このページは旧ホームページです。新しい「酒たまねぎやホームページ」へ
ジョン・ダワー(John W Dower)という腐れアメリカ人
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
ジョン・ダワーにとっての日本人
この休み中に読んだ数冊の本の中の一冊に、ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」がある。二〇〇一年に岩波書店から翻訳出版され、その後二〇〇四年には増補版も出されたこの本は、アメリカでは二〇〇〇年にピュリッツアー賞(ノンフィクション部門)受賞。我が国でも二〇〇二年大仏次郎論壇特別賞受賞(朝日新聞社主催)、山片蟠桃賞(大阪府主催)を受賞し、(一部には)賞賛されています。出版社と賞の主催がこの本がどのようなものかをよく表している。
以下、このジョン・ダワーの著書よりの引用です。
<日本人は乱暴の限りをつくしたが、中国人の抵抗力がいかに柔軟で不屈であるか、そして・・・>(上 P四)
<中国との全面戦争がはじまって間もなく起こった南京大虐殺から、太平洋戦争の末期のマニラでの蛮行にいたるまで、皇軍兵士たちは表現しがたいほどの残酷と略奪の跡を残した。のちに知られたことであるが、日本兵たちは同僚の兵士の肉を食べていた。日本兵は絶望的な自殺的突撃をおこなって戦死し、戦場で餓死し、傷ついた自軍の兵が敵の手におちるよりもむしろ殺害するほうを選び、サイパンや沖縄のような場所では、非戦闘員の同国人を殺した。日本人は、自分の町が焼夷弾で破壊されるのを、なすすべもなく見守った。その間、指導者たちは「一億玉砕」がいかに必要かについて、あれこれ説きつづけた。大東亜共栄圏のもっとも明確な遺産は、死と破壊であった。中国だけで、おそらく一五〇〇万人が死んだ。約三〇〇万人の日本人と、大日本帝国のすべてが失われた。こうした正視できないほどの狂乱のあと、日本人はめったにみられない隔離の時代に入った。>(上P四〜五)
<日本占領のもっとも悪質な点のひとつは、帝国日本の略奪行為によってもっとも被害を受けたアジアの人々に対してなされた数々の犯罪にいたっては、いっそう容易に、まるでなかったようにみなされた>(上p一二〜一三)
<非常に多数の元陸海軍人にとって最もショックだったのは、苦労して故国に帰った末に、まるで世間からのけ者のように扱われたことであった。一九四六年には、引揚げ者が洪水のように帰国していたが、そのころまでには、連合国の捕虜たちにたいしてだけでなく、中国で、東南アジアで、そしてフィリピンで、皇軍が衝撃的なほどの残虐行為をはたらいていたという情報が、本土の人々の耳にも次々に流れ込んでいた。>(上p五八)
<戦争中の日本人の野蛮で残忍な行為は、生まれてから長い間抑圧されてきた人間が突発的にとった行動と理解すべきなのだ>(上 P二七八)
このジョン・ダワーというアメリカ人の悪質な点は、他の著書「容赦なき戦争 太平洋戦争における人種差別」(平凡社ライブラリー)において、アメリカ人の残虐さを書いていながら、この著書ではいっさい触れていません。
その著書には孫引きですので掲載ページは記することはできませんが、下記のように書かれています。
以下引用
「大平洋地域担当の従軍記者エドガー・ジョーンズが、四六年の『アトランティック・マンスリー』誌に書いている『われわれは捕虜を容赦なく撃ち殺し、病院を破壊し、救命ボートを機関銃掃射し、敵の民間人を虐待、殺害し、傷ついた敵兵を殺し、まだ息のある者を他の死体とともに穴に投げ入れ、死体を煮て頭蓋骨をとりわけ、それで置物を作るとか、または他の骨でペーパーナイフを作るとかしてきたのだ』。ジョーンズはさらに、標的の日本兵がすぐに死ぬことがないように、火炎放射機の炎を調整するというような行為にまで言及している」
「一九四二年の末に出版されベストセラーとなった『ガダルカナル日記』のなかで、ジャーナリストのリチャード・トレガスキスは、日本軍との戦いを前にして武勇自慢をし合う若い兵士たちの会話を挿入している。『ジャップは金歯をたくさん入れてるんだってな。それをいただいてネックレスでも作るかな』と一人がいう。『おれは奴らの耳を持って帰るよ』ともう一人が宣言する」
「リンドバーグがついに大平洋諸島を離れ、ハワイで税関検査を受けたときには、荷物に骨が入っているかどうか聞かれた。それは決まりきった質問だと言われたという」
引用終わり
