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北朝鮮はかってどのように語られたか



日本教職員組合編『発展するチョソンと教育』1973年

奥山えみ子【日本教職員組合婦人部長】
「『チョソンという国はキム・イルソン一家だ』と私は率直に思った。
キム・イルソン主席を父として、すべての人民が一軒の家族のように、ぴったりと呼吸を合わせ、
輝かしい未来に向かって。チョンリマのようにかけつづけている。


久保田欣一
【鹿児島県高等学校教職員組合執行委員長】
「この国の人々が、明るい未来の建設に身も心も捧げ、そしてそのために真剣に世界の平和を願い、日本の民主勢力の発展に期待する心をひしひしと感じ取る。日教組の任務と責任は大きい。
5年、10年と経てこの国がチョンリマの発展をとげることを確信し、滞在中に寄せられたさまざまの心づかいに深く感謝して帰途についた。」


藤田行雄【三重県教職員組合組織部長】
「各界の指導者が30歳〜40歳が中心で若さのあふれた国だけに、
10年後の共和国は南半分の統一も含めてすばらしい社会主義国として発展するであろうと確信した。」


本間直行【岩手県高等学校教職員組合常任執行委員】
「チョソンのすばらしい教育に直接ふれ、今のうちに日本の教育の行くべき道を正さねば…とも強く感じるのである。
ほんとうによい学習の機会を与えていただき感謝にたえない。」


久野忠治【日朝友好促進議員連盟会長代理】
「これ(引用者注:チュチェ思想)は苦難の歴史を経たチョソン民族の英知を反映したものであり、
ひとりチョソン人民だけでなく、われわれ日本国民にとっても非常に貴重で深奥な思想である。」


高木健夫【評論家】
「ええ、とにかくすばらしいの一語につきます。
なかでも、この国のどんな人に会っても主席閣下のことになると、まるで自分の親の自慢ばなしをするような、
なんともいえない楽しい表情になるのです。〈中略〉まったく、つくづくとうらやましい国だと思います。」



槇枝元文【日本教職員組合委員長】
「この国には泥棒がいない。
泥棒とは富の片寄ったところに発生する。
この国には泥棒の必要がないのである。
泥棒も殺人犯もいないから警察官もいない。
交通整理や怪我人のために社会安全員が街角や交差点に立っているだけ。」


安井郁【チュチェ思想国際研究所前理事長:故人】
「われわれの共通の偉大なマルクス・レーニン主義者、金日成主義の創始者であるその方の懐に、
いつでもとびこんでいけばすべて解決してくれる、偉大な人にたいしてたいへん失礼だが、わたしはそんな気持ちになり、非常に感激したのである。」

大類純【東洋大学教授】
「欺瞞と虚偽と策謀と抑圧に満ちた権力支配階級による帝国主義・軍国主義・独占資本の残りかすは、今やまさに全面的壊滅にひんしている。
長い、暗い夜であったが、偉大なる首領キム・イルソン主席に導かれたチョソン人民に学び、全世界の人民が手をとりあって進んでいく社会主義世界の黎明がわたしたちの頭上に輝きはじめている。」


飛鳥田一雄
「チュチェ思想は今や、チョソン人民にとって革命と建設の羅針盤となっているばかりでなく、プロレタリア国際主義とも完全に合致しているところから、日本や世界各地でひろく研究され、各国人民のたたかいを励ます思想ともなっている。


岩井章【日本教職員組合制度検討委員】
『世界』1972年12月号
「教育というものについて私がたえず思っているのは、教育は思想と関係ないといういわば 『教育の中立性』をどうしても主張せざるをえないという面もあるが、しかしこれはじつは非常に大きな偽りで、教育はやっぱり思想の問題だということです。
日本は資本主義の国だからそういう『中立性』によって反動思想の及んでくるのを食い止めるのが精一杯。
だがあの国では根本的に知育、体育、徳育の三つを強調する。
その根本になっているのは人間の尊重だ。
そして社会主義、共産主義の思想を子供のころからほんとうにあらゆる形で討論したり、議論したりしている。
私はこのことをまず非常に印象深くみたのです。」


梶村秀樹【神奈川大学教授】
『在日朝鮮人論』梶村秀樹著作集刊行委員会編集委員会編(1993年)
「(不法行為は)事実何ほどかあったことだろうが、決して「不法」ないし無原則・無軌道と単純にきめつけられることではなく、解放人民として生きていくために不可避なことであったと理解されるべきである。」




