割腹の理由 支那人の民族性 追記再掲

10月17日土曜日晴れ△
「飛行二万五千時間」これは、高山正之氏による元全日空機長であった故・森和人氏の半生記です。
高山氏の週刊新潮に掲載されているコラムで森氏の事が度々引用されていましたので、どうしても読んでみたかった本の一冊でした。

私は過去に日記で、「正論」に掲載された支那のプロバガンダについての松尾一郎氏による論文と高山氏のコラムよりの引用として、支那において我が国パイロットがどのように扱われたかを書きました。
その高山氏が著書にあった故・森和人氏の証言として書かれている我が国パイロットに対しての支那人の扱いです。
 

以下引用
<山口(注 中華航空北京支所操縦士)は石家荘に置かれた軍の基地に一ヶ月配属され、主として山東半島などの連絡飛行に飛び回っていた。
略)
「森、お前も知っておいていいだろう」
そう山口はいった。
和人が上海に赴任する少し前、華北で乗機エンジン故障を無線連絡したのを最後に、消息を絶っていた北京支所所属のS操縦士についての話だった。
「軍部から本社に入った連絡で生存が確認されたんだ」
「・・・・・」
山口の表情でよかったですねと言うべきかどうか迷っている和人を無視して山口は続けた。それは生存というにはあまりにも惨い状態だった。
Sは予想された通り、石家荘付近で発動機故障のため不時着後、抗日ゲリラに捕まっていた。
飛行機の乗員に対する処置は決まっている。からだひとつがやっと入る木箱に押し込められる。木箱の前面は鉄の格子がはめられ、それは一見して、動物の檻であった。動物でない証拠に、「東洋鬼」と書かれた木札が釘で打ち付けられ、町から村に、見世物にされ引き回されているのだ、という。
「日本人は舌を噛んで死ぬ」と大陸では信じられている。事実、手足を曲げたまま身動きも出来ないつらさから舌を噛む東洋鬼もいたらしい。だから捕虜にされると同時に、その場で歯を全部抜かれてしまう。
時に脱走しないように、手も足も切断してしまうこともあるという。
「Sも」と、同期委托生だった一人がポツリと小声でつけ加えた。
「歯は全部抜かれている。そしてもう操縦出来ないようにと、指も落とされていたそうだ」
飛行機にトラブルはつきものである。中でもエンジン不調は日常茶飯事とはいわないまでも、和人自身、八尾からこっち、何回か体験している。ほっておいて自然になおることもあるし、ダメな時もある。
「エンジンが停まったら操縦席から見下ろせる範囲内に不時着地点を見つけよ」と岐阜弁の教官が何度も言っていた。「離陸直後でも飛行場に引き返そうと思うな」とも。
あとは不時着の技術にかかる。いってみればパイロットのハシカか、感覚的には不時着陸は事故にも入らないかも知れない。
が、この地ではその感覚は通用しない。日本軍の勢力範囲の飛行場から一歩飛び出せばあとはゲリラの海の上を飛ぶ事になる。不時着は即、死につながりかねないというのである。
「森。お前も憶えておいた方がいい。不時着はするなよ。どんなことがあっても飛行場に帰ることを心がけるんだな」
「満航のT操縦士も」と泰天から飛んで来たばかりのもう一人の先輩が口をはさんだ。
「霧で帰路を失った。降りてみたらソ連領ですぐ捕虜だ。民間航空のパイロットだなんていっても通用しないんだ。肩腕を付け根から切り落とされて、あの荒原に放り出され、すんでのところで救出されたんだ」
ソ連国境ではノモンハン事件が起きた。停戦協定が何とか成立したとはいえ、国境付近はまだ生きた戦場のままなのである。
「それでも生還できたり、Sのように生きている事が確認されたのはまだマシな方だ。エンジン故障を無線で連絡して来て行方不明というのも何件かある。共産ゲリラ地帯だったら、まず全員処刑されているハズだ」

