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洪思翊(こう・しよく)将軍
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
洪思翊日本帝国陸軍中将についての追記
平成15年6月5日木曜日晴れ○ 追記平成17年10月4日火曜日くもり×
創氏改名は強制などと南朝鮮がいろいろと理不尽な言い掛かりを言ってきています。
相変わらずの民族です。しかし、下記のような場合はどう言いか掛かりをつけるのでしょう。
朝鮮半島出身の人で洪思翊(こう・しよく)という名前の日本帝国陸軍中将がいました。明治40年9月(1909)に純宗は大韓帝国の軍隊の解散を命じ、明治42年9月、36名を選抜し日本の中央幼年学校に入学させました。その中のひとりが後の洪中将です。その1年後に日本に併合されましたが、36名はそのまま訓練を続け、任官してから出処進退をきめることにしました。この時の一人池晴天(のちに池大亨と改名)は大正八年、3・1独立事件後陸軍中尉のときに脱走して上海の金九の上海の大韓民国臨時政府に馳せ参じ、重慶に移動して光復軍の司令官となりました。
しかし、洪氏は亡命せずに一九一四年、大正三年に陸軍士官学校を二六期として七四二人中序列は三一番で卒業し、当時のエリート校であった陸軍大学校に進学し、中将にまで栄進しました。
終戦時には南方軍総司令部の兵站(へいたん)総監を勤め、戦後、捕虜虐待の罪を問われてフィリピンで刑死しましたが、もちろん洪中将が捕虜を虐待したという事実はなく、当時現地で行われたB・C級戦犯の裁判は、東京裁判と同様、被告に不利な証言だけが証拠として採用された。はじめから結論ありきの、戦勝国による"復讐"裁判でした。
山下奉文大将に続いて、絞首刑の判決を受けた後、しばらくして周りの人に「絞首合格だったよ」と語り、平然として処刑台に向かったと言われる。もちろん、徴兵検査の「甲種合格」にかけた言葉である。
昭和二一年九月二六日、処刑される時に現在西鎌倉在住の牧師であるクリスチャンであった片山弘二氏に「旧約聖書の『詩編』第51編を開いて読んでほしい」と依頼して、13階段の下まで歩いてゆくと「片山君、元気で帰るんだよ。君にも神様が何か使命を与えている。その使命のためにいきるんだよ」と肩を叩き、13階段を登りながら一時振り返り「神の国で待っているよ」と言い残したそうです。これが、中将の最後の言葉となりました。
インドなどアジアにおける欧米の植民地統治下で、現地人が下級将校になった例はありますが、将官にまで栄達した例はありません。日本と朝鮮との場合は、併合ですので、少し違うかとおもいますが(しかし、日韓併合を植民地支配と過って認識している場合が多々あります)日韓併合の後、朝鮮半島を支配していた李王家の貴族は、日本の華族に列せられたが、洪中将は李王家の縁戚でもなんでもない。それでも中将にまで出世した理由は、身分や家柄とは関係なく、ひとえに個人の能力であった。
その才能は並大抵のものではなく、四書五経から英語にまで精通し、戦史・戦術の専門家であった。
まだ大尉であったころ、息子の洪国善が近所の悪童から「チョーセン、チョーセン」とからかわれたとき、大英帝国に虐げられても誇りを失わないアイルランド人の例をひき、「どんなときでも必ず『私は朝鮮人の洪国善です』とはっきり言いなさい。決して『朝鮮人の』を略してはいけない」と諭したという。
そんな信念の人だったから、日本風の姓に改名などもちろんせずに一生を終えました。
指揮官になると常に日本兵の前で、 「自分は朝鮮人の洪思翊である。唯今より天皇陛下の御命令により、指揮をとる。異義のあるものは申し出よ」と初訓示したそうです。
辞世の歌は
「昔より冤死せしものあまたあり われもまた これに加わらんのみ」
しかし、このような立派な方も朝鮮においては「親日派の巨魁」「民族の裏切り者」「反逆者」と罵られ、先妻の長男洪国善氏は早稲田大学卒業後、朝鮮銀行に勤めていましたが、李承晩大統領の直接命令によりやめさせられ、未亡人(後妻)の李清栄さんはお茶の水女子大の前身である東京女高師の文学科卒業であるに関わらず、一切の職業から閉め出されてしまい、韓国にすむことができずに、無一文で日本にやってきました。
