このページは旧ホームページです。新しい「酒たまねぎやホームページ」へ

米軍による醜い遺体処理と我が国のアメリカ兵遺体処理の違いについて

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


平成17年9月24日土曜日雨 ○ S
 朝風呂に入ったあと、昼頃に大宮の駅からタクシーに乗り青葉園にいく。昨年も訪れたが、ここにはソビエト軍の毒牙にかかった従軍看護婦の方たちをお祀りしてある青葉慈蔵尊とともに、その右隣に卑劣なマッカーサーの復讐のための名ばかりの裁判によりフィリピン・ロスバニオスにて昭和21年2月23日に、その崇高な人格とりっぱな戦暦をもつ軍人らしからぬ不名誉な絞首刑にされた山下奉文大将の墓があります。

 

 

 

 

マッカーサーがその著書『マッカーサー回想記』でこのマニラ裁判について

 
それどころか、本裁判は一点の曇りもない真実、完全な真実、なんの虚構もともなわない真実の光の中で行われた。

 と書いていますが、これは詭弁であり、マッカーサー自身のそう思いたいという願望としか言い様のないことで、事実は屈折した精神をもつ彼自身が一番分っている完全な復讐裁判であったことは確かです。

 山下大将は昭和20年9月3日に降伏し、戦争犯罪者として起訴されました。裁判は10月29日に始まり真珠湾攻撃の前日にあたる12月7日に絞首刑の判決。そして昭和21年2月11日、紀元節の日にマッカーサーから処刑執行命令が出され、2月23日の初代アメリカ大統領ワシントンの誕生日であるワイントン・デーにマンゴーの木に作られた簡易処刑場で絞首刑にされます。迅速だけの復讐裁判です。命からがらフィリピンより部下を捨てて逃げ出したマッカーサーはこの間にも裁判を急げとせき立てます。自らの恥辱を晴らさんと復讐に燃えるマッカーサーにより、山下大将は軍人でありながら軍服を禁ぜられ、カーキ色のシャツ、ズボン姿で敵軍である米軍の作業帽をかぶせられ、欧米では一番恥ずべきものとされる絞首刑により処刑されました。そして、その遺体の埋葬場所は秘密にされたままです。

米軍による戦犯遺体処理について
9月27日火曜日晴れ

 いわゆるA級戦犯といわれる7名の方はもとよりBC級戦犯といわれ処刑された方々の埋葬などは秘密にされ、御遺族にも知らされていません。これは連合国側がこれらの英霊が英雄崇拝の対象になるのを恐れたためともいわれています。たとえば、我が国の巣鴨プリズンにおいて絞首刑された59名と銃殺1名の英霊(いわゆるA級戦犯とされた7名、BC級戦犯とされた53名)に対しての遺体処理を、昭和21年3月13日付GHQ極秘文書により「絞首刑による戦犯の遺体は自己所有の軍服から肩章と略章の一切を剥ぎ取って埋葬せよ。墓には白塗の木札を立て、ただ墓標番号だけを記せ」と指示、さらに昭和23年8月13日付の新たな指示として「処刑された戦犯の遺体は火葬に付し、遺骨は極秘裡に処分すること、またその処理に当たっては佐官級の高級参謀に責任を負わせ、遺体の身元や処分した場所など一切外部に漏らさぬ事」とあり、文章の指示にそって処理された。
 最初の極秘文書により13名の方々が埋葬されたが、その御遺体は昭和23年10月13日に掘り返され、横浜・久保山で火葬とされました。