吉本隆明「私の戦争論」
「もし北朝鮮が攻めてきたら戦うかどうか国民投票で決めればよい」



「一国の農業は斯くありたい」
川田信一郎著 農山漁村文化協会発行 1985年刊行
筆者は72年まで東大農学部の学部長。

43ページより。
「今日では朝鮮民主主義人民共和国の全国民は、文字通り、白米を「たらふく」食べてい ている。もちろん、鶏・豚等の肉汁があることはいうまでもない(魚を含む)。」
43−44ページ
「訪ねた村々の農家の屋根はすべて瓦ぶきであった。解放直後に建てたという家は 小さいものではあるが、瓦ぶきであった。最近、完成したらしい二世帯用三階建の 農家が、瓦ぶきであったことはいうまでもない(いずれも、家賃は無料という)。」
「史上初の無税国家」


一九八七年、ある元教師が北朝鮮ツアーで発表した自作の詩(関口夏央 北朝鮮とは何だったのか)


ああ美しきかなピョンヤンの街・・・・
路上には電柱も、看板もゴーストップも無く
自動車の行き来もまばら
巨大な建築物がバランス良く立ち並ぶ
雑踏など見かけず
上には紙くずひとつおちていない
街のこのやすらぎ、しずかさ、清潔さは
二一世紀を先取りして
人間の叡智が創造した
人間的生活環境の典型だ
それはまた社会主義建設の
壮大な夢の表現だ

朝鮮侵略の拠点・板門店
朝鮮戦争に敗北したにも関わらず
アメリカ帝国主義は朝鮮から撤退せず・・・・・
その時、米軍施設からヤンキーが出てきて
こちらを向けてパチパチ写真を撮った
剥き出しの敵意!
あからさまな挑発!

彼らは敬愛するキムイルソン主席の導きの下
現実的課題に取りくみつつ
自分のアタマで考え
自分の意思で行動し
その道中で「人間があらゆるものの主人である」確信と
「ひとりがみんなのために、みんながひとりのために」の
ヒューマニズムをしっかり身につけ
社会主義社会の建設に向かって
わき目もふらず、つき進んでいくことだろう


『北朝鮮帰国事業の罪』
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6199/kikokuzigyou_notumi.htm

『北朝鮮礼賛集』
http://isweb34.infoseek.co.jp/school/haniwa82/meigen/n-korea.html


嶋本謙郎読売記者
今年は朝鮮では、第二次五ヵ年計画に入る前の緩衝期に入っているが、来年からの第二次五ヵ年計画の合言葉がふるっている。
『朝鮮の北半部だけで、全朝鮮の経済をまかなえるだけの生産を行おう。
食料も重工業も軽工業も。さらには社会保障までも、北朝鮮だけでできるようにしよう。
そうすれば、民族の悲願である朝鮮統一は自然と達成される。』
・・・・・
実は我々も日本では100%信じかねていたのだが、実際に朝鮮に行って 物資の出回っている状況や、自信に満ちた態度を見て、なるほどと感心せざるを得なかった。
新読書社「北朝鮮の記録」1960
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亡命者の証言によると、嶋本謙郎の精力的な講演で北行きを決めた人が多いという



同時期の日本マスコミ・文化人との差を見て欲しい
夏掘正元
「私達は取材を制限されていて、自由にどこにでも行けない為、こうした模範労働者の家庭を訪問しただけであるが、対文協としてはかなりのサービスであったようだ」
「今年は穀物生産高が前年に比べ50万トン増の史上最高の950万トンにもなり・・・
80年代の終わりには穀物生産は1500万トンに達する」



チュチェ思想国際研究所

http://www.cnet-ta.ne.jp/dprkj/
http://www.cnet-ta.ne.jp/juche/
  





藤松正憲【足利銀行】
「経済が発展し、貿易量が増える過程で赤字が増えるのはやむをえない。日本も戦争時以外はずうっと輸入超過で赤字が続いた。
まして共和国の貿易未払い問題は、オイルショック以後、輸入代金の受け取りが送れた程度のもので、何も心配は要らないと思っている。」
「朝鮮時報」(朴日粉編「明日に向かって」彩流社 1987)に収録

室谷克実「朝鮮半島」ダイヤモンド社1992より引用



金日成
1992年 新年の辞
「すべての人が白いご飯を食べ、牛肉の入ったスープを飲み、絹の服を着て、 瓦屋根の家に住むという、わが人民の「世紀的願望」を実現する事は・・・・」






