アーレイ・バーク大将とコピペ愛国商売人ねずさんこと小名木善行氏
アホテレビ番組とそれを検証なしにコピペしているアホパクリ愛国商売人ねずさんこと小名木善行氏
6月17日土曜日曇りのち小雨 △
テレビないから知らんけど、テロ朝が放送した嘘番組がいろいろと拡散されているらしい。
半世紀の時を超えた日米の絆の物語~アーレイ・バーク「ビーバップ!ハイヒール」より
<2013年11月28日放送 ABC(朝日放送)「ビーバップ!ハイヒール」
おもてなしは一日にして成らず 世界が愛した日本人の心>
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1501.html
<アーレイ・バーク 日本を憎み、そして愛したアメリカ海軍軍人>
https://www.youtube.com/watch?v=12gNlxQjvFE
そして、検証などということを一切やらないアホパクリ愛国商売人のねずさんこと小名木善行氏もそのままそっくり得意技のパクりで書いている。
<トモダチ作戦の背景にあったこと>
https://nezu3344.com/blog-entry-2772.html
http://megalodon.jp/2017-0606-0804-50/nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2772.html
この小名木氏は自分でも過去にアーレイバーク大将に関連して、
<敵さえも味方にしてしまった男・・・草鹿任一海軍中将>
https://nezu3344.com/blog-entry-692.html
http://megalodon.jp/2010-1122-0759-25/nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-692.html
というのを書いている。
そして、小名木氏には珍しく、本当に珍しく引用先まで書いている。
この時は、バーク大将に影響を与えた人物として草鹿任一海軍中将をあげているのである。
ただ、この時は
<不思議なことに、戦後行われた東京裁判で、海軍からはA級戦犯がひとりも出ていません。
これも実に不思議な話です。
で、なぜかと思って調べてみたら、どうやら終戦のときラバウルにいた海軍中将、草鹿任一(くさかじんいち)氏が、その原因らしい。
略)
当時、日本に駐屯していた米海軍には、アーレイ・アルバート・バーク(Arleigh Albert Burke)という人もいた。米海軍の軍人で、最終階級は海軍大将です。
アメリカ海軍史上でただひとり、海軍作戦部長を3期6年の長きにわたって務めた実績のある人で、当然GHQの中でも発言権が強かった。
略)
そのバークも、取り調べのさなかに草鹿任一と知り合います。
その出会いが、彼の人生を一転させた。>
<他にも草鹿は、東京裁判開始前にキーナン検事を筆頭に、GHQで日本を敵視していた人々にいちいち会っては大喧嘩をし、大口論をした。
その結果、彼等は逆に日本人を認識し直し、草鹿を尊敬してしまう。
結果、帝国海軍軍人からは、A級戦犯として起訴される者が誰も出なかった。
のみならず、反日的だった彼らをして、逆に日本海上自衛隊の創建にまで協力させてしまった。>
愛国商売人の小名木氏が珍しく「調べてみたら」帝国海軍からいわゆるA級戦犯として起訴されたものが出なかったのは草鹿中将が極東軍事裁判GHQ関係者からバーク大将にまで影響を与えたからだといっている。
極東国際軍事裁判は昭和二十一年から二十三年。海軍GHQ裁判でも昭和二十四年。
バーク大将が我が国に赴任したのは昭和二十五年九月、少将の時である。
とっくに戦犯裁判など終わっている。
アホかと
まあこいつはアホだけでなく口先三寸男やけど〜
草鹿提督と一部の極東軍事裁判GHQ関係者との関係はともかくとして、「バークも、取り調べのさなかに草鹿任一と知り合います」って、バーク大将との関わりがすでに終わっている裁判にどう影響を与えたというのだ。
そでだけでなく、
「不思議なことに、戦後行われた東京裁判で、海軍からはA級戦犯がひとりも出ていません。」
「帝国海軍軍人からは、A級戦犯として起訴される者が誰も出なかった。」と書いている。
A級戦犯容疑では永野修身大将(連合艦隊司令長官)が逮捕され裁判中に巣鴨プリズンで病死しているし嶋田繁太郎大将、岡敬純海軍中将がA級戦犯として終身刑となっている。
小名木氏にとっていわゆるA級戦犯とは絞首刑になった七名のみなのであろうか。永野修身大将、嶋田繁太郎大将、岡敬純海軍中将は起訴されていないのか?
