戦後、朝鮮人がやっていたこと「田岡一雄自伝」「MPのジープから見た占領下の日本」より

3月10日木曜日雨△
下記は昨年サピオに書かれていたことだそうである。
この題名「ヤクザが台湾人襲撃から警察署守り山口組組長が一日消防署長に」からは台湾人の警察署襲撃から山口組組長が警察署を守ったことにより一日消防署長になったようにしか受け取れない。
書いたのは差別で飯を食っている辛淑玉から兄ちゃんと呼ばれている宮崎学である。

<ヤクザが台湾人襲撃から警察署守り山口組組長が一日消防署長に
2015.03.01 16:00

警察とヤクザ。世間的には対立するはずの両者はその実、戦後の長い期間ある程度の「共存関係」にあった。警察は自らの権力拡大のためにヤクザを利用してきたという裏面史を評論家の宮崎学氏が語る。
* * *
戦後、ヤクザは警察権力と密接につながり、持ちつ持たれつの関係を築いてきた。

とりわけGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)占領下の日本では、警察よりもヤクザの力が強かった。GHQにより武装が制限された警察は、戦後の混乱期に台頭した朝鮮人や台湾人などの武装勢力を抑えきれず、治安維持もヤクザに頼らざるを得なかったのだ。

典型的なのが「渋谷署事件」であろう。1946年、闇市の取り締まりに不満を抱いた在日台湾人を中心とするグループが渋谷署の襲撃を計画。

情報を察知した警察は「愚連隊の神様」と呼ばれた万年東一(まんねんとういち)氏率いる武装部隊に応援を要請し、これを迎え撃った。警察をヤクザが守るという、今日では到底信じられない事件は東京だけでなく、山口組の本拠・神戸でも見られた。

その後、朝鮮戦争を機に軍需物資の輸送に伴う港湾労働の重要性が増し、港湾を支配してきた山口組をはじめとするヤクザの勢力が拡大した。

山口組組長・田岡一雄氏は公的機関である「神戸港船内荷役調整協議会」の委員に選ばれ、1959年には神戸水上消防署の一日署長を務めたほどだ。

また、60年安保を巡って警察では手に負えないほど左翼勢力が勢いを増す中、当時の自民党政権は、ヤクザが左翼を封じ込める「反共抜刀隊」構想まで密かに練っていた。結果的には表面化しなかったが、それほど当時のヤクザは重用されていたのである。

この当時は警察官のヤクザへのタカリも常態化していた。

ヤクザの組長だった私の父のもとには、小遣いをタカリにくる警察官が後を絶たず、私の家にタダで寝泊まりする輩もいた。ヤクザが経営する飲み屋に頻繁に顔を出し、タダ酒をごちそうになる警察官もごまんといた。

1964年以降、組のトップを重点的に検挙する「頂上作戦」が3度にわたって仕掛けられたが、それでも根本的な掃討作戦にはつながらなかった。いくら山口組撲滅を掲げても、肝心の神戸では山口組が毎年の方針を打ち出す「事始め」に所轄の警察署長が列席していたのだから、それも当然の話である。そんな“なあなあの関係”が続いていたのだ。>

SAPIO2015年3月号
http://www.news-postseven.com/archives/20150301_301916.html

宮崎氏が書く「今日では到底信じられない事件は東京だけでなく、山口組の本拠・神戸でも見られた」とは、戦後、人間のクズである朝鮮人がやっていたことであり手元にある「田岡一雄自伝 電撃篇」(田岡一雄 一九七一年初版 徳間書店)に下記のように書かれている。

田岡一雄自伝IMG_7135

<その日のうちに神戸は修羅場と変貌した。
敗戦の報に茫然自失する市民とは対照的に、これまで過酷な労働で軍部から抑圧されてきた第三国人たちは欣喜雀躍とし、略奪、報復の火蓋をきったのである。
その日の午後七時。徒党を組んだ三国人は国鉄深川駅構内の貨車を襲って配給物資を強奪。これを皮切りに市内随所で襲撃略奪事件を起こし、婦女子を暴行し、わがもの顔に跳梁しはじめた。
終戦当時、国内には二百万以上の三国人がいたが、とくに兵庫に多く、昭和一八年に一三万五千人、四八都道府県の七%強を占め、大阪、東京につぐ三位という勢力をもっていた。
略)
三国人たちは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街をのし歩いた。
通りすがりの通行人の目つきが気に食わないといっては難くせをつけ半殺しにし、 無銭飲食をし、白昼の路上で見境なく集団で婦女子を暴行する。
善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。
彼ら不良三国人は旧日本軍の飛行服を好んで身につけていた。 袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って町をのし歩いた。

腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を引っさげ、略奪、暴行をほしいままにした。

警官が駆けつけてきても手も足も出ない。
「俺たちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人が何をいうか」
警官は小突き回され、サーベルはヘシ曲げられ、 街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。 >p一九〇~十九三

<昭和二〇年八月末、わたしは所用の帰途、女の悲鳴をきいた。人通りもすくない東山病院の裏手である。白熱の太陽がキナくさい焼跡に照りつけていた。
一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。
途中で四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。
「どないしたんや」
「おかあちゃんが、おかあちゃんが」
少女はわたしに泣きじゃくりながらしがみつく。
この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。
「ここにいるんやで。ええな」
私は少女をその場において一目散に走った。
少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。飛行服の、三国人の男たちだった。
彼らは不適な薄ら笑いで女の手足をおさえつけ、一人がその上に乗っている。女は狂ったように絶叫していた。
<汚ねえ・・・・>
うめくと、わたしは遮二無二彼らに突進していった。>p一九四

<昭和二一年二月、神戸生田署の岡政雄巡査部長が彼らに拉致されて暴行殺害され、同年四月、須磨署佐藤進巡査部長がやはり彼らの手によって射殺された。
そればかりではない、警察の威信を根底からくつがえす不祥事さえもちあがった。すなわち不良三国人三百余人は兵庫警察署を襲撃し、署長はじめ幹部署員たちを人質として電話指令交換室を占拠したのである。>p二一四

田岡氏の著書に出てくる「三国人」とははほとんどが朝鮮人です。
それは、下記のような箇所の記述からわかります。
<朝鮮人同盟からの果たし状だ>P二一二
<やはり三国人との抗争事件で丹波篠山へ朝鮮人征伐にでかけた>P二二六

つまり、在日朝鮮人の恥である辛淑玉から兄ちゃんと呼ばれる宮崎学が「今日では到底信じられない事件は東京だけでなく、山口組の本拠・神戸でも見られた。」と書く山口組が三国人より警察署を守った事件は台湾人ではなく、朝鮮人よりの襲撃で守ったのである。

宮崎氏は東京は台湾人が暴れたとのように書いているが朝鮮人は東京でも同じであった。
朝鮮人は戦後どのように振る舞ったか。

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<台湾人や朝鮮人などのいわゆる三国人は戦後、戦勝国民ということで、各地で統制品、禁制品を大っぴらに売買するなど、無法の限りを尽くしていた。昭和二十年の十二月には小石川の富坂警察署が約八十人の朝鮮人の暴徒に遊撃され、多数の負傷者を出すという事件があり、その横暴には目にあまるものがあった。上野駅では「コリアン・ポリス」などと腕章をつけた朝鮮人が、勝手に日本人の買い出しを取り締まり、運んでいた物を没収したり、勝手に切符を発行したりした。
また彼らは満員のバスに乗り込んできたりすると、「お前らは負けた奴らだ。席から立て」などと怒鳴り散らしたりして客を立たせることも多々あった。>
P三十七〜三十八
「MPのジープから見た占領下の日本」原田弘著 草思社  平成七年刊

著者の原田氏は戦後、警視庁から進駐米軍への協力というかたちで、英語のできる警察官が三十名ほど出向していた一人である。終戦直後、米軍関係者の治安を提当していた米軍MP(ミリタリー・ポリス=陸軍憲兵)のジープに同乗して、都内をパトロールし、日本人と米軍関係者のかかわる事件を間にたって通訳、調整するのが任務だった。

差別だ、差別だ、と騒いでいる朝鮮人がどのようなことをわが国で戦後やってきたか。一つの事例です。

ちなみに、田岡氏の著書に昭和二一年夏の山口組三代目襲名式には当時の自民党代議士・佃良一氏が出席(P二三二)と記されているが、自民党は昭和三〇年(一九五五年)に自由党と日本民主党が合併してできたものですから、昭和二一年当時は自民党がまだないので、自由党か日本民主党かの間違いでしょう。
ドンチャン。
記憶あり。
猿よりマシ。