室谷克実時事通信ソウル特派員
1987年の韓国の水害に対して、北が米と服地を提供した
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板門店での受け渡しは、まさに見得の張り合いだった。
北朝鮮人民軍は、勇壮な行進曲を響かせながら、見るからにペンキを塗りなおしたばかりのトラックを連ねてコメを運んできた。
妙に光って新しいタイヤは日本製だった。受け渡し作業が延び、昼になると、韓国の兵士達が真っ先に弁当を広げた。国民の 「混食」義務を主唱したのは軍部である。巷間で義務が有名無実化していても、軍内では依然として、相当比率の高い混食が守られていた。
が、その時、韓国の兵士達がぱくついたのは、輝かんばかりの銀シャリだった。
室谷克実「朝鮮半島」1992
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「朝鮮新報」社説
・・・・・
そのような中で驚くべき速度で復旧建設がなされていく北半部の様子を聞いた同胞たちは、 アメリカの植民地として苦しみ、ひきつづき混乱状態にあった南朝鮮ではなく、北半部に帰国しようと、 当時首相であられた金日成主席に直接手紙を送り、日本当局に強力な要請運動を展開した。
その結果多くの困難と紆余曲折があったが、人道主義の原則で帰国事業が実現され、今日まで実に約10万人が帰国した。
・・・・・・
帰国した同胞たちはこの40年間ほぼ皆が思う存分勉強し、自分の知恵と才能を発揮して、国家と社会の主人として新しい生を享受してきた。
祖国に根をおろし喜びも悲しみも祖国の人々と共に分かちあいながら生きる帰国同胞たちの今日の堂々たる姿は、帰国事業の正当性をよく証明してくれている。
1999.12.13
http://homepage1.nifty.com/northkorea/karu32.htmより引用




「プロレタリア独裁とはブルジョアジーに対しての独裁であり、人民全体の民主主義の実現を目指すものである。
したがって、それは一方では残存するブルジョア分子を抑圧することによって、 他方では積極的・計画的に人民の自由・福祉を図ることによって人間的尊厳を発展させようとする階級的権力である」
美濃部亮吉氏らの編による清水書院の高校社会科教科書の教師用指導書







朝鮮語四週間
大学書林発行 「朝鮮語四週間」昭和48年4月30日発行 -26版-

(例文です)

(訳)
ピョンヤン紡績工場には日本から帰った数名の同胞達が働いている。
・・・・・
日本人資本家が経営していた工場で働いていた経験を持つ彼は、日本では労働保護施が不備で多くの労働者が事故で不具にになったと述べた
しかしわが国の工場には労働保護及び安全施設が完備されている。それにも拘わらず工場の安全の為に働く人々は労働者の爪一つでも傷つきはしないかと、細心の注意を払っている。
・・・・・
彼らは一日の仕事が終わると倶楽部で映画や演劇を鑑賞し、各種のサークルに網羅されて歌と踊りを楽しむ。工場で組織される技術学習にも彼らは参加し熱心に技術を習う。



「朝鮮の人と農業ーみんなが農村を支援する国ー」
の113ページ以下。著者の菱沼達也は元東京教育大学教授。
豆新聞「なりた」の発行者。既に故人。
 
「 朝鮮からかえって一ヶ月
朝鮮からかえって、ちょうど一ヶ月たった。その変化を記してみよう。
一、朝鮮にいるときは、僕にすれば宮殿にむかえられたようなものだっ
た。第一ネズミがいない。ダニがいない。便所が臭くない。腹がへら
ない。坂道に自転車を押さなくていい。魚屋のおカミに新聞代の一〇〇
円玉を投げられなくていい。 ニュータウンのマダムにドアのかげからどなられなくていい。それは今ではとても考えられないこと、
招待所の門を出入りするするときは、かわいい兵隊さんがいちいち
挙手の礼をしてくれた。これが気づまりだという仲間もいたが、僕は
負けずに挙手の礼をやってウインクした。だからこれまた楽しかった。

「二、宮殿を出たら、こういうことはまったくなくなった。ピョンヤン
を立つとき一人の仲間が「今日からはまた乞食ですな」と言った。
僕もおそらくそういう気がするだろうとおもっていたら、そんな気は
少しも起こらなかった。

今、こうやってまたネズミの出る所にいる。ダニもいるらしい。便所
はますます臭い。だが、それはそれとして、乞食におっこちたとは
思わない。もっとも、生理的のことはある。

僕はピョンヤンで何キロか体重がふえたらしい。歩かないで食べて
ばかりいたからだ。そして成田に来ても二週間は腹がへらなかった。
食い溜めというか、やはり体に脂肪なんかがついていたためである
まいか。」

「三、しかし、そんなことよりも大きな変化はやはり精神的なことだ。
先月も書いたが、ピョンヤンでは、本当に、まわりが明るかった。
気持ちもおちつき、まったくこんな所では自殺なんかできないと
思った。やはり二〜三にち働けば、一ヶ月の米が買えるという生活の
安定があるためだと思う。

