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北朝鮮はかってバカどもにどのように語られたか
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
朝日新聞
朝日新聞による火付け
5月20日木曜日 雨(遅い時間は大雨)○
東亜日報の記事で「日本、北朝鮮送還事業は追放政策」という記事がありました。
内容は朝日新聞が18日に人道主義ということで、積極的に支援していた在日朝鮮人の北朝鮮送還事業は、実は「貧しく犯罪率の高い、頭を悩ませる存在」を追放した側面が強いとの見方を報じたというものです。
http://japanese.donga.com/srv/service.php3?biid=2004051993168
では、その朝鮮人送還事業を朝日新聞はどのように扱ってきたのでしょう。
以下引用
一方、韓国支持の団体が日本国内で帰還反対運動を企てる動きがあるといわれるのは、甚だ遺憾な事といわねばならない。
故国に帰りたいという個人の意思を政治的な理由で阻止する事は許されない。ましてや、再開された日韓会談で、韓国側が北朝鮮帰還問題を取り上げようとする意図が仮にあるとすれば、人道問題と政治とを、混同することのはなはだしいものというほかはない。
朝日新聞社説 1959年8月14日
北朝鮮に希望をかける人は、全国3655箇所の日赤帰還窓口に帰還申請し「新潟−北朝鮮定期航路」の帰還船に乗りこむことになる。
だが、帰還業務は店開き早々から「帰還案内」でゴタつき、まだ一荒れも
二荒れも 来そうな雲行き。
「意思再確認」などを協定違反と主張する朝鮮総連は「帰還案内」の撤回を要求して 登録ボイコット中。
朝日新聞社説 1959年9月28日
三十六年までかかるはずの五カ年計画を二年も短縮して今年中に超過達成してしまおうという勢い。その結果、鉄、電力、セメント、化学肥料や穀物の人口一人当たりの生産高は日本をしのぐと北朝鮮政府はいっている。数字を示されただけでは私たちにはわからないが、千里の馬がばく進する姿はありありと感じられる。
略)
主な工場も八時間労働で昼夜三交代、機械は二十四時間フルに動いている。どこを見てもみんな実によく働いている。第二次帰還船が帰還者を乗せて清津に入港したとき、港に近い製鉄所から溶鉱炉の赤い火が高く上っていた。日本が経営していたころの二倍半の生産高という数字をきいたが、あのほのおは帰還者歓迎のタイマツですと出迎えの若い学生はいった。
日本に追いつく五カ年計画を千里の馬にのせて北朝鮮中がわき目もふらずに働いている。こんなに働いてみんな不満はないのかときくと、ある人はこういった。――「冗談じゃない。働けば働くほど生活が目に見えてよくなる。ボロボロの家から近代的アパートに移れた。家賃はタダみたいに安い。米もタダみたいだ。目に見えて生活がよくなって行くのでうれしくてみんな働きたくなる」
略)
戦争の荒廃と貧乏のどん底から立ち上がって前途に希望を持った喜びが感じられる。衣食住がどうにか安定し、働けば食えるようになった朝鮮に、他国で苦労している同胞をひきとっていっしょに働こうという気持ちが今度の帰還問題の底に流れている。
もう一つ、千里の馬のけん引者はもちろん金日成首相。三日前、帰還者代表百五十人と向かいあった金首相はちっとも飾りけがなく、親切な町会長が隣近所の人と笑いながら世間話をしているようだった。首相はざっくばらんにこういう意味のことをいった。「われわれは以前はどれいだったが、解放で貧農程度になった。もっと早くみなさんを迎えたかったが、ああ貧乏ではどうにもならない。しかしみんなよく働いていまやっと中農までこぎつけた。だが富んだ中農ではない。ぜいたくはできない、が、心配するな。住むこと、食うこと、着ることは大丈夫だ。力を合わせてやろう。もっともっとよくなる」と微笑して話しかける。この調子で工場や農業協同組合にも出かけ何日もいっしょにアパートに泊ってくるそうだ。
「金将軍はわれわれの偉大なダムだ。遅れ、落ちぶれた民族を組織してたくましい民族エネルギーをたくわえてくれたダムだ」とある人はこういった。
深夜の町で酔っぱらいなど一人もみることができない。真夜中雪の道を行くのは交代の労働者だ。寒さしのぎに「金日成の歌」を歌いながら工場へ歩いていく。
