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ある日本女性の事
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
望月カズは満州で孤児となり、農奴して転売され、放浪しながら帰国、その後朝鮮で 戦争に巻き込まれ孤児を救ったことから133人の孤児を養育することになります。
ソウル市内のバラックに住み孤立無援でさまざまな肉体労働を重ね、露天で理髪業等、
時には血を売りながら孤児たちを育てていきました。昭和38年カズは理髪師資格をとり
「愛の理髪師」と呼ばれるようになり39年、ソウル名誉市民賞を授与されました。42年
韓国独立記念日に当たる光復節に、日本人として異例の第一回光復節賞が授与されました。
昭和46年朴大統領から韓国名誉勲章冬柏賞が贈られました。そのときの叙勲式に何とカズは
普段着に下駄履きで臨みビックリした大統領府の人々からせめて靴だけでも履き替えるように
頼まれるとカズは「私は他に何ももっていませんこれで駄目なら帰ります」と言ってそのまま賞を授与しました。
公の援助を受けず、カズは子供達に深い愛情を捧げました。カズは卑屈な生き方を嫌って
決して甘えを許しませんでした。常に子供達に「転んでも転んでもだるまの如く立ち上がれ」
と133人の孤児を厳しく育てました。
カズは人生の大半を韓国で生きましたが、いつも祖国日本に憧憬を抱き、日本人としての
誇りを決して失いませんでした。カズはいつも和服にモンペ姿で通し、端午の節句には遠慮なしにこいのぼりをたてました。やがて長い間の重労働と言うに
いわれない艱難辛苦に耐えた末病に病に倒れ 死期がせまってきました。「死ねとときは母国の土の上で死にたい。死んだら富士山
の見える所に眠らせてください」と懇願しました。そして昭和58年11月12日ソウル市内で
56歳で亡くなりました。
昭和六十年、四月静岡県瑞林寺で分骨式が執り行われ日韓関係者150人が参列して口々に
カズの偉業を讃えました。韓国在中の遺児たちはカズが生前よく言っていた次の言葉を紹介し
ました。「韓国に望月カズという日本女性がいて自分と同じ境遇の子供達と一緒に暮らしていたこと
を残したい」と。 「日韓2000年の真実」名越二荒之助著より 大意抜粋