チャーチルが讃えたマダガスカル島における先人の武勲と飯島政義氏
4月20日水曜日晴れ△
下記は昨年掲載された同じ歴史を取り上げた産経新聞と朝日新聞の二つの記事です。
<2015.3.21 07:06 産経新聞
チャーチル驚愕させた特殊潜航艇 山口で戦死者慰霊祭計画
真珠湾攻撃に加わった特殊潜航艇=広島県江田島市の海上自衛隊
日本から1万2千キロ離れたアフリカ大陸の東、マダガスカル島に英霊が眠っている。昭和17(1942)年、2隻の特殊潜航艇(特潜)に乗り込んだ士官ら4人が英戦艦「ラミリーズ」を大破させた後、戦死した。そのうちの秋枝三郎中佐は山口県下関市豊北町の出身だ。故郷の有志が今年7月、現地での慰霊祭を計画している。
16年12月の日米開戦後、東南アジアを制圧した日本は、インド洋から英海軍を駆逐する計画を立てていた。呼応してエジプト進攻を狙うドイツは、アフリカ東岸経由の英軍補給線を絶つよう日本に求めていた。
17年4月30日、仮装巡洋艦2隻と潜水艦5隻からなる攻撃隊がマレーシア・ペナン島を出港する。潜水艦には全長109・3メートル、乗員95人と、日本海軍が誇る伊16型潜水艦が含まれていた。伊16型潜水艦は、秘匿名称で「筒(つつ)」と呼ばれる特潜を搭載していた。
インド洋を越えた攻撃隊はアフリカ東岸で潜水艦搭載の航空機で索敵する。5月30日、ついにマダガスカル島北端のディエゴスワレス港に停泊中の敵艦を見つける。
午後5時30分、母潜水艦から特潜2隻が発進した。
特潜に乗り込んだのは秋枝三郎海軍中佐(25)=山口県下関市=と、竹本正巳少尉(29)=広島県竹原市と、岩瀬勝輔大尉(21)=香川県綾川町=と高田高三兵曹長(25)=福井県あわら市=の4人だった。
特攻兵器の回天と違い、特潜は攻撃後、母艦と合流することになっているが、航続距離が短いため、帰還できず、特潜と運命を共にする乗組員も多かった。まさに決死の覚悟での出撃だった。
港内奥深くに潜入した2艇は、計4発の魚雷を放つ。戦艦「ラミリーズ」が火柱を上げ大破、タンカー「ブリティッシュ・ロイヤルティー」も撃沈した。奇襲攻撃に英軍は混乱をきたし、湾内をくまなく爆雷し、周辺を捜索した。座礁した1隻と遺体を発見。さらに6月1日早朝、対岸で戦闘服姿の2人を発見した。
2人は英兵による投降勧告に応じず、銃撃戦となり、戦死した。秋枝中佐と竹本少尉とされる。
この攻撃は当時のチャーチル首相が戦後「第二次大戦回顧録」で、「驚天動地の大事件が起きた。五月二十九日、敵味方不明機が飛来、航空攻撃あるいは潜水艦攻撃の前兆と予想され、厳重な警戒が発令された。次の夕刻、ラミリーズとタンカーが雷撃を受けた」と記す。日本では宇垣纏(まとめ)連合艦隊参謀長が日記に「夕刻、『筒』二隻進発、二時間後火炎らしきもの認む。搭乗員収容の配備にありたるところ敵哨戒飛行機の妨害を受け、収容せるものなし」と書かれた。
だが、マダガスカルにおける秋枝中佐らの活躍は、歴史の陰に隠れた。同時期、オーストラリアのシドニー湾を攻撃した特潜搭乗員の勇気と愛国心がオーストラリア国民の心を打ち、戦時中にもかかわらず、戦没者の石碑が建立されたのとは対照的だった。
再び光があてられたのは、30年後の1972年になってからだった。マダガスカルに赴任した日本人の柔道講師が目撃者の証言から陸上で戦死した場所を特定した。その地には1976年、「日本海軍特殊潜航艇二勇士 一九四二年六月三日この地に戦死す」と書かれた慰霊碑が建立された。
平成4(1992)年には秋枝中佐の出身地である下関市豊北町阿川の阿川八幡宮に顕彰碑が建てられた。
「士道、義よりも大なるはなし。義は勇に因つて行ひ、勇は義に因つて長し」
秋枝中佐はこの吉田松陰の言葉を愛したという。
下関の赤間神宮禰宜(ねぎ)の青田國男氏は「松陰の言葉通り、国難に挺身(ていしん)された。祖国のためインド洋のかなたで亡くなった秋枝中佐のような方がいたことを誇りに思う」と語る。
青田氏ら地元有志は今年7月9日、現地での慰霊祭を計画している。慰霊祭の参列者と協賛を募っている。青田氏は「戦後70年の節目の年。日本人の記憶に留めるためにもできるだけ多くの方の参加協賛をお願いしたい」と語った。申し込み・問い合わせは赤間神宮の青田氏(電)083・231・4138、FAX083・234・1248。>