朝日新聞朝刊 1959年12月25日(この記名入り記事を書いたのは、後年TBSのJNNニューススコープで、田英夫のあとのニュースキャスターを勤めていた入江徳郎です)
キーセンの平壌でもなく、頭に何か長いカンムリのような帽子を被って
有産階級の老人がゆうゆうと釣り糸をたれる大同江でもない。
貧しい一家が食えなくて満州や日本に流浪していく朝鮮でもない。
それどころか、日本で貧しく、肩身狭く暮らす朝鮮同胞はそっくり引き取って生活の保障し、いっしょに働こうとしている北朝鮮だ。
朝日新聞社説 1960年1月9日
北朝鮮帰還三ヵ月の表情として、下記のように書いています
帰還希望者がふえたのはなんといっても「完全就職、生活保障」と伝えられた北朝鮮の魅力らしい。各地の在日朝鮮人の多くは帰還実施まで、将来に希望の少ない日本の生活にアイソをつかしながらも、二度と戻れぬ日本を去って“未知の故国”へ渡るフンギリをつけかねていたらしい。ところが、第一船で帰った人たちに対する歓迎ぶりや、完備した受け入れ態勢、目覚ましい復興ぶり、などが報道され、さらに「明るい毎日の生活」を伝える帰還者たちの手紙が届いたため、帰還へ踏みきったようだ。
略)
いまのように一週間に千人ぐらいの帰還では、一年でやっと、四万八千人しか帰れず、総連のいうように十三万人以上だとすると三年もかかることになり費用も大変だ。このため日赤では、現在のセンターに入ってから三泊四日で乗船の仕組みを二泊三日にして、送り出しの間隔を縮める、集結所を増設し、配船数をふやしてもらう、などの案が出ている。北朝鮮赤十字社からまだ協定修正の申し入れがないので、日赤側も、はっきりした態度はとっていないが、期間の延長、スピードアップの行なわれるのは、まず間違いないところ。
朝日新聞朝刊 1960年2月26日
つまり、この当時の北朝鮮を地上の楽園と宣伝したマスコミの「北朝鮮礼」による報道が後押しをしたという事を後の朝日新聞朝刊1997年10月15日の検証記事では「『人道』を強調、新聞も後押し」として書いた事もございますが、http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2001/00997/contents/00052.htm
今回の記事ではその事が書かれておりません。
なんと都合のよい記事でしょう。
ちなみにこの川島高峰という明治大学教授は「戦後の終焉と冷戦後責任」
我が国の戦争行為として
以下引用
ドイツのユダヤ人虐殺が、計画的な国家犯罪であるなら、日本のアジアにおける数々の残虐行為は、無計画、無統制な慣習による国民犯罪と言わざるを得ない。西尾氏の枠で考えたとすれば、日本の道義的責任はますます、逃れようのないものとなる。
以上の考察から、私は、日本の過去について次のような結論に至ることを余儀なくされた。日本の過去を見つめれば見つめるほど、当時の日本の戦争行為における日本的な性格を見逃すことができない。日本の戦争犯罪には明らかに当時の国民性による加害行為があったと言うことを、戦争とは「殺し方」の文化であるという驚くべき事実を、私は「人間として」今後も語り継がねばならないと考える。
引用終わる
と書いています。
http://boboro-web.hp.infoseek.co.jp/kawasima01.htm
朝日新聞 2002年9月18日「天声人語」
「そうした特殊機関による『犯罪』は珍しいことではない」
朝日新聞 2002年9月18日「社説」
「日本外交の将来に目を向けるか、遺族の立場に立つか。政界の反応はそこで分かれ、交錯する」
朝日新聞 2002年10月29日「読者欄」
「拉致被害者の永住帰国は本人の意向を踏まえたものと言えず、明白な憲法違反だ」
朝日新聞
帰還希望者がふえたのはなんといっても『完全就職、生活保障』と伝えられた北朝鮮の魅力らしい。
各地の在日朝鮮人の多くは帰還実施まで、将来に希望の少ない日本の生活に愛想をつかしながらも、
二度と戻れぬ日本を去って"未知の故国"へ渡るフンギリをつけかねていたらしい。
ところが、第一船で帰った人たちに対する歓迎ぶりや、完備した受け入れ態勢、目覚ましい復興ぶり、
などが報道され、さらに『明るい毎日の生活』を伝える帰還者たちの手紙が届いたため、帰還へ踏みきったようだ
昭和35年2月26日付
朝日新聞
「どこを見てもみんな実によく働いている。第二次帰還船の帰 還者を乗せて清津に、入港したとき、港に近い製鉄所から溶鉱
