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鏑木正隆少将
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
平成18年5月12日金曜日はれ ○
SAPIO(平成十七年八月二十四日/九月七日)に掲載された米公文書館で発見されたという写真です。これ以外に九分間のフィルムがあったそうです。
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鏑木正隆少将が、処刑直前に、地元支那人僧侶C・コンパに笑みさへ浮かべ礼を述べている写真 |
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死刑執行準備室で米軍憲兵(MP)らに両手を縛られた増田耕一軍曹 | 支那人僧侶C・コンパに先導され、独房から出た白川興三郎伍長 |
これらは昭和二十一年四月二十二日に上海にていわゆるB・C級戦犯として絞首刑に処される前の場面です。
鏑木正隆少将(広島県出身)第三十四軍参謀長 四十九歳
増田耕一軍曹(香川県出身)漢口憲兵隊 二十七歳
藤井力准尉(徳島県出身) 漢口憲兵分隊 四十一歳
増井昌三曹長(静岡県出身)漢口憲兵分隊 二十九歳
白川興三郎伍長(新潟県出身)漢口憲兵分隊 二十三歳
以上五名の方が絞首刑に処されました。
昭和十九年十一月、支那大陸奥地の航空基地より毎日漢口市街を爆撃し市民に大きな被害を与えていた米空軍機を日本軍が撃墜し、その乗務員三名を捕虜としてとらえた。第三十四軍司令部は度重なる爆撃に対する見せしめをするために市中行進を計画。
昭和十九年十二月十八日午前十時頃、支那の青年模範団という青年団二百名の隊列の真ん中に三名の捕虜を置き、彼らの両側を漢口憲兵隊員五名が警護するという形態で行進が始まった。
その間、爆撃に日々苦しんでいた支那民衆の米軍捕虜に対する怒りが爆発して、彼らは投石などの激しい暴行を受け、行進が終わるころにはほとんど半死状態になっていた。半死状態の捕虜を連れて帰ることはできないので、郊外の火葬場で首を絞めて殺し遺体は火葬した。
(上海米軍事委員会に提出された報告書より)
報告書は松浦覚中佐が陸軍省の命令で上海監獄に収監されていた事件関係者たちの証言をまとめたものとされている。
この報告書により、刺殺命令者を特定しないまま、昭和二十一年二月二十八日、絞首刑五名、終身刑一名、有期刑十一名という判決を下している。
鏑木少将は昭和二十年七月に病死した第三十四軍司令官の身替わりとして極刑を言い渡された。
鏑木少将は復員し、夫人、七人のお子さんとの再会を喜んでいた矢先に、連合軍に逮捕され上海監獄に移送。この事件の内容についてほとんど知らないまま処刑された。
家族への手紙には
「事件の真相は詳記せざるも、予個人としては怖行天地に恥づる点なきを以って此点安心せられよ。何れ事件の詳細は他日之を詳知せる人より機会もあるべし略)
本事件により聖戦の真意義に汚点を印し
略)
特に上官の命令により行動せし下士官兵多数重き処刑を受けくるに至りしは、気の毒至極にて断腸の思いあり
略)
当時軍参謀長たり予としては、此の残虐行為を未然に予防し得ざりし不明に対し責任の重大なるを痛感しあり」
無念の思いは計り知れないが、鏑木少将は部下をかばいきれなかった事を自らの責任として痛恨の思いを家族への手紙に記している。
鏑木少将は支那人僧侶に対しての最後の挨拶の場面では笑みさえ浮かべている。
このことについてSAPOの記事は、当日の処刑後、処刑場の後片付けをさせられた松井正治法務大尉(終戦時、台湾軍司令部。台湾軍律会議事件で四十年の判決)の証言を書いている。
「刑の執行が終わった後、私は米兵より清掃を命じられた。廊下上に散乱する数百の煙草の吸殻を掃きながらこのおびただしい観覧者の中に、立たされていった五名の事を考えるとき、いかに勝者とは言え、そのやり方の報復的なのに心から怒りを感じた」
(『戦犯裁判の実相』巣鴨法務委員会編より)
フイルムには写っていないが、鏑木少将ら五名の我が国軍人の処刑は衆人環視の中で執行されたのである。
捕虜虐待という「聖戦の真意義に汚点」を犯す行為はあったかもしれぬが、しかし、この鏑木正隆少将という日本軍人の死に様、その意志を我々は記憶すべきではないか。
以上「SAPIO」小学館(平成十七年八月二十四日/九月七日)P27〜29
および、「東京裁判」人物往来社 P187
これらはアメリカ軍による報復裁判の実態と、ある意味、アメリカという国をよく現している。