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外国人の文献に見る朝鮮(及び日本)
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
平成18年9月6日水曜日くもり一時雨 ○ 平成20年10月7日追記
URAホーページの書き直し、書き足しなどをしたかったひとつである「外国の方から見た朝鮮」について一部書き直しをします。
それにともない「外国人の文献に見る朝鮮(及び日本)」とさせていただきます。
<併合前の半島>
イサベラ・バード著、朴尚得訳「朝鮮奥地紀行一」平凡社東洋文庫五七二より(同じイサベラ・バードの著書は、時岡敬子訳「朝鮮紀行」として講談社学術文庫として出されていますが、手許にあるより「朝鮮奥地紀行一」の引用です。イザベラ・バードと表記されている本もありますが、ここでは手許にある本よりイサベラ・バードと書くことといたします。結婚後ビショップと改姓したそうで、「朝鮮奥地紀行一」にもビショップ夫人という表記もみられます。
イサベラ・L・ビショップによるこの著書の序言として<私は1894年一月から一八九七年三月までの間に四度、朝鮮を訪問した>と書いてあるように、我が国が併合する前の朝鮮の姿が描かれています。(訳書ではソウルと表記されていますが、当時は漢城)
<ソウル近郊の木が伐られて裸にされた丘、海岸、条約港、そして主要幹線道路などは印象的ではあるが、この国に大変好ましくない感じを与えている。南部朝鮮の多くの地域に在る材木貯蔵所は閑散としている。しかし、北部と東部地方の山々には、特に豆満江、鴨緑江、大同江、漢江の水源地を囲み地方には、まったくのところかなりの原始林がある>
P三六〜三七
ソウルの海港済物浦(仁川の旧地名)において日本人、支那人などが幅をきかせているとして
<読者は、済物浦のどこに朝鮮人が居るのか、と疑問に思うであろう。事実私はほとんど朝鮮人のことを忘れていた。というのは、ここでは朝鮮人はとるに足らない存在だからである。増えて大きくなっている朝鮮人の町は、ソウル街道の日本人居留地の外側に在る。イギリス教会が建っている丘の麓を巡って密集し、匍い登っている。どこの岩棚にも置かれている泥のあばら家には、不潔な路地を通って行ける。無口できたない子どもたちが群がっている。その父親の無為を真似て大道で傍観している。朝鮮人は丘の頂上の政府の衙門にも居る。朝鮮人の処罰方法である衙門の使い走りによる残忍な鞭打ち、犯人を死なせる打ちのめしによる苦悶の呻き声の中に朝鮮人は居る。その呻き声は、隣接しているイギリス教会のいく室もの部屋を貫通している。朝鮮人はまた、殆ど全ての衙門を不正の巣窟にしている。賄賂と汚職のなかにも見られる。二重になった屋根のある通用門と出入口の上の太鼓状の館が、よそものに首都と済物浦の活力は外国人のものであるけれども、政府は土着人のものである事を思い出させている。>
P六二〜六三
ソウルについては
<私は北京を見るまではソウルを地球上でもっとも不潔な都市、また 紹興の悪臭に出会うまではもっとも悪習のひどい都市と考えていた。
大都市、 首都にしては、そのみすぼらしさは名状できないほどひどいものである。礼儀作法のために、二階家の建造が禁じられている。その結果、二十五万人と見積もられた人々が「地べた」、主として迷路のような路地で暮らしている。その路地の多くは、荷を積んだ二頭の雄牛が通れないほど狭い。実にやっと人ひとりが、荷を積んだ雄牛一頭を通せる広さしかない。さらに立ち並んでいるひどくむさくるしい家々や、その家が出す固体や液状の廃物を受け入れる緑色のぬるぬるしたどぶと、そしてその汚れた臭い緑によっていっそう狭められている。そのどぶは半裸の子供たちやどろどろしたへどろのなかを転げ回るか、日なたで目をぱちくりさせている汚物で汚れた大きな、毛の抜けたかすみ目の犬が大好きでよく行く所である。そこにはまた「小間物」やアニリン染料でけばけばしく色付けされたキャンディーの行商人も居る。その行商人はどぶに厚板を二、三枚渡して店を常設している。その品物は多分一ドルかそこらの値うちしかない。