 極秘であるはずの巣鴨プリズンで処刑された方たちの遺体処理がどうして久保山斎場で焼かれたことがはっきりしたかというと、飛田美喜久保山斎場長が昭和23年8月23日8月21日以降、日に追って火葬された遺体と翌日新聞に発表される処刑者数とを突き合わせた結果、その数が一致したからだそうです。
 いわゆるA級とされる戦犯の方々7名は昭和23年12月23日に処刑されました。この12月23日とはその時の当時の皇太子つまり今上陛下の誕生日です。その日に合わせて刑が執行されたのでした。
 その英霊7名の遺骨は伊豆の興亜観音の境内にある〈七士之碑〉に納められていますが、これは刑の執行後、東京裁判の弁護人だった三文字正平氏、飛田美喜久保山斎場長、久保山斎場のすぐ隣にある興禅寺の市川伊雄住職の3人が再火葬がすみ、七人に区別しておいた骨を進駐軍が砕いてごちゃごちゃに一つにし、それを黒塗りの箱に収め、いずれかに持ち去ったが、収め方が粗雑だったために残った中小の骨や細骨、骨灰などをコンクリートの骨捨て場に捨てたものを、厳重な警戒のもとにある久保山斎場に三人が二十六日の夜半、骨捨て場に忍びこみ、拾い上げたものです。ですから7名の皆様の遺骨が混ざってしまっています。それらは大人の骨壷1個分ぐらいしかなかったそうです。(写真は昨年参詣させていただいた時のもの)
 その遺骨は昭和35年8月18日に愛知県幡豆郡幡豆町の三ヶ根山山頂付近に殉国七士廟が設けられ、その中の殉国七士の墓に遺骨が分骨されて安置されました。

 久保山斎場で焼かれたその他の戦犯とされた英霊の遺骨も、大きな骨は米軍が全部拾い集めて持っていってしまいますので、共同骨捨場から残った細かい骨と灰を飛田場長が丁寧に集めて、火葬場の片隅に掘った穴の奥にひそかに納めておいたそうです。巣鴨での処刑が打ち切られてから、飛田美喜久保山斎場長はここに供養塔を建てようと思いつきましたが、我が国がまだ占領されていた時の事ですので、何ごともマッカーサーの司令部に問い合わせなければなりません。許可願を出したところ、供養塔の建立は許可になったそうですが、塔の表に「供養塔」の三文字以外は絶対に書いてはならぬと指示があったそうです。また、建立者として、火葬場の職員の名前以外を書く事も許可にならなかったそうです。
それにより、今も残るこの建立された供養塔には表の「供養塔」と裏に「昭和二十年十月八日之建」と火葬場長を含む6名の名前が記されているだけです。
 
 そして、サンフランシスコ講和条約に調印して我が国が独立したあと、供養塔の下に埋もれていた遺骨や遺灰を取り出し、英霊六十名の分として御遺族に等分に分骨したそうです。
 もちろん御遺族に届けられた白い壷に納められた遺骨は、御本人のものも混ざっていることは間違いないという程度のものでしたが、マッカーサーによる酷い仕打ちを受けた御遺族にとりありがたいものだったには違いありません。

 アメリカ軍による復讐裁判がほぼ終わった昭和24年4月フィリピンに独立を与え裁判の続行をゆだねました。そのフィリピン政府による6年間の続けられた裁判により93名の死刑が確定し、17名の死刑が執行されました。この17名の遺骨はのちに掘り返されて、御遺族の元に帰りました。これがBC級戦犯とされた方がたでは数少ない例です。後は私の知っている限りでは、
金子啓蔵氏の御苦労により遺骨が御遺族の元へと帰された堀内豊秋大佐の例だけです。
 以上参考文献及び引用文献 (正論2005年10月号 戦跡を歩く)(巣鴨プリズン13号鉄扉 上坂冬子)(償いは済んでいる 上坂冬子)(東京裁判 人物往来社刊)

 あの特攻隊の事を屈辱し酷く書いている古川利明氏がその同じ著書「カルトとしての創価学会=池田大作」の中で「石原莞爾の遺骨は東条英機と一緒に、東京・江戸川区にある国柱会の妙宗大霊廟に納められている」(P179)などと書くのは、東条大将の遺骨とされるものが如何様な経路を経ているかを知り、そして考えればこのような事は書けないのが普通です。悲しい事に東条大将個人と特定できる遺骨は無いのですから・・・・・


米軍勇士之墓

平成22年11月10日水曜日晴れ △

 写真には六つ墓が写っている。

 その木で作られた十字架には「米軍勇士之墓」と書かれている。

 昭和二十年(一九四五年)七月二十八日に、呉沖に係留されていた日本帝国海軍戦艦「榛名」を攻撃した時に、対空砲火により撃ち落とされ、広島県佐伯郡八幡村に墜落したB−24爆撃機「タロア」号乗組員のものです。

 

掲載写真はいずれも森重昭氏の著書「原爆で死んだ米兵秘史」よりのものです。

 

 