炉の赤い火が高く上がっていた。あのほのおは帰還者歓迎のタイマツですと出迎えの若い学生はいった。」昭和34年(1959年)12月27日付)
本年9月10日の朝日新聞社説「里帰りを静かに迎えよう」と比較 してみよう。
「北朝鮮に渡った在日朝鮮人の多くは、戦前日本に徴用され、戦後は生活不安と差別に苦しむ人々だった。そうした背景に十
分目を向けないで、希望者は帰国する方がむしろ彼らのしあわ せにつながる、というのが、当時の空気だった。」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h9/jog008.htm
朝日新聞元ソウル支局長
【月刊ASAHI91年11月号】
「主席がいつお隠れになっても共和国は微動だにいたしません」
「金日成という指導者がソ連および中国など当時の先進的な社会主義国の権力交代期の混乱や矛盾点を早くから見抜いて、
その轍を踏むまいと改良に改良をかさねてきたわけですね。後でも言いますが、父子後継というのも、おそらくこの国がそこから考え出した一つのアイデアでしょう」
「来るたびに豊かさが目に見えて上がっています」
「柳京ホテルについても一言いっておきますと、あの百五階のホテルは今度、シンガポール資本を入れて一気にやり直します。九五年頃にが観光収入の極めて有効な武器になるでしょう」
「共和国にも選挙があって一〇〇パーセント投票で一〇〇パーセント賛成の選挙システムをちゃんと持ってますよ。しかもインドと違って、ここはもう完璧に教育水準が高いわけです」
和田俊(朝日新聞記者)
カンボジア解放側(ポルポト派=赤色クメール)のプノンペン 制圧は、武力解放(?)のわりには、流血の惨がほとんどみられなかった。
中略・・・きわめてアジア的優しさにあふれているようにみえる。中略・・・
新生カンボジアは、いわば「明るい社会主義」として人々の 期待にこたえるかもしれない。
【朝日新聞1975年4月19日】
朝日新聞記者
「見学できた百貨店や商店には、性能、品質、デザインを問わなければまずまずの 商品が並べられていた」
朝日新聞1991年9月24日
江幡朝日新聞論説主幹
【円熟味増す北朝鮮指導部】
原則を貫きつつ、国際情勢の変化に敏感に対応するというのは円熟した社会主義国指導者の
特性の一つであろうが、目を見張るばかりの社会主義建設と、金首相の「主体思想」のもとでの
全民族的団結と連帯の強さは、この国を訪れる者すべてが驚嘆するところである。
南は北を見ならはざるをえないだろうし、あえて武力南進をする必要はないということだ。
朝日新聞 1972年4月29日
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1968年 北朝鮮によるゲリラ南派事件発生 以降、非武装地帯での武力衝突は増加していく
同時期の
「ニューヨーク・タイムズ」ハリソン・ソールズベリー記者
北朝鮮全体が兵営化しており、金日成への異常な個人崇拝の閉鎖国家であると 報道した後の質問に答えて、
「私は見たままを報道するだけである。平壌は私の送った平壌からの記事に刺激も受けたし
また怒ってもいた。しかしジャーナリストはそんなことは念頭におく必要はないのである。」
マーク・ゲイン
【教祖金日成の朝鮮】
「私はこの家に住んでいる家族は、まことに風変わりな一家に違いないと考えないではいられなかった。
家の中に衣類が全然見られなかったからである。農場とおなじように、この家もまた外国の旅行者が必ず立ち寄って見学する場所になっているようだった。」
「諸君」 1973年1月
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帰国しなかった人1
朝日新聞(1959)の連載記事より
帰国しなかった人のインタビュー @
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○関西でアルサロ、喫茶店を経営するKさん(53歳・男性)
「向こうでアルサロ開けますか?何の才覚も無い男が帰ったところで土工か職工か。
ふん、この年でね・・・。私がはじめて下関についたとき、駅前でアンパンとラムネを買ったら12銭しか残らなかった。
それからやっとここまできたんだ。いまさら寒いそれも未知の「北」へ帰るなんてあなたならどうします?」
(9月24日付)
帰国しなかった人2
○在日朝鮮人を夫にもつ日本人妻・君江さん(36歳)
