1941年3月、中国南東部の江西省に出征した。進軍する中で、現地住民らにニワトリや卵の提供を強いたこともあった。「中国の人を救うための聖なる戦争と教えられてきたが、本当にこれでよいのだろうか」。疑問を感じながら、銃撃戦をしたり、上官に素手や革ベルトで殴られる日々を過ごした。
伍長だった43年春、新たに兵役に就いた5人ほどの部下に25歳ぐらいの捕虜の男性を銃剣で刺すよう命じた。戦闘で度胸をつけるために必要だと考えた。捕虜の処遇を定めた国際法の規定も教えられていなかった。
捕虜は後ろ手に縛られて引き出された。部下は1人ずつ約10メートル走って胸を突き刺した。殺されると察知した捕虜の男性は「あー」と大声で叫び続け、刺されて息絶えた。
帰国後、このことは家族にも話せなかった。「(国際法に対する)自分の無知があの命令を下させたと思う。殺し、殺されるかもしれない戦争で理性が失われていた」と振り返る。08年と今年、市民団体の催しで出征体験を話した。ただ、捕虜を殺させたことについては語らなかった。
国のため、家の名誉のため、赴いた戦争。「批判する力を持たず戦争に加担した一人として、多くの人とともに反省し、他国との友好関係を築く責任がある」と語る。成人した4人の孫らにも、体験を語るつもりでいる。
最終更新:8月15日22時16分
引用終わり。
匿名で書かれたこの記事の信憑性はどうなのでしょう。
裏付けは採られたのでしょうか。
匿名で書かれた本で話題になったのはあの大阪のアホ教師・松岡環女史の「南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて」(社会評論社 平成十四年刊)でしょうか。百二名もの証言を収録しているというのに、総て匿名であり、不思議とその当時の同じ聯隊の方でも実名で証言されている方の所には尋ねておりません。そして、同じ南京戦の証言集「南京事件日本人48人の証言」の著者阿羅健一氏より二百以上の嘘があると指摘されています。
ちなみに、阿羅健一氏の「南京事件日本人48人の証言」は総て実名です。
下記の記事も久木田照子記者によるものだが、記事は検証が全くされていない。いや、嘘つきの嘘を平気でそのまま書くと言った方が良いだろう。
以下引用
悼む:旧陸軍兵士・戦争出前噺1300回、本多立太郎さん=5月27日死去・96歳
◇「最悪の事実」包み隠さず−−本多立太郎(ほんだ・りゅうたろう)さん=腎臓がんのため5月27日死去・96歳
第二次大戦で中国などに出征し、その体験を全国で話し続けた。「平和を守ろう」とは言わなかった。「私の罪は消えない。語るなら最悪の事実を語るべきだ」と約25年間、つらい記憶を淡々と話し、「聞いた人が自分で考えてほしい」との姿勢を貫いた。
北海道出身で、25歳で旧陸軍に入隊。シベリア抑留後、47年に帰国した。金融機関を退職後の86年、「孫に軍服を着せたくない」と戦争出前噺(ばなし)を始めた。それでも「最悪の事実」を語れたのは100回を数えたころ。隊長の命令で後ろ手に縛った中国人捕虜を川岸に立たせ、銃剣で突き殺した。捕虜は真っ青な顔で笑ったように見えたという。
09年6月、京都市の龍谷大で出前噺に臨む本多さんを取材した。背筋を伸ばして語る姿は95歳には見えなかった。捕虜殺害後、何を背負ったか、戦後の日本をどう考えたか。学生の問いに答えるうちに5時間近くたっていた。
1人の女子中学生のため、喫茶店で話したこともある。本多さんの決意を知った大阪府枚方市の元兵士(故人)は06年、戦時中のフィリピンで捕虜を生体解剖した自らの体験を初めて証言した。
