我が国と南朝鮮の護国の英雄・金錫源将軍とその末路
金錫源将軍
2月15日月曜日晴れ◯
金錫源は明治四十二年生まれ、大韓帝国武官学校生徒として日本に留学。陸軍幼年学校に編入、陸軍士官学校(二十七期)卒業。創始改名せずに、日本陸軍大佐まで栄進。(ウィキペディアには日本名は金山錫源(かねやま しゃくげん)とあるが出処が不明)支那事変において大隊長(陸軍少佐)として山西省で、連隊の右翼を担当し全滅覚悟の激戦を指揮し白兵戦で支那軍を殲滅せしめました。
我が帝国陸軍大隊長として支那兵と交戦すること五十六回、常に日本刀を片手に、大隊の先頭に立って勇戦した。
昭和十二年八月四日の朝日新聞は
「見よ、皇軍のこの士気を
半島の勇士
抜刀・敵陣の中央突破」
という見出しをつけて、大活躍の模様を詳しく書き、
「堅固な要塞を誇る行高城奪取に偉大な勲功を立てた朝鮮半島出身の金大隊長のこの殊勲は、二千万半島同胞の為万丈の気焔を吐き、いたく将兵を観劇させている」
と結んでいる。
この勲功によって、朝鮮人としては最初にこの勇戦に対して金鵄勲章功三級を賜っている。
金鵄勲章は軍人として最も名誉ある賞であり、功労ある佐官、尉官の最高位の功級である金鵄勲章の功三級授与は陸軍少佐では異例のことであった。
日本帝国陸軍を指揮し、朝鮮としては開国以来宗主国として仰いできた支那兵を散々破ったあのであるから、当時の朝鮮の人々は熱狂した。
三・一独立宣言の起草者である崔南善は、金少佐を称える軍歌(作曲李鏡泰)を作り、「銃後の愛國歌謡大会」(毎日申報社主催)を昭和十二年九月三十日に京城府民館で開いた。
歌謡大会は、愛国心高揚を盛り込んだもので、日本の歌も披露されましたが、崔南善(三・一独立宣言書を起草した)と金億二人の作詞した歌謡も発表されました。「金少佐を思う」「従軍看護婦の歌」「正義の師に」「銃後の義勇」「防護団歌」「長城の守り」「正義の凱歌」
昭和十五年三月、龍山の第七十八聯隊に凱旋した金中佐は、「大東亜戦争共栄圏の為の聖戦を、いかに戦ったか」と題する講演を、朝鮮半島各地で行った。講演はどこでも朝鮮語を使い、満員の盛況であった。その他にも彼は日本の軍隊に志願した朝鮮兵の訓練所に出かけては精神訓話を行った。常に彼は「軍隊なくして独立はできない」ことを訴え、民族意識をかき立てた。
軍歴(以下ウィキペディアより)
1909年9月 陸軍幼年学校編入
1913年5月 陸軍幼年学校卒業
1915年5月 陸軍士官学校卒業
1915年12月 少尉任官、歩兵第61連隊付
1918年 歩兵第78連隊付
1919年4月 中尉に昇進
1925年8月 大尉に昇進
1927年7月 歩兵第78連隊中隊長
1932年5月 歩兵第78連隊付
1934年3月 少佐に昇進
1936年8月 歩兵第78連隊大隊長
1939年3月 中佐に昇進、歩兵第78連隊補充隊付
1939年12月 歩兵第41連隊補充隊付
1941年3月 独立混成第16旅団司令部付
1943年8月 平壌兵事部課長
1944年8月 大佐に昇進
1945年9月 予備役編入
1948年 韓国陸軍入隊、任大佐(軍番12444番)
1949年1月 第1旅団長
1949年4月 准将に昇進
1949年5月 師団に昇格し第1師団長
1949年10月 予備役編入
1950年7月 現役に復帰し首都師団長
1950年8月 第3師団長
1950年9月 戦時特命検閲部長
1951年 陸軍本部付
1956年6月 少将で予備役編入
金錫源には三人の子息があった。戦死した金泳秀(長男「日韓共鳴二千年史」とウィキペディア、次男「世界に開かれた昭和の戦争記念館」「親日アジア街道を行く」には書いてあるが、「親日アジア街道を行く」の著者井上和彦氏は参考文献として「世界に開かれた昭和の戦争記念館」と「日韓共鳴二千年史」の両方をあげているので、次男が正しのか?)は日本帝国陸軍士官学校に合格(五七期)し、軍人となる。のちの大韓民国大統領の朴正煕とは同期であった。
金泳秀は少尉に任官すると、実父が英雄であり高級将校の為、第一線に出されないと見られることを潔しとせず、船舶兵科に転じた。フィリピンでは陸軍船舶特別攻撃隊を志願し、四式肉迫攻撃艇(通称〇の中に「レ」か「れ」を書いたマルレ、マルレ艇)の中隊長として赴任していた。
海軍の震洋と違って陸軍のマルレは特攻兵器として開発されたものではないが、大東亜戦争末期は特攻兵器として使用されている。
震洋と同じく一度攻撃後は米軍による警戒が厳しくなり、徹底的に基地を破壊されるため、出撃が困難になることが多々あった。金泳秀少尉が赴任したフィリピンも同様であり、マルレが破壊されたため、ルソン島各地を転戦することとなる。
バタンガス州アレブンヨ高地を攻撃中の昭和二十年四月十六日、壮烈な戦死を遂げる。
戦死後日本帝国陸軍大尉
戦後は朝鮮に帰国し、韓国軍創設時に乞われて第一師団長に就任。親日狩りが横行し、准将にての就任。ときの李承晩大統領に対しても面前で直言してやまないために、予備役に廻されました。
