酒巻和男海軍少尉(海兵六十八期)
4月19日火曜日晴れ△
以下ウィキペディアより
<酒巻 和男(さかまき かずお、1918年(大正7年)11月8日 – 1999年(平成11年)11月29日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃において特殊潜航艇「甲標的」搭乗員として参加。艇が座礁し、最初の日本人捕虜となる。最終階級は海軍少尉
徳島県阿波郡林村(現・阿波市)出身。徳島県脇町中学校を経て1940年(昭和15年)8月7日に海軍兵学校を卒業(第68期生)。同期生に豊田穣、広尾彰がいる。
大東亜戦争では、日本海軍によるハワイ・オアフ島のアメリカ海軍太平洋艦隊基地に対する真珠湾攻撃に参戦。1941年(昭和16年)12月8日に特殊潜航艇「甲標的」搭乗員として湾内に奇襲攻撃を行なう。しかし、アメリカ海軍の駆逐艦「ヘルム」の攻撃や羅針儀の故障などにより「特潜」が座礁する。
その後、「特潜」の鹵獲を防ぐ為に時限爆弾を仕掛け、同乗していた稲垣清二等兵曹と共に脱出するが、漂流中に稲垣ともはぐれ(稲垣はその後行方不明)、自身酸欠による失神状態で海岸に漂着していた所をハワイ人兵士David Akuiに発見され、太平洋戦争での最初の日本人捕虜となる。
捕虜時代の酒巻. 両頬には米軍が取り調べの際に煙草の火を押し付けて拷問を加えた痕が見られる。
この時、真珠湾攻撃で使用された「特潜」は全部で5艇(乗員10名)であったが、酒巻以外は稲垣を含め全員戦死扱いとされ、大本営は戦死した9名を「九軍神」として発表した。当時、戦死者は英雄で捕虜は屈辱という価値観が喧伝されていたこともあり、アメリカ軍のラジオ放送から唯一捕虜となったことが分かった酒巻は、その存在を抹消された。
捕虜収容所では自決を願うも拒否され、また同じく自決しようとした日本人捕虜の説得にもあたり多くの日本人を救っている。通訳としても働き、捕虜としての態度が立派であったため、アメリカ軍関係者も彼を賞賛した。その後、ハワイの捕虜収容所からアメリカ本土の収容所に移され、終戦後の1946年(昭和21年)に復員を果たした。
復員後は同姓の酒巻家の婿養子となる。捕虜時代を共にした豊田穣は中日新聞の記者として酒巻の談話を発表。その記事が契機となりトヨタ自動車工業へ入社。輸出部次長など勤め1969年(昭和44年)に同社のブラジル現地法人である「トヨタ・ド・ブラジル」の社長に就任する。また同地にて日系商工会議所専務理事も兼任し、1987年(昭和62年)にトヨタ自動車を退職。1999年(平成11年)11月29日、愛知県豊田市で死去。81歳没。>
酒巻少尉について、自身もその後捕虜になる海軍兵学校六十八期の同期である作家の豊田穣氏は著書「続江田島教育」(人物往来社 昭和五十二年刊)に次のように書いている。
<私たちはその頃すでに酒巻が捕虜となっていることを知っていた。同じ海軍内であるから、どことなく匂ってくるのである。当時、私は海軍少尉で霞ヶ浦航空隊で操縦訓練を受けていたが、血の気の多い同期生の中には、
「酒巻の奴、自決してくれんかなあ。このまま生きていられては、クラスの恥だ」
と憤慨する者もいた。
帝国軍人は捕虜になる前に、自決するものだ、という考え方が当時の私たちを強く支配していた。しかし、私は心中密かに酒巻に同情していた。前線では弾丸を食らって人事不省となり、敵手に捕らわれることもあるであろう。昔の武士は舌を噛んで死ぬと言われるが、舌の先を噛み切ったぐらいで本当に死ぬことができるのであろうか。
酒巻と私は、同分隊でこそなかったが、兵学校四年間、支那語専攻であったので、毎週一回はすぐとなりの席で、「ニー・ハオ」などとやっていた仲である。
徳島市出身で明るくものにこだわらない人柄であった。だから捕らわれることを知って、今頃ハワイでどうしているのか・・・・と私は暗い気持ちでいた。
しかし、人間の運命は計り知れぬ。それからほぼ一年後の十八年四月、私はソロモン方面反攻のい号作戦に参加し、乗機を撃墜され、一週間南海を漂流した後、ニュージランドの哨戒艇に捕らえられ、米軍の捕虜収容所に送られた。如何しても自決することが出来ず、ガダルカナルの収容所に着いた時、私はひょっとしたら酒巻に会うかも知れぬ、と思った。