 この時の搭乗員は全部で十一名。

 十一名のうち八名が墜落死、あるいは墜落直後に死亡している。

 機体と共に墜落したのは以下の六名

 ドナルド・F・マービン中尉(オブザーバー)

 カミラウス・カークパトリック軍曹(機首射撃手)

 チャールズ・A・アリソン軍曹(上部射撃手)

 デビット・A・パシフィックフィールド軍曹(ラジオオペレーター)

 ロバート・C・ジェンストン中尉(爆撃手)

 ローレンス・A・フォールス・ジュニア中尉(航法士)

 

 ウォルター・ピスコール軍曹(エンジニア)

 パラシュートで脱出し、観音、現西飛行場にあった三菱造機の工場の屋根に降りたが既に死亡していた。

遺体は三菱病院長の日下部旦三氏が検死の上、広島市尾長町(現山根町)の国前寺に葬られた後、戦後、昭和二十年十二月初旬、吉川正治参謀、通訳、アメリカ第八軍の将校二人立ち会いのもと、発掘され、第八軍に引き渡された。

 ルドルフ・C・フラナギン中尉(副操縦士)

 パラシュートで脱出。太田川の河口、草津辺りの海面に着水。

 立ち泳ぎしていたが、漁民が小舟を漕いで近寄り、棹でめった打ちにして引き上げ、岸に連れ帰った。連れて行かれた時、半死半生の状態であったが、絶命した。

 三菱病院から医師が駆けつけ、必死で人工呼吸し生き返らせようとしたが、無駄に終わった。

 両人の検死をした三菱病院長の検案書(GHQ資料)によると、二人とも搭乗機が高射砲の弾を浴びた際、かなりの重傷を負っており、暴行を受けなくとも死んだ可能性が高いと書かれている。 

遺体は同じく、広島市尾長町(現山根町)の国前寺に葬られた後、戦後、発掘され、第八軍に引き渡された。

 残りの三名のうち、

 ジュリアス・モルナー軍曹(尾部射撃手)

 パラシュートで脱出後中国憲兵隊に引き渡される。

 広島において被爆死

 遺骨は昭和二十年十二月六日、陸軍第十部隊に引き渡される。

 チャールズ・O・パウムガートナー軍曹(下部射撃手)は広島県佐伯郡八幡の山中にパラシュートで着地。

 中国憲兵隊に引き渡される。

 広島において被爆死

 遺骨は昭和二十年十二月六日、陸軍第十部隊に引き渡される。

 ジョセフ・E・ダビンスキー少尉(中尉という説もあり)(機長)

 最後に墜落機より飛び降り、地上に激突する寸前にパラシュートが松の木に引っかかって宙づりになったのち捕虜となる。

 広島において被爆死

 

 先人は爆撃により肉親を、友人を殺したであろう憎き敵を、墜落し亡くなったからと「米軍勇者之墓」と書いて手厚く埋葬したのです。

 

 それは原爆が落とされた後でも変わらなかった。

 被爆死した二人の米軍捕虜の墓

 

 そして、米国は被爆死した自国の軍人の事を隠し通そうとした。

 戦時中、呉海軍基地にあった英国軍兵士の墓。投石を防ぐために、有志が鳥かごのようなフェンスを作ってまで守った。

 

 参考引用文献

「原爆で死んだ米兵秘史」(森重昭 光人社 平成二十年刊)

 続く

 今日、支那人の尖閣諸島での暴挙を暴いた投稿者である海上保安官が名乗り出たそうですが、そもそも支那に媚びて全てを隠そうとしたアホ管、仙石が悪いのであって、この方には罪はない。

 

 それよりも、支那、支那人留学生に対して無駄な銭をやるのはサッサと止めてほしい。

 Kさん来店。

 インチキラクターさん来店。

 今月一杯で、故郷の岡山にお帰りになるそうで、わざわざ挨拶にいらしてくださった。

 松の司の松瀬社長、Iさん、Sさん、マルガリータさん来店。

 ドンチャン。

 今日は珍しく意識あり。

 サルよりマシ。

  