国際結婚をして朝鮮(韓国)に帰った人たちの中には苦労した人も多かったというのだ。
妻は隣近所から白い目で見られるし、夫は法律上ろくな就職もできない。
殆どの日本人妻が逃げて戻ったと言うウワサもある。北朝鮮は違うかも知れないが、これは未知の国だ。
民族的な差別待遇があるかも今のところ分からない。(中略)「14年前、終戦の年の11月に新潟で結婚しました。
親類は皆反対したのですが、それが今、現実の問題となりました。子供を朝鮮人の学校にやって朝鮮人として育てている人は本当に偉いと思います。
子供のためには朝鮮に行ったほうが本当はいいんだろうけれども、私には決心ができません。
自分の国ならコジキをしてもいい。子供三人くらいなら育てていきます。」
君江さんの目から涙がポロポロこぼれる。
(8月14日付)
帰国した人1
朝日新聞(1959)の連載記事より
帰国を決めた人のインタビュー @
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○済州島出身の夫さん(42歳・両親や兄弟が韓国にいる男性)
・・・こうして小さい時から朝鮮人というレッテルを貼られ、軽蔑と疑いの目に晒され三十年間祖国を持たない植民者の寂しい悲しみを味わって生きてきた。「日本人にはおそらくこの気持ちは分からないでしょう」と訴えている。「祖国を持ちたい」これが帰国への動機の一つだと言う。
それにつけても南を選ばなかった理由だが、彼はこう説明する。
私も人間だ、両親のいるところで暮らしたい気持ちは人情だろう。だがいま南朝鮮では私のように朝鮮総連に属したこともなかった人間でも民団に入らなかったので赤の教育を受けたと敵視している。
故郷からくる手紙も検閲だらけ。思ったことも書いてやれない。もし書くと80歳になる両親、軍人になっている三人の弟の命にも影響する。このような政策をとる国に帰ることは私達家族の生命にかかわる。
日新聞
朝日新聞 昭和34年9月28日「祖国を選ぶ人たち」D
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・・・
故郷での新生活がいかにも待ち遠しいといった表情。着々と進んでいると言う北朝鮮 の受け入れ準備の模様をメモ帳から拾ったら、就職:帰還者にとっての最大の関心事だ。
どの工場も人手が足りず、完全就労は間違い無し。手に職の無いものは、短期技能伝習 学校や職工学校に入れて技術をみっちり教え込まれる。給料は女で月40円,
男で60円(セメント工場、日本円12000円)の見当。米一キロが五銭、牛肉一キロが 30銭の物価だから、とても暮らしやすい。
住宅:八畳、十畳各一間にフロ,炊事場,物置,水洗便所つきの標準家屋が受け入れ工 場ごとに建てられる。興南肥料工場には1500戸、清津紡績工場では500戸、元山造
船所には200戸と言う具合だ。勿論暖房付だ。家賃は電灯,水道料込みで2円ナリ。
それに授業料いらずの7年制義務教育など、いたれりつくせりだ。
一方、帰国に反対する在日韓国人居留民団はこれを真正面から嘘だと言う。民団 直系の在日大韓青年団中央本部員、崔成源さんは「夢でも見てるんでしょうとつっ
ぱす。
・・・
「僕は,この目で悲惨な北鮮を見たんだ。たったの10年で,そんなすごい建設が 出来るはず無いじゃないか」激しい口調だ。崔さんは朝鮮動乱の25年9月、義勇軍
に参加して仁川に上陸した。そのとき咸鏡南道の利源から国境近くの甲山、恵山 と覗き見た北朝鮮の生活は「それはみじめなものだった」という。
「どの家も貧しくて、家具らしいものは殆ど無い。赤ん坊はカマスの中に藁を入れ チゲで背負う始末。12月の中旬と言うのに裸足で歩いていた。受け入れ準備の
ごく一部は真実としても、まず宣伝だね。」
・・・
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朝日新聞社説
【日朝帰還協定の調印】
・・・前略・・・
一方、韓国支持の団体が日本国内で帰還反対運動を企てる動きがあるといわれるのは、甚だ遺憾な事といわねばならない。
故国に帰りたいという個人の意思を政治的な理由で阻止する事は許されない。ましてや、再開された日韓会談で、韓国側が北朝鮮帰還問題を取り上げようとする意図が
仮にあるとすれば、人道問題と政治とを、混同することのはなはだしいものというほかはない。
朝日新聞・社説・1959・8・14付
朝日新聞社説
