最後の予科練
8月3日水曜日晴れ×
今日の産経新聞のネット上の記事です。
<2016.8.3 08:16
【戦後71年】
終戦直前、鳴門海峡での悲劇 米軍機の機銃掃射浴び亡くなった「住吉丸」予科練生82人悼む 兵庫・南あわじ
終戦間際の昭和20年8月2日、鳴門海峡で米軍機の機銃掃射で海軍予科練生など82人が犠牲となった「住吉丸」の72回忌慰霊法要が2日、兵庫県南あわじ市阿那賀の春日寺で営まれた。遺族や地元老人会ら約20人が参列した。
淡路島に砲台をつくるため、「宝塚海軍航空隊・甲種飛行予科練生」ら111人を乗せた民間の貨物船「住吉丸」は、徳島県・撫養(むや)から阿那賀に向かっていた。そこに襲来した米軍機が機銃掃射を浴びせ、14~19歳の予科練生76人を含む82人が亡くなった。炎上する住吉丸を住民が淡路島に曳航し、死者やけが人を春日寺まで運んだという。
昭和40年に阿那賀に82の墓碑、42年に「慈母観音像」が建立されて慈母観音会として毎年法要が行われている。しかし、高齢化などで参列者は年々減少。昨年は戦後70年の節目でもあり約50人が参列したが、今年は約20人だった。
当時14歳で機銃掃射の弾丸が頭部をかすめながら九死に一生を得た慈母観音会代表の大島正純さん(85)=西宮市=は「昨年は住吉丸に乗船していた戦友も3人いたが、今年は私だけ。参加者が減っても墓碑とお寺があり、地元の人が守ってくれると思う」と話していた。
空襲で亡くなった住吉丸船長の長男の濱田石一さん(81)=南あわじ市阿那賀=は「当時小学5年で防空壕から出たら住吉丸が攻撃されたと聞いてどうしていいかも分からなかった。戦争になれば、民間の貨物船も攻撃されてしまう。戦争だけはやっちゃいかん」と語った。>
http://www.sankei.com/west/news/160803/wst1608030023-n1.html
予科練だった親父の同期、上官が乗り組んでいました
最後の予科練、ドカレンとも言われた宝塚航空隊です
宝塚航空隊は教育隊であり、航空機はありませんでした
親父の上官だった杉本少佐八十二名が眠っておられる鎧崎桜ヶ丘英霊墓地にはご遺骨はございません。
それが淡路島の近代までの風習だからです。
埋葬されたご遺体と墓は別です。
埋葬されたご遺体をご遺族がお参りするのは埋葬後数年です。
やがてご遺体の埋葬場所もわからなくなります。
そもそも昔からある墓にはご遺骨を納めるスペースは作られていません。
遺族はご遺骨もない墓にお参りすることになるわけです。
火葬になった現在でも、新しく作られた〇〇家墓には小さなご遺骨を入れるスペースが作られていますが、そこに骨壷を入れることはございません。ご遺骨の一部を半紙に包んでポイとなげいれるだけですから何代もすれば誰のご遺骨かわからなくなると思います。
靖國神社にはご遺骨はございませんが、多くの皆様お参りされているのは、
そこに先人の魂があると思っていらっしゃるからだと思います。
私のいなかでご遺骨がないただの石を墓としてきたこと、
誰のご遺骨かわからなくなる墓をお参りすることに誰も不思議に思っていません。
それが私のいなかのやり方です。
私もそいうものだと思っています。
合掌
参照→御遺骨収集よりもまずするべきこと
https://www.tamanegiya.com/blog/2016/03/24/ikotusyuusyu/
暇なので早い時間からドンチャン。
記憶なし
猿以下