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倉沢愛子の著書に見るインドネシア慰安婦の証言

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


 

平成19年10月3日水曜日晴れ ×
 手元に倉沢愛子女史の著書が三冊あります。
 「二〇年目のインドネシア」 草思社 一九九五年刊
 「女が学者になる時」 草思社 一九九八年刊
 「大東亜」戦争を知っていますか 講談社現代新書 二〇〇二年刊

 東南アジア社会史が専門だという倉沢愛子女史の著書「『大東亜戦争』を知っていますか」には貴重な?マルディエムというインドネシア慰安婦の証言が掲載されています。

以下その証言よりの引用ですが、史料としてある意味貴重だと思いますので、なるべく全てを記させていだだきます。


以下引用
 私の一家は祖父の代からクラトン(ジョクジャカルタのスルタンの王宮)に仕えており、ジョクジャカルタの町で育ちました。一九四二年のある時、日本人がボルネオのパンジェルマシンのレストランと劇団で働く少女を募集にきました。その先頭にたっていたのはドクター・ショウゲンジという日本人です。戦後になって分かったことですが、どうやらその人は戦前歯医者としてパンジェルマシンに住んでいた人のようでした。戦前ジョクジャカルタからボルネオのパンジェルマシンへ行って劇団に入っていたアンボン人の娘や、その他何人かがいっしょについてきて説得したので、私たちは信じて応募したのです。
 ジョクジャカルタから四八人がいっしょに出発しました。うち八人はアンバラワから行った女性でした。汽車でスラバヤへ行き、駅につくと軍のトラックが迎えに来ていました。ホテルで一週間船待ちをし、また軍のトラックが迎えに来て港へ生きました。そこからニチイ丸で出発しました。
 パンジェルマシンへ着くと、四八人のうち八人はチカダという日本人が経営していたレストランに振り分けられ、一六人は劇団へ入れられていたのですが、残る二四人は、なんと慰安所へ連れていかれたのです。私もその一人でした。
 その頃の私はまだ一三歳で生理も始まっておらず、男性と付き合った経験もありませんでした。慰安所に到着した翌日、日本人医師による診察がありました。その時何人か衛生兵が同席していました。部屋に帰ってくるとその衛生兵のうち一人がわたしのところにきて強姦しました。出血して痛くて痛くてしかたないのに、引き続きいきなり六人の客をとらされ、一二回行為をしました。
P159〜160

慰安所のつくり
 慰安所は、日本人の「チカダ」という民間人が牛耳っていました。彼は慰安所と道路を隔てた向い側に住み、日本料理屋も経営していて、日常的にはそちらに多く顔を出していました。歳は三〇代中頃くらいでインドネシア語がうまかったですが、怒鳴る時は日本語でした。手も早く、無口だが粗野でした。お手伝いの女性を妊娠させたこともありました。
 慰安所は事務所のある本館を中心に、Uの字に建物が建てられ、二四の個室に区切られていました。私は一一号室をあてがわれました。各部屋は三メートル×メートルくらいの広さで、ベッドの他にテーブルが一つと椅子が二つありました。部屋の隅に体を洗う場所があり、消毒薬の入った水がおいてありました。その部分はカーテンで仕切られていました。女性たちには日本名が与えられました。
私は「ももえ」と呼ばれました。いまでも昔の仲間たちとはこの名前で呼び合っています。
 慰安所での食べ物は最初の一年は、肉もスープもついてまあまあでした。お皿もありました。食事は料理人が台所で作り、出来上がると声がかかります。我々は自分の皿をもって取りに行き、部屋にもって帰って食べました。まだ客がいる場合には、部屋に運んでおいてあとで食べました。しかし戦争後半になってくると食事も悪くなり、一日二回になりました。衣服は二回しか支給されたことがありません。石鹸や煙草もありました。
 慰安所に来る人はまず、本館で所定の金額を払って切符を買います。
昼間は一時間当たり二円五〇銭を払うと切符とコンドームを二枚支給されました。夕方五時からは民間人対象で一時間三円五〇銭、夜中の一二時以降は「泊まり」で一二円五〇銭でした。私たちは客の切符だけ受け取りました。その切符はあとで勤めが終わってジャワへ帰る時お金と引き換えてくれるということだったので、ベッドのマットレスの下に入れてしまっていました。でも最後は終戦時の混乱の中で解散したので、ついにその切符を現金と取り替えてもらう機会はありませんでした。時々入るチップだけが私たちの収入でした。
 事務所には、ダヤク人(ボルネオの種族)一名、バンジャル人(ボルネオの種族)一名、中国人一名がいました。切符を書いた慰安婦たちの名札が掛かっていて、先客がある時は裏返しになっていました。その場合男性は隣の待ち合い室でしばらく待ちます。空くとボーイさん(戦前からパンジェルマシンに住んでいたジャワ人)が部屋まで案内してくれるのでした。
 将校たちは多くは自宅で妾をもっていたので慰安所へは来ませんでした。男達は、一時間に何度も要求しました。料金は回数でなく時間で計算されたからです。一回で満足する者は少なかったです。一時間たっぷり利用しないで早く帰る人がいると、すぐ続いて客をとらされました。空くと、ドアの前の表札に「空き」と記されました。中には自分から売り込んで客を多くとろうとする女性もいました。
 日本人にも優しい人がいました。「ワタナベ」という特警隊員は、娘が二人あるそうで「もし自分の娘がこんなことを強要されたら、私はそいつを殺してやる」といって私に同情し、二・三時間分の切符を買って私を休ませてくれました。彼は私に助言も与えてくれました。会話はほとんどが日本語で、時折インドネシア語を交えて行なわれました。
 慰安所はいつも満員で空いている時がありませんでした。仕事はいつも忙しく、一年たたないうちに、仲間のうち五人が体を壊して帰郷させられました。それで残った者たちはさらに忙しくなりました。
 
