制服の誇り
5月7日土曜日晴れ△
先日、参加させていただいた西村眞悟先生のパーティーには自衛隊の制服でいらしていたM三佐と私は一番長く話しをさせていただいたことは先の日記に書いたが、M三佐はわざわざホテルで着替えてまで参加されていた。世界中どこの国でも、普通は軍人はこういった場には誇りある軍服で出席するものであるし、そして、軍人は誇りある軍服で街に出るものである。
我が国も早く普通の国になってほしいものであるとその時に書いた。
部屋にある古本(文藝春秋平成二十一年四月号)をパラパラめくっていたら、「海上自衛隊幹部学校」と題した故・神谷不二慶応大学名誉教授の文章があった。
神谷氏はそこに下記のように書いている。
<航空幕僚長の論文問題、ソマリア沖の海賊対策など、国政に関わる自衛隊の比重はますます増大の傾向にある。国民の自衛隊についての認知度も昔に比べて随分高くなった。
とはいえ、それはまだ十分というには程遠い。
略)
年輩の方はご記憶だろう。
自衛隊は発足後長い間、国民世論から甚だしく白眼視された。野党第一党の座を久しく占めた日本社会党が自衛隊違憲を放棄したのは、ようやく一九九四年村山内閣の時だった。五十四年の創設以来実に四十年後である。保守陣営においてさへ、自衛隊にとかく否定的な態度をとり、それを平和的信条の証であるかのごとく自賛する者が後を絶たなかった。
当時、大学や大学教授の多数派は、自衛隊への出講に強い拒絶反応を示した。私は、しかし、そういう時流に乗るのを潔しとせず、早くから講義を引き受けていた。とりわけ陸海両幹部学校へは長年連続出講した。
最も長期に渡ったのは海幹校で、関西から東京へ職を転じた翌年の一九七一年(昭和四十六年)から二〇〇七年(平成十九年)まで、三十七年に及んだ。これは、防衛庁(省)部外からの出講者としては目下最長の記録と聞く。
最初の頃はこんな場面もあった。講義の日、大学キャンパスまで迎えの車を頂く。その時、担当の教官は制服を私服に着替えてくると知った。そこで以下の問答。
「どうぞ制服のままお越しください」
「学生さんなどを刺激するのは避けるよう、学校町からも言われていますので」
「それは無用のご配慮です。
私は東大への出講も海幹校への出講も同等に、自分の責任でいたしておりますので」
制服自衛官の敬礼に目を見張る学生も、確かにいないではなかった。しかし、間も無く彼らは言った。
「先生、カッコいいですね」
数十年の縁の間に、私は海上自衛隊の諸活動をつぶさに知る機会に恵まれた。
略)
海幹校の卒業式にも毎年招かれた。ヘンデルのオラトリオ「ユダス・マカベウス」の一節「見よ、勝利の勇者は還る」の荘重な調べが流れ、満堂厳粛の気に包まれる。平成八年にはそこで来賓祝辞を述べる得難い時を持った。>
文藝春秋平成二十一年四月号p七九〜八〇
我が国も国を命をかけて守る軍人が普通に街を制服で歩き、その軍人が尊敬される普通の国に早くなってもらいたいものです。
その為には勲章は他国のように普通に軍人が与えられるようになってもらいたいものです。
ドンチャン。
記憶あり。
猿よりマシ。