米国人の日本人の遺骨に対する扱い

平成22年11月24日水曜日晴れ△

 下記は一部今まで日記に書いた箇所と重複いたしますことをご了承下さい。

  映画「硫黄島からの手紙」の中に、昭和七年ロスアンゼルスオリンピック馬術大障害飛越競技にて金メダリスト(オリンピック史上、馬術で我が国唯一のメダリスト)であるバロン西こと西竹一中佐(戦死後大佐)が負傷したアメリカ兵の手当てを部下に命じる場面と、アメリカ兵による降伏した日本兵を銃殺する場面までこの映画の中にあります。昨年、日記にも少し書きましたがロシア軍はもちろん、アメリカ軍、オーストラリア軍、オランダ軍、支那軍などの連合国は多くの捕虜虐殺をやっています。もちろん、日本軍も同様ですが、どういうわけか我が国の先人だけを責める日本人が多い。

 ちなみに、映画でも描かれていますが西中佐が肌身離さず持っていた愛馬ウラヌスの鬣は後に一九九〇年になってアメリカで発見され、返還されたそうです。

 何振りもの名刀が戦後のドサクサに米国軍人により接収という名の強奪、強盗に遭いました。アメリカ軍の戦利品あさりでありますが、このぐらいならまだかわいいもので、「SAPIO」の九月二十九日号にて「アメリカを彷徨う 旧日本兵の遺骨」と題された在米ジャーナリストである武末幸繁氏の記事がありました。

 アメリカにおいて大東亜戦争中の我が軍の兵士の遺骨がトロフィースカルとして扱われているという記事です。

 

<しかし、人の頭蓋骨や遺体の一部を持ち帰った米兵がいることは驚かざるを得ない>

P七十七

と、武末氏は書いているが、近代、白人がやってきた事を考えれば容易に想像がつく事です。

 この記事に掲載されている写真と記事はネットですぐに見つかります。

 

「Trophy skull Jap」と検索すると一番上に下記のページが出てくる。

http://www.bangordailynews.com/story/Greater-Bangor/Japanese-trophy-skull-finally-returning-home,152313

「Japanese trophy skull finally returning home 」となっている。

   

 そして記事には、words “1945 Jap Skull Okinawa”とその頭蓋骨に刻まれていた事が書かれている。

 メイン州ホールデンにて銃や軍用品を売買するラルフ・マクラウド(Ralph McLeod)氏は二〇〇五年6月に発見し、日本に返すべきだと同業者から五十ドルで購入して、日本大使館に連絡した。

(その後我が国に返還されたはずとサピオの記事は書いています。)

 同様にこのサピオの記事に掲載された

 カリフォルニア大学バークレー校に日本兵の頭蓋骨が同大学博物館に収蔵されたままということで、これは、国際法に反する、ということで、日本に返還すべきだ、という記事。

Japanese war dead skulls at UC museum

http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2009/08/15/MNPK195PD6.DTL

 

 また、サピオには日本兵の頭蓋骨で遊んでいるマクファーソン中尉

 アメリカ海軍魚雷艇三十四の甲板にて

 米兵が日本兵の頭部を煮ている写真

 その頭蓋骨は一体につき三十五ドルで販売されていた。(一九四四年)

 などが掲載されているが、これらの旧日本帝国軍人の御遺骨はどのようにアメリカ軍に扱われたか。

 有名なのは日本兵の頭蓋骨を送ってくれた米兵に礼状を書くガールフレンドの写真として、ライフの昭和十九年(一九四四年)五月二二日号に掲載された写真だと思います。

"This is a good Jap - a dead one picked up on the New Guinea beach." Natalie, surprised at the gift, named it Tojo.

 ナタリーというこの女性に対し、

<「これは状態の良いジャップです。ニューギニアビーチで死んだのを切り取ってきました」

 サプライズな贈り物にナタリーは、それを『東条』と命名しました。>

というような記事です。

 写真はそのバカ女と旧日本帝国軍人の頭蓋骨。

  

 その他にも、Wikipediaには「American mutilation of Japanese war dead」として

http://en.wikipedia.org/wiki/American_mutilation_of_Japanese_war_dead

 

 ここにはSAPIOに掲載されていた写真以外にもいろいろな写真が掲載されている。

記事にも多くのアメリカ軍の我が軍兵士に対しての醜い行為の証言が書かれている。

1945 image of a Japanese soldier's decapitated head hung on a tree branch, presumably by American soldiers

 

  

 

Front line warning sign using a Japanese soldier's skull on

 