米国が北朝鮮をテロ支援国家に指定している背景には、日航機「よど号」乗っ取り事件の容疑者をいまなお保護している事や、複数の国際テロ組織に対する武器売却疑惑があると言われている。
朝日新聞2001年9月24日付
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【韓国軍警戒態勢】京城14日発=ロイター
韓国国防総省スポークスマンは14日朝、韓国陸軍・空軍が13日午後4時以降、 すべての休暇を取り止め”厳戒態勢”に入っている事を確認した。
朝日新聞 昭和34年12月14日(帰国船第一陣出発の日)
昭和34年の時点では、朝日新聞ですら「京城」
朝日新聞
昭和34年の朝日の見出しの一部
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34年12月5日
■日赤センター爆破図る
韓国人二人逮捕 ダイナマイト保持
同 12月12日
■鉄橋に座り込む 南系170人
■総評も乗り出す 妨害警戒に労組員動員
同 12月21日
■ソ連駆逐艦が護衛 第一次北朝鮮帰還に
【京城21日発=ロイター】
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入江徳郎朝日新聞記者
「日本からの帰国者を迎えた北朝鮮は今沸き立っている。
貧しい故に、一家バラバラだったのが、一人の子供が頑張り抜いて家を再興、 よその家で肩身狭く、貧しく暮らしていた兄弟を引き取った喜びだ。」
朝日新聞 1959年12月26日
朝日新聞 入江徳郎
【美男子で気がおけぬ】金日成という将軍
・・・
どの住宅に行っても金日成の写真がかけられている。
・・・
「金日成が多すぎるというと」ある知識人はこう答えた。
「朝鮮はまだ不足だらけの国だが、最も足りないものが3つある。
船舶、トタクター、金日成元帥の像」
なるほど、帰国者が60万あれば一戸5人として12万戸。
12万人の金日成を必要とする。彼は写真のような男前。日本の朝鮮統治に 反抗してゲリラ戦を続け「長白山のトラ」と呼ばれた革命児とは思えぬ。
ニコニコして気のおけぬオジサンタイプ。
・・・・
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同じページに有った記事
【韓国 米に抗議 丸坊主事件】
韓国の崔圭夏外相代理はマコノギー駐韓米国大使を招き、去る二日三人の米兵が基地内に入った
二人の売春婦を丸坊主にした事件の正式抗議書を手渡した。
入江徳郎 朝日新聞
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・・・
この数年の努力は平壌を始め全国を全く清潔にした。
・・・
かっての朝鮮の不潔と異臭は完全に一掃されている。
・・・
かさぶたのように醜い朝鮮藁葺きばかりだった、かっての農村風景は 機械化につれてどしどし変わっている。
キーセンの平壌でもなく、頭に何か長いカンムリのような帽子を被って 有産階級の老人がゆうゆうと釣り糸をたれる大同江でもない。
貧しい一家が食えなくて満州や日本に流浪していく朝鮮でもない。
それどころか、日本で貧しく、肩身狭く暮らす朝鮮同胞はそっくり引き取って 生活の保障し、いっしょに働こうとしている北朝鮮だ。
朝日新聞 昭和35年1月9日 北朝鮮を洗う「二つの革命」
入江徳郎 朝日新聞
朝日新聞昭和35年1月13日夕刊
特集 38度線の北@【社会主義的温泉】
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(チョイ素敵な温泉の写真がついてます)
社会主義下の温泉は相成っているか、興味を持って東海の朱乙(シュオツ)温泉を拝見した。
山のふもと、真ん中を川が流れて、信州の渋温泉みたいなところだが、勿論旅館は一軒も無い。
全て国営だ。客引きの番頭も、土産物屋も厚化粧の女性軍もいないから、はなはだ閑寂である。
だいいち呼び方からして、温泉ではなく「保養所」である。
・・・・・・
職場同盟が各職場に割り当て、一年一回十二日間はタダで休養させる。昨年中に延べ十万人が
保養したそうだ。ところで、案内してくれた朝鮮の新聞記者氏はこう言った。
「昼寝の時間は有りますがね。眠くないので本でも読んでいると、管理人の小娘どもが見回りに来て、゛いけません。今は睡眠をとるべきです。”と文句をいう。