ハバロフスクだってそうだ。ピョンヤンにくらべれば影はあったけれ
ども、陰気というものではない。それが日本に帰ってきたとたんに
暗くなった。万事手さぐりの世の中で、裏には裏があり、いつポコン
と下に落ちるかわからず、それに空気が悪い。

なにかドブみたいなものだ。電灯はまばゆく、ネオンはキラキラし、
美人はこぼれるように笑うが、みんな影がある。気が付いてみると、
それはみんな「金」と結びついており、その「金は」われわれの血管
の中に入り、腹の中にも、心臓の中にも脳ミソの中にもはいって
いる。(中略)

とにかく、コメ一キロを農民から六〇銭で買って労働者や事務員には
八銭で売るという「手品」みたいなことをやっている朝鮮の生活は
こんな「金」とのつながりがない。」
「用水と営農」1975年8月号に書かれた記事を
もとに1986年に著書に纏められたものです。




金恩順・在日朝鮮民主女性中央常任委員長
日本にいる朝鮮人の大部分が韓国出身者なのに、何故北朝鮮に帰ることを希望するのだと思われるでしょう。
南には親や兄弟がいるはずなのに、何故韓国には帰りたがらないのでしょう。
終戦の時、230万人の朝鮮人が日本にいました。その人たちの中には、真っ直ぐに引かれた 38度線の意味を知らずに、慌てて故郷に帰った人がたくさんいます。

ところが、日本にいた朝鮮人は、特別な思想調査をうけ、徴兵に引っ張り出され、 職も無く、生きるか死ぬかの目にあいます。そしてまた、命からがら日本に帰ってくるのです。

大村収容所にいる朝鮮人の殆どが、南に帰ろうとしないことは、新聞でご覧の通りです。
収容所に入れば、ご飯が食べられると言って、渡ってくるのです。
私はこの惨めさを見るにつけて、一日も早く送還運動を実現させなければならないと思います。
・・・・
日本政府は正式に朝鮮人の帰国を決定しました。私の友人の中には荷造りをして、 本国の船が来るのを今か今かと待ち望んでいます。
いま私達は強い決意の元に第二の故郷を去ろうとしているのです。
(婦人画報1959年5月号)
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(鄭箕海 『帰国船』文芸春秋 1995)巻末資料より一部引用




中川信夫
(激動の朝鮮半島)緑風出版 1990
朝鮮戦争時の南の南進説とラングーン事件の韓国陰謀説を

(疑惑の「真由美事件」)柘植書房 1988
で、盧泰愚の陰謀説を展開しています。↓
(支持率の落ちた)「盧候補の一大ピンチを救ったのが、大韓航空機事件に他ならなかったのである」



金子秀敏・毎日記者
平壌で焼肉と「日本製ビール」を飲み、日本円で1000円ちょっとだった「事実」から、
北朝鮮飢餓説に疑問を呈したあとで
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「北朝鮮の平均収入からすれば、とてつもない贅沢なのだろうか」

(毎日新聞 1991・2・27)
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安井郁・法政大教授
「我々は曇りのない眼でこの近くて遠い国の真の姿を直視しなければなりません」

「チュチェの国 朝鮮を訪ねて」読売新聞社 1974
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「毎日新聞」1991年4月21日社説の一部(金日成が毎日との「単独記者会見」に応じた直後 のもの。)
「金日成主席は、日朝国交正常化交渉をはじめ、南北統一、国連加盟、核査察 など広範囲にわたって見解を述べた。北朝鮮が現在国際社会で置かれている立場 は、決して楽なものではない。だが金日成主席は、強い自信をもって内政、外交 に対する所信を語った。この強烈な自信が印象的である。」

「子息の金正日書記への権力移譲も進んでいるようである。断片的な情報では、 賛成者ばかりではないともいわれているが、少なくとも表面には出てきていない。
金主席を中心とする強固な権力構造の、統治力の高さが証明されているとは、 間違いなくいえるであろう。」

「『今日、朝鮮人民は、食・衣・住問題において心配を知らず、等しく
安定した生活を営んでいる』と、これだけはっきり言い切れる指導者は
第三世界ではめったにいない。『全社会の政治的、思想的統一を実現
した』と断言できる、絶対的支配体制を築き上げたからこそだ。」

「金日成主席は北朝鮮の最高権力者である。この国はすべて金主席の
指示で動いてきた。金主席の柔軟な判断があれば、難問題も一気に
進展する。懸案解決に希望が持てるよう期待したいものだ。」

