「国を滅ぼす」って、何か悪いことなの(笑)
「国を滅ぼす」って、何か悪いことなの(笑)
9月3日木曜日雨◯
「国を滅ぼす」って、何か悪いことなの(笑)
これは、北村小夜という元教師が著書に書いていることである。
以下引用
<天野恵一
長尾誠夫という、作家で教員とかいうらしい人物が、「諸君!」の七月号(木下注一九九九年)に「『日の丸・君が代』反対論者たちの本音」っていう文章を書いています。えらくずさんんな話なんですが、そこで「日の丸・君が代」反対論は「国を滅ぼそうとする」日本共産党をはじめとするアカの謀略なんだ、として、そういう人物の一人として岡本達夫さんの名前も挙がってるんです。
北村小夜
「国を滅ぼす」って、何か悪いことなの(笑)。岡本さんはそんな言葉使ってないけど。>
P六十
<北村 やむを得ず持っているけど、パスポートの菊の紋なんて不愉快ですよ。ここに生きて働いて、心ならずも我が国に「貢献」はしてきたが、守られた覚えはありません。むしろ国による不自由(人権侵害)はしばしばです。
私が中国にいる時に、湾岸戦争が始まりました。だから余計感じたのかもしれないけれど、日本の短波放送で、在留邦人だけを助けなければいけないって、繰り返し繰り返し言っているのを聞いて、変だと思ったのよね。どうして日本人だけを助けなければいけないのか。その時「朝日歌壇」に「国境は誰が為なりや 宛先に日本国と書きつつ思う」というのが載ったんだけど、要するに国境があるからそういうことになってしまう。国がある以上、戦争が始まったら、そこでその成り行きに任せるしかない、ということがあるわけじゃあない。日本が怨まれるようなことをしていれば、そこにいる日本人の一人として仕返しを受けるのは当然で、外にいても日本に守ってもらおうなんて考えるべきではないと思いますよ。>
P六十一〜六十二
<北村 それで、「君が代」はダメだけど、「日の丸」はいいみたいな話だって、とんでもないですよね。さっきも言ったけど、「日の丸」だって、ただ戦争の時、日本軍が掲げていたという話じゃあなくて、それによって人々を戦争に動員していったわけだし、そもそも「日章旗」というのは天照大神の印なんだから。>
P六十二〜六十三
(「日の丸・君が代」が人を殺す)北村小夜・天野恵一 社会評論社 一九九九年刊
では、この天野氏がいう「諸君!」で書いている当時公立高校教論であった長尾誠夫氏の論文はどのようなものか。
手元にある「諸君」より引用いたします。
正確には「『日の丸・君が代』だんご三兄弟が教える反対論者たちの本音」という題です。
<略)
彼らは言う 「日の丸・君が代」は法律で定められた国旗国歌でなく、かっては軍国主義や侵略、抑圧の象徴であった。「君が代」は天皇を神格化するものであり、主権在民の現憲法にふさわしくない。したがって、学校で「日の丸・君が代」を強制するのは、憲法で保障された思想信条、良心の自由に反する、と。
もはや耳にタコができるほど聞かされた理屈だが、これらは偏狭な左翼イデオロギーに過ぎない。
彼らの論旨は三つに大別できる。
一)「日の丸・君が代」の法的根拠。(当時)
二)「日の丸・君が代」が象徴するものの問題。
三)学校現場における強制の是非、である。
それぞれについて簡単に述べておこう。
一)略)
二)について、「日の丸」がかって軍国主義や侵略、抑圧の象徴とされたことは事実である。しかし、ナチスの鉤十字と違って特定の思想を象徴するものではない。古くは大宝律令の表記に見られ、江戸時代には大型商船の識別用に使用されたことが確認されており、「日の丸」=軍国主義の象徴と短絡的に結びつけることはできない。
そもそも、戦争の歴史を持たない国家はない。「日の丸」国家を表すのなら、戦争という暗部が含まれるのは当然である。忌まわしい過去があるからといって国旗を否定するのではなく、歴史の明暗を全てを伝えた上で、自国を愛し、誇りを持たせ、より良い社会の形成者となるよう導くのが本当の教育であろう。
また、「君が代」は天皇賛美の歌なので学校現場に相応しくない、という意見はしばしば耳にする。確かに「君が代」の君は天皇の意であり、明治以降、天皇制維持のために利用されたことは否定しない。しかし、日本国憲法が天皇を日本の象徴(抽象的概念を具現化したもの)であると規定しているのならば、天皇=日本となり、日本の繁栄を願う歌と解釈できるであろう。
それでも異論が多いのなら、原義に立ち返れば良い。「君が代」の出典は「古今和歌集」巻第七賀哥の最初にある「読人しらず」の哥である。「君が代」の君は対者の意であり、相手の長寿を祝う歌として古くから民衆の間で親しまれてきたという。君を相手=国民全てだと規定すれば、国民の長寿や繁栄を願う歌となり、そのまま主権在民の現憲法にふさわしものとなろう。
三)について 「日の丸・君が代」が思想信条の自由に反するという意見は根強いものがある。というより、現在の「日の丸・君が代」反対論はこれに集約されるといってもよい。しかし、この解釈は論理的にも法的にも間違っているだけでなく、逆に「日の丸・君が代」反対運動こそ思想信条の自由を侵害しているのである。
教育課程審議会答申には「日の丸・君が代」を実施する意義として、「日本人としての自覚を高め国家・社会への帰属意識を涵養する上で大切である」としている。(木下注 一九八七年二月教育課程審議会「審議のまとめ」)これをさらに説明すれば「日本という国に生まれ、その恩恵を受けて暮らしていることに感謝し、国を大切ににし、誇りを持ち、社会の良き形成者となるよう意識づけることにある」といえよう。大多数の国民が飢えることもなく、平和で文化的な生活を送ることができるのは、にっぽんという国に生まれたからほかならない。
ならば、この国に多様な問題はあったとしても、自らを守り育ててくれる存在(国家)に感謝し、大切にしようと思うのは人間として当然の姿勢であろう。家族や故郷を愛おしく思うのが普遍的な真理であるように、愛国心の涵養は自然な感情に従ったものであり、思想信条に関わるようなことではないのだ。逆に、恩義ある対象(国)の過去をことさら暴きたてて貶め、国旗国家を実施させないことでその存在を無視するように命じる「日の丸・君が代」反対運動こそ、偏狭なイデオロギーによる洗脳教育であり、思想信条の自由を侵害するものであろう。>
略)
P九十四〜九十六
木下注
一)の法的根拠については、その後、国旗及び国歌に関する法律(平成十一年八月十三日法律第百二十七号)が、平成十一年(一九九九年)八月十三日に公布・即日施行されたので、略した。
引用文献
(「日の丸・君が代」が人を殺す)北村小夜・天野恵一 社会評論社 一九九九年刊
「月刊 諸君」一九九九年七月号 文藝春秋
大正十四年(一九二五年)生まれの北村小夜氏は昭和二十五年から昭和六十一年まで都内の小・ 中学校で教員をされていたそうである。同じ教師である(あった)長尾、北村両氏のどちらの意見が正論であろうか。
あほらし
今日は(も)めちゃヒマ。
二名様来店。
一名様来店。
さっさと閉めて帰宅。
酒は飲まず。
猿でもエビでもない。