皆慌てて本を顔に被せて眠ったフリをするんです。来た時に体重を量って、それより増えなければ
帰してもらえません。しかし規則正しい生活だから皆増えますよ。」
・・・・・
「もし酔っ払って暴れたりすればどうなります?」副所長「さあ、解放直後には有ったかも
知れませんが、今は迷惑をかける人はいません。もしあったら、生活委員会が本人を説得かつ
教育します」
サナトリウムじゃ有るまいし、そんな窮屈な温泉じゃあ肩がこってとてもいけねえ、という日本の
お方もあるだろう。それでこそ温泉は働く大衆のものだ。健康的で良いじゃないかと言う人も
あるだろう。ともかくも、ここは飲んで騒いで、くだを巻くところではない。この保養所、
一番温泉の恋しい冬の間は、三ヶ月間お休みである。
理由はと聞くと、寒いと入所者がストーブにかじりつき、お湯にばかり入り、休養と保険の実が
上がらぬからだとの説明であった。
(終わり)
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入江徳郎 朝日新聞
朝日新聞昭和35年1月13日夕刊
特集 38度線の北D【明日に向ける目】
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北朝鮮西海岸に近い黄海製鉄所に行った時である。労働者の主婦に会って家計簿を見せてもらおう
じゃないかと記者団の間で話がでた。行き当たりばったりに一軒を選んで中を見せてもらった。
李さんという。主人は工員で、奥さんは家にいた。家賃と米代が非常に安いので毎月貯金が
できると言う。働けば喰いッぱぐれはありませんとごく当たり前に語った。
以外だったのは次のことである。話を聞き終わって私達が外に出ると、平凡な工員の妻である
この奥さんは、慌てて追いかけてきた。そして次のようなことを言った。
「こんど朝鮮の同胞が故国へ帰国する事について、日本の方々が人道的見地に立って、帰国を促進
して下さったのは、本当にありがたいと思います。・・・・・そして、今後とも同胞の帰国が円滑に
行くように念じているとお伝えください」大臣の挨拶ならともかくこういう言葉を一労働者から
聞くとは思わなかった。・・・同じ言葉を、じつにまじめに、いたるところでたくさんの人に聞かされた。
帰国者など来そうに無い山奥の村でも「在日同胞の帰国を熱烈に歓迎する」と、大きな横断幕が
かかっていた。ここまで一つの考えを見事に浸透させた政治力の強さについて考えさせられた。
・・・・・ -------------------------------------------------------------------------------
朝日新聞の言い訳
国交がなくても帰りたい人を帰すのが人道、という見地から、日本の新聞は、帰還を支持していた。
「北鮮(北朝鮮)への帰国を望む人たちに、切なる希望をかなえるのが当然」(朝日新聞、五九年二月二日付社説)
「いつまでぐずぐずと日本にとめ、帰りたいところへ帰さないのは大きな人道問題」(読売新聞、同月一日「編集手帳」)
「しかし、日本の植民地支配、その結果としての在日朝鮮人問題についての反省は、当時ほとんどなかった」と高柳俊男・明星大助教授はみる。「『やっかいな朝鮮人を追い払う』という意味で帰還に協力した日本人が相当いただろう」
毎日新聞は、五九年一月十日の社説で「彼らに対する生活保護費の増加、貧困を主因とする犯罪の横行に手を焼いている。帰ってもらえば、それに越したことはない」と説いていた。帰還は日本の治安や財政にも好都合だ、という意識が、事業を後押ししたことは否めない。
1997年10月15日付朝日新聞朝刊
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朝日新聞・投書
【過去を隠さず文字に残そう】 無職 池田正枝 79
参院選の政見放送で朝鮮民主主義人民共和国の悪口をわめく候補者に驚きました。
「ミサイルを発射し、少女を拉致した。すぐ返せ」
戦争中に日本が朝鮮にしたことをご存知ないのですね、と思いました。
戦争中、私はケソンで朝鮮の子供たちの学校に勤めました。
3・1独立運動では、たくさんの人々が日本人に殺されました。
そんな体験を持つ保護者たちが何もわからない私を優しく守り育ててくれたのです。
ソウルの学校に移ってからも子供たちは列車に乗って会いに来てくれました。
鴨緑江のそばで暮らした私は2歳で母と死別しました。