クズすぎる。
そして、今回は同じバーク大将に影響を与えた人物としてホテルの女性スタッフを書いている。
そこにはいかにもコピペ職人で愛国商売人の小名木氏らしく下記のように例によってなんの検証もなくそのままコピペして書いている。
<バーク大将は大東亜戦争の中でも、日米合わせて九万人以上もの犠牲を出した「ソロモン海戦」で日本軍の脅威となった男です。>
「ソロモン海戦」で九万人以上の犠牲者と書いている。
「ソロモン諸島の戦い」ではなく「ソロモン海戦」である。
海戦とはWikipediaでは
<海戦(かいせん, Naval battle, Naval warfare)は、狭義には艦艇同士の海上戦闘をいうが、広義には航空機、ミサイルなどを用いて海上で行われる戦闘の総称をいう。
武力紛争は、それが展開される地域の区分に従って、陸上は陸戦、海上は海戦、空中は空戦とされ、国際法はおおむねこの区分に従って規定されている>
だから、大東亜戦争においても主な海戦だけでもいくつもある。
ソロモン海戦はそのうちのひとつであり、第一次から第三次まである。そのソロモン海戦で九万人もの戦死者が出たと書いてある。
我が国が建造した史上最大の戦艦である大和ですら乗員は約三千四百名である。大和が二十七隻分である。
ソロモン海戦第一次から第三次まで大破、中破、小破を除き沈没したのは両国合わせて
戦艦二 重巡洋艦四 巡洋艦三 空母一
駆逐艦十一 輸送船十二隻
第一次ソロモン海戦戦死者
日本百二名 米国千二百七十三名
第二次ソロモン海戦
• 日本海軍
• 空母:龍驤沈没戦死百二十一
• 艦載機:25機損失
• 駆逐艦:睦月沈没戦死四十名
• 輸送船:金龍丸沈没戦死者不明乗員五十一名
• 軽巡洋艦:神通中破
• 水上機母艦:千歳中破
• アメリカ海軍
• 空母:エンタープライズ中破
• 艦載機:9機損失
第三次ソロモン海戦
日本千九百名 米国千七百三十二名
海戦での戦死者はどう多く見積もっても六千〜七千名である。どこから九万人という数値が導き出されたのか。
ガダルカナルを含むソロモン諸島での戦いにおいての戦死者八万八千人のことであろうが、普通はソロモン海戦で九万人などと書かない。そのように表示したのはコピペ元のアホテレビ番組であろう。
バーク大将が第四十三駆逐隊司令として南太平洋に出たのが昭和十八年二月、その後海軍大佐として十月に第二十三駆逐隊群司令として旗艦「チャールズ・S・オースバーン」(クレムソン級)に着任し多くの戦いに参加しソロモン海域で華々しい戦果を挙げているが、昭和十七年のソロモン海戦には当然参加していない。
それは同じく下記の文章もコピペ元のアホ番組を小名木氏らしいといえばそれまでだが、いつもどおりそのまま検証もせずに載っけているだけである。
<翌日、バーク大将が夜勤から戻ってみると、コップに差してあった花が、花瓶に移されていました。
バーク大将はフロントに行き、怒鳴りました。
バーク「なぜ、余計なことをした。誰が花を花瓶に移せと言った!?」
従業員「恐れ入りますが、ホテルではそのような指示は出しておりません」
バーク「何だって!? うーむ…」
この時は誰が花瓶に移したのか分かりませんでした。
そして数日後…、何と花瓶には昨日まではなかった新しい花が生けられていました。
「いったい誰がこんなことを……」
花はその後も増え続け、部屋を華やかにしていきました。
バーク大将は再びフロントへ行きました。
「私の部屋に花を飾っているのが誰なのか、探してくれ」
調べた結果、花を飾っていた人物が分かりました。
それは、バーク大将の部屋を担当していた女性従業員でした。
彼女は自分の少ない給料の中から花を買い、バークの部屋に飾っていたのです。
それを知ったバーク大将は彼女を呼び出して問い詰めました。
「君は、なぜこんなことをしたのだ」
「花がお好きだと思いまして」
「そうか。ならば、君のしたことに代金を払ねばならない。受け取りなさい」と彼女にお金を渡そうとしました。