それに対して、日本の政財界の人たちは、手をさしのべたそうです。
来日する直接の動機は、日本文化連合会の小見山登氏らが昭和43年12月8日、京都市東山霊山観音廟の境内に「韓国人犠牲者慰霊塔」を建設し、その除幕式に招いたからでした。この慰霊塔には、日本軍人・軍属として処刑された23柱を中心に、日韓併合から敗戦までの犠牲者が祀られています。
その除幕式には、洪思翊中将の遺族(未亡人と長男)をはじめ10名の遺族代表が招かれました。その慰霊塔除幕式の模様はNHKで全国放映されたそうです。
帰国に当たって三菱電気の前社長・関義長氏と久保田鉄工会長(当時)小田原大造氏が全員にテレビ一台と農機具一式を贈りました。遺族たちは全員感激のあまり頬をぬらしたそうです。洪思翊中将の遺族は日本に留まり、その年の12月26日、小野田セメントの安藤豊禄氏の世話で、当時の佐藤栄作首相に会いました。
佐藤栄作首相は、昭和12年鉄道監察官として、上海から南京までの華中鉄道の建設に当たっていた。その時に興亜院調査官として華中連絡部(上海)にいた洪思翊中将には、公的に世話になったという因縁がありました。
佐藤首相は遺族の未亡人と長男に会うと同情し、
「大陸時代の洪氏への誼み にこたえる唄別として些少だが受け取っていただきたい」
として、自分の私財 百万円を贈与したという。
佐藤首相は当時現職であり、おおぴらに支援できなかったという。
遺族はその後、安藤氏や小見山氏の世話で六年間、日本に留まったが、五十年三月、未亡人は次男の顕善氏の留学先であるロスアンゼルスへ旅立ったという。
その年の5月、築地の料亭・喜楽で佐藤氏を囲む会が開かたおり、知人の安藤氏から遺族の近況を聞いた。知人曰く「遺族は総理からいただいた百万円は定期預金にしておいたので数十万の利息がつき、そのお金をもって未亡人は無事渡米し、次男宅
に落ちついた」と、報告をした。
すると佐藤首相は「安藤さんありがとう、気にかかりながらも立場上、充分なこと ができず、申し訳なかった。これで私も忘恩の徒にならずにすんだ」と人情味溢れる言葉で述懐したという。その直後、少し離れた席にいた福田聳夫氏と二言三言話した佐藤首相は安藤氏のひざの横に倒れてしまった。それ以後、佐藤首相は意識を回復
することなく、延々と眠り続け、六月三日に永眠したという。
佐藤栄作首相の陰徳
「日韓共鳴二千年」名越二荒之助著 明成社 p492より
このような方が戦後の朝鮮において健在ならば、日本との関係も違ったものになっていたでしょう。
1914(大正3)年 陸軍士官学校(26期)卒 七四二人中序列は三一番
1923(大正12)年11月 陸軍大学校(35期)卒
1939(昭和14)年9月28日 支那派遣軍御用掛
1940(昭和15)年8月1日 留守第一師団付
1941(昭和16)年3月1日 陸軍少将 第108旅団長
1942(昭和17)年4月17日 公主嶺校付
1944(昭和19)年3月2日 比島俘虜収容所長
10月26日 陸軍中将
12月30日 第14方面軍兵站監
1946(昭和21)年9月26日 フィリピン・マニラにて死去( 刑死)
洪思秣中将の墓は大韓民国安城市の街外れにある。洪総本家の墓所の一角に黒御影石の墓標が立ち、正面に「南陽公洪思翊・配漢陽趙之墓」の文字が刻まれている。他の人たちと同じく中将の御遺体も返還されなかったので、その中には愛用の聖書を除く遺品が納められている。
先妻の漢陽趙夫人は永く病床にあり、昭和18年9月13日没。その後、洪思翊中将は周囲の勧めで李清栄夫人と再婚。結婚生活数カ月で、身重の夫人を残して19年3月フィリピンに出陣。
李清栄夫人は昭和50年5月から、実子の次男顕善氏とロスアンゼルスで暮らしていましたが、3年後に交通事故でお亡くなりになっています。長男の国善氏は昭和59年、郷里安城市で急死されています。
参考・引用文献およびホームページ
「日韓共鳴二千年」名越二荒之助著 明成社
国際派日本人養成講座 http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog190.html
日本海新聞ボツ投稿 http://www.chukai.ne.jp/~masago/botu.html#013