保阪正康というアホ歴史家

9月7日水曜日晴れ△
ずいぶん前になるが、以下は「戦場のむごさを見る」と題された人民日報築地支社の朝日新聞の天声人語です

保坂Cp3iAFZUsAAKzQQ<天声人語
戦場のむごさを見る
2016年8月15日05時00分
けっして反戦のための文章ではない。むしろ兵士たちの勇敢さをたたえている。それでも、日露戦争の激戦を描いた記録文学『肉弾』(桜井忠温〈ただよし〉著)を読むと、戦場のむごさが迫ってくる。おびただしい数の味方兵士の死体を踏み越えながら進む場面がある▼機関銃になすすべもなく倒れる兵がいる。砲車に潰される兵がいる。こちらの爆弾で絶命する敵がいる。実際の表現はどこまでも具体的で、臭いまで伝わってきそうだ▼生き残った将校が書き、明治後期に出版された。当時も多様な受け止め方をされたようだ。戦中も人権擁護を貫いた弁護士の海野普吉(うんのしんきち)は、この本から戦争の悲惨さを学んだと、いくつかの評伝にある▼一方で肉弾という言葉は、その後の戦争で兵士を称揚するスローガンとして使われた。戦場の残酷さをかみしめることと、そこに英雄を見ることは、背中合わせなのかもしれない▼作家の保阪正康さんが、特攻機の整備兵だったという老人のことを述べている。突然訪ねてきた彼が語ったのは、飛び立つ日の特攻隊員の姿だった。失神する、失禁する、泣きわめく。きれいなことを言って飛んでいった人もいたが、ほとんどは茫然自失(ぼうぜんじしつ)だった。「それを私たち整備兵が抱えて乗せたんです」(『戦争と天災のあいだ』)▼長く胸にしまっていた証言であろう。戦争を語れる人がだんだんと他界し、私たちはいずれ記録からしか学べなくなる。見たいところだけを見ることもできる。でも、それでいいはずはない。>

天声人語は歴史を知らない歴史家の大家である保阪正康氏の著書よりの引用として
<特攻機の整備兵だったという老人のことを述べている。突然訪ねてきた彼が語ったのは、飛び立つ日の特攻隊員の姿だった。失神する、失禁する、泣きわめく。きれいなことを言って飛んでいった人もいたが、ほとんどは茫然自失(ぼうぜんじしつ)だった。「それを私たち整備兵が抱えて乗せたんです」(『戦争と天災のあいだ』)>

と平気でこの歴史を知らない歴史の大家のアホな文章をを引用している。
回天もそうであるが特攻機に使われた航空機もアホでは操縦できない。
選ばれたものでないと決して操縦できないものである。
そして、保阪氏が書くように無理やり特攻機に乗せられても操縦などできるはずもない。
人間のクズであるからこう言った考え方しか持てない。

過去にも自称歴史家である保阪氏はアホなことを何度も言っている。

「最強の案内人による究極のブックガイド あの戦争を読む」佐藤優、保阪正康
https://www.tamanegiya.com/blog/2015/05/05/ahohosaka/

その中で特攻隊員たちの遺書が自身の執筆活動の原点というこの自称歴史家は特攻隊に関してだけでも下記のようにアホを晒しまくっている。

<「今日もまた、『海軍のバカヤロー』と叫んで、散華する者あり」と記してありました。 部外秘の文字も押されて。この元参謀によると、特攻機は離陸した後はずっと、無線機のスイッチをオンにしているそうなんですよ。だから、基地では特攻隊員の“最後の叫び”を聴くことができた。
「お母さーん」とか、女性の名前もあったそうです。「大日本帝国万歳」というのはほとんどなかった。ところが、そうした通信記録は残っていない。故意に燃やしてしまったに違いありません。“軍神”が「海軍のバカヤロー」と叫ぶ。それは当局にとって、隠蔽(いんぺい)すべきことだったでしょうから。>

当時の無線機が本当にそれだけの「声」を基地まで届けられたのだろうか。
三式空一号無線電話機では電信、電話とも使えたが、対地通信距離一八五kmらしいし、当然、電信の方が安定しているし遠くまで届くために電信を使っていたのではと思うが、どうなのでしょう。でも、残っては無いが燃やしてしまったに違いないって、まるで朝鮮人なみの結論の出し方はいかがなものか。

特攻隊について詳しいはずなのに、結婚間もない妻を愛機に乗せてソ連の戦車部隊に特攻した谷藤徹夫少尉については何もご存じなかったようで、「妻と飛んだ特攻兵」の帯に下記のような推薦文を寄せています。

保阪正康
<こんな史実があったのか。これは「歴史」から蘇った特攻隊だ。
十一人の特攻隊員はなぜ敗戦から四日後に、ソ連軍への体当たり攻撃を考えたのか。妻を乗せて散華した隊員の心情に衝撃を受ける>