晩年は、車を運転して出前噺に同行した、牧師の佐伯晴郎さん(83)=同府富田林市=と戦時下の経験を語り合い、憲法9条を海外で伝える誓いもした。各国の知人らと協力し、日本国憲法を十数カ国語に翻訳。若いころあこがれたパリを最初に訪問する予定だった。同世代の戦争体験者から孫のような学生まで本多さんの語りに突き動かされ、学生が同行を申し出ていた。
昨年の予定だったパリ訪問は体調不良で今年6月に延び、果たせずに逝った。だが世界に平和を訴える夢は、事実を聞いた人たちに受け継がれるだろう。【久木田照子】
毎日新聞 2010年7月11日 東京朝刊
引用終わり
この本多立太郎氏は言っている事がデタラメなのは、多くの証言より明らかです。
それについてはこの日記に書いたことがございます。
これををご覧下さい。→本多立太郎
そして、
<本多さんの決意を知った大阪府枚方市の元兵士(故人)は06年、戦時中のフィリピンで捕虜を生体解剖した自らの体験を初めて証言した。>
と書いている元兵士とは、これも久木田照子女史自身が平成十六年(二〇〇六年)に記事にしている牧野明氏の事です。
以下引用
<生体解剖・フィリピンでも大戦末期元衛生兵が証言>
第二次大戦末期、フィリピン・ミンダナオ島で、負傷兵の治療などに当たっていた元上等衛生兵曹の牧野明さん(84)=大阪府枚方市=が、仕えていた軍医とともに現地住民を生きたまま解剖したことがあると証言、その体験を基に、近く語り部活動を始める。解剖は軍医が衛生兵の医療実習として個人裁量で行ったとみられる。戦時中の生体解剖は旧満州(現中国東北部)の生物戦部隊「関東軍731部隊」が中国人に行った例が知られているが、専門家によるとフィリピンに関する証言は初めてという。【久木田照子】
牧野さんは海軍第33警備隊の医務隊に所属。1944年8月から同島西部のサンボアンガ航空基地で負傷兵の治療などに当たった。医務隊は30代の軍医(大尉)を筆頭に、補佐役の牧野さんら三十数人がいた。牧野さんによると、解剖は同年12月から、米軍のスパイと疑われた住民(捕虜)に対し、基地内の病院で行われた。軍医の指示を受けながら2人で執刀。麻酔をかけた上で、10分〜3時間かけて、手足の切断や血管縫合、開腹手術などをした。解剖中は部下が助手や見張りをした。米軍上陸直前の45年2月まで3日〜2週間ごとに行われ、犠牲者は30〜50人に上るという。遺体は部下が医務隊以外に知られないように運び出して埋めた。牧野さんの部下だった80代の男性は「かわいそうで解剖には立ち会わなかったが、(何が行われていたかは)仲間に聞いて知っていた。遺体も見た」と話している。解剖が始まる2カ月前には、レイテ沖海戦で日本海軍が壊滅的な打撃を受け、サンボアンガも空襲されるなど戦局は厳しさを増していた。軍医は牧野さんに「おれが死んだら、おまえが治療を担当しなければならないから」と解剖の理由を説明したという。45年3月に米軍が同島西部に上陸後、日本兵はジャングルを敗走。病気や飢えなどで医務隊も大半が死亡し、軍医は自決したという。牧野さんは「命令に逆らえず、むごいことをした。戦争体験者が減りつつある今、自分には戦争の真実を伝える責任がある」と話している。(毎日新聞)2006年10月19日
引用終わり
しかし、牧野明氏は初めて証言したと書いた久木田照子女史の記事の十年以上前より枚方日教組としてこの様な証言を繰り返していました。
例
<一九九四年七月二十六日から二十七日
枚方日教組主催
戦争体験を聞く 牧野明 ミンダナオ戦線生き残り兵士>
このように久木田照子女史の姿勢は他の記事でも同じです。
この和歌山の九十歳になるという元兵士の証言
