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福岡良男氏のインドネシアでの医療活動

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


支那とインドネシアの差? 

平成21年1月11日日曜日晴れ ○

 我が国のNPO法人が編集した日本語教材が支那で出版されたが、原本に史実として収録された「旧日本軍医が多くの中国人を助けた」という内容に対して、支那側が難癖をつけて、削除されて出版されたことが、昨年十二月三十日付けの産經新聞矢板明夫記者の記事で報道されていました。

 以下引用

 略)

 中国では愛国主義教育の一環として、日本軍の残虐さを誇張して描写した書籍が大量に出版されており、こうした日本軍のイメージと矛盾しているため中国側が難色を示したとみられている。

略)

 中国側が問題視したのは「永井隆、原爆の地 長崎に生きる」という文章だった。

 長崎に原爆が投下された後、自分も被爆しながら、多くのけが人を治療した医者、永井隆氏の生涯をつづった文章で、一九三七年に永井氏は軍医として中国に赴き、日本人だけでなく、病気や負傷した中国人を多数治療したことも紹介された。

 その中で、「一九三九年には一年間で四〇〇〇人の中国の人々を助けた」などの部分について、中国の出版社が「記述に問題がある」として日本側に手直しを求めて来た。

 日本側は、執筆の際に参考にした「永井隆全集」など多くの史料を中国側に送り、説得しようとしたが、結局「永井隆」の部分は、すべて削除して出版された。

略)

 同教材は二〇〇七年十月に韓国で出版され、来春には台湾でも出版される予定だが、いずれも原本のままで、内容については問題視されていない。

引用終わり

 産經新聞二〇〇八年十二月三十日

 流石は、支那です。恩人を平気で殺す留学生の国だけのことはあります。すばらしい国です。こんなすばらしい国の留学生を優遇してまでドンドンいれようとしている腐れ政治家、腐れ役人。

 今、我が国には、こんなすばらしい教育を受けた支那人が六〇万人以上も住んでいます。

 手元に、「軍医のみた大東亜戦争インドネシアとの邂逅」(福岡良男 暁印書館 二〇〇四年)という本があります。

 元軍医としてインドネシアに従軍された東北大学医学部・名誉教授の福岡良男氏の名前を最初に知ったのは、堀内豊秋海軍中佐について書いた時に引用させていただきました「インドネシア独立戦争に参加した『帰らなかった日本兵』、一千名の声 福祉友の会・200号『月報』抜粋集」に掲載されていた福岡氏の「医師が見た大東亜戦争 巡回診療で知った堀内豊秋海軍中佐の善政と民族意識」という記事によってです。

 著書の「軍医のみた大東亜戦争 インドネシアとの邂逅」は福岡氏が、インドネシアセレベス島北部に従軍した時に書いていた日記・記録・メモなどによるものを土台として、ご自分が体験されたこと、体験者から直接聞いたことをのみをまとめたもので、貴重な資料となっています。

なぜなら、軍医であった福岡氏は復員時に日記・記録・メモなどの没収を免れたために、記憶だけでなく、正確な記録として残すことができたのです。

 そういう資料的な意味では、以前に引用させていただいた同じインドネシアの「日本占領下バリ島からの報告」(鈴木良平 草思社 一九九九年)と同じ価値があると思います。

 後、福岡氏の著書には、戦後もインドネシアとの関係を大切に思い、交流を続けてこられた福岡氏ならではの記述もあります。

 福岡氏はセレベス島において部隊の診療の傍ら、先任軍医の坂方真三大尉の「気にしないでもよい。責任は俺がとるから続けて診療してやりなさい」という配慮で、現地住民の無料巡回診療を続けました。

 この無料巡回診療に住民は無条件で感謝し、道ですれ違う時に最敬礼までするほどであったという。

 戦後も、その時に命を救ったヤン・セドリック氏をはじめ、多くのインドネシアの人々との交流などもこの本には描かれています。

 福岡氏には戦後、インドネシア政府をはじめマナド赤十字などから、多くの感謝状・表彰状・盾などが贈られています。

 支那政府とはえらい違いです。

福岡良男氏のインドネシアでの医療活動

1月12日月曜日晴れ  

 福岡氏は独立混成第五十七旅団・独立歩兵第三七五大隊に所属していました。部隊長はIMとなっていました。これは、福岡氏の著書にこの部隊長の行動について批判的な箇所が頻繁に出て来るためです。ちなみに、IMとは岩本貢陸軍少佐と思われます。