谷藤徹夫少尉については、同じ歴史家の秦郁彦氏などは約二十年も前の著書「八月十五日の空: 日本空軍の最後」に昭和四十二年に建てられた神州不滅特別攻撃隊之碑の事を含め詳しく書かれている。
手元にある「別冊一億人の昭和史 特別攻撃隊」(毎日新聞社 昭和五十四年刊)にも「満州特攻秘話 新妻を乗せて体当たり」と題し掲載されている。P二百八十〜二百八十一
特攻についてであらば、少し興味ある方だと絶対に目を通すであろう特攻隊慰霊顕彰会の会誌「特攻 第六号(昭和六十三年三月二十七日号)」にも掲載されている。
それなのに、特攻に詳しいはずの保坂正康氏が谷藤少尉の事を知らなかった

流石は殉死された黒木博司少佐、樋口孝少佐のお二人が十二時間生存していたことからわかる様に、十時間以上活動出来る酸素が艇内にあるという回天の構造も知らないくせに赤い渡辺恒雄とともに下記のような事をホザイタだけのことはあります。

<保阪
回天という特攻兵器は、見ただけで涙がでますよね。本当にひどい。この特攻兵器の搭乗員として訓練中に亡くなった学徒兵(東大生)は、機器が故障し、海中で一時間程閉じ込められたままで亡くなっています。>

回天とはどのような性能を有した兵器であったか。
実戦に使用された一型は我が国が誇る九三式酸素魚雷を基にして製造されたもので、
長さ十四・七五メートル、直径一メートル、総重量八・三トン、頭部炸薬量一・五五トン。
航続距離
三十ノットで二十三キロ、
十二ノットで七十八キロ(十二ノットで約二時間十五分)
という性能を持つ。

殉死された黒木博司少佐、樋口孝少佐のお二人が十二時間生存していたことからわかる様に、十時間以上活動出来る酸素が艇内にある。

保阪氏が回天という兵器についての性能も作戦も知らないだけでなく、和田中尉の遺稿すらよく読んでいなかったのではないか。

 


伊四十七潜「多々良隊」昭和二十年三月二十九日
柿崎稔中尉、前田肇中尉、古川七郎上飛曹、山口重雄一飛曹は発進の機会が無く、
昭和二十年四月十七日に同じ伊四十七潜にて再び出撃する。


伊三十六潜「轟隊」昭和二十年六月十七日
左より横田寛一一飛曹、野村英造一飛曹、柳谷秀正一飛曹、久家稔少尉、園田一郎少尉、池淵信夫中尉
遺骨は訓練中に殉職した入江雷太一飛曹、坂本豊治一飛曹


昭和二十年五月二十八日 伊三百六十三潜 轟隊
久保吉輝一飛曹 石橋輝好一飛曹 上山春平中尉
和田稔少尉 西沢(小林)重幸一飛曹



伊四十七潜に搭載した回天の上に太刀、見送りに答える搭乗員 昭和二十年四月十七日
柿崎稔中尉、前田肇中尉、古川七郎上飛曹、山口重雄一飛曹、新海菊雄二飛曹、横田寛二二飛曹

 

 

 

 

 

 

 

 

写真は、昭和二十年四月二十二日に二式複座戦闘機「屠龍」にて出撃する直前に写した、「陸軍特攻誠第百十九飛行隊」(指揮官 竹垣全少尉)

菊水四号作戦 第四次航空総攻撃
四月二十二日 誠 第百十九飛行隊(二式双襲) 出撃方面 粟国島南西方

竹垣 全  少尉 (幹七)
溜  洋  少尉 (幹八)
岩上 要  伍長 (小十三)
永久 要  伍長 (小十三)
山本 茂  伍長 (小十四)

菊水四号作戦 第五次航空総攻撃

四月二十八日 誠 第百十九飛行隊 (「写真が語る特攻伝説」には二式双襲一機となっているので他の機種は不明)出撃方面 久米島西方
中村 潤  少尉 (幹八)
小森 興彦 少尉 (特操二)
木原 正喜 伍長 (小十三)
山沢 四郎 伍長 (小十三)

下記の写真は西村眞悟先生のホームページよりお借りいたしました。

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特攻隊員として苦悩したであろうが、先人のこの笑顔もまた事実である。

回天搭乗員と笑顔

回天搭乗員の笑顔

大空に散った笑顔

大空に散った笑顔

 

こんなアホな歴史家を大家と持ち上げるマスゴミ

アホらし

ドンチャン。
記憶あり。

アキちゃんはラーメンを食べに行くらしいが、お付き合いするその元気もなく、帰宅。
猿でもエビでもない