< 伍長だった43年春、新たに兵役に就いた5人ほどの部下に25歳ぐらいの捕虜の男性を銃剣で刺すよう命じた。戦闘で度胸をつけるために必要だと考えた。捕虜の処遇を定めた国際法の規定も教えられていなかった。
捕虜は後ろ手に縛られて引き出された。部下は1人ずつ約10メートル走って胸を突き刺した。殺されると察知した捕虜の男性は「あー」と大声で叫び続け、刺されて息絶えた。>
と、本多氏の
<「昭和十四年十月、新兵として、私は訓練の中で、一名の中国人捕虜を自分の手で殺した。
この悪夢は一生忘れません。」
「私は、中国人捕虜を殺しました。捕虜が『あぁー』と長江の流れの中に沈み、血が長江の中からさかんにわき上がっていた。あっちこっちに死体があった。私は永遠にその時の『あぁー』の声を忘れない」>
(支那における講演にて)
<一人ずつ傍の水車小屋を背にして立たせる。十メートルくらい離れた所で銃剣を構える。だーと走ってグサリと突く。引く。そのまま横倒しに倒れて流れに落ち込み、流れていく。>
「ポレロが聴きたい」p三十
なんとなく似てるんですよね。
まあ、気のせいでしょうけど。
ところで、今までの久木田照子女史の記事は証言者が実名であったが、この度の記事だけ匿名であるばかりか、所属部隊名も書かれていない。
どうしてであろうか。
不思議ですね?
資源ゴミを出してから帰宅。
今日は酒を飲まず。
サッサと寝る。
エロ日新聞(毎日)の亡国企画
8月18日水曜日晴れ 暑い ×××××××
エロ日新聞(通名毎日新聞)の「我が国が悪い」特集というか姿勢は「平和の糧に:背負ってきた65年」と名付けられた今回の戦争特集にも良く現れています。
以下、それぞれ一部引用
8月11日 平和の糧に:背負ってきた65年/1 旧満州日本兵・坂本信一さん /石川
<北陸2010>
<蛮行への悔恨が…「まだ戦争、終わってない」−−坂本信一さん(88)
自分が手にかけた中国人青年の遺族が「お前が殺したのか」と訪ねてくる−−。日本支配下の旧満州(現中国東北部)で日本兵だった坂本信一さん(88)=石川県かほく市=は、戦後65年たった今もそれが「ありうること」だと思っている。それほどまでの「蛮行」への悔恨が「伝えなければ」との思いを生んでいる。
略)
三十数戸が点在する明け方の集落。捜しても八路軍の姿は見えない。1人の中国人青年を捕らえた。「他の兵はどこに行ったんだ」。詰問に無言を貫いた青年は上官に「スパイ」と認定された。処刑と即決した。
「坂本、お前が一番に突け」。普段前線に出ない坂本さんがあえて指名された。
青年は後ろ手に木に縛り付けられていた。「前へ、前へ、突け、前へ、前へ、突け……」。上官が繰り返す。もう正気でなかった。心臓目がけ、銃剣を刺した。そのうなり声だけが今も耳に残る。「『やらされた』とは言わない。やったのは私。私が人を殺したんです」。自らに言い聞かせるように語調を強めた。
終戦後、かほく市に戻ったが、「あのこと」は沈黙を貫いていた。03年、戦時中の中国人の強制連行を巡る裁判を支援している金沢市議から、旧満州での経験を話してほしいと頼まれた。誰かに話したいとの気持ちはずっとあった。これをきっかけにしようと思った。数十人を前に、初めて告白した。「涙、鼻水は出るわ、大変だったけど、包み隠さず話せた」。少し、安らぐ思いがした。
「一つのしょく罪のつもりで」始めた裁判支援は7年がたつ。過去に犯した罪で「中国の官憲に引っ張られるのでは」との考えが今でもふと頭をよぎる。「自分の中ではまだ戦争は終わっていない。体が許す限りこれからも体験を伝えていきたい」【松井豊】>
8月12日平和の糧に:背負ってきた65年/2 韓国の国民学校で教員、杉山とみさん /石川