社説で、 金正日のことを「子息」



金 宗鎮
そんな時、一九五九年六月に朝・日両赤十字社ジュネーブ会談で在日朝鮮人の 帰国協定に仮調印される。私の祖国への進学希望が現実となる道が開かれた。
私と弟(名城大学三年生在学中)はすぐさま帰国の申請を行った。

屑屋、飲み屋、日雇、無職の同胞たちは就職差別に泣き、日常的な社会の差別を受け、 未来に希望を持てない閉塞的な状態であったから、差別のない祖国への帰国に希望の明りを感じた。

校長から私の祖国進学が発表され、同僚達から祝福された。
ただ一人、母の反対にあった。母は家族が離れて暮すわけにはいかないと、毎日のように泣きすがるように、 帰国をおもい留まらせようとした。父は学問の道へ進めと大賛成したばかりか、 「お前の行く途は栄えある途」という詩を書いてくれた。先にも後にも父の創った詩はこの一遍だけである。
心のこもった詩は私の手もとにある。
http://www.asahi-net.or.jp/~dt9k-iwmt/kobeya/kousatu/ko12.html
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「やがて朝鮮が統一された日に、わたしたちの隣国には平和な偉大な国が
建設されるでしょう。日本のすぐそばの朝鮮で社会主義が建設されているのを見ると、 日本でこれができないはずはないという強い確信がわいてきます」
(「赤旗」日曜版 昭和43年10月6日付け記事
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http://www.books-ruhe.co.jp/kako/2000/200007/go.htm

その《帰国運動》っていうのは、北朝鮮が『地上の楽園』で素晴らしい場所だから、日本で虐げられている《在日朝鮮人》の方々よ一緒にこっちで頑張ろう、おいでませ、という運動だった。
だいたい「運動」って単語がつくものにロクなものはなくて、当時の《在日朝鮮人》の人たちも薄々それに気づいていたらしいのだが、日本での差別と貧乏よりかはましかもしれない、と多くの人たちが北朝鮮に渡っていった。

その中に、僕の叔父さんもいたというわけだ。
むかし、初めて届いた叔父さんから僕宛ての手紙には、縞麗な字の日本語で、こんなことが書かれていた。
『ペニシリンと、カシオのデジタル時計をできるだけ多く送ってください。どうか、どうかお願いします』


民団新聞
http://www.mindan.org/shinbun/000531/topic/topic_b.htm
【教え子たちを北へ悔やみ切れぬ胸の痛み】
 1960年代の初期には、「帰国」する生徒がいる一方、総連の「地上の楽園」宣伝に乗って、 日本の学校からの転入生が多く、大阪の朝鮮学校の全生徒数が約6000人になったこともあった。
そのうち担任をした生徒は延べ300人くらいで、生徒や父母から「帰国」について意見を求められると、 「希望を持って帰国を」と勧める立場にいた。

「帰国」の一つの背景には、済州道の「4・3事件」や6・25動乱で身辺の危険を感じ、 密航して来た子どもがいた。彼らは日本の学校へは入れないので朝鮮学校が引き受けていた。
入管当局に捕まり、強制送還で韓国に帰ると「赤」扱いされるのでは、という心配から 「帰国」を選択した生徒もかなりいた、と梁先生は指摘する。

しかし、当時の梁先生は「地上の楽園」説に立って、教え子たちを北へ送ってしまった。
今は悔いても悔いたらない思いで胸が痛む。身内も「帰国」しているが、
悔いるだけではなく何かをしなければと、80年代に入り、金日成批判を始めた。
それで今では教え子や身内とも連絡は途絶えている。
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民団新聞
【乗船拒否された李洋秀さんに聞く】
「帰国」を拒否された本当の理由は、母親が日本人で、「汚い日本人の血が流れている」というものだった。
当時、10歳の少年は一人で海を泳いででも北に行きたいと焦がれたが、母の血を恨み、母を責め、3日間泣き通すしかなかった。

「帰国」したかつての同級生からの暗号の手紙で、「北はどうもひどいらしい」と間接的に知るようになったが、 それよりも夢と希望の方がまさっていた。

当時、寺尾五郎の「38度線の北」という北を礼賛する本のほかに、
大手新聞でも同じ様な連載が掲載されていた。
そこには、北では1年のうちに一週間は誰もが温泉に行くことができると書いてあった。
「今でも新聞の一言一句をおぼえている」と洋秀さん。
しかし、母と一緒に夢見た温泉地への旅は、夢のままで終わった。
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http://www.mindan.org/shinbun/000315/topic/topic_b.htm