予備役になった時に、北朝鮮の侵攻を予知して「目標三十八度線」を唱えて、大田で青年有志を集めて義勇軍を組織。
昭和二十五年六月二十五日北朝鮮軍の侵略により、首都ソウルを守る第一師団長として再び現役復帰させられる。その時の参謀長は元日本陸軍少尉(後の駐日大使)崔慶禄(sai.html)大佐です。
勇将金錫源准将の元には元日本兵である韓国人が我先に全国から集結しました。
金錫源准将は「日本刀は武人の魂」として、軍刀を手放さなかった。
そして、米軍軍事顧問団の制止も聞かず、日本刀を振りかざし最前線で陣頭指揮を取り続けたそうですが、一九五〇年八月十七日に、この時には第三師団の指揮を取っていた金将軍もついに浦項よりの撤退の事態に追い込まれました。
米軍の艦砲射撃による援護の中、将兵が用意された四隻のLSTに乗り込んで次々と脱出していくが、一隻のLSTだけが離岸しようとしない。
最後の一兵を収容するまで動こうとしない金将軍の乗船を待っていたのです。
無事撤収を終え、その最後のLSTに乗り込んだ金将軍を驚かせたであろうのは、アメリカ海軍のLSTの乗組員は、かっての戦友である旧日本帝国海軍将兵であったことでしょう。朝鮮戦争に参戦したのは、掃海艇だけではなかったのです。
そして、金錫源将軍は上陸を前にこれまで作戦指導中に片時も放さなかった日本刀を副官の南少尉に手渡したそうです。
(「最後の日本刀」『丸』五九六号潮書房)私は「親日アジア街道を行く」p二〇七より
戦死を遂げられたご子息である金泳秀日本陸軍大尉(陸士五七期)は靖國神社に祀られているが、昭和五十五年に旧日本陸軍将校の会である偕行社の総会に金将軍は招かれた。
金将軍は息子金泳秀の祀られている靖國神社に参拝したのち総会に出席した。その時金将軍は
「自分の長男は戦争に参加して戦死した。それは軍人として本望である。本人も満足しているであろう」
と挨拶されたそうです。(古野直也氏の証言)「日韓共鳴二千年史」p四四五
「自分の息子は戦死した。それは軍人として本望である。本人も満足しているであろう」「世界に開かれた昭和の戦争記念館」p一三八
それを聞いて、並み居る旧軍人たちは、金将軍の中に「軍人精神の神髄」を見たのである。
金錫源にとって、息子の金泳秀の戦死は何ものにも代え難い悲しみであった。
健在であったら、国軍のことは金泳秀に譲って、自分は、元々青年に民族精神を育てたいと思っていた。そのために日本時代に既に学校を作っていた。
我国の敗戦後は、その「城南中高等学校」理事長兼校長として教育に励んだ。
昭和四十二年十月に名越二荒之助氏が我国の学生七名と城南中高等学校を訪ねた時のことを下記のように書いています。。
教育方針は、忠武侯・李舜臣の精神継承と、新羅時代の荘郎(武道)精神の復活にあった。銃剣道を正課としたスパルタ教育をもって知られる私学の雄で、生徒数も二千五百。ブラスバンド部が当時我国の歌謡曲を歌うことが禁じられていたが、「荒城の月」その他日本の歌曲を堂々と演奏して出迎えてくれた。
校内見学が終わると、金錫源理事長を中心に教職員が集まり、我々は歓待された。我々は遠慮なく韓国の独立心を讃え、反日ぶりを批判した。教職員との間に応酬はあったが、当時七十五歳の金理事長は一言も語らず、終始温顔に笑みを浮かべるだけであった。そこには「猛将」の面影はなく、温情溢れる慈父の姿が印象に残っている。
後で、韓国人に聞けば「韓国で最も尊敬されている国民的英雄」とか「韓国の西郷隆盛」とかの評を聞きました。この場合の西郷隆盛は、いわゆる「征韓論」に代表される西郷ではありません。国民的人気が高く、精魂を教育に傾けられている将軍の姿に、西郷の創った私学校をダブらせているようでした。
名越氏が描かれているその「韓国で最も尊敬されている国民的英雄」は死後どのように扱われたか。
「城南中高等学校」にあったその金錫源将軍の銅像は、あの「親日辞典」に金錫源将軍の名前が掲載されたのちの平成十五年に引き倒され撤去されたそうです。
唯一の救いは金将軍のお亡くなりになった後だったことでしょうか。
しかし、泉下の金将軍も今の朝鮮の状態を見てさぞかしお嘆きのことでしょう。
金将軍は我が国の護国の英雄でもあるが、
同時に朝鮮に取っても護国の偉大なる英雄である。
その英雄をこのように扱う国、民族とは我が国はどのように付き合えばいいのか。
おのずと答えは出てくる。
知れば知るほど嫌になる我が国の寄生虫・朝鮮人!
さっさと断交希望!
以上引用、参考引用文献
「親日アジア街道を行く」井上和彦著 扶桑社 p二〇六〜二〇七
「日韓共鳴二千年史」名越二荒之助編著 明成社p四四二〜四四五
「世界に開かれた昭和の戦争記念館 第五巻 すべての戦歿者に捧げる」展転社 平成十四年刊P一三六〜一三八
今日は酒は飲まず。
猿でもエビでもない。
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