(先に書きましたように、ジョン・ダワーの著書よりの直接の引用ではありません。以上の引用先は「日本の反論」米田健三著 並木書房 P一六八より)
このジョン・ダワーの思考は、本多勝一氏や倉沢愛子女史などと同じです。
ジョン・ダワーのダブル・スタンダード
米軍の無法ぶり
1月8日火曜日くもり ○
ジョン・ダワーは軍隊と売春婦について、旧日本帝国陸海軍は
<日本軍がほかの場所でおこなった強欲な行為と、「慰安婦」として皇軍への奉仕を強いられた非日本人の女性が膨大な数にのぼったことを知っている者にとっては、それは身震いするような恐ろしいことを意味した。天皇の敗戦放送のあと、「敵は上陸したら女を片端から凌辱するだろう」という噂が野火のように広まった。内務省の情報課は、この噂が日本軍の海外での行動と関係していることにただちに気がついた。>(上p一四八)
と書き、米軍については
<占領軍の規模が大きかったことを考えれば、じっさい強姦事件は比較的少なく、日本政府が予期した程度におさまっていた>(上p一五五)
<概していえば、この勝者は、アジアを占領していた日本の軍部よりはるかにきびしく自らの行動を律していたが、にもかかわらず、暴行や強姦の発生は避けられなかった>(上 P二七二)
しかし、ジョン・ダワーはこの著書の巻末に注として、日本女性に対する強姦・暴行はRAAが存在していた期間では一日約四〇件、一九四六年初めにRAAが閉鎖されて以降は一日三三〇件という数字をあげている。この数字がジョン・ダワーにとっては比較的少ない強姦・暴行事件ということです。悪い冗談としか思えません。
ましてや、我が国独立後の昭和二八年の官報号外を基にした
内閣委員会における平成十九年二月二十一日(水曜日)自由民主党の戸井田とおる議員の答弁で引用された独立後の数値ですら、「八カ月間におきまして千八百七十八件を数え、なお泣き寝入りになつておりまする件数は厖大な数であろうと想像されております。」という内容が、ジョン・ダワーのいう「強姦事件は比較的少なく、日本政府が予期した程度におさまっていた」などとは程遠い事がわかります。
こんな程度のヤツ(ましてやいっちょまいに大学教授だそうな)に偉そうなことは言われたくはないです。
参考→戸井田とおる議員の答弁より見える真実
まあ、日本の大学教授にもアホがいっぱいいますけど。
渋谷事件、および第三国人について
引き続きジョン・ダワーの著書「敗北を抱き締めて」よりの引用
<早い時期に絶望からの脱出と新しい「空間」の創出を派手に示した実例は、いわゆる「まともな社会」からはずれた、社会の周辺部分に見られた。敗戦後ならではのサブカルチャーが出現したのはそうした場所であった。
そうしたサブカルチャーは、旧秩序の崩壊と、それに続く因習打破、独立独行の新しい精神を象徴するものであり、ショッキングではあったが、魅力的でもあった。もちろん、社会の周辺的集団がどれもそうした雰囲気を感じさせるわけではない。たとえば朝鮮人、台湾人、中国人、つまりいわゆる「第三国人」(そして大部分の日本人にとっては沖縄人も)の多くは、社会の周辺部分のなかでは反抗的存在ではあったが、例外的な場合を除くと、社会全体からみれば目立たない存在となっていた。>(上 P一四五)
<台湾人の露店商数百人と松田組の乱暴者約一〇〇〇人が参加した喧嘩は、隣の渋谷区まで広がり、ついには渋谷警察署の近くで銃撃戦にまで発展した。この事件で台湾人の死者が七名、負傷者は三四名にのぼった。警察官も一名が死亡、一名が重傷を負った。
この「渋谷事件」は多方面に影響を及ぼした。台湾人・朝鮮人の社会と警察の間には以前から敵対感情があったが、事件によっていっそう感情は悪化した。「第三国人」への偏見が強まり、闇市の悪弊と犯罪の増加にたいする世間の怒りは、日本人以外のアジア人に向けられるようになった>(上P一七三)
ジョン・ダワーは、台湾人については露店商とし、日本人は乱暴者と表す。ましてや、朝鮮人・台湾人の戦後の無法ぶりについては何も書いていないどころか、<「第三国人」(そして大部分の日本人にとっては沖縄人も)の多くは、社会の周辺部分のなかでは反抗的存在ではあったが、例外的な場合を除くと、社会全体からみれば目立たない存在となっていた。>と書く。当時、「第三国人」は日本においてどのような存在であったか。昭和二〇年十一月三日にGHQは、朝鮮人および台湾省民を「できる限り解放国民として処遇する」と声明を出したために、解放国民を戦勝国民と勘違いした一部のバカ朝鮮人・台湾人が我が国において我が物顔で数々の犯罪を犯しましたが、それを「敗戦による混乱の中で、たくましく活気にあふれた在日朝鮮人の活動に対する反感を生み、非難、中傷を生んでいっったのである。」と書く内海愛子女史のアメリカ版のようです。