<朝日新聞デジタル
アフリカを攻撃した日本軍の潜航艇
2015年6月11日00時00分
■特派員リポート 三浦英之(ヨハネスブルク支局長)
第2次世界大戦中、日本海軍は遠く離れたアフリカ東部の島国マダガスカルを、特殊な潜水艦で攻撃した。終戦から70年。日本とアフリカとの間で起きた「戦争」の現場を訪ねた。
「忘れるわけないさ。町中が大騒ぎだったんだ」
東京から約1万1千キロ離れたマダガスカル北部の港湾都市アンツィラナナ(旧称ディエゴスアレス)。町の歴史館に勤めるカッサム・アリさん(83)は日本軍が攻めてきた日のことを克明に記憶していた。
「私は当時12歳。日本という東洋の島国が米国に戦争を仕掛けたことは知っていた。大人たちは『ついに日本がマダガスカルにも攻めてきた』と大混乱だった」
1940年代初頭、マダガスカルはフランスの植民地だった。第2次世界大戦が勃発し、フランスがドイツに占領されると、マダガスカルも親ドイツ政権の影響下に入った。
これに危機感を抱いたのが、英国だった。当時、日本海軍は真珠湾攻撃を成功させ、インド洋での覇権獲得に乗り出そうとしていた。万一、親ドイツ政権が日本軍にマダガスカルへの駐屯を許可してしまうと、西インド洋やアフリカ大陸が日本軍の攻撃にさらされてしまう恐れが出てくる。
英国海軍は42年5月、港湾都市ディエゴスアレスを攻略し、占領する。これを受けて、日本海軍はインド洋に展開していた潜水艦部隊をマダガスカル沖に派遣したのだ。
攻撃に使用されたのは、「特殊潜航艇」と呼ばれる2人乗りの小型潜水艇だった。全長約24メートル。通常は母艦となる潜水艦の「背中」に乗って移動し、戦域近くで潜水艦を離れ、標的に近づいて魚雷攻撃することを目的としていた。
マダガスカル沖には、それぞれ特殊潜航艇を積んだ3隻の潜水艦が集結。5月29日に潜水艦の搭載機を飛ばしてディエゴスアレス湾に敵艦が停泊しているのを確認すると、5月30日の日没後に特殊潜航艇で攻撃することを決めた。当初は3艇の特殊潜航艇で攻撃する予定だったが、1艇が潜水艦の故障で出撃できなくなったため、2艇が日没後に沖合からディエゴスアレス湾内に向けて発進した。
直後、特殊潜航艇を悲劇が襲う。湾内の偵察を続けていた搭載機が、実際には敵艦がいるにもかかわらず、「湾内に敵が見えない」と誤断し、その報告を受けた司令官が「特殊潜航艇に潜水艦に帰るように伝えよ」との命令を下したのだ。すでに出撃してしまっている特殊潜航艇と連絡をとることは難しかった。
当時、潜水艦に乗艦していた通信兵石川幸太郎さん(享年27)の艦内日誌が残されている。石川さんの死後、遺族らによって刊行された『潜水艦伊16号 通信兵の日誌』(草思社)の記録によると、潜水艦内では特殊潜航艇の出撃直後、期待と絶望が激しく交差していた。
《5月31日(筆者注:日誌内の時刻は日本時間)ディエゴスアレス湾を襲撃すべく、港外6海里(約11キロ)まで接近する。総員潜航配置に就く。司令塔が潜望鏡を上げて付近を捜索した後、(特殊潜水艇の乗組員の)2人に「よく見ておけ」と潜望鏡を交代する。艦長、航海長に「しっかりやれ」との激励の言葉を与えられ、2人は潜航艇に乗り込んでいった。午後11時27分、メインバンドを切断。水中聴音機により発進を確認。ああ、なんのためぞ。過去3カ月の訓練とはるばるアフリカまで来たこの苦労。今やっと報いられたようにホッとする。でもまだ早い。特殊潜航艇の回収という大作業とその戦果が知れないうちは、不安で仕方がない。
午前3時、自分はあとは書く気がしない。(司令官のいる)潜水艦から「港内飛行偵察の結果、敵在泊せず、特殊潜航艇、引き返せ」の電報が来たからである。今はもうすべてが水泡に帰した。口惜しいような不安な思いだ。特殊潜航艇との連絡は全然ない。引き返せの電も了解しない。搭乗員は今頃何をしているだろう。心配だ――》
出撃した2艇の特殊潜水艇はディエゴスアレス湾に侵入し、魚雷攻撃で英国海軍の戦艦「ラミリーズ」を大破させ、タンカー「ブリティッシュロイヤリティ」を撃沈。その後、1艇が湾外で座礁し、乗組員の2人は漁民に助けられながらマダガスカル島に上陸。母艦との合流地点である島北部に徒歩で向かったとみられている。