ところが彼女は、
「お金は受け取れません。私はお客様にただ心地よく過ごしていただきたいと思っただけなんです」
「どういうことだ?」
米国ではサービスに対して謝礼(チップ)を払うのは当たり前です。
しかし彼女はお金はいらないという。
このあと、彼女の身の上を聞いたバークは驚きました。
彼女は戦争未亡人で、夫は米軍との戦いで命を落としていました。
しかも彼女の亡き夫も駆逐艦の艦長でした。
そしてソロモン海戦で乗艦と運命を共にしていたのです。
バーク大将は、「あなたのご主人を殺したのは、私かもしれない」と彼女に言いました。
ところが彼女は毅然としてこう言ったのです。
「提督。提督と夫が戦い、提督が何もしなかったら提督が戦死していたでしょう。誰も悪いわけではありません。強いて言えば、戦争が悪かったのです」
バーク大将は考え込みました。
「自分は日本人を毛嫌いしているというのに、彼女はできる限りのもてなしをしている。この違いは、いったい何なんだろうか?」
のちにバーク大将は次のように述懐しています。
****
私は彼女の行動から日本人の心意気と礼儀を知った。
日本人の中には、自分の立場から離れ、公平に物事を見られる人々がいること。また、親切に対して金で感謝するのは日本の礼儀に反すること。親切には親切で返すしかないこと、を学んだ。
そして、自分の日本人嫌いが正当なものか考えるようになった。>
アホテレビ番組のネタ本と思われる阿川尚之氏の著書「海の友情」(中央新書 平成十三年刊)には「アーレイバークと海上自衛隊」にバーク少将(当時)がホテルでこの女性スタッフが花を生けてくれていたことに対してホテルに謝辞を述べ、お礼としてスタッフにお金を渡そうとしましたが、ホテルからも断られたためこの女性スタッフの退職手当にバーク少将よりのお礼金が匿名でプラスされたことが書かれていますが、怒ってフロントに詰め寄ったこと、この女性スタッフの旦那様が駆逐艦の艦長でソロモン海戦で戦死したなどはどこにも書かれていません。
書かれているのは次のことのみです。
<数週間後バークはフロントで、花を飾ってくれる心遣いに謝辞を述べた。ところがホテル側はそんなことをしていない、米軍から禁じられているという。誰がやっているのかわからず、調査を約束してくれた。それが部屋係のメードの行いとわかる。
「受付の人が彼女にあわせてくれた。小柄な年配の婦人だった。ご主人が戦争で亡くなったという。一言も英語が話せなかった。私はまったく日本語が話せない。通訳を介して礼を言うしかなかった」>
P一二五
戦争未亡人としか書かれていないのが、小名木氏(がいつもどおりに検証もせずにコピペした文章)によると
<しかも彼女の亡き夫も駆逐艦の艦長でした。
そしてソロモン海戦で乗艦と運命を共にしていたのです。>
このようになる。
では、ソロモン海戦で撃沈した駆逐艦のどの艦長の未亡人なのだ。
私が調べた結果は下記のようになる。
第一次ソロモン海戦
沈没なし
第二次ソロモン海戦
駆逐艦:睦月沈没 艦長 畑野健二 少佐生存
第三次ソロモン海戦
• 駆逐艦:暁 高須賀修 少佐 戦死(中佐)、夕立 吉川潔 生存のち駆逐艦 大波艦長として戦死(ニ階級特進 少将)綾波 沈没 艦長 作間英邇 中佐生還
つまり一次から三次までのソロモン海戦で沈んだ駆逐艦は四隻であるが、戦死した艦長は高須賀修 少佐(大佐 海兵五一期 愛媛県出身)ただ一人である。
この帝国ホテルで働いていた女性がソロモン海戦で戦死した駆逐艦艦長の高須賀少佐の未亡人ということになる。
では、そのことはどこかに書いてあるのか。
なによりもどこにも書いていないのに、どうしてソロモン海戦で戦死された駆逐艦艦長の未亡人とわかるのであろうか。
下記のようにも書いてある。
<のちにバーク大将は次のように述懐しています。
****
私は彼女の行動から日本人の心意気と礼儀を知った。