駅前の土地に勝手に違法建築物を建てて占拠したなど、戦後の混乱期における朝鮮人、台湾人など「第三国人」の無法は数え切れません。渋谷事件とはその一つで、戦後、台湾人は渋谷宇田川町に華僑総本部をつくり、渋谷に不法建築家屋を建て、闇市をつくり、禁・統制品を販売するだけでなく、取り締まる警察官にまで集団暴行を繰り返しました。昭和二一年七月一九日に渋谷警察署は、武装した台湾人約一三〇人の襲撃をうける。この台湾人たちは、同日、新橋駅前の闇市の利権で対立していた関東松田組を襲撃したが、戦闘機用機関銃で銃撃され、逃げたのちに、同日午後九時、渋谷警察署を襲撃した。渋谷署は他の署およびヤクザに応援を頼み応戦。この時、芳賀弁蔵巡査部長が胸部を撃たれ死亡している。渋谷警察署は、台湾省民二八人を逮捕し、拳銃と実弾などを押収。つまり武装した台湾人が暴徒となり警察署を襲った事件なのです。
それを、<台湾人の露店商数百人と松田組の乱暴者約一〇〇〇人が参加した喧嘩は、隣の渋谷区まで広がり、ついには渋谷警察署の近くで銃撃戦にまで発展した。>と書くジョン・ダワー
わざと歪めて書いているとしか思えません。
当然、当時は多くの朝鮮人も日本中で同じ事ような犯罪を繰り返していました。
ジョンダワーは巻末に「第三国人」として、<日本人が使った「第三国人」という言葉は、戦後日本の人種差別・民族差別の意識をうかがい知るうえで興味深い例である。「外人」という言葉は、主に白人についていう言葉で、「第三国人」は、日本人以外のアジア人、とくに朝鮮人と台湾人を指し、「外人」よりも軽蔑を込めた言葉であった>(P三八四)といかにも日本人が差別するために考えだし、使っているような書き方であるが、元々はそういった意味ではなかった。「三国人」なる言葉は大東亜戦争終了後の昭和二〇年一〇月三一日に連合国が「連合国、中立国、敵国の定義に関する覚書」により、朝鮮はそのいずれにも該当しないことから「第三国」(The
Third Nations)と呼んだことに由来します。それが、どうして日本人が使う「第三国人」という言葉を蔑称と感じるのか。蔑称と感じるのであれば、まさに「第三国人」の彼ら自身の問題なのです。
極東軍事裁判について
極東軍事裁判について
<日本人が植民地統治していた朝鮮人と台湾人を強制動員したことは「人道に対する罪」として追求されなかったし、何万人もの外国人の若い女性たちを狩りあつめて帝国軍人に性的サービスを提供する「慰安婦」として働かせたことも訴迫されなかった。
略)
中国における化学兵器使用の証拠についても、検察は真剣に追及しなかった>(下 P二六一)
どこの国でも歴史上戦闘状態にあった場合は、その国の存亡をかけているのであり、国民に動員をかけ、徴用するのは当たり前です。これが違法とは呆れ返る。このバカは本当に大学教授なのであろうか。
ジョン・ダワーの母国であるアメリカで徴兵制は無くなったのはいつだったか。イギリスは大東亜戦争に植民地のインドからインドの人々を、オランダはインドネシアの人々を軍隊、労働に徴用すらしなかったとでもいうのであろうか。
<日本が侵略し、占領したのは、すべてアジアの国々であり、その破壊行為の結果として命を落としたアジア人は膨大な数にのぼるにもかかわらず、十一人の判事のうちアジア人はたった三人だった。
略)
特殊な植民地事情を反映する理由があった。フィリピンは一八九八年以来アメリカの植民地だったが、一九四六年には独立が約束されていた。古くから大英帝国「王冠の宝玉」と喩えられたインドも、一九四七年には独立する事になっていた。パル判事は、東京裁判の前半ではまだ非独立国を代表していたことになる。インドネシアの場合、日本による「オランダ領インド」占領後の苛烈な強制労働のせいで亡くなった人が一〇〇万人とも、それ以上とも言われているにもかかわらず、東京裁判で同じ恩恵は受けられなかった。オランダがインドネシアも代表していた、ということなのだろう。ベトナム、マレー半島、ビルマで日本人の手にかかって辛酸をなめたアジア民族も、独自の代表を送れなかった。建て前ではフランスがインドシナを代弁することになっていた。原則的にはイギリスも、ビルマ人、マラヤ諸民族、そして香港の植民非地統治民に代わって同じ役割を演じた事になっている。