朝鮮学校に復学した洋秀さんに、送り出した先生や同級生は「なぜ帰らなかった」と 罵詈雑言を浴びせ、時計や文房具などの餞別品を返せと迫った。いじめがきつくなった。

高校2年の時、「帰国船」が中止になるという話が持ち上がった。担任の先生はクラス全員に 「帰国はしなくていいから全員申請書だけは書け」と命じた。

「帰国」事業が途絶えるということは、日朝を結ぶ唯一のパイプがなくなることを意味する。
「それを避けるために、「帰国申請書」の数による既成事実で日本当局に「帰国」事業の継続を 要求するものにほかならなかった。

それでも、誰も申請書を書かなかった。洋秀さんは運動に協力する意味で書いたが後日、 先生から呼び出され、「申請しながらなぜ帰らないのか」となじられた。
・・・・・・・
ところが、またもや「お前はいいが、母の血が卑しい。母を捨てて一人で来い」と拒否された。
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テポドン1発ぐらい何だ

愛知県中島郡 福○昭○ 会社員(33歳)週刊金曜日より
 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が8月31日、弾道ミサイル「テポドン」を発射した。
そのテポドンが日本の上空を飛び越え、三陸沖に着弾したという。北朝鮮側はこれを人工衛星だと主張しているそうだ。
「どちらにしても、日本の安全保障上の脅威だ。北朝鮮はまったくとんでもないことをする国だ。許せない」というのが日本政府の見解のようだが、私に言わせれば、怪我人や死人が1人でも出たのであれば話は別だが、そうでないのなら、そんなに大騒ぎするなと言いたい。自国が被害を受けた時だけ誇大に騒ぎ立てるのは日本人の悪いところだ。
 朝鮮半島の方々を強制使役したり、虐殺したり、女性たちを強かんしまくる悪の限りを尽くしてきた戦前の日本。それに比べれば、ミサイルの1発や2発、日本の近海に落とされたぐらい何でもないことだ。日本本土に落下し、死人が出たり、家屋が破損しなかっただけでも、ありがたく思えと言いたい。
 テポドン発射の件について、北朝鮮に対して強硬に抗議するのもいいが、その前に北朝鮮に対しても、ちゃんと戦後処理を済ませてからにしてもらいたいものだ。




北朝鮮 全土にあふれる喜び
島津さんに見せたい
“人道”の主張見事に実る
(産経新聞 昭和34年12月25日)

北朝鮮みたまま
村に続々文化住宅
落第や恋を忘れた学生
(読売新聞 昭和34年12月26日)

躍進する北朝鮮
焼土から立上がる
五年計画も二年半で達成
(産経新聞 昭和34年12月27日)



わたしと北朝鮮     西村 秀樹(毎日放送広報部長)

北朝鮮を訪問すること6回。わたしは、南は済州島から釜山、ソウル、北は板門店からピョンヤンさらにロシア国境の豆満江まで朝鮮半島を縦断し、 『JNN報道特集・豆満江開発と北朝鮮軍』といったテレビ番組を制作しましたが、わたしがここまで朝鮮問題に関わることになったきっかけは、 在日韓国人留学生のスパイ容疑事件でした。
徐兄弟事件とか11・22事件をご存じでしょうか。 1975年わたしが大阪の放送局に就職したその年、主に関西出身の在日韓国人の学生が
韓国に留学中、「北」のスパイ容疑で次々に韓国政府に逮捕された事件が続発したのですが、それらの事件はわたしにとって他人事ではありませんでした。
取調中に顔に負った大やけどが象徴的で、19年間もの長期にわたって獄中に閉じこめられた徐勝(ソ・スン)とか、6人が死刑判決を受けた11・22事件で 囚われた学生の多くがわたしと同じ年代でした。国籍が違うだけで、同じ本を読み同じ歌を歌ってきた年代です。韓国の民主化を求める彼らの気持ちはよく判りました。
http://www3.ocn.ne.jp/~yy-dprk/newsletter14b.htm
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将軍様の贈り物 肉、菓子…40億円相当(産経新聞)
中国から還暦祝い購入 上層階級に重点配分?
 【ソウル22日=名村隆寛】北朝鮮が今月十六日の金正日総書記の還暦祝いに先立ち、中国から総額二千九百九十万ドル (約四十億円)の食料品などを購入し、人民に“将軍様からの贈り物”として配っていたことが韓国統一省の報告書で判明した。
 報告書は中国の通関統計をもとに作成したもので、昨年後半に北朝鮮が輸入した食糧や生活必需品は前年同期より173.8%
増加した。最も増えたのは肉類で706.1%増。続いて菓子類(213%増)、コメ(189.1%増)、タバコ(96%増)の順で上昇している。
 ただ、人口比で割ると、一人当たりの配分量は肉類が五十グラム未満、菓子類は四円程度。統一省では上層階級(党、軍関係者)
や平壌在住の者に重点的に配られたものと推測している。また報告書は、「北朝鮮経済が食糧難で困窮状態が続き、事実上、
祝いの贈り物がなかった“苦難の行軍”の時期(一九九五−二〇〇〇年)以前の水準に戻り始めた」とも分析している。
http://news.www.infoseek.co.jp/Content?arn=sank_inter_19398&ud9=-7&sec=inter&sv=SN&svx=300504&pg=article.html