日本人の中には、自分の立場から離れ、公平に物事を見られる人々がいること。また、親切に対して金で感謝するのは日本の礼儀に反すること。親切には親切で返すしかないこと、を学んだ。
そして、自分の日本人嫌いが正当なものか考えるようになった。>
バーク少将の述べていることと部屋係の女性に対して行ったお礼は下記の通りです。
<バークはホテルを通じていくらかの金を包もうと思ったが、受け取ってもらえなかった。金で感謝するのは日本では礼儀に反する。親切には感謝の念を表すしかないというのである。婦人の給料はごくわずかである。その乏しい中から外国人のために部屋の居心地をよくしようと花を買ってくれた。彼女の親切に何とかして報いたいと思うのに、ホテル側はそれをわかってくれない。結局いささかの金額を婦人の退職手当に匿名で寄付することで話がついた。「この小さなできごとをきっかけに、自分の日本人嫌いが正当なものかどうか考えるようになった」とバークは述べる>
「海の友情」P一二五〜一二六
「海の友情」にはそれに続くバーク少将が朝鮮戦争の前線よりホテルに帰った時のホテルスタッフの対応についての記述もあります。
<前線は寒くて不潔でどろどろのぬかるみであった。風呂がなく、ひげを剃れず、ほとんど眠れなかった。約一週間後、バークは疲れ切って東京に帰ってくる。チェックインをすると、前とは違う別の部屋に案内された。特に気にも留めなかった。部屋に入って汚れきったブーツを脱ぎ、外套を放り投げ、風呂に入る支度をしていると、ドアをノックする音がする。開けると、前に泊まっていた階で働く顔見知りの若い男性従業員が立っていた。
「挨拶を交わしながらなぜ会いに来たのかと訝しがっていると、あなたが家に帰ってこられないのでみんな残念がってますと言う。この従業員は下の部屋こそが私の帰るべき家だと思っているらしい。そういうことならばと、フロントといささかの交渉を二人で一緒にして、私は元の部屋を取り返すことができた。上がっていくと、その階で働く者全員が部屋の前に集まり、暖かい茶の入った急須を用意して帰宅を歓迎してくれたではないか。疲れ切っていた私は、不覚にも涙が出そうになった。
アメリカ人の迎えはまったくなかった。誰も私を無事帰って来たかどうか気にもしていなかった。けれどこの日本の人たちは、私の帰宅を歓迎すべきであり、他にも誰もやらないなら自分たちが出迎えをすると真面目に考えたのだ。私は当時そう感じたし、今でもそう思っている」
こうした「おやっ」と思うことが、日本人と接触するうちに度々起こったので、この人たちが必ずどうしようもない連中ではないのではと思いはじめた。バークはそう述べる。>
P一二六〜一二七
検証も何もしないコピペパクリ職人であり愛国商売人である小名木義行氏は「バークも、取り調べのさなかに草鹿任一と知り合います」と嘘を書いているが、草鹿任一海軍中将とバーク大将との関わりについては取り調べなどでなどではなく、「海の友情」ではポッターのバーク大将の伝記よりの引用として下記のように書かれている。
<ポッターの著した伝記にも、バークと日本人の交流について描かれている。極東米海軍司令部には、バークと兵学校同期のエディ・ピアス大佐という語学専門士官がいた。この人は戦前中尉の時米海軍から派遣され三年間日本で暮らした経験があり、日本海軍の人たちと親しかった。ある日ピラスがバークに、草鹿任一という名前を記憶しているかを尋ねる。バークはもちろん覚えていた。会ったことはないが、バークがソロモンの海で駆逐隊群司令として戦った時の、ラバウル方面海軍最高指揮官であった。仲間を殺した航空機や艦船を、ラバウルから派遣した張本人である。バークのほうでも、草鹿の艦を数隻沈めていた。ピアスはその草鹿が公職を追放され、困窮していると話した。鉄道工事の現場でつるはしを振り生計を立てている。奥さんは街角で花を売っている。食べるものさえこと欠く生活らしい。何とかしてやれないだろうか。バークはピアスに助ける気がないと答えた。
