北の朝日新聞「北海道新聞」のあほ記事
北の朝日新聞「北海道新聞」のあほ記事
5月16日土曜日雨のち晴れ⚪️
北海道新聞の今日の記事です。
以下引用
<首相「殉職自衛隊員1800人いる」 「戦死者」への批判かわす狙い
北海道新聞2015年 5月16日(土)7時30分配信
大半は任務中の事故死 「論理のすり替え」
新たな安全保障関連法案を閣議決定した14日の記者会見で、安倍晋三首相が自衛隊員のリスクについて「今までも1800人の隊員が殉職している」と述べたことに波紋が広がっている。殉職者の大半は任務中の事故によるもので、戦闘に巻き込まれて亡くなった隊員は、過去1人もいない。隊員に「戦死者」が出かねないとの批判をかわす狙いとみられるが、性質の違う数字を挙げる首相の論法に、専門家は「論理のすり替えだ」と批判している。
「まるで今まで殉職した隊員がいないかのように思っている方もいるかもしれないが、1800人が殉職している。私も遺族とお目にかかっており、殉職者が全く出ない状況を何とか実現したい」。首相は14日の会見で、新たな法整備によって隊員が死亡するリスクが高まると指摘した質問に対し、こう述べた。
防衛省によると、自衛隊の前身である警察予備隊が発足した1950年以降、殉職者数は今年3月末現在で1874人。車両や航空機、艦船による訓練など任務中の事故が7割以上を占め、残りは過剰業務による病気などが原因のケースが目立つという。
確実に高まる隊員のリスク
首相はまた「自衛隊は日ごろから日本人の命、幸せな暮らしを守るために苦しい訓練を積んでいる。こういう任務をこれからも同じように果たしていく」と強調した。
だが、関連法案が成立すれば「非戦闘地域」に限定されていた他国軍への後方支援が、より戦場に近い地域でも可能になる。法人救出や「駆け付け警護」などの任務で攻撃を受ける可能性は高まり、危険性は格段に増す。政府高官も15日、「自衛隊の活動場所や内容は広がり、隊員のリスクは確実に高まる」と認める。
憲法9条の下、戦後、自衛隊員が戦闘で殉職した例はなく、野党は「今回の法整備によって、戦闘に巻き込まれて死亡する隊員が出かねない」と危惧する。専門家からも「首相は戦死者が出ても驚くことではないと言っているようだ」「自衛隊員の殉職はやむを得ないとも聞こえる」と批判の声も上がる。>
北海道新聞は「防衛省によると、自衛隊の前身である警察予備隊が発足した1950年以降、殉職者数は今年3月末現在で1874人。車両や航空機、艦船による訓練など任務中の事故が7割以上を占め、残りは過剰業務による病気などが原因のケースが目立つという。」
「憲法9条の下、戦後、自衛隊員が戦闘で殉職した例はなく」と書くが、1950年以降戦死した例はある。
一九一〇年一月に発効したハーグ(ヘーグ)条約(自動触発海底水雷ノ敷設ニ関スル条約)は
第一条 左ノ事項ハ之ヲ禁止ス
一 敷設者ノ監理ヲ離レテヨリ長クトモ一時間以内ニ無害ト為ルノ構造ヲ有スルモノヲ除クノ外無繋維自動触発水雷ヲ敷設スルコト
二 繋維ヲ離レタル後直ニ無害ト為ラサル繋維自動触発水雷ヲ敷設スルコト
三 命中セサル場合ニ無害ト為ラサル魚形水雷ヲ使用スルコト
第二条 単ニ商業上ノ航海ヲ遮断スルノ目的ヲ以テ敵ノ沿岸及港ノ前面ニ自動触発水雷ヲ敷設スルコトヲ禁ス
ところが、終戦時も米軍はB−二九による投下、潜水艦によって敷設した感応機雷が六五四六個残っており、当然、このヘーグ条約に反しているが、米軍は戦後の報道管制によってこれを隠匿した。