東京裁判に、判事としても、検察官としても、朝鮮人がひとりもいなかった事実はきわめて異様である。朝鮮は植民地化され、何十万という男や女が日本の戦争装置による残忍な仕打ちを受けた・・・「従軍慰安婦」として、日本国内の採掘や重工業の現場でもっとも過酷な労働を強いられた労働者として、そして、軍の下級徴集兵として。終戦当時、朝鮮はまだほんとうの主権国家ではなかったうえ、いつそうなるかもはっきりしていなかった。
東京裁判が続いているあいだも、日本に植民地統治されていた人たちは、アメリカとソ連によって分割占領された国土に生き続けた。そして、旧支配者にして抑圧者であった人間を裁く事も、告発の準備に参加することさえ、許されなかった。
東京裁判の朝鮮人に対するこの処遇は、ある意味で、この勝者の裁きのより大きな変則性を如実に示していた。
あの戦争が、アジアでは独立した自由国家のあいだで戦われたわけではなく、ほとんどが植民地主義によって色分けされていた地図上で起こった、という事実に気づかせたからである。>(下P二六七〜八)
<パルの反対意見は「東京裁判史観」を批判する者たちの手垢にまみれたバイブルとなった。>(下 P二七三)
<日本人による残虐行為を認める発言もでた。南京大虐殺のような大規模で長期にわたる蛮行は、日本の報道関係者に目撃され、国際的には公にされてはいたが、日本国内では公表されていなかった。だから東京裁判の冒頭で南京大虐殺が明るみにでると、「朝日新聞」の「天声人語」は「真実を報道した一行の記事もなかったことは恥ずかしいことである」と悔やんだ。
一九四五年初めのマニラ大虐殺にまで及ぶこのほかの大量殺戮も隠されていたため、フィリピンと中国での残虐行為を中心にした詳しい報道が最初にされたとき、日本人は痛烈な衝撃をうけた。あまりに強烈で、これに較べたら、ほかの残虐行為が色褪せて見えたほどだった(例外は、東京裁判の過程で報告された日本兵による人肉喰食の件くらいだったろう)。白人に対する通例の戦争犯罪など、その衝撃の程度では足元にも及ばなかった。
略)
元植民地だった朝鮮と台湾の人たちに対する犯罪には、戦勝国も、敗れた国も、比較的関心が薄かった。皇軍によって死ぬまで酷使された膨大な数のインドネシア人労働者に至っては、まったく気にもされないも同然であった。>(下 P三一五)
注として
<一九四五年のマニラでの虐殺が暴露されたケースを例外として、一般に、当時の日本人は東南アジアの人々がこうむった犠牲に対して特に敏感ではあったようには見えない。この傾向はその後もつづき、戦時の日本の残虐行為の調査に熱心な進歩的研究者や活動家の著作でさえ、第一の関心は中国人の犠牲、次に朝鮮人の犠牲にあったように思われる。これには、犠牲者が中国と朝鮮に多かったという数量的問題だけでなく、地理的、歴史的、文化的、人種的、心理的な距離感の問題も含まれている>(下 P四四一)
いったい、どこの報道関係者に目撃されて、国際的に公にされたのであろうか。朝日新聞は戦後間もない時期(昭和二〇年九月十八日)に一番最初にGHQにより発行停止をくらい、その後は日本叩きに生きる道を見い出しました。そして、朝鮮と台湾の人たちに対する犯罪とは何であろうか。インフラ、衛生環境を整え、人口を増やした事であろうか。帝国大学まで作って教育をしたことであろうか。死ぬまで酷使された膨大な数のインドネシア人労働者一〇〇万人という数の根拠はなんであろうか。どこで、どのようにしてという具体的な指摘がないまま、この本にはこのようなアホな記述が延々と続きます。
ましてや、我が国が戦争をしなければならなかった理由など微塵もふれていません。
一九五一年九月のサンフランシスコ対日講和会議の席上、セイロン、現スリランカ代表のJ・R・ジャヤワルダナ蔵相(後に首相)の演説は下記のようなものでした。
<アジアの諸国民はなぜ、日本が自由になることを切望しているのか。それは、アジア諸国民と日本との長きにわたる結びつきのゆえであり、また、列強の植民地として従属的地位にあったアジア諸国民が、日本に対して抱いている深い尊敬のゆえである。
往時、アジア諸民族の中で、日本のみが強力かつ自由であって、アジア諸民族は日本を守護者かつ友邦として、仰ぎ見た。私は前大戦中のいろいろな出来事を思い出せるが、当時、アジア共栄のスローガンは、従属諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、インド、インドネシアの指導者たちの中には、最愛の祖国が解放されることを希望して、日本に協力した者がいたのである>
また、タイ王国元首相であった、ククリット・プラモード氏の