処刑の方法は残虐を極める。地面に首まで埋められ、耳と鼻は削ぎ落とし、目と目に針金が通して・・・・・
「まあ、民間だから、なんて思ってたら、とんだ了見違いだってことだな」
「東洋鬼」の箱詰めの事は広東に近い海軍航空隊基地に寄った時にも聞かされた。
丁度一年前のバイアス湾、広東攻略作戦の時だったという。海軍は最新鋭の九七式艦上攻撃機を香港の北、三荘島の基地から四十数回も出撃させていた。固定脚ながら操縦性は抜群、機速も勝っていて、真珠湾攻撃にも参加する程の名機だった。

広東周辺には百五十門の高射砲と二十ミリの対空砲網が待ち構えていたが、操縦士たちが恐れていたのは艦攻の初期型に積んでいたエンジンだった。かなりの確立でトラブルが起き、とまってしまう。不時着する。待ち構えていたようにゲリラが現れて、箱詰めにする。見せしめの後は処刑と聞かされていた。
「広東に通じる鉄橋の爆撃に行った時、仲間のNが帰投途中、エンストを起こした。翼を振って滑空しながら広東方面に戻っていく。しかし、目の下は陽に輝く青々とした田んぼ。それが何処までも続く農村地帯だ。対空砲火が唸っているところじゃあないと人間、死ぬ気になれないらしいんだな。降下角が甘くなっていって見えなくなった」
其の後、半月ほどしてNがやっぱり捕まって、箱詰めにされて鉄道で広東に運ばれるという情報が入った。買収した現地人からの連絡だった。
「鉄橋攻撃の時と同じ部隊が全員で出撃したよ。列車を爆撃しにね。両脚を切られ、歯を抜かれ、身動き出来ない箱に詰められているよりは、彼もその方が喜んでくれると思って・・・
直撃弾を食って転覆して水蒸気を吐き続ける列車に何度もピッケをかけ、機銃弾にいたるまで全弾打ち込んで来たと、応召中の海軍委託十四期生の後藤安二は話していた。>
引用終わり
「飛行25000時間」(高山正之 文藝春秋 昭和五十八年刊)P四十三~四十六

私は平成十九年九月十一日の日記において、「正論」に掲載されていた松尾一郎氏の支那のプロバガンダについての論文を引用した高山氏のコラムを自分なりに引用させていただき支那人について書きました。
内容は、松尾氏の論文中にアメリカの写真雑誌「ライフ」一九三七年九月号に、南京爆撃を行った後に、被弾あるいは故障による日本機が田んぼに突っ込んだ後に、操縦士が鉢巻きをして割腹した写真が掲載されていたそうです。その写真に記事には「いかにも日本の武士らしい最後」と書かれてあったそうです。
この写真の操縦士が割腹した理由として、高山正之氏が週刊新潮の「変見自在」というコラムの平成一九年六月七日号に日本最長飛行時間記録を持つ故・森和人全日空機長の体験談を書いていました。

下記に高山氏の週刊新潮のコラムを引用掲載させていただきますが、細かいところの相違は少しありますが、ほぼ同じです。

<残忍な民との付き合い方
米誌『TIME』を立ち上げたヘンリー・ルースは宣教師の息子として中国の青島(チンタオ)に生まれ、十四歳までその地で育った。それで中国に強烈なノスタルジーと愛着を持ち、日本との間にトラブルが起きると、ひたすら蒋介石の肩を持った。
通例一人一回の『TIME』の表紙に蒋を四回も載せ、さらに西安事件の起きた年に創刊した写真誌『LIFE』の表紙には妻、宋美齢を取り上げている。

この写真誌の創刊翌年には盧溝橋事件に端を発した支那事変が始まる。同誌は親中国路線で事変の写真報道を派手に続けた。
その一つが雑誌「正論」〇六年六月号に載っていた。
南京爆撃のあと被弾、あるいはエンジントラブルで田んぼに不時着した日本の戦闘機の操縦士が割腹して果てている組み写真だ。