記者は漁船をチャーターし、特殊潜水艇が座礁したとみられる現場に向かった。湾口外の北方にある無人のノシスアレス島に上陸すると、外洋側の岸壁近くの波打ち際にさびた鉄の塊を見つけた。だが、それが座礁した日本海軍の特殊潜航艇かどうかは確認できなかった。
地元の漁民は「父親がこの浜で東洋人2人と出会い、食料を与えてマダガスカルの本島に運んだと聞いた」と話した。
2人の乗組員がたどり着いたとされる島北部のアンドラナボンダラニナ村にも取材に向かった。四輪駆動車で4時間ほどかけて到着すると、村の長老たちが当時の様子を記憶していた。
ジョウス・ドミニクさん(82)は「大人たちが英語もフランス語も話さない2人がいると大騒ぎしていた。彼らは仏語の『ジャポン』ではなく、『ジャパン』と言った。学校の校長が町まで通報しに行くと、英国軍が村に押し寄せてきたんだ」
2人は北部の荒野で英国軍に囲まれ、降伏するよう求められたが応じず、銃撃戦の末、殺害されたとみられている。
最古老ベジルさん(推定83)は「英国軍が2人を射殺したとき、村人が借り出されて2人を埋葬するよう指示された。私は怖く眠れなかった」。
一方、母艦となる潜水艦は島北部沖の集合地点で2艇の特殊潜航艇の帰りを待ち続けていた。石川さんの日誌には次のように記されている。
《6月1日 昨日に引き続き捜索。手掛かりなくむなしく過ごす。特殊潜水艇との連絡電波など一生懸命聴取するも感度なし。いまだに湾内に待敵しているのではあるまいか。
6月2日 浮上。引き続き捜索。司令官より午後11時半にて捜索を打ち切るゆえ、昼間も捜索するよう電報来る。乗組員よ、無事なれかしと祈る心はまさに切ない》
捜索は6月2日に打ち切られた。日誌を記した石川さんはその後、ソロモン海戦に参戦し、44年5月、潜水艦の撃沈により戦死している。
アンツィラナナの地元紙「ラ・トリビューン・ドゥ・ディエゴ」は昨年10月、旧日本軍の襲撃をテーマにした記事を写真付きで掲載していた。
フィリップ・ゼリオン編集長(43)は「今では多くの世代がアフリカで戦争があったという事実を忘れてしまっている。今、日本人を憎んでいる人はほとんどいない。ただ、歴史は歴史として語り継がなければいけないと思う」と話した。(アンツィラナナ=三浦英之)>
産経新聞と朝日新聞のほぼ同時期の記事であるが、ある意味書いた記者の人間性がよく出ている。
同じ特殊潜航艇に関する記事であるが記者によってこうも変わるものかと。
産経新聞社の記者は潜水艦名はもちろん散華された四名の先人の名前、出身地 年齢と記しているが、朝日新聞社の三浦英之記者は特殊潜航艇の乗組員氏名どころか潜水艦名すら掲載していない。そして、チャーチルが驚愕したという先人の勇気に敬意のかけらも見られない。
秋枝三郎中佐(二十五歳 海兵六十六期 山口県下関市)竹本正己特務少尉(二十九歳 広島県竹原市)
岩瀬勝輔大尉(二十一歳 海兵六九期 香川県綾歌郡山田村)高田高三兵曹長(二十五歳福井県あわら市)
このような醜い記事を書く三浦氏のツイッターによる同じ記事をネット上で読むことができる。そこには先の記事にない下記のようなことも付け加えられている。
<「第2次世界大戦中、日本軍はアフリカ東部の島国マダガスカルを潜水艦で攻撃した」三浦英之記者の呟き
略)
三浦英之(朝日新聞アフリカ特派員) @miura_hideyuki 2015-06-21 23:03:59
⑰未来を選ぶためにも、まずは歴史を知ることが大事だのだと思う。現地の地元紙は昨年、日本軍の攻撃をテーマにした記事を掲載した。編集長は「今、日本人を憎んでいる人はほとんどいない。ただ、歴史は歴史として語り継がなければいけないと思う」 pic.twitter.com/AHEK2T3sC8
三浦英之(朝日新聞アフリカ特派員) @miura_hideyuki 2015-06-21 23:10:55
⑱攻撃に使われた特殊潜航艇はそもそも海中での迎撃用に開発され、小回りがきかないため、湾内攻撃には不向きとされた。それを承知で軍上部は真珠湾攻撃のほか、マダガスカルやシドニーでの「奇襲作戦」に利用した。結果、誰一人帰らなかった pic.twitter.com/3AbpkN49Sd