 

 他にも、ネットでいろいろな写真を見つける事ができる。

  

  

現在でも、ネットにて「日本人兵士の下顎の骨」として売られているページを見つける事ができる。

Headhunting Trophy Head - WWII Japanese Jaw - Gong Handle

$380.00

http://www.collectorsdeck.com/index.php?main_page=product_info&cPath=92&products_id=99

続く

 今日の築地本願寺の蓮。 日刊ゲンダイ。今日ぐらい小沢関連ネタをやめればいいと思うが。

  

 今日は予約もないしヒマやろうなと思っていたら、

 Yさん、Hさん、Nさん来店。

 Nさん来店。

 二名様来店。

 小胡子さん来店。

 ホロン部員Yさん来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。サルよりマシ。

米国人の日本人の遺骨に対する扱い

11月26日金曜日曇り一時雨 △

 過去に書きましたが、他にも多くの日本兵の頭蓋骨トロフィーの事例が出てきます。

 このサピオの記事に書かれているようなことは私の手元の本に書かれています。

一部重複する事をご了承ください。

駆逐艦キッドの戦友会にて

 以下引用

「あのパイロットのことは、私が一番よく知っているよ」

「どういう意味ですか?」

「私の名前を出さないのなら話してあげてもいいのだが・・・」私は約束した。

この老人は私の顔を見ながら言った。

「パイロットの頭から頭蓋骨を取り出したのは私です」一瞬耳を疑った。

 この男は、当時機械工のチーフであり、第一エンジンルームの責任下士官であった。彼が、パイロットの頭部を発見したのは、キッドがサンフランシスコ近くのハンターズポイント海軍修理工場に帰港した一ヶ月後だった。体当たりを受けてから二ヶ月以上後のことであった。頭部はかなり腐乱していたが、アルコールで洗い落とし、頭蓋骨だけ取り出し、船のマストに飾ったという。

 戦争が終わり、彼はこの頭蓋骨をペンシルバニアの実家に持ち帰った。しかし、良心に苛まれて、当時ある大学に通っていた友人にその頭蓋骨を渡し、大学に寄付してくれるよう依頼したそうである。

その後、その頭蓋骨がどうなったかは、彼は知らないと言う。この噂は、以前からあった。しかし、その当事者が名乗りでてくるとは正直思ってもいなかった。

略)

日本兵の頭から頭蓋骨を取り出して故郷の恋人に土産として送った海兵隊隊員もいたぐらいである。キッドでこのようなことが起きても不思議ではなかった。

実際、キッドが体当たりを受けた以前に、ある時死亡した日本兵を海から引きあげたことがあった。

ある水兵がその日本パイロットの頭蓋骨から、下顎を取り出して飾りを作ったという話があった。この話は、戦友会で数人に確認がとれている。

 この件についてキッド博物館に尋ねたら、以前その大学に実際に問い合わせたことがあると言う。

大学側は否定も肯定もしなかった。単に記録がないと答えたそうである。私は大学の名前を教えてくれるよう頼んだ。しかし、博物館はそれを拒んだ。>

引用終わり

「特攻パイロットを探せ」(平義克己著 扶桑社 平成十七年刊) p二百五十一〜二百五十二

<キッド(駆逐艦)は日本機を一機撃墜した。パイロットは落下傘で機内から脱出したが、キッドがそのパイロットを捕虜にしようと引き揚げた時にはすでに死亡していた。血気にはやる数人の乗組員たちは日本人パイロットの遺体をナイフできりつけ、耳を殺ぎ落としたり、首をはねたりなど、非道な行為にはしった。中には、下顎を頭蓋骨からはずし、それで装飾品をつくった者もいた。

 バーンハウスは艦長とともにこの非道な行為を止めた。後日、このパイロットの遺体は艦長の指揮のもと、アメリカ海軍の伝統にのっとり水葬にふされた>

「特攻パイロットを探せ」(平義克己著 扶桑社 平成十七年刊) P六七

 連合国軍の捕虜虐殺については有名なリンドバーグの日記にも書かれています。下記の「 」内の引用文はリンドバーグ日記よりの直接の引用では無く、私の手元にある「日本の反論」(米田健三著 並木書房 平成十六年刊)よりの引用ですので文章は米田氏が要約・抜粋したものです。