故郷との通信は許され、送金もできましたが、何の仕事をしているかは言いませんでした。
 毎日衛生兵による検査があり、その他週に一度軍医による検査がありました。病気だと休む事ができ、ドアの表札に「休業」と書かれました。一九四三年以降、検査官はインドネシア人になりました。時々私たち自身でお互いに検査しあいました。
月に一回、毎月五日は慰安所全体が閉店で、私たちも休日がもらえ、映画や芝居を見に行きました。
 P161〜163
 
妊娠
 二年目の一九四三年に私は妊娠してしまいました。普通はコンドームを使うのですが、なかには使うのを嫌がる人もいて、私たちはそんな時抵抗できないのでした。
 略)
 
中絶後三カ月は休ませてもらえるということで、慰安所とは別の場所で療養していましたが、一カ月たったところで、ある日、朝の九時頃に連合軍の空襲があり、住んでいた家が爆撃を受けました。ちょうど水浴びをしようとしていた時でした。それで、下着姿のまま逃げ出し、他に助けを求められるところがなかったので慰安所へもどりました。
 その時「チカダ」がひどく怒って殴りました。「なんで爆撃で死ななかったんだ」ということでした。あまりひどく殴られ、失神して気がついたら夕方四時頃でした。私は着るものも食べるものもなかったのですが、仲間が出して分けてくれました。
 その夜彼が私を家に呼び出し、「さっきはどうも感情的になってすまなかった」と謝ったが、その後で彼が私を強姦しました。三カ月休めるということでしたが、私はそれ以後仕事に戻らされたのです。
P164〜165 
 第二陣の到着
 ちょうどその頃、ジャワから第二陣が到着しました。ジャクジャからだけでなくジャワ各地から集められた者で五〇人ほどがいました。ほとんどが、周辺の村から連れてこられた女性達で、ジャグジャの町の出身者が中心だった第一陣とは違っていました。人数が増えて仕事は少し楽になりました。とはいえ、田舎の人たちは、お化粧をするにもほお紅を真っ赤に塗るなど野暮ったかったため、やはり、第一陣の都会の子の方が人気がありました。第二陣が来ても部屋は増えませんでした。彼女たちは専属の部屋がなく、その時空いている部屋…………
生理や体の故障で休まざるをえない人も結構たくさんいたのです…………を使っていました。部屋が足りない時は、道路の向こう側の、チカダの家の隣に設けられた休憩所で待ちました。そこには、本来その日仕事を休む者が療養する部屋でした。
 第三陣はバリックパパンから移ってきた人たちです。彼女たちはバリックパパンへ到着して三カ月ほどしたところで、町が連合軍の手に落ちたので逃げ出し、歩いてパンジェルマシンへやってきました。一五人がいっしょに出発したそうですが、途中で七人が脱落し、八人だけ到着しました。彼女らが来て間もなく終戦になりました。
P165〜166