<日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。 日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。
今日東南アジアの諸国民が、米英と対等に話ができるのは、一体誰のおかげであるのか。
それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。
この重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決心をされた日である。われわれはこの日をわすれてはならない。>
という、同国で最も権威のある「サイヤム・ラット」紙の主幹を務めているときに、一九五五年(昭和三十年)六月に元タイ駐屯軍司令官であった中村明人陸軍中将がタイ王国に国賓待遇で招待された時、同紙に掲載された文章です。
そして、平成七年四月二六日に開かれた「アジア賢人円卓会議・アジアの独立を祝う夕べ」に寄せられた当時のアフガニスタン駐日大使であるアミール・モハバット氏による祝辞。
< 私は申し上げたい。日本は、日露戦争によって東洋の屈辱を払拭し、有色人の正義を列強に主張した最初の民族ではありませんか、と。
あの戦い以来、いかに多くの民族と支配されていた国々が勇気付けられたことでしょう。それらは歴史的事実として今日に至っております。The
Graet East War(大東亜戦争)では、一敗地にまみれました。しかし、日本国の当時の立場を考えた場合、誠に崇高な理念の植民地解放、民族独立、西欧列強に対する自衛の戦いであったと思います。
また、どれだけの植民地が日本のお陰で独立を勝ち得たでしょう。
これらは、二〇世紀の歴史における疑いのない事実なのです。
これらすべて、民族解放と人類平等のために日本人とともに闘い、そして散った先人達の尊い行為と行動の恩義を、私は信じます。>
これらアジアの人々の言葉について、ジョン・ダワーはどう思うのであろうか。
戦犯とされた人々の遺書について
このジョン・ダワーの著書でこの人らしさを感じる記述というか、読んでいて向かっ腹がたつのはいわゆる戦犯とされた皆様に対しての記述と思います。
まずは戦犯については、ジョン・ダワーは下記のように書きます。
<告発の理由がなんであれ、犯したとされた罪は例外なく残虐であり、身の毛もよだつほどおぞましいものも多かった。>(下 P二三九)
そして、戦犯とされた皆様の遺書については
<短命に終わったその征服権で「蝗軍」とがほんとうのところ何をしたのか、思い出さなければならないと思う人がほとんどいなかったのも、同じくらい確実だった。
この、できれば忘れたい、という雰囲気のなか、その後の何年かのあいだに、A級戦犯ばかりかBC級戦犯も、人々の意識のなかで社会復帰を遂げた。有罪になり、禁固刑を言い渡された被告たちは、犠牲を強いた者というより犠牲者として公認されるようになり、日本国内の刑務所にいる受刑者たちは考えうるかぎりもっとも快適で愉快な生活をおくった。処刑された者たちも、遠い国で処刑された場合が多かったのだが、その辞世や死に際しての言葉によって甦りをはたした。人々は、犯罪を忘れながらも、犯罪者たちは忘れなかったのである。
巣鴨拘置所での受刑者の扱いは、このもっともあからさまな例だろう。受刑者総数四〇〇〇人前後のうち、戦争犯罪で有罪となった数百人の囚人には、多くの楽しみが許されていた。独自の新聞「巣鴨新聞」の発行が当初から許され、そのうちに、娯楽のために生公演を自由に楽しめる状態になった。
略)
この国でもっとも有名な人気歌手たちが歌った。>(下 P三二四〜五)
どのような待遇であろうと、拘置所という、戦争が終わった後も自分の妻にも親にも自由に会えない生活を続けなければいけない状況におかれている。それを、このような書き方をするとは見下げ果てた男です。そのジョン・ダワーと同じ「人道的な」はずのアメリカ人が、グアム収容所などで我が国の軍人に対しておこなっていたような醜い虐待、仕打ちと同じ事を、巣鴨でもわが国の戦犯とされた皆さんにしろということでしょうか。ジョン・ダワーは皇軍を蝗軍と書き、何でも食い尽くしてしまうイナゴと比喩しているが、支那がよく言う「三光作戦」とはどういった意味か。普通、日本人には意味不明です。それもそのはずです。支那語では「〜尽くす」という意味で使う「光」は日本人では理解できません。そして、支那語での三光とは殺しつくし(殺光)、焼きつくし(焼光)、奪いつくす(搶光)ことをいうが、「搶」が「奪う」という意味になるのも支那語であって日本語ではありません。その我が国ではその意味に使わない光という単語で表される「三光作戦」をやったのは支那軍です。このように「三光作戦」とは支那側の呼称であり、我が国においての作戦の証言者は、なんと、支那での収容所生活ですっかり洗脳されたあの腐れ売国奴の集まりである中帰連の『完全版 三光