 これについて米田氏は第二次大戦に対してアメリカ参戦を反対していたリンドバークは昭和一九年になって南太平洋の戦場視察と慰問を許される。そこで、「アメリカ人が文明人であることを主張せねばならぬ理由がなくなる」ような、米軍兵士の日本兵捕虜に対する数々の蛮行を見聞することとなったと書かれています。

 「日本兵士殺害に関する将軍の話−−−−実戦参加経験がないまま帰国する軍曹が、せめて一人だけでも日本兵を殺したいと不平を漏らした。

 偵察隊に捕らえられた一人の日本兵捕虜が軍曹の前に引き立てられた。軍曹は言った。

 『俺にはこいつを殺せないよ!やつは捕虜なんだ。無抵抗だ』

 『ちぇっ、戦争だぜ。野郎の殺し方を教えてやらあ』

 偵察隊の一人がそういうと、日本兵に煙草と火を与えた。煙草を吸い始めたとたんに、日本兵の頭部に腕が巻つき、喉元が一方の耳元から片方の耳元まで切り裂かれた。

 このやり方全体は、話をしてくれた将軍の全面的な是認を受けていた」

(リンドバーグ日記六月二一日)

「小屋の壁のひとつに、絹地の日本の国旗が三枚かかげてあった。日本軍兵士の死体から取ったものだという。その一枚は記念品として一〇ポンド(三三ドル)の値打ちがあると、ある将校は説明した。日本軍将校の軍刀を所持する男は二五〇ポンドなら譲ってもよいといった」

(リンドバーグ日記六月二一日)

 「将校の話によれば、穴の中の遺体をブルドーザーにかける前に、何人かの海兵隊員が遺体の間に分け入り、ポケットを探ったり、金歯探しに棒で口をこじ開けたりした。金歯を仕舞い込む小袋を持っている海兵隊員さえいた。その将校はさらに、耳や鼻を切り落とされている日本兵の遺体を幾つも見たとも言った。『兵が耳や鼻を切り取るのは、面白半分に仲間に見せびらかすためか、乾燥させて帰還するときに持ち帰るためですよ。日本兵の首を持っている海兵隊員まで見つけましてね。頭蓋骨にこびりつく肉片を蟻に食わせようとしていたのですが、悪臭が強くなり過ぎたので、首を取りあげねばなりませんでした』。行く先々で聞かされる似たり寄ったりの話だ」

(同九月九日)

 先日、下記のような記事がありました。

<硫黄島で51人の遺骨収集=政府チーム―旧日本兵、集団埋葬の可能性

時事通信2010年10月22日(金)19時56分配信

 硫黄島で戦死した旧日本兵の遺骨収集を進める政府の特命チーム(リーダー・阿久津幸彦内閣府政務官)は22日、首相官邸で第3回会合を開き、51人分の遺骨を島内2カ所で発見したことを報告した。計2200人が集団で埋葬されている可能性があるという。

 同チームの調査団は7日から同島を訪れ、旧日本兵が集団で埋葬されているとみられる2カ所で遺骨の収集に当たった。>

 二千二百人が集団で埋葬とはどういうことか。

 これは、米軍が我が軍兵士の遺体をどのような扱いをしたかを考えれば、自ずと答えは導き出されます。

 リンドバーグは下記のように日記に残しています。

 「われわれがもし日本兵の歯をもぎとったり、ブルドーザーで遺体を穴の中に押しやり、さらった土をかぶせてやったりする代わりに、人間にふさわしい埋葬を営んでやることが出来るのであれば、私はわが国民性にもっと敬愛の心を抱けたに相違ない。ブルドーザーで片付けたあとは墓標も樹てずに、こう言うのである。『これが黄色い奴らを始末するたった一つの手さ』と」(七月二一日)

 「山道の片側にある爆弾でできた穴の縁を通り過ぎる。穴の中には五人か六人の日本兵の死体が横たわり、わが軍がその上から放り込んだトラック一台分の残飯や廃物で半ば埋もれていた。わが同胞が拷問によって敵を殺害し、敵の遺体を爆弾でできた穴に投げ込んだうえ、残飯や廃物を放り込むところまで堕落するとは実に胸糞が悪くなる」(七月二四日)