「飢えさせておけ」
しかし、冷静になって考えると、四年間あれほど勇猛果敢に戦った日本海軍の提督が、戦争が終わった途端同胞に後ろ指を差され腹をすかせているというのは、正しいことではない。そう思い直すと、バークは匿名で草鹿に食料品の詰め合わせを届けさせた。
数日後バークの執務室のドアが突然開いて、小柄な日本人が喚きながら飛び込んできた。草鹿である。バークは何事かと思い、引き出しのピストルに手を伸ばす。変な真似をしたら撃つ気であった。急いで呼ばれた通訳を通して、草鹿は言った。
「侮辱するのはよせ、誰の世話にもならない。特にアメリカ人からは何も貰いたくない。アメリカ人とは関係を持たない」
それだけ言うとプンプン怒りながら出ていった。バークは提督に好感を抱いた。自分が彼の立場だったら、まったく同じことをするだろうと思った。
一九五〇年十二月二十六日、バークはピアスを通じて、草鹿任一、板野常善、富岡定俊という三人の旧海軍提督を、帝国ホテルでの夕食に招待した。彼らは擦り切れた正装で現れる。ひどく固くなっていた。ピアスは彼らが占領軍から呼び出しを受けたと思っている、だからよそよそしいのだと、バークに伝えた。バークはウィスキーをふるまう。しばらく飲んでいないだろうとからと、日本酒の杯に注がせた。客たちは最初は断ったが、ピアスが失礼だからと諭すと、少しずつ口に運んだ。
しばらくすると酔いが回っていい気分になってくる。提督たちの舌が滑らかになりはじめた。実は三人とも英語が話せた。草鹿は戦前ロンドンの駐在武官を務めた経験があり、一番英語がうまかった。
食事が終わったあと、バークが乾杯を提案した。すると草鹿は立ちあがり、杯を掲げてこう述べた。
「今日招いて下さった御親切なバークさんに乾杯をしたい。
もうひとつ、自分が十分な任務を果たさなかったことにも乾杯しましょう。もし任務を忠実に果たしていたら、この宴の主人を殺していたはずだ。そうしたら今日のおいしいステーキを誰も食べられませんでした。
では乾杯!」
こうしてみんなが杯を飲み干すと、バークが続けた。
「私も自分が任務を果たさなかったことに乾杯したいと思います。
任務をきちんと果たしていれば、草鹿提督の命は頂いていたはずで、今日のすばらしいステーキディナーを誰も食べられなかったからです」
みんなが笑い、氷のようだった空気はすっかり暖かくなっていた。「日本との戦争は、バークにとってこうして終わったのだ」とポッターは記す。>
P一二七〜一二九
先にも書いたように、バーク大将と草鹿中将があったのは文中にもある昭和二十五年末である。それがどうして「バークも、取り調べのさなかに草鹿任一と知り合い」となるのか。何の取り調べなのか。これが、東京極東軍事裁判において我が国の帝国海軍よりいわゆるA級戦犯が一人も出なかったことになるのか。また、実際にいわゆるA級戦犯は帝国海軍より二人もでている。
バーク大将は「よみがえる日本海軍(上)」(ジェームズ・E・アワー著 時事通信社 昭和四十七年刊 )に序として下記のような文を寄せている。
<当時、私は日本の方々を多く知らず、また日本人を好きではありませんでした。と申しますのは、私は日本軍を相手に長い間、多くの戦闘をやってきていたからでした。でもやはり私は東洋的な人生観について、さらに勉強する必要を感じました。日本語を解し、日本を理解しているエディ・ピアース海軍大佐から、野村吉三郎海軍大将が日本に関する私の勉強を援助して下さるだろう、と教えられました。野村大将および保科善四郎海軍中将の知識と配慮によって、私は日本国民に対する両提督の深い愛情を認識するようになりました。小生は両提督に対して深く尊敬の念を抱くようになりましたが、日本人一般に対して好感を持つまでには、たっぷり一年かかりました。一九六四年、野村提督が逝去された知らせを受けた時、小生は生涯で最良の友人の一人を失った、と思いました。>
p三