三浦英之(朝日新聞アフリカ特派員) @miura_hideyuki 2015-06-21 23:13:47
⑲彼らが夢見た日本とはいかなる国だったか。私たちは今、先人たちの思いを踏みにじってはいないか。アフリカの地にいても、日本の「戦後」が問い掛けてくる(終) pic.twitter.com/hhC2ko3wIO>
当然、先人に対して敬意も何もないのは同じである。それだけでなく「結果、誰一人帰らなかった」と三浦氏は書くが、ご自分が取材して書いているように我が国の軍人として捕虜となるのを拒んだだけである。そして、特殊潜航艇による攻撃において負傷し捕虜となられた生還者はおられる。酒巻和男海軍少尉(海兵六十八期)である。
酒巻少尉に関しては他に記したのでここでは省略させていただく。
参照→酒巻和夫少尉
産経新聞が
「マダガスカルに赴任した日本人の柔道講師が目撃者の証言から陸上で戦死した場所を特定した。」
と書いた柔道講師とは飯島政義氏です。
手元にある「昭和の戦争記念館 第三巻 大東亜戦争の秘話」によると
<やはり潜水艦乗りで、アメリカ本土攻撃に加わった父(木下注 飯島氏は昭和十七年六月二十一日にオレゴン州アストリア市のフォート・スティーブンス陸軍基地へ砲撃を、そして、最初で最後の航空機による本土空襲となった九月九日、九月二十九日に藤田信雄飛曹長と奥田兵曹が操縦する零式小型水上偵察機による米本土爆撃をした伊二十五号潜水艦元乗組員飯島貞雄氏の次男)を持つ飯島氏は、昭和四十五年、フランスとマダガスカル両国共同留学生兼柔道講師としてマダガスカルに渡り、昭和四十七年、湾内に潜航艇が沈んでいるということを聞いたのを契機に調査に乗り出したのだった。当時の戦闘を目撃し、二人の遺骨埋葬を英軍に手伝わされたという人物を探し出し、自費での飯島氏は通訳や案内人を雇い、以上のような経過を調べたのである。しかし、三十年という年月に加え火山岩系の地盤のため埋葬地点は明確にできなかったものの、ほぼ間違いないとされる地点に小石を集めてケルンを作り、持参の線香と水を手向けて回向したのである。その後、その地の砂と小石を日本に持ち帰り、四勇士の遺族に届けている。
この調査が機縁となって、昭和五十一年、マダガスカルの日本大使館によって、「日本海軍特殊潜航艇二勇士一九四二年六月三日コノ地ニテ戦死ス 一九七六年十一月十日 日本大使館健立」と日仏両文で書かれた慰霊碑が建てられたのである。>
p九七〜九八
そして、同じく産経新聞が
<この攻撃は当時のチャーチル首相が戦後「第二次大戦回顧録」で、「驚天動地の大事件が起きた。五月二十九日、敵味方不明機が飛来、航空攻撃あるいは潜水艦攻撃の前兆と予想され、厳重な警戒が発令された。次の夕刻、ラミリーズとタンカーが雷撃を受けた」と記す。日本では宇垣纏(まとめ)連合艦隊参謀長が日記に「夕刻、『筒』二隻進発、二時間後火炎らしきもの認む。搭乗員収容の配備にありたるところ敵哨戒飛行機の妨害を受け、収容せるものなし」と書かれた。>
と記する箇所は「昭和の戦争記念館 第三巻 大東亜戦争の秘話」にこの我が国の英雄に対して毎日新聞がどのようなことをやったかが書かれています。
<昭和十七年五月三十一日、特殊潜航艇二隻が、マダガスカルの北端にあったディゴスワレズというイギリスの軍港を奇襲しました。その時は戦艦一隻大破、大型輸送船一隻撃沈という戦果をあげました。
ノーベル文学賞をもらった『第二次大戦回顧録』でチャーチルはその経過を詳しく書き、「二人の軍人は祖国のために献身し、類まれな功績をたてた」と特筆しています。
ところが、全二十四巻に及ぶこの大著を全訳した毎日新聞社は、チャーチルが讃えている計十四行分を削除しています。軍人を讃えたら軍国主義になると思って、自己検閲したのかもしれません。>
いかにも変態毎日新聞らしい先人への仕打ちです。
アホらし
「アジアに生きる大東亜戦争」ASEANセンター 展転社 昭和六十三年刊p二百七十八
「昭和の戦争記念館 第三巻 大東亜戦争の秘話」昭和の戦争記念館刊行会 展転社 平成十一年刊P九十六〜百
ドンチャン。
記憶えらいいい加減だが、猿よりマシ。
エビではない。
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