このページは旧ホームページです。新しい「酒たまねぎやホームページ」へ

アメリカの正体(フィリピン.インデアン)

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


 

平成19年10月17日水曜日曇り ○
 今日の産経新聞に「アルメニア人虐殺非難決議案米下院外交委で採択へ」という古森義久氏の記名記事が掲載されていました。
以下引用
 90年以上前のアルメニア人虐殺に関して当時のオスマン帝国を非難する決議案が米国下院外交委員会で10日に審議されることとなった。オスマン帝国を継承した現在のトルコ政府は、同決議案が事実の一方的解釈であり、その採択はトルコと米国との関係を深く傷つけるとして激しく反対しており、日本糾弾の慰安婦決議案とも類似する局面が注視される。
 米国議会下院の外交委員会(トム・ラントス委員長)は、1915年からの数年間に起きたアルメニア人大量虐殺を公式に「ジェノサイド」(事前に計画された集団的虐殺)と呼び、その悲劇への理解などを米国の外交政策に反映させるという決議案を10日の公聴会で審議し、採決するという予定を発表した。
 同決議案はこの虐殺をオスマン帝国の責任だとし、アルメニア人の犠牲者を150万人としている点などで、現在のトルコ政府が激しく反対している。しかし、米議会側ではアルメニア系米人の意向を受けたカリフォルニア州選出のアダム・シフ下院議員(民主党)らが提出し、すでに下院で226人、上院で31人の共同提案者を得るにいたった。
 トルコ政府はこの動きに対し「いわゆるアルメニア虐殺の実態はなお不明確な部分も多く、ジェノサイドと呼ぶことには問題があり、決議案の採択はトルコ国民を激怒させて、トルコ・米国関係に重大な打撃を与える」として反対し、5日付の米紙ワシントン・ポストにも決議反対の全面意見広告を掲載した。
 同広告は、エルドアン首相が歴史調査のためにアルメニアとの共同委員会を設けることを提案した点を強調し、この種の決議は「真実を求める側への不公正」だとして、その採択は両国関係を悪化させると警告していた。
 トルコ政府は今年2月には当時のギュル外相を米国議会に送りこみ、もし、この決議案を通せば、トルコは米国のイラク作戦に不可欠なトルコ領内のインジルリク基地の使用を拒むことまでも示唆していた。こうした点は日本政府の慰安婦決議案への対応とは対照的だった。
 米国政府もこのトルコ政府の主張に同調し、議会に対し同決議案への反対を明確にしていた。またヘンリー・キッシンジャー氏をはじめ過去8人の国務長官歴任者たちが連名で9月末、下院外交委員長あてに同決議案への反対を伝える書簡を送っていた。
引用終わり

 慰安婦決議案の時の日本政府の対応とトルコ政府の対応との大きな違いを感じずにはいられません。
 ただ、トルコ政府もアメリカ人からこんな事は言われたくはないでしょう。
 アメリカ人は今回、問題にしているトルコのアルメニア人虐殺といわれている一八〇〇年代終わりから一九〇〇年代初頭にアメリカは何をしていたか。
 一八四六年から四八年によるメキシコとの戦争。
 一八六三年、南北戦争が終わり、やっと黒人奴隷制度が廃止された後も、インデアンに対しての虐殺は続いていたのです。
 一八六四年一一月二九日早朝、シャイアン族の居住地サンドクリークを酔っ払った七〇〇人の騎兵隊が襲撃し、女性、子供一〇五人含む一五〇人近くのシャイアン族を虐殺。昼頃まで続いた虐殺で、その死体から頭の皮を剥ぎ、死体を砕いたりして損傷。指輪を取るために、指を切断。子どもも合わせた男性部族員の陰嚢は「小物入れにするため」切り取られた。男性器と合わせ、女性部族員の女性器も「記念品として」切り取られ、騎兵隊員たちはそれを帽子の上に乗せて意気揚々とデンバーへ戻った。
 一八六八年一一月二六日の夜明け頃、オクラホマ州シャイアンのワシタ川の川岸に野営していたシャイアン族達は、ジョージ・アームストロング・カスター将軍指揮下の第七騎兵隊によって不意打ちの襲撃を受けキャンプの人々のほぼ全員が、無抵抗な女・子どもを虐殺。
 カスター将軍率いる第七騎兵隊は一八七六年六月二五日、インディアンの野営地を発見し、それを襲うが、バカな司令官に率いられた二二五名の直属部隊は輸送馬車に二万四〇〇〇発の弾薬を置いたまま全滅した。カスターは兵士達には一二四発ずつしか弾薬を装備させていなかった。
 一八九〇年一二月二八日にはサウスダコタ州ウンデット・ニーで野営しゴーストダンスに酔っていたスー族の集まりを、大砲や機関銃で武装したジェームズ・フォーシス大佐率いる第七騎兵隊が一方的に襲撃し、虐殺。
 その時、スー族の1人がナイフを持って手放さなかったという理由で酋長ビッグ・フットをはじめとする約一五〇名が虐殺された。
 この第七騎兵隊には議会勲章まで授与されている。

 一八九八年にハワイを武力弾圧で併合し、一九〇〇年、ハワイ王家を廃絶し、一市民に格下げ。


 一八九八年のパリ条約によって、スペインより二千万ドルでフィリピンを買い取ることにより植民地とする。
 この時にフィリピン民衆の抵抗に対して、アメリカ軍は下記のような行動に出る。
 それで、スペインの植民地支配に抵抗するアギナルドに独立の援助をほのめかして戦端を開いた。一八九八年春のことである。