「母ちゃん、ピストル上手」
唯一覚えている母への言葉です。
日本人が朝鮮に住むために、多くの朝鮮の人が中国へ追いやられました。
鴨緑江が凍ると祖国へ帰ってくる、その人々を撃ち殺せ、と命令が出ていたとのことです。
「新しい歴史教科書をつくる会」の人たちは
「中学生に慰安婦のことなど」と言いますが、
その年ごろの大勢の朝鮮の少女が連行され、性奴隷になるのを拒否したため虐殺された、
と元慰安婦の方から聞きました。
過去を隠してきた私たちにも責任があります。
自分たちの経験したひどいことを話し合い、文字にしていきましょう。
(大阪本社版2001年8月10日)
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投書の元ネタ
【今、蘇る金日成将軍様最強伝説(拳銃編)】
その感動は、時代を超え、民族を超え、地球人類の頬を感涙で濡らし続けるであろう。
百戦百勝の霊将であられ、朝鮮民族の未来を明るく照らす輝かしい太陽であられる 金日成将軍さまがご青年の時代、凶暴な日帝支配から朝鮮民族を解放するため
白頭山に赴き抗日バルチザンを組織することを決意、同志とともに白頭山へと旅立つ日の前の夜、
民族の母であらせる金日成将軍のご聖母に金日成将軍さまがお別れを告げるそのときのお話です。(起立)
「母上様、帝国主義者から一日も早くわが朝鮮民族を解放するため私は行かねばなりません。」
すると将軍様の御聖母は戸棚をあけると奥からひとつの包みを取り出し、そっと将軍様に渡しました。
ズシリと思いその包みを将軍さまがひらいてみると、それは拳銃でした。
驚く将軍様に御聖母をこうおおせられました。「わが一族は、おじい様の時代から帝国主義者との
戦いに代々身を捧げてきました。お前の父も、おじい様も、この拳銃を使い帝国主義者たちと戦って
いたのですよ。お前もぜひこれを持ってお行きなさい」御聖母さまはそうおっしゃると 拳銃を取り上げ窓の外に向けてパン、パン、と拳銃を撃ちました。すると、将軍様のお生まれになった
聖地でもあるご実家のお庭の木にとまっていた鳥が二、三羽バタバタと落ちました。これを見た将軍様は、思わずこうつぶやかれました、
「母ちゃん(オモニ)、ピストル上手」
池田さんは、ソウルでの教員時代に教え子を「女子勤労挺身隊」として富山の軍需工場に
送り出したという反省から、かっての教え子にお詫びしたいという念にかられ91年に韓国を訪問する。
そこで、45年ぶりに教え子との再会をはたす。
しかし、やっと再会できた教え子と手紙のやり取りをはじめた矢先、教え子の家族から自分との文通を
拒絶する手紙が送られてきた。
『母が元挺身隊であったことが周りに知れたら、私たち子どもは離婚しなければなりません』
『先生に同情でない本当のお詫びの気持ちがあるなら、先生の国で個人的な次元でない国家的、
歴史的な次元のお詫びの方法を考えて下さい』
池田さんは、韓国の社会では元挺身隊であったことが日本軍「慰安婦」であったと受けとめられ、
慰安婦に対する差別意識が強いことを知り、自らの行為への自責の念にかられた。
朝日新聞 投稿日
昭和34年9月26日
…帰国問題が煮詰まるにつれてこんな冷たい対立が各地で目立ってきた。
本社の通信網で調べたら−
大阪では朝鮮人のマジナイ師が「帰る組」の老人を狙って「貴方は向こう三年間水難の 相がある」と見立て「お帰りにならん方がよいでしょう」とすすめたという。
さすがに宣伝戦も激しい。・・・
九州の炭鉱地では、カーキ色の制服、制帽の50人が隊長、副隊長、隊員と階級制度を 作っている。胸に階級章をつけ「北への帰還は竹やりを使ってでも食い止めるという」
第19話 ざんげの国 昭和54年1月18日放送
朝日新聞
帰還希望者がふえたのはなんといっても『完全就職、生活保障』と伝えられた北朝鮮の魅力らしい。
各地の在日朝鮮人の多くは帰還実施まで、将来に希望の少ない日本の生活に愛想をつかしながらも、
二度と戻れぬ日本を去って"未知の故国"へ渡るフンギリをつけかねていたらしい。
ところが、第一船で帰った人たちに対する歓迎ぶりや、完備した受け入れ態勢、目覚ましい復興ぶり、
などが報道され、さらに『明るい毎日の生活』を伝える帰還者たちの手紙が届いたため、帰還へ踏みきったようだ
昭和35年2月26日付
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朝日新聞