<日本語や神社参拝強要 ごう慢さを後悔−−杉山とみさん(89)
日本の植民地時代の韓国・大邱(テグ)。1921年夏、帽子店を営む両親のもとに生まれた。現地の女子師範学校を卒業し、太平洋戦争が始まった41年、今の小学校にあたる達城国民学校で初めて教壇に立った。
現地ではこのころ、朝鮮語教育が禁じられ、日本名に改名させられていた。杉山さんも子どもたちに軍歌を教え、神社に参拝させた。日本語が分からない子どもと朝鮮語が分からない教師。出席もとれず、悪戦苦闘した。
やがて終戦。兄は戦死し、杉山さんと両親、兄嫁と2人の子の家族6人は「異国」にとり残された。家族がいる疎開先に帰ろうとしても、日本人を乗せてくれるバスはない。そんな時、教え子の金正燮(キムジョンソプ)さんが手を差し伸べてくれた。「先生は僕が守ります」。自転車で疎開先まで送ってくれ、食べ物や牛車も手配。日本に出発するまで面倒を見てくれた。
金さんは後に韓国の領事となり、72年に札幌に赴任。妻も杉山さんの教え子で、3人で再会を果たした。「純真な韓国の子どもたちに日本語を強要した」。戦時中とはいえ自分たちのごう慢さを後悔した。
戦後、ずっと心残りだったことがある。杉山さんが3カ月の内地留学で学校を離れていた間、教え子の1人が女子挺身隊として富山市の工場「不二越」に行ってしまった。「仕事をしながら勉強も習い事もできる」との甘言につられてのことだった。「小学校を出たばかりの子を見知らぬ土地で働かせるなんて」。ショックは大きかったが、どうすることもできなかった。
その教え子が93年、日本政府に強制労働などへの謝罪と賠償を求めた「関釜訴訟」の原告として来日した。杉山さんはそれを知り、彼女と再会。聞けば工場が空襲に遭い、韓国に送り返されたのだという。日本では空腹のまま長時間働かされ、郷里では「逃げ帰った非国民」と陰口を言われた。戦後は女子挺身隊への偏見のため、正式な結婚もできなかった。杉山さんは原告側証人として出廷し、彼女を支援した。
韓国に「ゆく言葉が美しくてこそ、帰ってくる言葉も美しい」ということわざがある。杉山さんはこの言葉を胸にたびたび訪韓し、他の教え子とも交流を続けてきた。6月、富山市の市民グループが開いた韓国併合100年を考える勉強会で、杉山さんはこう訴えた。「統治される側の苦しみ、屈辱がどんなにひどいものか、忘れてはいけない」【青山郁子】
■ことば
◇韓国併合
日露戦争以降、韓国政治への介入を強めていた日本は、1910年に韓国併合を強行。第二次大戦終結まで植民地として統治した。現地では日本語の強要をはじめとする「皇民化教育」が進められた。>
8月13日 平和の糧に:背負ってきた65年/3 福井空襲の語り部、宮下一志さん /石川
◇「弱者が犠牲」訴え 不戦考える出発点に−−宮下一志さん(74)
「私たちは、戦争体験を語ることができる最後の年代だと思う」
< 元福井市職員、宮下一志さん(74)は、小学3年生で福井空襲を体験した。97年に「市歴史ボランティアグループ『語り部』」を作り、代表として戦争を含めた地域の歴史を語り継いでいる。
福井空襲を語り始めたのは、つい数年前からだ。グループの仲間で空襲を語っていた人が県外へ転居することになり、後を託された。離れた所から空襲を見ていた自分で良いのかと、戸惑いもある。だが「グループの中で他に体験者がいない」と説得された。
略)
「子どもたちは『戦争は嫌だ』と思っている。体験を聞いて『どうしたら戦争をしないか』を考える出発点にしてほしい」>
2010年8月14日
平和の糧に:背負ってきた65年/4 日中戦争の加害を語り継ぐ、森原一さん /石川