以下引用
 「フィラデルフィア・レジャ」紙のルポ
「米軍部隊は無情で容赦なかった。男女を問わず、囚人・捕虜はもちろん、明らかな反乱分子であれ容疑者であれ、一〇歳以上なら片端から殺しつくした」「手をあげておとなしく降伏してきた捕虜たちは、暴徒であることを示す一片の証拠もないまま、一時間後には橋の上の立たされ、次々と銃殺されて川面を流されていった。弾丸で蜂の巣にされた死体を、川下にいるであろう連中への見せしめにするためだ」
「これは文明人相手の戦争ではない。相手は、力・暴虐・残忍しか通じない連中なのだ。われわれはだから、通じるべき手段で実行しているのである」P一七二〜一七三より
 ルソン島南部の指揮官ジェイムス・F・ベル准将
「二年間(一九〇一年五月までの)にルソン島住民の六分の一が殺されるか、またはテング熱で死んだ」P一七四
つまり、二年間に六一万六〇〇〇人が殺されている。
 サマル島の第九歩兵師団・司令官ジェイコブ・スミス准将はゲリラ戦に壊滅させられたC中隊の報復として、
「捕虜はいらん。全部殺し、焼き尽くせ。殺せば殺すほど、焼けば焼くほど、私は満足だ」
 一時的に指揮下にあっ海兵隊旅団長L・ウォーラー少佐が、「何歳が限度ですか」 と訊ねると、「一〇歳だ」と答えた。
略)
 ウォーラーは全住民に海岸への移動を命じた。二日後、内陸にあるすべての村の組織的破壊と皆殺しが開始された。家はもちろん、市場に出すための食糧や麻など一切焼き尽くされ、家畜のすべては殺され、舟の類も手当たり次第沈められた。米軍の軍服なり装備なりの一片でも見つかった村は、それがC中隊の遺品とみなされ、女子供を含む全住民が皆殺しにされた。
P一七四〜一七五
(「殺される側の論理」本多勝一著 朝日新聞社 一九七八年刊)

引用終わり

同じく
 一八九八年の米西戦争も同じように、北米大陸の脇腹にあるスペイン領キューバが米国の不安材料だった。「いつか敵対国の手にわたったら」という危惧は、実際に六十年後、あのキューバ危機で現実のものになったが、米国はそれを先読みして戦端を切った。ただ、自国の安全保障という直截な言い方はしなかった。「植民地支配にあえぐ人々の自立のために」、米市民が立ち上がった、と。

 このとき海軍次官だったのがセオドア・ルーズベルトだった。彼は友人のアルフレッド・マハンの言葉を入れ、太平洋戦略の基地としてスペイン領フィリピンの奪取作戦も取り込んだ。そしてスペインに抵抗していたアギナルド将軍に、独立支援を餌にマニラ攻略の共同戦線を張った。

 米上院へのレポートでは、サマール島で三十八人の米兵が殺された報復に、この島とレイテ島の住民二万余人が虐殺されるなど、二十万人が殺された。

 この中には拷問死も多く、アギナルド・シンパとされた市民が逮捕され、「ウォーター・キュア(水療法)」の拷問を受けたと報告書は伝える。これはあの魔女裁判と同じに数ガロンの水を飲ませ、それでも白状しないと「膨れた腹の上に尋問の米兵が飛びおりる。彼らは口から数フィートの水を吹き上げ、多くは内臓損傷で死んだ。」(同報告書)

 マニラ湾南のアギナルドの故郷バタンガスでは、住民を銃で殺害こそしなかったが、すべての田畑や家屋を焼き払い、家畜を皆殺しした。食べるものを家も失った住民は、飢餓地獄の中で死んでいった。その数は五万人ともいわれる。
 「情報鎖国・日本 新聞の犯罪」高山正之著 廣済堂出版 p一七〇〜一七二

 ちなみに、このような残虐な米軍の指揮を執ったアーサー・マッカーサーは、日本占領軍司令官になるD・マッカーサーの父であり、ウィリアム・タフトは後に米大統領となる人物。
下記の言葉がそんなアメリカ人をよく表している。
以下引用
 その辺の国民性について、ニュージャージーに生まれたノーマン・メイラーは「米国人は自分の間違いや国家の過失を無視するという不愉快な資質を持っている。だから米国人は直視したくないことは、なかったことにしてしまう」(日本版「プレイボーイ」)と説明する。
高山正之の異見自在 [2000年07月29日 東京夕刊]
引用終わり


 そうやって平定したことを記念する米西戦争の前述の碑には、一八九九年に終わったはずのスペインとの戦争の年号が一八九八年から一九〇二年の四年間を刻み、「植民地支配にあえぐ人々に自由の手を差し伸べた米軍兵士たちに」と記す。戦争はスペインがさっさと降伏して翌一八九九年には終わったが、ロサンゼルスにあるこの戦争記念碑には「一九〇二年」とある。これは、アメリカに裏切られて抵抗するアギナルド将軍とその一派を、米軍が完全に掃討し終わった年を意味している。
 このように一九〇二年までかかって、二〇万人ものフィリピンの人々を虐殺(上院報告書)し続け、ベトナムでも虐殺を続け、我が国には無差別爆撃、広島、長崎への原爆投下。そんなアメリカからトルコも五月蝿い事を言われたくはないでしょう。


 先日書いたインドネシアの慰安婦施設は、砂漠の中にあるネバダ州の公認売春施設と何処が違うのでしょう。