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欧米列強の植民地統治による王族の運命
(イギリス)
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
平成19年10月16日火曜日くもり一時小雨
朝鮮王族を存続させた我国の朝鮮統治と当時の列強による植民地における国王の処置と比べてみる。
イギリスはインド・ムガール帝国最後のバハダールシャー王を一八五七年、セボイの反乱で王族を皆殺しにし、ビルマ・ラングーンに流刑にし、王妃、側近と共に幽閉する。一八六二年一一月に王が没したのちも、遺体を故国に埋葬する事を許さず、同じ場所にモスクを兼ねた霊廟が置かれた。
現在でもそのモスクは最後まで仕えた側近の末裔が、イスラムの金曜導師を務めながら霊廟を守っているそうである。「レッド・フォート」と入口に文字が書かれたその棺室の名前は、故国ニューデリーにあるムガール王朝の居城の名だそうである。
イギリスはビルマにおいてもインドと同じように、一八八五年、国民の求心力を奪うため、ビルマ国王夫妻と四人の王女をインド・ボンベイ近くのラトナギリに流刑にする。ティボー直筆の英国政府宛書簡(一九一一年五月付)に「せめて一家が食べていけるよう、年金を上げてもらえないだろうか」と書かれているそうで、生活費にも事欠く悲惨な生活を強いられていた。
困窮と辱めに加え、英国側は王朝復活の望みを断つように王位継承権第一位にあった第一王女、パヤ(ファヤ)王女を身分の低い英印軍軍属のインド人ゴバルと結婚させたと消息をほぼ一世紀ぶりにインドの英字新聞ヒンドスタン・タイムズ紙がこの王家の悲劇にもふれています。
一九九五年九月一六日付けの同紙によると、王女は結婚させられた英印軍属には正妻がいることがわかり、愛人となる。肉親とも離れ、インドの最下層の社会の貧困の中で死に、その娘、つまり国王の孫娘ツツはビルマ語も忘れ、教育も資産もないまま、最貧困層のインド人の妻となり、六人の子供を抱え、街角で造花を売って生計を立てている。その顔立ちに王族らしい気品を備え、それが哀れだったと伝えているそうです。
「情報鎖国・日本 新聞の犯罪」(高山政之著 廣済堂出版)より引用(写真も)
今日は肌寒い。河岸に行く時に半袖のTシャツだけで地下鉄に乗っていたのは私だけだったが、河岸に近付くにつれ、仲間?が増えてきた。河岸にはいると山程!活けもの、アンコウなどでお世話になるノブちゃん、フミちゃんの兄ちゃんなど真冬でも半袖!
先週と同じようなと思っていたら、金チャン来店。マルガリータさん来店。大台さん二名様で来店。仙台のIさんHさん来店。
明日は河岸が休みということで、営業終了後に久しぶりに「エムズバー」さんにお邪魔する。その後、中野の「石松」
ドンチャン。帰りは石松のマスターと動き出した地下鉄で朝帰り・・・・