「新緑あざやかなラサ公園は三千人の青年男女で埋められ、革命歌や労働歌のコーラスは、夜ふけるまで世界の屋根チベット高原にどよもしていった。
(中略)
中国革命の声は、チベットにも脈々と注ぎはじめたようだ。」
昭和28年6月2日
「中共の統治者たちはチベット国内の街道の無法状態をなくすためひところ 数千名の軍隊を使って巡礼などの通る街道をうろつく盗賊狩りをやった。
(中略)
手を切り落とされたり、にたった油をかけられたり、焼け火バシでめくらにされたり、 あるいはむち打たれたり、土の獄舎に放り込まれたりした。
この情け容赦もない処罰方法に盗賊仲間はすっかりちぢみ上り結局彼らはつかまらない中に
百姓や羊飼いに身を変えて法を守るようになった。」
昭和29年8月24日
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江口浩『『ルポ朝鮮最近史』 現代史出版会1973
朝日新聞・田所特派員
北朝鮮は、南で全斗煥体制が崩れ、南の民主化が行われない限り話し合いは出来ず、 したがって統一の問題は進展しないとして、今後、南の民主化実現をいっそう支援するだろう。
朝日新聞 1980.1017 「北朝鮮これからの道」
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朝日新聞
北朝鮮みたままC 1975・10・19
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各層へ女性が進出 −平等でも貞淑さ失わず−
*完備する育児施設
平壌郊外のキム・ジョン・テ電気機関車工場では、毎日母と子の為の専用バスが 住宅と工場の間を通っており、工場付属の託児所、幼稚園は保母数や給食内容と
設備・室内運動場などどれをとっても申し分ない。3人以上子を持つ母親は 六時間働いて八時間分の賃金支給を受ける決まりだと聞いた。
長期出張等がある家の子供を預かる平壌9・15週託児所も覗いてみた。
ココは五階建てのビルに千人余りの乳幼児を預かる堂々たるもので、保母のほか ほぼ同数の大学で児童心理学を修めた教養員がついている。・・・
朝日新聞
祖国を選ぶ人たちB ー帰る組残る組ー昭和34年9月24日
横須賀市のはずれ、「三春地区」は地域ぐるみ帰国する。町工場の裏側で、 肩をすぼめて寄り集まったような24世帯百五十人。
・・・・・・・
この地区は大半が南出身で北は未知の土地だが、だれもが不安や恐怖はないと 口をそろえる。北からは資料、文献、便りが届いているからだそうだ。
「通信学校に入って将来は気象台に勤める。同胞同士で住めるだけでワクワク するよ。」というのはラジオ屋の金君(20)。作家金達寿氏のオイだ。
「父ちゃん、母ちゃん早く乗ろうよ」と、子供達。
民族教育で筋金を入れられているから割り切っているらしい。
だが、どっちつかずの人も多い。大阪市東成区大成通りの金時子(54)さんの 心境はこうだ。
「昔は朝鮮も日本も同じ国。長いこと住んだ大阪はやっぱり自分のコヤン(故郷)。
でも二つの朝鮮が一つになったら帰るないうても帰るが・・・。
19になる長男は北へ帰ろうという。お前があんばいいくよう思うなら帰りな、 いうてます。親と子はいつまでも一緒に暮らせるものでなし…このまま死んでも
日本の政府はほっておかない。焼き場まで運んでくれるやろ」
去就に迷っているような金さん。針を運ぶ手が小刻みに震えている。
金さんは泣いていた。
特集【北朝鮮みたまま】 1975・10・17〜10・27 (見出しのみ)
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@【ぬきん出る主席の力】 −速度戦に民力を集中− 開明君主
・ととのった一色化
・建国の経歴に敬意
・役立つ国際的声望
・主体性確立に課題
A【学習で意識アップ】 −利潤による刺激策とらず− 中国型の建設
・集約化で高収量
・バランスも重視
B【盛んな住宅の建設】 −農村の収入は都会並− くらし
・きわめて安いコメ
・都市では温水暖房
・道路に花いっぱい
C【各層へ女性が進出】 −平等でも貞淑さ失わず− 片方の車輪
・社会的活動に配慮
・おしゃれにも関心
・完備する育児施設
D【立ちふさがる現実】 −分断が相互の不信生む− 統一への願い
・広がる理解のズレ
・究極は政治の一体
・石を取り除ける日