 (著書に所属旅団の構成および隷下部隊が書かれ、それぞれの旅団長、部隊長名まで掲載されていますから・・・・ミエミエ)  

 福岡氏は着任早々、このIM部隊長に、せっかく、父親が持たせてくれた軍刀を取り上げられてしまいます。P九七 (福岡氏は江戸時代の準古刀と書いていますが、関ヶ原の戦いを境に古刀と新刀を区別しますので、新刀もしくは後半の新々刀という呼び方の方が一般的ではないでしょうか)

 オランダは植民地時代にインドネシアにおいて徹底的な愚民政策統治をとったので、セレベス島コヤ村に駐屯中の福岡氏の独立歩兵第三七五大隊に軍医がいるという噂を聞き、治療を求めて多数の現地の人々が押しかけてきた。  福岡氏は軍関係者以外の診療を行ってはいけないことと知りながら、衰弱した病人をみるにしのびず、坂方真三軍医大尉の許可を得て、村長宅で午後の暇の時に診療をはじめ、連日多数の患者が押し掛けて来たが、数日後司令部より、現地人の診療は、直ちに中止するように通達があった。

 しかし、坂方真三軍医大尉、杉山軍医見習士官とともに、急病人だけでもと、外出を装って診療していたが、副官に見つかり、許可なく外出ができなくなってしまった。

 福岡氏は「東亜の民族解放を叫びながら、他民族を切り捨てた軍部の態度に、われわれを歓迎してくれた現地住民の心も、次第に、日本人から離れていく運命にあると思った。 略」  コヤ村の住民は、日本人をどのように見たであろう。私を、なんと冷たい医師と見たことであろう」と書いています。(P九九〜一〇〇)

 セレベス島北部のメナドから南に四十キロの場所にあるソンデル町において、住民から巡回診療要請が部隊にあり、先任軍医の坂方真三軍医大尉の配慮で、部隊診療の傍ら無料巡回診療を福岡氏は始めるが、その数日後、IM部隊長(岩本貢陸軍少佐?)から「住民の診療をしてはいけない。兵隊に塗る薬はあってもインドネシア人に塗る薬はない」と命令があり、続行が不可能になる。

 しかし、この話を聞いた貨物所分所の坪田定雄準尉から、員数外の薬品があるからと提供を受けたり、部隊の真野晃主計少尉も陰でいろいろと援助してくれ、福岡氏も、私物の薬品と現地の薬草を使用して治療に当たる。

 福岡氏にとって、一番の心の支えは、先に書いたように、先任軍医の坂方真三大尉の「気にしないでもよい。責任は俺がとるから続けて診療してやりなさい」という言葉であった。(P百十三)

 このように、多くの人に支えられ、無料巡回診療は再開された。

  この無料巡回治療により住民から福岡氏は感謝され、

「無料巡回診療は住民は無条件で感謝してくれた。私は医師として当たり前のことをしただけであるのに、住民の私に対する親近感は強まり、道ですれ違う時に最敬礼をしてくれるのには恐縮した。

 自分の家へ泊まってくれ、食事をしていってくれ、という住民たちの厚意を断るのに苦労したほどであった。夜になると、連日現地の住民が、私の宿泊先の民家に集まって来て、私と遅くまで話し合った。

略)

 私はこの毎晩の対話によって、インドネシアの人々が、日本の明治維新の青年が抱いていたと同じような、民族独立と繁栄に対する強烈な情熱を抱いていることを知り、私自身も、彼等の情熱と気概のとりことなってしまい、インドネシア独立のために役立つ人間になりたい、という気持ちを持つようになった。

 その時以来、彼等と私の間には強い絆が芽生え、今日に至るまで友情は続いている。彼等の希望に満ちた輝かしい表情は、いまでも私の脳裏に焼きついている。」(P百十四)