略)
これらのどぶと隣接している家屋は一般に、深い庇と藁葺き屋根のあばら屋である。 その家は、泥壁の他には通りに何も見せていないが、時折屋根のすぐ下に見られる小さなかみの窓で人の住むところであると示している。
いつも変わらずに、どぶの上の二フィートから三フィートの高さの所に黒くなった煙の穴、煙と熱せられた空気の抜け口がある。
これは家屋の床を暖める役目を果たしている。
略)
反り返った瓦屋根のある上等な家屋も、この下品な外観以上のものを通りに見せてはいない。>
P七一〜七四
<ソウルの「風物」の一つは小川、廃水渠または水路であり、塀で囲まれた、覆いのない広い導水管である。それに沿って、黒ずんだ色の爛れたような流れが、かって砂利だらけの川床であったところを覆っている肥やしや廃物の山の間の、悪臭がする長い広がりをのろのろと進んでいる。そこで、男たちだけの群集に疲れた人は、最下層の女たちの光景で活気づけられるかもしれない。ある女の人は、おたまで手桶に水として通用する混合物を汲んでいる。他の女性は、流れとして通用する悪臭を放つ水溜まりで衣類を洗っている。>
P八十二
<最下層の女性に就いて述べてきた。日中着物を洗い、水を汲む。多くの女性は家事の奴隷になっている。みんな最下層階級の者たちである。朝鮮の女性は非常に厳しく隔離されている。恐らく他のどこの国の女性よりももっと完全に隔離されていることであろう。>
P八十五〜八十六
<朝鮮人にとってソウルは、そこでのみ人生を生きるに価する場所なのである。
それにも拘らず、ソウルには美術の対象になるものは何も無く、古代の遺物ははなはだ少ない。公衆用の庭園も無く、行幸の希有な一件を除けば見せものも無い。劇場も無い。ソウルは他国の都市が持っている魅力をまるで欠いている。ソウルには古い時代の廃虚も無く、図書館も無く、文学も無い。しまいには、他には見出せないほどの宗教に対する無関心から、ソウルには寺院無しの状態で放置されている。一方、未だに支配力を維持しているある種の迷信のために、ソウルには墓がないままにされている!
孔子廟とそして中国同様朝鮮で孔子の銘板に対して公的に表明される敬意を除いて、ソウルには公の神殿は一つも無い。違反したら死の処罰を受けるという条件があるので、僧侶はソウルの門内に立ち入らない。その結果ソウルは、中国または日本のもっとも惨めな都市にさえ見られる、宗教上の建物が与えている崇高な感銘を欠いている。>
p一〇六〜一〇七
そして、同時期にソウル(当時は漢城)にあった日本人居留地についてイザベラ・バードは下記のように記しています。
<南山の斜面に、日本公使館の簡素で控え目な白い木造建築があった。その下に在る約五千人の日本人居留地には茶屋、劇場と、そして日本人の安寧に欠かせないいろんな設備が整っていた。そこにはその全てで朝鮮人のものとは鋭い対象をなしている商店や、家屋のある通りが見られた。清潔、上品そして倹約がこの上なく行き渡っている。被りものをしていない女たちや帯びで締めた化粧着を着て、下駄を履いている男たちが、日本に居るのと同じ様に自由に動き回っている。そこにはまた極めて小さな兵隊たちや憲兵、さらにきちんとしている、佩刀した将校たちが見られる。彼らは適当な間隔で見張りを交替している。そのような警戒が必要なのである。>
P八十