』 (中国帰還者連絡会編 晩聲社)によってです。三光を日本語で読んでもあまりしっくりとしないが、支那語で読むと殺光、焼光、搶光と全てほぼ同じ発音になっているそうな。
モンテンルパの夜は更けてについても
<一九五二年夏になると、あるひどく感傷的な歌が発表されて、戦争犯罪受刑者の戦争犠牲者としてのイメージをさらにいっそう強めた。作詞者の代田銀太郎も、作曲者の伊東正康も、フィリピンで戦争犯罪を理由に死刑判決を受けたが、じっさいには処刑されなかった。代田は濡れ衣を着せられたと主張し、フィリピンのモンテルンパ刑務所に収容されていた多くの仲間が処刑されたあと、一九五二年初めに涙をしぼるようなこの詞を書いた。『ああモンテンルパの夜は更けて』というタイトルは、日本人の感じやすい感傷のツボにじかに触れた。曲のほうも強く心に迫るメロディーで、フィリピン人の看守たちでさえ思わず口ずさんでいたといわれる。
この歌がモンテルンパ刑務所で初めて紹介されたのは四月二九日(日本が再び独立国となった翌日)だった。この集まりでは、君が代を斉唱し、遥か遠い東京の皇居の方角に向かってそろって礼をした。皇軍がアジア全土で荒れ狂っていた当時に日常的に行われていた、臣下としての表敬の儀式である。代田と伊東は、日本人教誨師を通じて、有名な歌手の渡辺はま子に歌ってもらうことに成功し、この歌は日本でセンセーションをまきおこした。
略)
「昇る日」に託されたナショナリズムと郷愁のこれほど素朴な表現はありえなかった。そしてまもなく、モンテルンパにいた戦犯死刑囚たちの絶望的な願いが叶うことになる。一九五三年七月に全員が日本に送還され、一部は自由の身になり、残りは巣鴨拘置所に移されたのである。彼らの乗った船をおよそ二万八〇〇〇人が港に出迎えた。その群衆のなかに、天皇の陸海軍のこれらの兵士がフィリピンで殺したすべての母や子や捕虜について、一言でも口にする者はいなかったはずである。
生き残った戦犯がちやほやされている一方で、処刑された戦犯についても、彼らの思いでに敬意をはらい、「戦犯」のレッテルを貼られたときに代わりに剥ぎ取られてしまった個人としての存在感のかけらでもいい、回復しよう、というプロジェクトが進行していた。すばらしく効果的で保守的な出版活動として、こうした男たちの遺書、家族に宛てた最後の手紙、辞世や別れのことばが集められ、公表されたのである。一九五〇年から五四年のあいだに、こうした文書を編集した本が一五冊以上出版された。この男たちの同胞は、彼らをいわば墓の中から語らせることで、可能なかぎりもっとも効果的な別れのことばを語らせたことになる。
こうした出版物のなかでもっとも包括的で、よく知られていたのが、一九五三年一二月に『世紀の遺書』のタイトルで出版された大部な本(三段組で七四一頁)だった。
略)
ここでは、有名な悪名高い男たちが、自らの受けた裁きを裁いていた。これらの遺書に混じって、東条の最後のことばもここに永遠の居場所を得て、国民と天皇に敗戦を詫びながら、国際的な犯罪については無罪だと断言していた。
略)
処刑された戦犯のなかには、告発された行為の責任を認めた者もいたが、真に公正な審理への配慮などほとんどない、基本的に報復とダブル・スタンダードの営為だったと裁判を断じる反応のほうがずっと多かった。また、本間を含めた数人が、明治維新の時代によく言われた「勝てば官軍、負ければ賊軍」を皮肉に引用した。
これら処刑された男たちの最後のことばは、ほとんど例外なく、残していく家族への深い気遣いとともに、自分たちがふつうの意味での「犯罪者」であるような印象は、愛する者たちの心からも、社会全般からも消して欲しい、自分たちは悲劇的な負け戦の犠牲になっただけだ、という切なる思いを吐露していた。最後にあたってのこうした「私的な」書簡にあるような思いを過大にうけとってはならないだろう。息子たちは両親に・・・夫たちは妻に、父親たちは子どもたちに・・・自分は決して殺人者でも畜生でもなかったことを、有罪とされた行いについてはちゃんとした理由があることを、愛する者たちは今でもしっかり顔をあげて生きていけることを、請けあわなくてはならなかったのである。こうした書簡の大部分がごく内輪の通信文であることは、編集者たちが読者に信じこませようとしたこととは反対に、その内容の真実を保証するわけではない。しかし、ごまかしがどこで始まり、どこで終わっているのか見極めることはまず不可能で、書き手自身にも判然としない場合が多かったのもまちがいないだろう。