 と書いています。

 この時期、福岡氏は部隊の薬品不足を補うためと、巡回診療に使用する薬の確保のため、インドネシアで薬草を探しています。その時に役に立ったのが、武田薬品工業の駐在員であった星野暹氏の指導であったそうで、星野氏よりの薬草資料は今でも原本を持っておられるそうな。

 福岡氏は三輪清三軍医大尉(終戦復員後、千葉大学内科教授)が、現地でマラリヤの薬として使用されていた薬草クリット・カユー・トロールが、臨床実験の末、解熱作用はあるがマラリヤ原虫を殺す作用のないことを明らかにし、それを粉末にし、タピオカの粉末と混ぜ、丸薬をつくり、解熱剤として住民の診療に使用し、現地医療に貢献されたことなども記しています。(P百十五)

 その他、マラリヤ原虫を探すコツを、インドネシア人の若いマンツリー(医師の資格のない医療従事者)におそわったことなども詳しく書かれています。

 

福岡良男氏の著書にみるオランダの統治下におけるインドネシアの医療

1月13日火曜日晴れ 寒い △

 福岡氏は、著書にて腹水患者の治療について、下記のように書いています。

「私の駐留していたソンデル町の隣村レイレムに現地住民の患者がいるので見て欲しいという依頼がソンデル現地住民からあった。

略)

 なんとか助けてあげたい。色々の薬を使ってあげたいと思ったが、部隊にはあまり薬がない。まして利尿剤はない。一時的にでも、患者の苦痛を和らげるため腹水を採取することにした。

略)

  腹部に局所麻酔をして紐で腹部を締め、注射器で徐々に腹水を採取した。

略)

 現地人が利尿薬として使っている現地の薬草(クミスクチン)を投与したところ、腹水が大分減少し、楽になったと感謝された。時々往診して対処療法をしてあげたが一ヶ月後に、吐血(食道の静脈瘤の破裂)で死亡したことはかえすがえす残念であった。

 家族は、生まれて初めて医師にかかることができたと喜んでくれた。私には信じられない言葉であった。

 オランダ植民地時代には、オランダに協力した特権階級か、金持ちでないと医師にかかることができなかったことを現地住民から聞き、植民地時代の庶民の惨めさをはじめて知った。医師は庶民にとって無縁の存在であったらしい」(P百十六〜百十七)

 インドネシアにおいてオランダがどのような統治をしていたかの一つの例として、よくわかる体験談です。

 オランダ統治下におけるインドネシアでの医療については

 <オランダは植民地時代にインドネシアにおいて徹底的な愚民政策統治をとったので、日本がインドネシアに侵攻したときには医者が七万人に一人しかいなかった(宮元静雄氏元ジャワ派遣軍作戦参謀談 「日本の心を語る三十四人」明成社刊p二二一 元南方特別留学生でもある元バハリン・ヤヒヤ氏 インドネシア外務大臣との対談にて)>という数字まであります。

 福岡氏は、ある日、専任軍医の坂方軍医大尉より、高熱で苦しんでいる住民の往診をするように言われ、中嶋楠太郎衛生兵とともに、ソンデル町小ロンガン・パウに住む背部にある大きな膿?をともなった「できもの」による敗血症を併発して苦しんでいるヤン・センドック氏に対して、手術をし、化学療法剤を投与し、毎日、切開創の治療と化学療法剤の投与のため往診した結果、三週間後には全快したそうです。

この時使用した化学療法剤は、当時、最も新しい抗菌剤として開発されたサルファチアゾールであり、内地出発にあたり武田薬品株式会社が、餞別として贈ってくれた私物だったそうです。

   ヤン・センドック氏はその後メナドに転居したが、福岡氏の恩を忘れずに、戦後、福岡氏がメナドを訪問した時に、自宅に招待し感謝の宴を開いたばかりでなく、当時の他の患者だった人にも呼びかけ、メナドのカワヌア・シティー・ホテルで八十数名の元患者とその家族による歓迎ダンスパーティを開いたそうです。

 福岡氏は、この時ほど医師になって良かったという気持ちを持ったことはなかったと書いておられます。 (P百十八〜百十九)

 このように、福岡氏は戦後もインドネシアの人々との交流を続けられたことがこの著書には書かれています。

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