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杯飲み屋の親父の酒と酒の日々
<藤井一少佐>
日記の文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
平成26年2月11日火曜日晴れ○
カミさんは昼からビールイベントへ。
午後に店の近所で火事。
夜はカミさんから勧められた霧社事件を描いた台湾映画「セデック・バレ」のDVDを二人で観る。
http://www.u-picc.com/seediqbale/
負けると判っていても名誉の為に戦い死んでいく。
妻たちは、憂い無いように「行くから、この食料はお父さんたちに届けて」と戦う我が子に言い残し、幼い子と一緒に逝く・・・・。
子供たちは「行く」という事が「逝く」ことであるのを理解する。
私はこの映画を観て、大東亜戦争にて特攻隊として散った藤井一少佐の事を思い出しました。
特攻隊員には既婚者もいたが若い未婚の若者が多かった。しかし、藤井一少佐は特攻隊員にもなれなかったのに、自ら志願し、部下との約束を守った方でした。
茨城県の農家に生まれた。七人兄弟の長男で藤井中尉(当時、特攻後少佐)は熊谷陸軍飛行学校に赴任し、中隊長として少年飛行兵に精神訓育を行っていた。
藤井中尉は特攻作戦が実施される前から「事あらば敵陣に、あるいは敵艦に自爆せよ、中隊長もかならず行く」と繰り返し言っていた。
実際二度も特攻に志願していたが、妻と幼子二人をかかえ、パイロットでもなかった藤井中尉には志願が受け入れられるはずもなかった。
夫の決意を知った藤井中尉の妻福子さんは、昭和十九年十二月十四日に晴れ着を着せた次女千恵子ちゃん(一歳)をおんぶし、長女一子ちゃん(三歳)の手と自分の手をひもで結んで飛行学校の近くにある荒川に入水自殺した。
その遺書には「私たちがいたのでは後顧の憂いになり、思う存分の活躍ができないでしょうから、一足お先に逝って待っています」とあった。
藤井中尉はこの事件の直後、自らの小指を切り、血書嘆願として三度目の特攻志願を行い受理され陸軍特別攻撃隊第四十五振武隊快心隊の隊長として、小川彰少尉の操縦する機に通信員として搭乗し昭和二十年五月二十八日、隊員十名と共に沖縄に向けて出撃し散華した。
下記の手紙は藤井一少佐が長女一子に宛てたものです。
つまり、藤井一少佐の遺書です。
<冷え十二月の風の吹き飛ぶ日
荒川の河原の露と消し命。母とともに殉国の血に燃ゆる父の意志に添って、一足先に父に殉じた哀れにも悲しい、然も笑っている如く喜んで、母とともに消え去った命がいとほしい。
父も近くお前たちの後を追って行けることだろう。
嫌がらずに今度は父の暖かい懐で、だっこしてねんねしようね。
それまで泣かずに待っていてください。
千恵子ちゃんが泣いたら、よくお守りしなさい。
ではしばらく左様なら。
父ちゃんは戦地で立派な手柄を立ててお土産にして参ります。
では、
一子ちゃんも、千恵子ちゃんも、それまで待ってて頂戴。>
先人がこのようにして守ったこの美しい国をこれからも守っていく義務が我が国国民にはあると思います。