日本文化において大切にされている家族の絆のなかでも、もっとも湿っぽくって感傷的なのは、何と言っても母と息子の結びつきだろう。甘ったるい『ああモンテルンパの夜はふけて』があれほど人気を博したのもその証明であり、『世紀の遺書』に収められていた手紙の相当数も、同じように、死刑を宣告された男たちの母親への深い愛情を披瀝している。この関連では吉田松陰の有名な辞世がいくつかの手紙に引用されていた。
略)
「反逆者」で「罪人」の吉田松陰は、まもなく、近代日本の英雄のひとりとして神格化され、目的の純粋さと悲劇的犠牲のこの上ないシンボルとなった。それが一世紀もたたないこのときに死刑宣告を受け、あきらかな敗残者として、もしかしたら極悪人とさえ思われながら、死のうとしていたこの男達にとって、死後に身の潔白を証明された吉田は希望と慰めだった。
略)
「犠牲」になったという表現は、下級裁判で死刑宣告を受けた男達の手紙を頻繁に見られる。そう書いた者たちは、自分を「国家の尊い犠牲」として、あるいは国のために「血をもって贖われる」犠牲として、あるいは「敗戦の犠牲者」、「日本再建のため」、「民族の」犠牲、もっと希望のもてるところでは、「世界平和」のための捨石と見ていた。
略)
こうした人たちによる文章を集めたほかの本についてもほぼ同じだが、それぞれの遺書に添えられている略歴の不可解さが「世紀の遺書」の用心深い保守性をよく反映している。書いた人がどこで処刑されたかだけを言って、その理由には言及していないのである。じっさいは、多くの人が遺書の中で自分の訴追理由である犯罪について語り、それがかなり詳細にわたる場合もある。しかし基本的には、こうした出版物は、明らかな不名誉のなかで死んだ男たちを人間に戻し、彼らの・・・少なくとも彼らの多くの・・・戦争犯罪を赦免することを意図していた。奇妙なことにこのような赦しは、天皇がアメリカから受けたあつかいに、ごく自然に、ほとんど鏡に映したように、そっくりだった。裕仁がその犯した悪事あるいは戦争責任を赦免されたように、戦争犯罪のゆえに訴迫された者たちも、戦争の渦のなかでしてしまったことを、こうして暗黙のうちに赦されていた。もちろん、彼らの行為によっていかなる被害も受けなかった者たちによって。男達の優しいことばが引用されることはあっても、彼らのじっさいの行為は無視されたも同然だった。
略)
こうした男たちは、悪魔のような存在から、その同じ人間の世界へと、手をとられて引き上げられていた。しかし、そうして人間になっているのが生き神にしろ、処刑された戦犯にしろ、そこから伝わってきたのは、あの恐ろしい戦争と、それに伴ってあらゆるところで行われた残虐行為に対して、かっての帝国のてっぺんから底辺まで、誰ひとりとして真に責任を負っていない、という印象である。
歴史と記憶のこのようなつくり変え、こんなふうな帝国陸海軍全体への人間の顔の回復は、国民的な心理的修復プロセスの一環だった。軍人のなかでももっとも悲惨なこの男達でさえ、欠点はあるにしても、複雑で感じやすい人間のように見せることができるなら、略奪をほしいままにする蝗の軍隊という不名誉も、すっかり拭い去ることは無理だとしても緩和くらいはできるかもしれない。こうした出版物にはこのような反動的な力が無視しがたく潜んでいた。こうした遺書は日本を犠牲者とする文学のサブ・ジャンルとして容易に読めたからである。さらにそれは、少なくともその一部は、反白人文書として見る事もできた。これら死刑判決を受けた男たちは戦争犯罪裁判が行われたすべての戦域で無罪を主張したが、彼らを捕らえたオランダ人、イギリス人、アメリカ人、の厳しさとダブル・スタンダードについての苦々しい気持ちはとくに辛棘に表現されていた。一方で、日本人がほかのアジア人たちをいかに痛ましく、無造作に犠牲にしてきたかを思い起こさせるような遺書は、こうしたなかにごく稀にしかなかった。
略)
こうした遺書が戦争責任の意識を希薄にしながらも、軍国主義や戦争の恐るべき人的コストの記憶を強めたからである。亡くなった学徒出陣兵の手紙や、原爆犠牲者たちの回想記と同じように、こうした最期のことばは、戦争によって人生を破壊されたひとりひとりの日本人のきわめて個人的な肖像を集めた公共のアルバムになった。たいていは美化され自画像だった。