 ブルドーザーで遺体を片付け、その上に残飯、廃物を放り込む。

 そのような箇所が何カ所もあったのです。

 決して、整然並べ、遺体を処理したわけではない。

 そして、捕虜に関して下記のような記述もある。

 「ニューギニアの密林を越えて、ホーランディア飛行場周辺に日本空軍の残骸が散乱していた。着陸後、将校連と会議。談たまたま日本兵捕虜の数が少ないという点に及ぶ。

 『捕虜にしたければいくらでも捕虜にすることができる』

 と将校の一人が答えた。

 『ところがわが方の連中は捕虜をとりたがらないのだ』

 『(原文伏字)では二〇〇〇人ぐらい捕虜にした。しかし、本部に引き立てられたのはたった一〇〇人か二〇〇人だった。残りの連中にはちょっとした出来事があった。もし戦友が飛行場に連れて行かれ、機関銃の乱射を受けたと聞いたら、投降を奨励することにはならんだろう』

 『あるいは両手を挙げて出てきたのに撃ち殺されたのではね』

と、別の将校が調子を合わせる」

 ホーランディア攻略戦で敗れて捕虜となった日本軍人の大多数は、機関銃の乱射で殺されたのである。

 「我が軍の将兵は日本軍の捕虜や投降者を射殺することしか念頭にない。日本人を動物以下に取り扱い、それらの行為が大方から大目に見られているのである。われわれは文明のために戦っているのだと主張されている。ところが大平洋における戦争をこの目で見れば見るほど、われわれには文明人を主張せねばならぬ理由がいよいよ無くなるように思う」(七月一三日)

 「安全でかなり贅沢な将校クラブに座しながら、これらの日本軍を『黄色い奴ばら』と表現するアメリカ軍将校の言に耳を傾けねばならないのである。彼らの欲求は日本兵を無慈悲に、惨たらしく皆殺しにすることなのだ。オウィ島に来て以来、敵に対する畏敬の言葉も同情の言葉も聞いた覚えはまったく無い」(七月二一日)

 「私は突っ立ったまま、密林の焼け焦げた跡や、日本軍が身を隠している洞窟と思しき断崖の黒点を眺めやる。あの焼け爛れた地域の地表下に極限の苦悶隠されているのだ

  飢餓、絶望、そして死体や死に瀕した男たち。ただ祖国愛と信ずるもののために耐え、よしんば心底で望んだとしても敢えて投降しようとしない。なぜならば両手を挙げて洞窟から出ても、アメリカ兵が見つけ次第、射殺するであろうことは火を見るよりも明らかだから」(七月二一日)

(以上は先に書きましたようにリンドバーグ日記よりの直接の引用では無く、「日本の反論」米田健三著 p百六十一〜百六十五よりの引用)

 そして、米田氏はこうも書かれています。

<第二次大戦におけるソ連軍の蛮行は周知の事実だが、米軍については極めて人道的であったがごときイメージが長い間流布されてきた。記録映画などに登場する日本占領前後の米軍将校のほとんどが、降伏した日本軍兵士や民間人に食糧を支給し、医療を施す善良な姿で映っている。だから、「鬼畜米英という教育はまちがいだった。玉砕は犬死にだった。文明国の軍隊はあんなにも寛大だったのだ」という論理がまかり通ってきた。しかし、前線の諸記録に垣間見られるのは、むしろ日本人が軍民を問わず玉砕を選ばざるをえなかった米軍の残虐さである>(同書p百六十一〜百六十二)

 「敗北を抱きしめて」などの著書で有名なジョン・ダワーもその著書「容赦なき戦争 太平洋戦争における人種差別」(平凡社ライブラリー)に書いています。

 「大平洋地域担当の従軍記者エドガー・ジョーンズが、四六年の『アトランティック・マンスリー』誌に書いている『われわれは捕虜を容赦なく撃ち殺し、病院を破壊し、救命ボートを機関銃掃射し、敵の民間人を虐待、殺害し、傷ついた敵兵を殺し、まだ息のある者を他の死体とともに穴に投げ入れ、死体を煮て頭蓋骨をとりわけ、それで置物を作るとか、または他の骨でペーパーナイフを作るとかしてきたのだ』。ジョーンズはさらに、標的の日本兵がすぐに死ぬことがないように、火炎放射機の炎を調整するというような行為にまで言及している」