海に落ちてから一年後に、私はシカゴの北にあるウィスコンシン州のマッコイ収容所で、酒巻にあうことができた。私たちを乗せた列車がスパルタという駅に着くと、
「豊田はいるか?!」
と大声で叫んでいるのが酒巻であった。
その後、二人は収容所のキャンティーン(売店)で、配給の小瓶ビール一本で、クラス会を開いた。戦果の裏に隠れた寂しいクラス会であった。
その後二人は収容所内の当直将校として労苦を共にした。テキサスの収容所で敗戦を聞いたが、ここの収容所所長は、酒巻が真珠湾攻撃を行った時の警備隊長で、責任を問われて少佐から大尉に降等されていたので、酒巻を目の敵にして、彼は何度もアイスボックスと言われるサソリのいる独房に入れられた。私も軍国主義者とみなされ、サソリの独房に放り込まれた。
戦争は終わり、捕虜たちが最も恐れていた軍法会議もなく、私達は昭和二十一年一月三日神奈川県浦賀に復員した。酒巻は徳島県の川田という故郷に帰り、私は岐阜県の穂積という郷里に帰り、名古屋の中日新聞の社会部に勤めた。二十一年の年末に、社会部のデスクが私を呼んで言った。
「間もなく十二月八日の開戦記念日が来る。君は捕虜第一号の酒巻と親しいそうだが、一度徳島に行って、彼の戦闘記録を取材してくれないか」
私は承知して、満員の汽車に揺られて徳島に向かった。酒巻はすでに結婚していた。同じ名字の酒巻家に養子に行っていたのである。奥さんの父は、広島控訴院(今の高裁)判事、弟は広島一中の五年生の時、ともに原爆で跡形もなくやられた。そこで、生還した酒巻を養子に迎えたのである。
初めのうち酒巻は特殊潜航艇のことは中々話そうとしなかった。しかし、私はなんとかなだめすかして話を聞き、写真を撮り、サインをもらった。
十二月八日、中日新聞社会面全面を埋めて捕虜第一号の手記が署名入りで掲載された。私は社長賞をもらったが、酒巻からは抗議の手紙がきた。「新聞には出すな。と言ったはずである。クラスの信義を裏切るのか」という内容である。私は参った。確かに私はクラスメートを裏切ったのである。私は返事を書いた。
「貴様が多くの戦死者のことを考え、自分の手記なるものを麗々しく紙面に載せたくなかった気持ちはよくわかる。しかし、いつまでも貴様が沈黙していたら、貴重な真珠湾攻撃の実態が闇に葬られてしまう。だから、俺は、あえて友情を裏切って書いたのだ。これも国を愛する一つの道ではないか。そして戦死者に弔意を表す一つの道でもあると思う。どうか許してくれ。
酒巻は、それでこちらの心境を了解してくれた。やはりクラスメートである。
ところが彼との縁はまだ続く。この記事が出てから間もなく、名古屋の看護婦さんから電話が掛かって来た。
「私の伯父は愛知県拳母(現豊田市)の豊田自動織機(現トヨタ自動車)の人事部長をしています。戦争で生き残った根性のある復員兵を雇いたいと言っています。どうか、酒巻さんを伯父に紹介してください」
そこで私は酒巻に手紙を書いた。酒巻は大きなリックを背負ってやって来た。私の家に泊まり、豊田市に出かけた。間もなく彼の就職が決まった。酒巻が豊田に勤めるのも何かの因縁であろう。
英語の達者な彼は、人事課長、輸出部長と出世し、昭和四十五年、サンパウロのブラジル・トヨタの社長に転出した。
「こちらには旧海軍が大勢いる。一度遊びに来てくれ」
という手紙が再三来た。
四十七年秋、私は妻を連れてサンパウロ、サントスなど都を回った。彼は今やサンパウロの名士と成っていた。最近は「文藝春秋」誌上で小野田寛郎少尉と対談したりしている。さる七月中旬、法事のため酒巻が帰国したので、彼を囲んで旧捕虜たちが会を開いた。私は捕虜になっても、酒巻と私が江田島精神で深く結ばれているのを強く感じた。>
「続江田島教育」豊田穣著 人物往来社 昭和五十二年刊 p九三〜九六
下記はネットにあった広報阿波による酒巻氏への取材記事
広報阿波2014年8月号より
今日は仕込みが多く時間を取られる。
奥野のミカちゃんが旦那様と従兄弟の方と来店。
いろいろと懐かしい話で盛り上がる。
記憶あり。
猿でもエビでもない。
[…] 参照→酒巻和夫少尉 […]