終戦そして結婚
 終戦になると、私たちの慰安所の跡には、ロームシャが集まってきました。私たちは、今度は連合軍の相手をさせられるのではないかと恐れて、ダヤク族の集落へ逃げました。仲間の一人がダヤク人と結婚しました。事務所で働いていたダヤク人の甥です。それで私も彼女といっしょにその御主人の村へ逃げました。
 そのころ、いまの夫と出会いました。彼は元々蘭印軍(KNIL)の兵士で、戦争が始まると日本の捕虜になり、
日本の監督下で、われわれの慰安所へ野菜を納入する仕事をさせられていました。だから顔見知りでした。終戦前に彼はバリックパパンに移り、そこへ上陸した連合軍といっしょに、再びバンジェルマシンへやってきました。そして私を探し出してくれました。二二歳も年が離れていましたが、同じジョクジャの出身なので結婚することになりました。夫はその地でインドネシア国軍に入り、私は子供を出産しました。
元慰安婦だった仲間のうち六人ぐらいは、私と同じように元の蘭印軍兵と結婚しました。私は幸い子供に恵まれましたが、他の多くの仲間は子供を産めない体になっていました。
引き続き連合軍相手に売春婦になり、かなりお金を溜めた者も四人ほどいます。
 一九九三年春に、法律援護協会が元従軍慰安婦の登録を開始したと知って、私も名乗り出ました。それまで息子もその妻子も私が慰安婦だったということを知りませんでした。息子夫婦の理解が得られたので、名乗り出たのですが、その時、近所の人や親戚の中には、私に対して「恥ずかしいことをするな」と言って怒る人もいました。
(支援団体に招かれて)日本へ二回行きましたが、帰ってきた夜に、私がお金を持って帰ったかと思って強盗が入りました。私は強盗に「あんたバカじゃあない?日本がそんなに簡単にお金をくれると思っているの?」と言ってやりました。近所の人は口がさない人も多いです。「あんなに何度も日本へ行って、結局まだお金もらえないじゃないの」などと陰口をたたく人もいます。多くの者はもう、歳をとって、長くありません。早く解決して欲しいと思います。
P166〜167
証言の引用終わり

 この証言から、私はただの職業売春婦としか思えません。
 <昼間は一時間当たり二円五〇銭を払うと切符とコンドームを二枚支給されました。夕方五時からは民間人対象で一時間三円五〇銭、夜中の一二時以降は「泊まり」で一二円五〇銭でした。>
<故郷との通信は許され、送金もできましたが、何の仕事をしているかは言いませんでした。>
<中には自分から売り込んで客を多くとろうとする女性もいました。>
<月に一回、毎月五日は慰安所全体が閉店で、私たちも休日がもらえ、映画や芝居を見に行きました。>

 当時の軍人の給与は大将で年六六〇〇円ですから月五五〇円でした。下士官で曹長だと約四〇円弱、伍長だと一〇円程度です。いかに売春婦が高級取りであったかを示す例です。今も売春婦として働く女性が多いのはそのためです。
 そのお金を<その切符はあとで勤めが終わってジャワへ帰る時お金と引き換えてくれるということだったので、ベッドのマットレスの下に入れてしまっていました。でも最後は終戦時の混乱の中で解散したので、ついにその切符を現金と取り替えてもらう機会はありませんでした。>
と証言していますが、それは日本人も同じです。戦争のドサクサで総てを無くして帰国したのです。
 ましてや、現在でも、我が国で売春をして生活している女性が「私は売春で生活している」と親や友人、知人にしゃべっている方はどれだけいるのでしょう。
 そして、旧日本軍が引き揚げた後も、連合軍相手の売春婦として稼いでいるのですから、ぜひとも連合軍相手にも訴えを起こして欲しいものです。
 そんな戦時売春婦が銭が欲しいと名乗り出ただけなのです。
あほらし

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