また、同じく長崎より出航した船上より見た対馬と釜山について
<肥後丸が寄港した対馬島は、私が日本を最後に見た所である。対馬の紅葉している楓と花咲く西洋李、神殿が建っている高台、森の中の神社へと通じている荘厳な石段、青々とした松林と金の羽のような竹の葉が、釜山の木が伐られて裸にされた褐色の丘が生み出す印象の、夏には心地良かろうが陽の差さない二月の日中には厳めしいその不気味さを強調していた。>
P四六
後書きによりますと、この著書を訳している朴尚得氏は一九二七年朝鮮生まれで、一九三五年に我が国に父親を尋ねて母親と来たそうで、東京大学文学部を卒業しています。そして中学校に入学した時に、学校に提出するために戸籍を取り寄せたところ、新井尚得に父親も関知しないのに変えられていて、「創氏改名を強制されたのである。一九四五年の日本帝国主義支配からの朝鮮解放、民族解放によって本来の朴尚得に戻せた。」と書いています。そして「つまり私は社会の下層で成長した人間なのである」とも書いています。
創氏改名については朝鮮人らしいウソを平気でついています。
あと、社会の下層で成長した人間でも国立大学に入れる日本はすばらしいと思うのですが。
文章中の注約のところでも、朝鮮という国名について、二つの候補を挙げ明朝廷の裁決を乞うたという事実を隠して書いている。(p三一〜三二)両班については「一九四五年の民族解放とともにはじめて一掃された」P八四、などとウソを書いています。
まあ、何と言っても後書きにはお約束の「豊臣秀吉の侵略をうけ、四百年の永い年月が経ってもすっかり拭い切れない程の大災難を祖国朝鮮に、朝鮮民族、朝鮮人民にもたらしたのであった。更に朝鮮と日本、朝鮮人と日本人の間に計り知れない程の不和、難問、増悪、忌避などの不幸な事態をきたし、本来一衣帯水で親善、連帯を強められる筈の間柄を極度に悪化させたのである」
P三六九
と書かれています。
四百年前の朝鮮征伐(この言葉も使うなと書いております)による影響がまだある朝鮮って何でしょう。じゃあ、いったい四百年間朝鮮人は何をしてきたのでしょう。四百年間も残る拭い切れない大災難ってどんなのでしょう。我が国がアメリカより受けた被害よりすごいのでしょうか。そんな凄い被害を朝鮮征伐軍は朝鮮に与えてることができて、どうして撤退したのでしょう。あほらしい話です。つまるところ、朝鮮人にとってはいつまでも我が国が加害者で自分達は被害者でなければ、いろいろと困るということでしょう。まあ、「(朝鮮侵略と)史実を正確に言って欲しいものである」P三六八と書きながらこんなアホな事をつぎつぎと平気で書くこの朴尚得氏という在日朝鮮人。何とも分かりやすいお人としか言い様がありません。
こんな人間のクズにこそ言いたい「イヤだったら帰れよクソ朝鮮人が」
下記は私の手許にある「『植民地朝鮮』の研究」(杉本幹夫著 展転社 平成十五年)からの引用です。杉本氏はそれぞれ下記の著書より引用しております。
@シャルル・ダレ著 金容権訳「朝鮮事情」平凡社東洋文庫一九七九年
シャルル・ダレ著の「朝鮮教会史」の序論部分。ダレ自身は朝鮮に入国したことはなく、主としてダブリュイ主教(一八六六年ソウルで処刑された)が収集した資料を基礎に、他の宣教師の手紙等をまとめ、整理したもの。
AF・A・マッケンジー著 渡辺学訳「朝鮮の悲劇」平凡社東洋文庫一九七三年
カナダ人のマッケンジーはロンドン・デリーミラーの貴社として一九〇四年と一九〇六年の二回朝鮮を訪れている。原本は併合の二年前一九〇八年に出版されたもの。ジャーナリストの目でみた併合に至る朝鮮の歴史であり、朝鮮に同情的な論調で、我が国を批判している。
B「韓国記」龍渓書舎復刻一九九六
ロシア大蔵省が調査した資料を日本の農商務省が抄訳した物で、一九〇五年日露戦争に勝利した年に東京書院から発行された物の復刻版。