GHQは掃海活動の発表も禁止していた。
東京湾に停泊した米戦艦「ミズーリ」上で降伏文書が調印された日の同年九月二日、GHQは一般命令第一号で日本軍の武装解除を命じながら、海軍の掃海艇については特別に猶予し、「一切の日本国の機雷、機雷源その他の陸上、海上及び空中の行動に対する障害物は何れの位置にあるを問わず連合国最高司令官の指示に従いこれを除去する」こととした。続いて翌三日、司令部指令第二号によって、GHQ所定の海軍代表による指示の下に、日本国政府として掃海作業を実施するよう命令を下した。
日本国として、九月十八日付で、まだ残っていた海軍省軍務局内に掃海部を設置。さらに十月十日付で六つの地方掃海部と十七の地方掃海支部を設け、三百四十八隻の船艇と人員約一万人をもって掃海を再開する。
掃海の専門家である元海軍大佐・田村久三をトップに据え、メンバーは七百七十三人の士官を含め、全員が旧海軍軍人だった。第二復員省が発足すると、彼らは予備役に編入されたうえで復員事務官に任命される。GHQの民政局(GS)は一九四六年二月、旧職業将校の公職追放指令を出した。しかし、米極東海軍司令部は掃海部隊を指揮する旧海軍士官の追放に反対し、掃海部隊関係者は猶予された。
掃海部隊はその後、復員庁第二復員局、総理庁第二復員局、運輸省海運総局掃海管船部を経て、規模を縮小しながら一九四八年五月の海上保安庁発足と同時に掃海課の傘下に置かれ、田村は掃海課長となる。掃海部は当時、人員千五百八人、掃海艇など船艇五十三隻という陣容だった。
北海道新聞が「自衛隊の前身である警察予備隊が発足した1950年以降」「憲法9条の下、戦後、自衛隊員が戦闘で殉職した例はなく」と書く一九五〇年十月七日より十二月十一日の最後の部隊が下関に帰港するまでの二ヶ月間の間に、この海上保安庁・掃海部は朝鮮戦争に参加させられ、二隻の掃海艇が触雷や座礁により沈没し、中谷坂太郎が戦死、十八人が重軽傷を負った。
北海道新聞は「あれは海上保安庁であって、自衛隊ではない」とでもほざくつもりであろうか。
一九五一年七月一日より海上保安庁の傘下に置かれた警備隊は、その後、一九五四年七月一日に防衛庁海上自衛隊となるのである。
大久保武雄海上保安庁長官は一九五〇年十二月九日に、唐戸桟橋で行われた海州より帰投途上にある大賀隊を除いた任務を終えて朝鮮より帰国した特別掃海隊隊員の慰労式にて下記の様に訓示した。
「今回諸君がとられた行動は、今後日本の進むべき道を示したということであります。日本特別掃海隊の活動は、新しい日本が今後独立して国際社会に入る時、民主国家として何をすべきかということを行動を持って示したものであります。
日本が将来、国際社会において名誉ある一員たるべきためには、手を拱いていてはその地位を獲得するわけには参りません。名誉ある地位を得る為には、私達自らが自らの努力により、その汗によって名誉ある地位を獲得しなければなりません。今回諸君は、あらゆる困難のもとに、これを克服して偉大なる実績をあげ、国際的信頼を勝ち得るとともに、日本の進むべき方向を確認しました。今度の壮挙は、実に新生日本の歴史上永く記録されるべきものであります」
「昭和二十五年最後の戦死者」城内康伸著 小学館 平成二十五年刊 p二百三十〜二百三十一
この訓示がすべてを表している。
そういう意味では北海道新聞。流石に北の朝日新聞たる面目躍如たるものがある。
けっ、あほらし。
二名様来店。
二名様来店。
今日は私は飲まず。
サルでもエビでもない。