「一九四二年の末に出版されベストセラーとなった『ガダルカナル日記』のなかで、ジャーナリストのリチャード・トレガスキスは、日本軍との戦いを前にして武勇自慢をし合う若い兵士たちの会話を挿入している。『ジャップは金歯をたくさん入れてるんだってな。それをいただいてネックレスでも作るかな』と一人がいう。『おれは奴らの耳を持って帰るよ』ともう一人が宣言する」

「リンドバーグがついに大平洋諸島を離れ、ハワイで税関検査を受けたときには、荷物に骨が入っているかどうか聞かれた。それは決まりきった質問だと言われたという」

 

 沖縄戦でも、南太平洋戦線と同様の米兵による悪行が繰り広げられた。アメリカの作家、ジョージ・ファイファーが、取材開始から出版まで八年の歳月を費やした労作、『天王山 沖縄戦と原子爆弾』(早川書房)で、「アメリカ軍の残虐行為」という項目を設けて明らかにしている。 

 「野蛮な人間もいた。日本人の歯で作った腕輪は、彼らの歯を抜き取らなくては作れない」

 「ある機関銃分隊は急造の小さなパイプを持って歩き回っていたが、それは日本兵の死体の口に彼らの尿を流し込むのに使われた」

以上

「日本の反論」(米田健三著 並木書房 平成十六年刊)(p一六六〜一六九)

「特攻パイロットを探せ」平義克己著 扶桑社 平成一六年刊)p二百五十一〜二百五十二 

 これが人道的とされてきたアメリカの姿です。アメリカ国内においては大東亜戦争中も人種差別が合法でした。公立の学校においてさえ、人種差別が憲法違反とされたのは一九五三年のことです。軍隊においては別々に従事させていました。

 バンブーさん来店。

 MIKAさん四名様で来店。

 初めてのお客様Tさん二名様で来店。

 Mさん、Kさん来店。

 ナベちゃん来店。

 福岡のTさんの御紹介ということで、二名様来店。

 Tさん来店。

 ドンチャン。

 珍しく記憶あり。

 でも、洗い物はする元気もなく、そのまま・・・・・

 


我が国における捕虜の待遇

平成23年1月7日金曜日晴れ 寒い ××××××

品目 捕虜 g 兵士 g 重労働 g 軽労働 g 一般 g
主食 705 705 570 390 330
10
30 30 10 10 10
野菜 400 400 200 200 200
味噌 50 50 50 50 50
15 10
砂糖
牛骨 100
熱量(kcal) 3000 3000 2200 1800 1400

捕虜給与規則(昭和十七年二月二十日陸軍大臣通達第八号)

捕虜給料、糧食、被服の貸与、補修費、薪炭、埋葬料、労働賃金まで規定。署名は陸軍大臣東條英機。

表は昭和二十年、大阪俘虜収容所における比較表。

「戦争プロパガンダの嘘を暴く」(三好誠 展伝社 平成十七年刊)p百十八〜百十九

 多くの国民が飢えている時に、主食その他で皇軍兵士と同量だったのです。

 米国、英国、オランダ、ロシア、支那、オーストラリアなどは、多くの文献にあるように、我が国の軍人捕虜をどのように扱ったか。自国の軍人と同じ量の食事を捕虜である我が国軍人に与えたのか。

 私もこの三好誠氏の著書により初めて知る事が出来ましたが、なぜ、このような事実が今まで報道されてこなかったのか。

 我が国の戦後に行なわれたウオーギルトインフォメーションプログラムによる傷はまだまだ深いと思います。

 

 バンブーさん来店。

 Sさん二名様で来店。

 Nさん、真理子さんと来店。

 Kくん来店。

 ギリギリブラザース三名様で来店。

 今回が初めてギリギリブラザース勢揃い。

 Kさん、Sさんと来店。

 博子さん、幹子さん四名様で来店。

 アンコウ鍋。

 酔狂師さん来店。

 今日は早い時間から大忙し。

 どうしたんでしょう・・・・

 料理、洗い物その他に追われ、飲めなかった。

 でっ、遅い時間からドンチャン。

 結果、記憶なし。

 やっぱ、サル、猿、SARU、申・・・・・・


 

 

 

裏表紙