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本当にうまい酒?
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
平成18年6月4日日曜日晴れ ○
あの本多勝一氏はキリスト暦、イスラム暦、仏暦で何年と表示してこそ「あけましておめでとう」だそうで、平成などという元号は「天皇が死ぬたびに年号をかえるような不便で不合理で差別的な年の数え方よりも、何であれ一本で数えるのがいかに便利か」とその著書「貧困なる精神Z」の中に書いていますが、ではどうして一緒に皇紀も書かなかったのでしょう。
本多氏のこういった姿勢は著書の随所に見られます。日本の政治については「かねてから『ソ連以上の一党長期独裁国家』と指摘し、ソ連以上にペレストロイカの必要を説いてきたゆえんである」とまでいいながら支那、北朝鮮の独裁体制には何も言わない。まあ、都合の悪いところを直視しないのは、「侵略戦争でひどいことをやった国は日本だけではない。しかし問題は、そのあとをどう処理しているかにある。(国会議員が南京大虐殺をアメリカの雑誌で全否定したり、従軍慰安婦の責任を免罪する女性評論家をマスコミが持ち上げたりして)日本はモラルのない無責任国家という評価が世界に広まった」(1992年年末のTBS「日本の政治の姿は世界にどう写っているか」より)と前後して本多氏がその発言を取りあげている筑紫哲也氏なども同じですけど。
古本屋で買ってきたこの本では、そんな本多氏が珍しく酒のことについて書いています。
「本当にうまい酒」と題されたコラムでは、「絵や音楽その他における美意識と同じく、正確な数値で議論できるものでは全くなく、すべてこれ主観・趣味・好みの問題だから、だれが何と言おうと、勝手放題の酒談義」として前置きした上で「本当にうまい酒」とは何かと書いています。
有名度との関係については
「ほとんど断言していい。大々的に広告している有名な酒に、本当にうまい酒など一つもない、と。酒は本質的に大量生産になじまぬ手づくり文化であって、有名度とは形容矛盾なのだ」
「たとえば、国立民族学博物館のK教授がつれていってくれた大阪のある居酒屋。ここで出た酒はホンモノの味だった。買えないものか銘柄をきくと、奈良の酒だが趣味の手づくりなので市販されていないという。参った。さすがだ。あの酒だけのためにあの店に行きたいくらいだ」
本多氏は、酒は本質的に大量生産になじまぬ手づくり文化としてこの居酒屋さんの話に感激し、その内容に矛盾などは感じていないようです。旨い日本酒が趣味の手づくり・・・市販されていないのに、大阪の居酒屋さんで飲める・・・・この程度だから、支那人にころっと騙されて、南京大虐殺、万人坑などという嘘を書いても平気なのでしょう。
そして、これはうまそうだと「別に有名にならんでもええ。だから生産量も増やさん。ただいい酒を造るだけ」とガンコ一な社長の言葉がいいと週刊朝日の記事から引用し、唯一銘柄を書いてあるのが、モンドセレクションで有名な和歌山の「羅生門」。
これにも何か矛盾があるように思うのですが、本多氏は感じないのでしょうか。