週刊新潮別冊・大山倍達のデタラメ
8月30日火曜日雨のち晴れ△
週刊新潮が六十周年記念として別冊をいくつか出している。
どれもが面白い読み物がいくつも掲載されているので、四百二十〜四百六十円という金額はお得だと思う。
例えば、「別冊週刊新潮 還暦 六十周年記念 創刊号復刻」には「岸首相の財産目録」「吉田茂回顧録 領土問題について」「不思議な憲法改正反対論」「ブラジルの子等天理に帰る」「池田大作狂的演説ビデオはこれだ」「慰安婦強制連行の嘘を認めない朝日新聞の偽善報道」などそれぞれ一つで雑誌を購入する価値がある記事が山盛りである。
しかし、「週刊新潮別冊・輝ける二十世紀探訪」に掲載されていた「妻子を残して山籠り 大山倍達が倒した牛と伝統空手」はいただけなかった。
その記事にはこうある。
<拓殖大学を経て早稲田大学に入学するも中退し、二十二歳の時、日本で終戦を迎えた。拓殖大学在学中に空手と出会っていた・・・>
p五十六
これは元朝鮮人・大山倍達の大嘘である。
<拓殖大学側が下した最終的な回答は次のようなものだった。
「卒業名簿には大山倍達の名前はありません。崔永宣、崔猛虎、大山猛虎、大山虎男などの登録もありません。
生徒名簿には本科、予科(旧制大学制度における本科に入る為の予備課程)、留学生を含め、入学した生徒はすべて記録されています。それは中途退学した生徒も同様です。
名簿に記載されていない以上、大山氏が拓殖大学に在籍していた事実はないと答えざるを得ません」>
「大山倍達正伝」p百十六
そして、清澄山の山籠りについても
<大山は道場を開くのに先立ち、空手家としての脱皮を目指して、千葉・安房郡の清澄山に修行に入る。昭和二十三年、甘い余韻が醒めやらぬ結婚直後に、妻を残し、山に篭ってしまう。>
p五十七
これも元朝鮮人の大山倍達の大嘘である。
以下、「大山倍達正伝」より
<改めて清澄山の山籠りについて考察する。
金致淳は「大山さんが山に籠ったのは、曺先生の勧めで山梨の山に入った時だけだったと思います。それ以後、大山さんが山に籠ったという話は曺先生からも聞いたことはありません」と言う。
KPI通信相談役で、当時の大山と交流があった千原徳士も「私が大山さんと知り合ったのは大山さんがアメリカに行く前ですが、大山さんの口から山に籠ったという話は聞いたことがありません。もし一九五〇年直前に清澄山に籠っていたというならば、大山さんがそのことを言わないはずないと思いますが・・・・・・」と語る。
元極真会館の重鎮である黒崎健時(黒崎格闘技スクール会長)は、大山の山籠りについて次のように言う。
「私が大山道場に入門したのは昭和二十八年(一九五三年)頃です。田園コロシアムでの牛との格闘の前の年だったと思いますが、私は大山先生と合宿という形で清澄山に入りました。私を含め数名の弟子が一緒でした。大山先生が言う清澄山の山籠りというのはこのことをさしているんじゃないでしょうか」
大山が田園コロシアムで牛との戦いを披露したのは一九五六年十一月十一日である。黒崎の記憶が正しいならば、大山が黒崎を伴って清澄山で合宿を行ったのは一九五五年ということになる。
この時の合宿に同行した人物として共田徳龍(在日本大韓体育会常任理事)がいる。一九八六年一月号の「月刊パワー空手」において共田は証言する。
「清澄山の修行に加えていただいたのはこの(注・大山と出会った)一ヶ月ほど後です。
中略)
大学(法政大学)を休んで参加したわけですが、先生のそばで一緒に稽古していたのが岩村(博文)さん(注・極真会館大阪道場責任者)と黒崎さんの二人でした。この人たちに出会った事も、十八歳の私には大きな衝撃でした」
略)
黒崎、共田が大山とともに行った清澄山の「山籠り」は映画「世界最強のカラテ キョクシン」の中でも紹介され、合宿時のスナップ写真も現存している。
略)
共田の語る稽古は、後に大山が著書などで紹介した清澄山での稽古と酷使している。
ところで、清澄山の山籠りの詳細について、後の「大山倍達伝説」に近い内容の逸話を大山が初めてメディアに語ったのは、黒崎たちと清澄山で合宿を行った翌一九五六年四月三十日付けの「東京毎夕新聞」においてである。
大山とスポーツ評論家・郡司信夫との対談が「神速果敢」という囲みのコラム欄に掲載されている。
前半部分では「初めて山に入ったのは昭和二十二年七月です」と年代に一年のずれがあるものの、前述した金致淳の証言とほぼ同様の事を大山は語っている。ただ、ここでは身延山が「天城山」となっている。
後半部分では、大山は清澄山の山籠りについて自らの思い出話を披露する。以下引用する。
「その後、どうせ空手をやるなら、日本一になってやろうと決心して、日蓮上人が悟りを開いた千葉県の清澄山に入ったんです。その時は、裾から二キロぐらい山の中に小屋を作りまして、八代という弟子と二人で入ったんです。
略)
山に入るときは丸坊主になって、髪と修行する競争をするつもりだったんですが、やはり町に行きたくて、どうしようもなかった。なにくそと思うんですが駄目なんです。そこで曺先生に苦痛を訴えたんです。その時の先生の返事が、「先天的天才はあり得ない。後天的努力によってのみ天才となり得るのだ。武道を究める者で酷寒炎暑、煩悩に耐えなかったものがあろうか!眉を剃れ!」と、切々たる文章で綴ってあったんです。それで、また心を奮い立たせて眉毛を片方ずつ剃って、町へ出られないようにしたんです。眉毛は伸びが遅いですからね・・・・。一日五時間ぐらい稽古をしたんです。そのうち、町の子供達が「天狗がいる」といって見に来ましたよ。清澄山には三年入っている予定でしたが、月々仕送りしてくれた小沢伝七郎氏が昭電事件で芦田均氏と一緒に入ってしまったので、生活費がなくなって、一年半で下ってしまいました」
略)
以上の経過から考えて、「大山倍達伝説」における清澄山の山籠りに関する逸話は、一九五五年の黒崎たちとの合宿の体験を翌年の「東京毎夕新聞」さらには「月刊空手道」の中で、「一九四八年から一年半(時には二年)に行った清澄山での山籠り」とすり替えて語られた「虚構の物語」が原点だと私達は推測する。
略)
「もし大山先生が戦後の一時期に清澄山に籠ったとするならば、それは山籠りではなく合宿のような短期のものだったのではないか」(黒崎健時談)
私達には黒崎の言葉こそが真実を突いているように思える。また、戦中、戦後の大山をよく知る鄭達鉉(元「韓国新聞」論説委員)が「時折、館山の山に籠って数日間、瞑想したりしていたようです」と語っていることからも、大山が暇を見つけては清澄山に限らず、近所の山などに数日間籠り、精神修養を行っていた可能性も否定出来ない。>
「大山倍達正伝」P四百八~四百十一
つまり、大山氏は身延山でも清澄山でも長期の山籠りはしていないのである。しているのは合宿であり、短期の精神修養的なものである。
あほらし
参照→大山倍達の嘘
河岸は台風の影響で入荷がめちゃ少ない。
鯖はなし
サンマにする
今日は酒は飲まず。
猿でもエビでもない。