この記事と写真を見て二つの話を思い出した。
一つは米国の軍事評論家フレッチャー・プラットの論評だ。
彼は「日本人は性能のいい飛行機をつくる事も出来なければ、それを巧みに操縦することもできない」と分析した。
その理由は「日本人はたいてい近眼であるうえに、人種的に内耳に欠陥がある。これが彼らのバランス感覚を失わせている」こと。
加えて「武士道および個人の命を無価値とする日本人の掟にある。飛行機がきりもみ降下をしたり、他の面倒なことに巻き込まれたりすると、彼らは胸元で腕組をして日本の栄光のために嬉々として死んで行く」ことだと。
南京郊外のケースはまさに彼の論評の生きた症例ということになる。
人種偏見に満ちた米国人はそれで納得したらしいが、それでは割腹の説明にはならない。
もう一つが日本の最長飛行時間を持つ故・森和人全日空機長の体験談だ。
森さんは戦前、中華航空の乗員として上海・大場鎮飛行場に赴任したが、のっけに聞かされたのが石家荘付近で不時着し、そのまま行方不明だった先輩操縦士の救出ニュースだった。
生還は喜ばしい知らせだったが、ただ操縦士は歯を抜かれ、両手の指も全て切断され、ほとんど廃人状態だった、と。

「それが蒋介石派の匪賊の手口で、歯を抜くのは日本人が舌を噛んで自殺するから。指は抵抗したり逃げたりしないように切り落とすと聞かされた」

しかし共産ゲリラはもっと残酷だった。

姉妹航空会社の満州航空乗員がエンジン故障で不時着した。
救援隊が現場に着くと操縦士は首まで地面に埋められて耳と鼻は削がれ、両の眼に針金が通されていた。「絶命していたのが救いだったとみんなは話していた」
因みに彼らは針金を良く使う。支那事変で日本軍が働くきっかけとなった通州事件にも登場する。

この事件は中国人保安隊が日本人居留民220人を虐殺したものだが、特に旭食堂は酸鼻を極めた。

男は両目をえぐられ、女性5人は強姦されたうえ陰部に銃剣を突きたてられて殺害されていた。
旅館金水楼では19人の宿泊客が殺され、女中4人が一晩中暴行されたあと、鼻や喉を針金で突き通してつながれ、空き地に引き出されて処刑された。

話を戻して。不時着した民間機の乗員でもこのありさまだから、まして戦闘機乗りは「敵の砲火より(不時着の原因になる)エンジン故障が怖かった」と広東攻略戦に97式艦上攻撃機で参加した日航の後藤安二氏は語っていた。
「爆撃を終えて三荘島の基地に戻るとき僚機のプロペラが止まった。彼は眼下に広がる水田に突っ込むと合図して編隊を離れた」が、そんなのどかな景色の中で人はそう簡単には死ねない。
「半年ほどして彼が不時着して捕まった、そして指を切られ、歯を抜かれ、鉄格子のはまった小さな木箱に押し込められ、広東に鉄道で護送されるという情報があった。部隊が出撃してその列車を爆撃した。彼の死に勝る苦痛を終わらせてやるためだった」

日清戦争のおり、山縣有朋も「敵国は極めて残忍の性を有す。生擒となるよりむしろ潔く一死を遂ぐべし」と訓示している。
南京で不時着した操縦士はだから腹を切った。

先人の思いを踏まえれば、どういう風に付き合うべき民族か自ずと分かってくる。>
(週刊新潮コラム『変見自在』高山正行 二〇〇七年六月七日号掲載)

高山氏のコラムの題名となっていた「残忍な民との付き合い方」というものは現在も通用するものであると思います。

「凌遅」という言葉を多くの方はご存知だと思います。

支那人の考え出したもっとも残酷かつ非人道的刑罰の一つです。
興味のある方はネットで検索されてください。

下記の写真は自己責任でご覧ください。
下記のような写真も出てきますので、少なくとも近代まで行われていたものです。

 

 

 

death2 のコピー death1 のコピー
akukei2 のコピー akukei1 のコピー

 

Bpw6Q8BCQAEk4AS のコピー

そして、現在進行形として、支那人が、天安門で何をやったか。チベット、東トルキスタンなどでどのような事をやっているか。また、自国民に対しても法輪功の人々にどのような事をやっているか。
我々は支那人とはこのような民族である事を忘れてはならないと思います。

 

今日は昨日の反動か暇。
一名様来店。
Oさん来店。

福島で「酒たまねぎや飲んべえの会」を開くことに決定。
営業終了後、「アンブラ」さん「オブデュモンド」さんとハシゴ。
猿よりマシ。