<残虐な罪、悔恨の日々
旧日本軍が中国を侵略した日中戦争。終戦後に続いた中国内戦では残留日本兵も参戦した。二つの戦いでの残虐な罪を人前で語ることで、反戦平和、日中友好の時代を若い世代に託したいと考える元兵士たちがいる。
金沢市在住の元陸軍少尉、森原一(はじめ)さん(87)が「最大の罪」と認めるのは、内戦で捕まえた若い中国人3兄弟を拷問し、銃殺を命じたことだ。「農民なので何も知らない」との兄弟の言い分に構わず「処置しろ」と、あごでしゃくった。「当時の激しい抵抗の目つきが頭から離れません」>
<罪を認めると、処遇が変わった。屋外でのスポーツやダンスに参加するのを認められ、長距離の鉄道旅行に連れて行ってくれた。>
「中国帰還者連絡会」(現在は解散して「撫順(ブジュン)の奇蹟(きせき)を受け継ぐ会」が活動を継承)の会員
<罪を許された人は中国の「寛容政策」に感化され、帰国後「中国帰還者連絡会」を組織して証言と反戦の活動を続けた。>
引用終わり
以上であるが、何ともわかりやすいバカどもの発言ばかりです。
一番は、謝罪屋としてアホウ支那人の裁判を支えている。
二番は、朝鮮人いい人ばかりで日本人「だけ」が悪かったというあの元教師の嘘つきババアである故池田正枝氏そのままです。
まあ、一九四一年に初めて教壇にたったつうのもミソですね。それまでは、普通に朝鮮語が教えられていましたから。三十五年間の統治で最後の四年間だけを取り上げる・・・・
三番は、ただただ子供達に恐怖を植え付け「戦争は嫌だ」と思わせているだけです。
では、同時に、どうして無差別攻撃をやった米軍の非道を説かないのでしょうか。
四番は、中帰連の洗脳されたアホ元兵士の典型的なパターンです。
いずれも、これから我が国を背負ってゆく者に対して、いかに先人は無駄な戦争をしたか。いかに愛国心が無意味か。いかに国を愛さない個人主義が良い事かを説くだけです。
どうして、我が国を護る為に戦った先人の雄々しき戦いを伝えないのでしょか。
どうして、他国の暴虐を伝えないのでしょうか。
当時のソビエト、支那、アメリカ、イギリス、オランダ、フランスの暴虐を書かないのでしょうか。
南京攻略戦のことよりも通州虐殺、捕虜に対する醜い仕打ち。突如参戦して来たソビエトの満州、北方領土における暴虐。アメリカ軍の戦場における戦い方。無差別攻撃。死者に対しての扱い。
戦後の多くの収容施設における仕打ちの数々。
先人が受けて来た、耐えて来たそれらの「歴史の事実」を経て、今の我が国がある。
国家とは先人が流して来た血をぬきには語れない。
ただただ、我が国「だけ」が悪いと教える戦後教育とマスコミ。
ただただ、平和を言っておれば平和なのだと思わせるマスコミ。
「無防備マンが行く!」というアホマンガを書いた秋元裕美子女史を喜々として取り上げたエロ日新聞の久木田照子記者の姿勢がよくそれを現しています。
他国の国歌のうちただただ平和だけを歌い上げているだけの国歌があるとでもいうのだろうか。
植民地主義の時代、欧米諸国は統治する植民地の歴史、神話を教えなかった。
それは、そこの民族の背骨を無くす為です。
同様に、大東亜戦争後、占領軍は我が国に対しては、先人が悪かった。
日本人「だけ」が悪かったと間違った嘘の歴史を教えて来た。
それにより、我が日本民族の誇りを奪っていった。
エロ日新聞(毎日新聞)を始めとする腐れマスゴミは第二、第三の吉田清治、池田正枝を一生懸命作り続けています。
先人に感謝をしない民族は滅びる。
メチャヒマ。
初めてのお客様二名さま来店。
Wさん御夫妻来店。
ドンチャン。
イデアルさん、エムズバーさんに伺う。
記憶全くなし。
サル以下