略)
ある月刊誌が『世紀の遺書』からいくつかの項目を抜粋して転載した。そして、そこにつけた短い序文のなかで編集者は、これらの遺書は、日本民族全体を鼓舞し、全人類を清めてくれる「偉大な聖書」であると言った。そして、夜明け前が一番暗いことを思い出して気を取り直し、終わりなき平和を確立するために献身しようと、読者に呼び掛けた。これはまさに戦争中にあれほど頻繁に耳にした、清らかさと平和の修辞だった。名誉を失った死者たちを赦してあげよう、という超国家主義的な訴えだった。日本の戦争犯罪と残虐行為のすさまじい現実をぼかす煙幕だった。>
(下 P三二六〜三三四)
我が国軍人の遺書をこのように歪めて見ることができるというだけでも、このジョン・ダワーをいうアメリカ人のその醜い精神がよくわかります。
同書巻末に掲載されている注として
<『世紀の遺書』四〇七〜四〇八頁。この軍医の遺書は自分の無実を訴えた典型的な例である。捕虜収容所の担当になったこの軍医は、誰に労働させるかを決める際、自分は規定を厳密に守り、捕虜と日本人をまったく平等に扱ったと主張している。あの戦争や戦争犠牲者に関する戦後日本人の考え方に対して、この遺書が喚起するような感情が与える影響は、いくら強調しても足りないほどである。それは戦争を理想化するのに役立ち、日本の右翼的な新国家主義を勇気づけることは明らかである。そして同時に、戦地に行った自分の親類や知人を「戦争犯罪人」だとか「侵略戦争」に加担して命を失ったに過ぎないとは思えない、多くの普通の日本人の感情を肯定するものでもある。こうして、戦争集結からちょうど半世紀にあたる一九九五年、日本の侵略や残虐行為について、明確かつ一方的な謝罪をすることに反対し、日本人戦死者への敬意の表明を主張した民間団体の主なものひとつの名前は、「遺族会」であった。こうした人々の中には、自分を平和主義者と考える人もいるであろう。そしておそらく大部分の人は、自分は反軍国主義者だと思っているであろう。こうした団体が日本人死者を記念する行事では、必ずといってよいほど平和への祈り、つまり将来、二度とあのような日本人の「犠牲」が起こらないようにというアピールが行われる。恥知らずな右翼政治家たちはこうした感情を繰り返し利用し、日本人以外の人々は繰り返しこれを非難し続けている。>(下P四四四)
まるで、支那の無法さには無頓着な本多勝一、松岡環、西野瑠美子なみのアホウさです。
ジョン・ダワーを評価する人々
このジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」という著書は、先にも書きましたが、二〇〇〇年ピュリッツアー賞(ノンフィクション部門)受賞、二〇〇二年大仏次郎論壇特別賞受賞(朝日新聞社主催)、山片蟠桃賞(大阪府主催)といろいろ賞をもらっているようです。まあ、<占領軍の規模が大きかったことを考えれば、じっさい強姦事件は比較的少なく、日本政府が予期した程度におさまっていた>、<概していえば、この勝者は、アジアを占領していた日本の軍部よりはるかにきびしく自らの行動を律していた>と大嘘を書いてくれたのだから、アメリカは喜んで賞のひとつもやるでしょうし、そのような賞でしょう。
そして、日本側の賞は「朝日新聞社」主催、「大阪府」主催ですから、これもこんなもんでしょう。なんともわかりやすい。
このような腐れ本について、訳者のひとりである三浦陽一中部大学教授は下記のように後書きとして書いています。
以下引用
<本書には、はじめて「日本人の実像」を見たような驚きと、言葉が見つからないのだが、ある種の」「叔し」ないしは励ましがあると感じたのである。本書のタイトルは「敗北を抱きしめて」であるが、じつは著者は、その暖かい腕で「日本人を抱きしめて」くれたのだとも思う。これを受けとめ、本書にこめられたメッセージを今後に生かしていくのは、われわれ日本人自身に与えられた仕事であろう>(下 P四五五)
ジョン・ダワーが戦犯とされた皆様の遺書に対して、書いている無礼な内容を読んで、このように感激して、ましてや「著者は、その暖かい腕で『日本人を抱きしめて』くれたのだとも思う」とまで書いているのですからアホしか言い様がありません。この腐れ本のメッセージのどこを今後に生かしていけというのでしょうか。アメリカ人とはこういう人種だと理解させてくれるということなのでしょうか。このようなアホが教えている中部大学ってなんざんしょ。
あとの訳者の頭の中も似たようなものなのでしょうか?