「悪の枢軸」発言に抗議 東アジアシンポで共同声明
http://www.asahi.com/national/update/0224/012.html
 日本、台湾、韓国の学者、人権活動家ら450人が集って、立命館大学(京都 市北区)で開いている「東アジアの平和と人権」国際シンポジウム日本大会(朝 日新聞社後援)は24日、ブッシュ米大統領が朝鮮民主主義人民共和国(北朝 鮮)を「悪の枢軸」と名指ししたことに抗議する緊急共同声明を採択した。

 シンポジウムに先立って韓国の学者から提案があり、事務局がまとめた。声明 では、ブッシュ大統領に「『悪の枢軸』発言の撤回」を求めたほか、日韓両政府 に「アフガニスタン、インド洋への派兵を撤回せよ」などと訴えた。



ブッシュ大統領「対北食糧支援に不信感」
 米国のブッシュ大統領は27日、「米国は年間30万トンの食糧を朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に支援しているが、 その食糧が飢餓に苦しむ北朝鮮の住民に配給されているか否かを知らない」と述べた。ブッシュ大統領のこのような 発言は、国際社会が北朝鮮に支援する食糧が北朝鮮内で配分される過程に対する強い不信感を表したものだ。
 ブッシュ大統領はこの日、ノースカロライナ州の商工会議所の集会に出席したあと、記者らと会い、「北朝鮮の住民 は我々が食糧を支援していることさえ知らない」としながらこのように述べた。
 ブッシュ大統領は「最近行ったギャラップの世論調査で、アラブ圏国家の国民が米国に対して深い不信感を持って いることが分かった」という質問に対して、北朝鮮を例に挙げ、このように述べた。また、「我々は米国の温情的な
側面を知らせることに更なる努力をすべきだ」と強調した。
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2002/02/28/20020228000029.html



西谷能雄
資本主義の繁栄に酔いしれている日本の支配者に対して、僅か飛行機で2時間の行程のところに すばらしい社会主義の繁栄が厳然と存在している事実を知らせることは、人間の幸福を追究する上で 大きな手がかりとなり、刺激となるばかりではない。そのあやまてる政策によってしばしば独善に陥ってきた 日本の支配層に対する大きな警告ともなるであろうと考えるからである。

名田隆司
金正日総書記は官職ではなく、全人民崇拝に基づく絶対の権威をもって革命と建設を導いておられるのだ、 ということである。
これは、類いまれな資質と実力、高い道徳と信義を体した政治的指導者でしか表現できないし、 二十一世紀を導くのは金正日総書記である、と断言できる。
二十一世紀は朝鮮の世紀となるだろう。


上田耕一郎 日本共産党
アメリカの原爆の死の灰はどす黒く汚れているが、ソ連のは白く美しい






嶋元謙郎【読売新聞】
「ことしは朝鮮では、第二次五カ年計画に入る前の緩衝期に入っているが、来年か らの第二次五カ年計画の合言葉がふるっている。
『朝鮮の北半部だけで、全朝鮮の経済をまかなえるだけの生産を行おう。食糧も重 工業も軽工業も。さらには社会保障までも、北朝鮮だけでできるようにしよう。そ うすれば、民族の悲願である朝鮮統一は、自然と達成される』
 つまり、人口一千万人の北朝鮮の人たちが、二倍の人口のある南朝鮮の人たちま でを養おうといっているのである。(略)実はわれわれも日本では百パーセント信 じかねていたのだが、実際に朝鮮にいって、物資の出回っている状況や、自信にみ ちた態度を見て、『成程』と感心せざるをえなかった」
『北朝鮮の記録』(新読者社)1960.4
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全世界で慕われるスターリン同志

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/7903/stalin/world.htm



http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2207/shuchou025.html
井上先生は立教大学名誉教授で「チュチェ思想国際研究所」理事長だ。
チュチェ思想とは北朝鮮を支えている「人間中心の社会主義」で、
日本語では「主体思想」と訳される。井上先生はその「主体思想」に
ついての世界的権威であり、北朝鮮の切手にもなっている。
外国人が切手になるなんてほとんど例がないという。
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http://home.att.ne.jp/red/dateasia/kako/kan58.htm