Cイザベラ・バード著「朝鮮紀行」時岡敬子訳 講談社学術文庫 一九九八年より。
これは私の手元にある同名の著書とは違いますので、私も杉本氏の著書よりの引用となります。ページ表示は杉本氏の著書に書かれているそれぞれの著書のページ表示です。
<第一印象、住居等 >
イザベラ・バード
「北京を見るまで私はソウルこそこの世で一番不潔な町だと思っていたし、 紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世で一番ひどいにおいだと考えていた。
都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい。
礼節上2階建ての家は建てられず…」
「こういった溝に隣接する家屋は一般に軒の深い藁葺きのあばら屋で、
通りからは泥壁にしか見えず、ときおり屋根のすぐ下に紙をはった小さな窓があって人間の住まいだと言うことが分かる。
又溝から二、三フィートの高さに黒ずんだ煙穴がきまってあり、
これは家の中を暖めるとと言う役目を果たした煙と熱風の吐き出し口である。」
「瓦屋根の反り返った上流階級の家屋でも、通りから見た体裁の悪さと言う点ではなんら変わりがない。」
C 五八−六〇頁
シャルル・ダレ
<貴方はみすぼらしい茅屋というものを見たことがあるでしょう。
では貴方の知っている最も貧しい茅屋を、その美しさと強固さの程度を更に落として想像してみてください。
するとそれがみすぼらしい朝鮮の住まいについての、殆ど正確な姿となるでしょう。>
<二階建ての家は探しても無駄です。そのようなものを朝鮮人は知らないのです。>
@p二八九
<官吏と徴税>
シャルル・ダレ
<官吏の地位は公然と売買され、それを買った人は当然その費用を取り戻そうと務め、その為に体裁をかまおうとさえしない。上は道知事から最も下級の小役人に至まで、徴税や訴訟やその他のすべての機会を利用して、それぞれの官吏は金を稼ぐ。国王の御使(監察官)すら極度の破廉恥さでその特権を利用している>
<朝鮮の宮廷は非常に貧しく、国庫はさらにもっと貧弱です。 宦官やその仲間である国王の妾、宮中の侍女たちは、もし大臣の地位や、
又時には他の幾つかの高官職を売って得る金がなくなれば、きっと打撃を蒙るでしょう。
従って権力の座にあるものは、贈り物を次々と与えては機嫌をとり、
これらすべての貪欲な吸血鬼をいつも満腹にしておかなくてはなりません。
特に今までに増して国王の寵愛を獲得しようとする時には、巨額の金が必要になります。
所が金炳国(きむぴょんごく・国王の義兄弟)は、幾つかの官職をかなり高く売り、 朝鮮人参の専売権を引き受けたのだが、それでも尚必要とされるすべての人々に富を行き渡らせて、地位を買収するだけの金を得ることができなかったのです。
昨年の真冬に、金炳国のおかげで多くの地位と富を得た1人の男が金炳国を訪ねてきて、
「最高権力を握りたいとは思わないですか」と尋ねたのです。
「答えるまでもないでしょう。しかしそれを得るためにはとにかく金がいるのというのに、
私にはそれがありません」と国王の義兄弟は答えました。
「それでは私に王国の南部地方の租税を徴収する職を下さい。そうすれば必要なお金を手に入れて差し上げましょう」「よろしい」と大臣は答え、
すぐさまその男の指示に従って対策を講じたのです。
南部地方の租税は主に米で、それは海路を通じてソウルに運搬されていました。 くだんの男はこれらの米をみんな集めて船に積み込み、中国まで運搬し、朝鮮で売る四倍の価格で売りさばいたのです。
帰国した彼は租税に必要な米を再び買いととのえました。