小名木氏はバーク大将がこのように書いているお二人には何も触れていない。
それだけでなく、「ねず式で要約してお届けしたいと思います」としてこの文章を書いているコピペ職人の小名木氏は本当に最後まで何も検証もせずにいつもどおり嘘を書いている。
<平成23年3月11日、東日本を巨大地震が襲いました。
この戦後最大の国難に際して、在日アメリカ軍は直ちに「OPERATION (オペレーション) TOMODACHI=トモダチ作戦」を発動しました。
このトモダチ作戦で、もっとも早く被災地に着いたのが、原子力空母ロナルド・レーガンです。
本来は韓国に向かう任務で移動中でしたが、艦長の独断で日本の救援に駆けつけてくれたのです。
その艦長の名は、海軍大佐トム・バークでした。
そう、あのアーレイ・バークの孫です。
略)
この時、もしバーク大将が生きていたら、「お前も日本好きになりおったなぁ」と言って何度もうなづいたかもしれません。>
これについては在日米海軍司令部がその後公式Twitterで否定している。
<在日米海軍司令部
認証済みアカウント
@CNFJ
その他
米海軍に関する都市伝説(その3):「トモダチ作戦に従事した空母ロナルド・レーガン艦長(当時)のトム・バーク大佐はアーレイ・バーク提督の孫」という話がテレビでも放映されていたようですが、これは事実ではありません。苗字が同じだけで血縁関係はありません。
17:36 – 2016年3月22日>
米海軍に関する都市伝説(その3):「トモダチ作戦に従事した空母ロナルド・レーガン艦長(当時)のトム・バーク大佐はアーレイ・バーク提督の孫」という話がテレビでも放映されていたようですが、これは事実ではありません。苗字が同じだけで血縁関係はありません。
— 在日米海軍司令部 (@CNFJ) March 23, 2016
だいたい、ネタ本の「海の友情」にも。アーレイ・バーク大将だけでなくその後昭和四十八年八月から我が国に赴任したジュリアン・バーク少将在日海軍司令官という「バーク」というファミリーネームを持つ提督についても書かれているが、トム・バーク大将とジュリアン・バーク少将はまったくの赤の他人であることも書いている。(p一八八)
このように少しでもネタ本を読んだことのある、あるいは検証をしようとしたら、同様にトム・バーク大佐は「バーク」というファミリーネームだがアーレイ・バーク大将の孫なのかと少しは考えるであろう。
まあ、なんら検証をしないコピペ職人であり愛国商売人のねずさんこと小名木義行氏らしいといえばらしいほんぼのとしたええ話ですけど。
くそあほらし
青葉慈蔵尊 堀喜美子(喜身子)の疑問点および小名木善行氏について
https://www.tamanegiya.com/ura/2017/07/25/aobajizouson/
廣枝音右衛門(広枝音右衛門)
https://www.tamanegiya.com/ura/2015/01/30/hiroedaotouemon/
台湾民政府の危険性
https://www.tamanegiya.com/ura/2015/01/04/taiwanminseifu/
コピペ職人小名木善行氏の「台湾霧社事件と和の心」に見る嘘
https://www.tamanegiya.com/blog/2017/08/07/kopipesyokunin/
二名様来店。
今日も昨日に続き台湾より葉さんが友人の方とお二人でいらしてくださる。
同じく、台湾帰りのKさん来店。
ドンチャン
記憶あり。
猿よりマシ
引用文献
「海の友情」阿川尚之著 中央公論新社 平成十一年刊
「よみがえる日本海軍(上)」(ジェームズ・E・アワー著 時事通信社 昭和四十七年刊 )
[…] アーレイ・バーク大将とコピペ愛国商売人ねずさんこと小名木善行氏 […]
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