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私の知人が北朝鮮の種籾を日本に持ちかえり、新潟県の農業試験場で試験栽培しました。
見た目はすくすく成長しているように見えたが、盛んに枝分かれしてむだな養分を吸い取っていた。
葉は3倍なのに穂の数は日本と同じ。しかも、30%はきちんとした米になっていない。
また、精米する時、粒が割れない割合が70%で、30%もロスが出る。米粒が割れて吹き飛んで しまうのです。しかも、水管理、気温、肥料など最適条件で裁培した結果ですから、北朝鮮では もっと悪い結果になると思われます。さらにすべての種からいもち病が発生。耐病性を持つ 品種改良がなされていないらしい。以上のことを考えるとおそらく日本の半分もとれない品種で あろうということです。
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一糸乱れぬアリランの舞
北朝鮮 祭典で「団結」誇示
【平壌29日共同】

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平壌にあるメーデー競技場で二十九日、 十万人が参加するマスゲームと芸術公園の「アリラン祭典」が開幕、
小雨の中で繰り広げられた大規模マスゲームなどに
外国人観光客も「北朝鮮でしかできない公演」と感嘆の声を上げた。
同祭典は故金日成主席生誕九十周年などを記念し、六月末まで二ヵ月間にわたって開かれる。
北朝鮮は二月十六日の金正日総書記の六十歳誕生日などの三大行事に続く祭典で住民の 「一心団結」ぶりを内外に誇示、中国や日本などの観光客受け入れで北朝鮮の現状を 外部にも示す構えだ。
公演は朝鮮民族の民謡「アリラン」をテーマに日本の植民地からの解放、
北朝鮮の「先軍(軍事優先)政治」や住民の団結、統一への希望や
「強盛大国」建設への訴えを描写。競技場正面の観客席で人文字を作る「背景隊」と呼ばれる 一万八千人の人々の範囲は横百九十八メートル、縦百四十五メートルに及び、 一糸乱れぬ統制の下、続々とスローガンや光景を描いて観客を驚かせた。

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神戸新聞*2002*年4月30日の記事より




岡本愛彦
私がかつて理想とした一つの国家が、確実にこの地球上に誕生したのだ。
その国は若々しく、精気に充ち、常に躍動し、人々の顔は明るく、少年少女の笑顔は美しい。
常に「自ら革命と建設の主人」であり、すべての人民が「芸術創造の主体」である国、 それが朝鮮民主主義人民共和国である。


一部だけが先行し、他の大部分は極めて後進的である日本。
一部の人だけが搾取によって富み、他の大部分が貧困と生活苦と差別と公害によって 追いつめられている日本。そんな国とはどだい違うのだ。
 結局、人民全体の水準がすべての面について確実に上昇し、その先駆的役割を芸術が になっている国。
朝鮮民主主義人民共和国とはそういう国であり、冒頭にのべたように、国そのものが 『芸術そのものの具現』と言える国なのだ。

「チュチェの国 朝鮮を訪ねて」 1974年 読売新聞





「金日成主席生誕90周年記念山梨県日朝友好の集い」が4月26日、アピオ(中巨摩郡昭和町)で行われた。
日朝友好千里馬会(会長=上田利正元参議院議員)と総聯山梨県本部が共同で開いたもので、元国会議員、 県議会議員、市町議会議員ら日本の各界人士、梁光秀委員長ら県下同胞が参加した。
 1部では「朝鮮半島を取り巻く最近の情勢」と題して総聯中央の韓正治国際局長が講演。
「有事立法を対朝鮮敵視によって正当化しようとする日本政府の不当性、危険性がよく分かった」(穐山篤元衆議院議員)
などの感想が聞かれた。

 2部の宴会では、上田会長と梁委員長があいさつした後、故金丸信・元副総理の次男、信吾氏があいさつ。
「たびたび訪朝し主席の接見も数回受けた」としながら、「主席は本当に偉大な政治家、偉人」
「金正日総書記も主席とまったく同じ」などと語った。



『北朝鮮帰国事業の罪』
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6199/kikokuzigyou_notumi.htm

『北朝鮮礼賛集』
http://isweb34.infoseek.co.jp/school/haniwa82/meigen/n-korea.html


朝日新聞血風録”(文春文庫 稲垣武氏著)
昭和35年頃の朝日の縮刷版

稲垣 武 『「悪魔祓い」の現在史』 文春文庫
関川夏央『退屈な迷宮―「北朝鮮」とは何だったのか』新潮文庫

裏表紙