こうした値段の差額によって、国王の義兄弟は、宮中にあふれている一群の宦官と侍女の支持を一手に獲得することができたのです。そして彼は自分の競争相手を罷免し、すべての権力を独占しました。
いかなる穀物を輸出しても、それは極刑にかけられる犯罪になります。ましてや王室の維持費のために徴収された米を売るものは許し難い国事犯なのです。この密輸出が原因となって、とうとうこの年は幾つかの道にとっては深刻な飢えの年となったのです。しかし彼にとって何の関係があるでしょう。
彼が権勢を得、豊になった以上、誰が彼の行状を問い正そうとするでしょうか>
@P七一、七四
<取り調べ、監獄>
シャルル・ダレ
「ある日1人の若い常民が、両班の子弟と喧嘩している内に、誤って斧で脇腹を一撃して殺してしまった。
殺人犯である常民は、即座に捕らえられ守令の前に連行された。
証人の中には被害者の父親もいた。
一言二言三言訊問した後、守令は斧を持ってこさせてその父親に手渡し、
縛られたまま地面に倒れている殺害者を指さしながら、
「こやつが、どのようにお前の息子を打ち殺したか、見せてみよ」と言った。
守令はその父親に犯人をその場で殺害させ、煩わしいこの事件から早く逃れてしまいたかったのだ。」
「大きな邑には、捕卒から報酬を受けている盗賊の頭目が数人いつもおり、 人々が彼らの行為に耐えられなくなった時か、
守令がいつになく強い脅しをかけた時に、法廷に突き出されてくる。
彼らを逮捕する時にも、比較的軽い犯罪については合意が出来ていて、
それから捕卒が告発し、被告が是認する。重大な問題に関しては、
すべて堅く沈黙が守られ、真犯人が自分の犯罪に対してそれ相応の懲罰を受けるようなことは稀である。
のみならず政府は必要なときに備えて大胆で図太い補助者を自らの手元に確保しておくため、世間に名の知れた数多くの泥棒を自由にさせておく。」
「許されている拷問が、未だ数多く残っている。次に主要なものを挙げてみよう。(詳細省略)
1.棍杖(長さ1.6−2メートル、幅20センチ、太さ4.5センチ位の棍杖で殴る)
2.平棒、笞、棒杖
3.骨の脱臼と屈折(3種類ある。その内の1例は、両膝と両足の親指を縛り、その間に2本の棒を入れ、反対方向に引っ張る)
4.吊り拷問
5.鋸拷問或いは足の鋸引き
6.3稜杖(木製の斧若しくは鉞で肉片を切開する拷問」
@シャルル・ダレ 一一二〜一一四、一一八〜一一九、一二二〜一二四。
マッケンジー
「監獄は呪詛の的となり、拷問は自由に行われていた。
周期的な監獄清掃に際しては一時に数十人の囚人を絞首してしまい、裁判は売買された。」
「罪人たちがその首をはねられた後、鳥や犬に食わせるよう野っ原に放り出して置かれるのを見て、不快感を抱いたこともあろう。
更に彼はしばしば行われた囚人に対する拷問や笞刑の光景を見て全く嫌になってしまったこともあるだろう。」
国王のロシア大使館逃避後。
「第2の詔勅が天下に公布され、兵士たちに自分たちの国王を守り、謀反の首謀者たちの首をはねて国王の所にそれを持参するよう呼びかけた。
この詔勅は集まった群衆の怒りを最高潮にかきたてた。
大群衆が前閣僚たちを殺害しようと捜し求めた。
2人の大臣(前内閣総理大臣金弘集と前農商工部大臣鄭秉夏の2人)が街路に引きずり出され、残忍きわまる方法で殺害された。
その内1人は首の後ろから耳の前にまでわたるひどい深傷を負っていたが、群衆はその彼が倒れるとき猛獣のような大きな歓声を張り上げた。
群衆はその死体に向かって石を投げつけ、或いは踏みつけ、又或ものはその四肢をずたずたに切り裂いた。
1人の男は自分の小刀を抜きはなって、死体の一つの内股の肉を切り取り、その肉片を自分の口に入れながら、
群衆に向かって「さあ!奴らを食おうではないか」と叫んだ。」
AF・A・マッケンジー著 P二七〜二八、三三、七九、一一九〜一二〇。