無名日本人の遺骨を合祀した金玄玉ソウル市長とそれを壊した朝鮮人
10月18日火曜日晴れ△
以下、名越二荒之助氏の著書「日韓共鳴二千年史」より
<無名日本人の遺骨を合祀した金玄玉ソウル市長
「仏教伝来謝恩碑」建立二〇年式典での田中香穂氏の挨拶より
百済の聖明王が仏教を日本に伝えたのは、西暦五三八年である。そのことへの感謝の意を込めての田中香穂氏(国柱会会長・平成八年逝去)が中心となって昭和四十七年(一九七二年)五月十日、「仏教伝来謝恩碑」が百済の古都・扶余(ぶよ)健立されました。
当時の韓国の反日感情は強く、主要新聞の論調はことごとく「仏教伝来謝恩碑」建立には一斉に反対でした。それでも韓国の仏教徒の中には、趣旨に賛同される方も多かったのです。韓国仏教協会のある住職は「碑が出来上がった後、もし万一破壊されるようなことがあったら、両国民の傷はいっそう深くなるであろう。せめて後五年待って欲しい」と申し入れたほどでした。
そういう雰囲気の中にあって謝恩碑は建立されました。
除幕式には、李方子殿下をはじめ、韓国学術院長や国会議員等二千人が集まる歴史的式典となりました。
略)
謝恩碑が健立されて二十年が経過した平成三年(一九九一年)五月十日の事です。扶余のユースホステルで「仏教伝来謝恩碑建立二十年記念日韓合同祝賀会」が開かれてました。田中会長がその席で述べた祝辞の中には、私たち日本人が忘れてはならないことが紹介されています。
略)
「無名日本人遺骨合祀台」
謝恩碑が健立されて三年前、一九六九年(昭和四十四年)の事であります。ソウルにあった旧日本人の火葬場の跡地から、約五千人分の日本人の遺骨が発見されました。日本への返還は不可ということなので、当時の日本大使金山正英氏(現・日韓親善協会理事長)は致し方なく、ソウル市長にその保管について格別の配慮を要請したのでした。市長さんも、いかにも御尤もと、早速、その翌年(昭和四十五年)、ソウル郊外の碧蹄館というところのソウルの市民墓地の一角に、大きな碑堂を建設してその中に安置してくれたのです。
それは素晴らしい納骨堂でして、その正面には「無名日本人遺骨合祀台」と大書されました。
確か金玄玉と言った、元軍人のこの市長さんは、私も二度会いましたが、バリバリと果敢に仕事をするタイプの人で、私は金山大使からその経過を聞いていて、如何にもと思ったことでした。
昭和四十五年の春、日本から僧侶が招かれ、この合祀台の開堂式が営まれました。しかし、このお墓は、前日一部が破壊され、式典が一日延期を余儀なくされるという不安な星の元にスタートしたのでした。
私はその翌年、ソウルの寒さが身に沁みる二月、謝恩碑の件で渡韓した際、機会に恵まれて、このお墓にお参りしました。行ってみて、余りにも立派なのにビックリしました。両側が河岸段地のようにゆるい傾斜で向い合う広いその墓域には、ソウル市民のお墓がびっしり立っていましたが、まさにその谷間の突当りが、堂々と聳え立っていたのです。
私たちが車で近づくと、一台のオートバイが追っ掛けて来ました。警備の人でした。「中を見るか」というので、ぜひと見せて貰いました。十坪ほどのドームの中には、三方に何段かの棚が設けられ、白布に覆われた日本式の骨箱がきちんと丁寧に祀られてあって、本当に感激でした。
ところが、その御堂の真中に、石油ストーブと粗末なベットが置いてあって、まだ温もりが感ぜられるではありませんか。私は「これは何故」と質問したところ、なんとその案内人が「警護のため、私は毎晩泊まっている」というではありませんか。私はたちまち胸が熱くなってきて心から感謝の気持ちを述べたことでした。
感激した私は碧蹄館からの帰途、まっすぐソウル市庁舎に赴き、市長秘書長に会い、市長さんの配慮に対するいち日本仏教徒として感謝の意を表したのでした。
しかし、正直なところ、私はソウルに戻る車の中で、かくも立派な納骨堂を作ってくれたのは良いけれど、かえって韓国民の反発をかって、壊されなければ良いがという不安がしきりに脳裏を去来しました。
この不安は不幸にも的中しました。すなわちその年の夏(昭和四十六年)、韓国民衆の反日活動はピークに達して独立を祝う八月十五日の光復節、この碑は破壊されてしまったのです。
その結果、遺骨は日本へ返還ということになりました。その帰国の日、私は関係者の一人として、羽田空港に出迎えに行きました。お骨は鶴見の総持寺に安置されています。この「合祀台」は、このようにして、寿命わずか八ヶ月の幻の塔となってしまいました。私は多分、ここに詣でた数少ない日本人の一人として、このことをご存知の方は多くないと思って、あえてお話しした次第です>
「日韓共鳴二千年史」名越二荒之助氏著 明成社 平成十四年刊 p五百九十四〜五百九十七
この名越氏の著書には触れられていないが、ソウル市長・金玄玉氏が四十歳の若さでソウル市長に就任する前の釜山市長時代にも市内各所に散乱していた日本人の御遺骨を集め、慰霊碑を健立している。
以下、在釜山日本国総領事館のホームページより
<日本人慰霊碑
終戦とともに約5万人いた釜山在住の日本人は日本に引き揚げましたが、釜山市西区峨嵋洞の火葬場をはじめ市内各所には日本人の遺
骨、位牌、過去帳などが放置されたままでした。
1962年5月に峨嵋洞の火葬場が釜山鎮區堂甘洞に移転した際、当時の金玄玉釜山市長の人道的なお考えから市内に散在していた遺骨、
過去帳などを一ヶ所に集め、「日本人冢移安之碑」と刻まれた石碑と納牌堂が建立されました。>
写真は領事館のホームページより
http://www.busan.kr.emb-japan.go.jp/itpr_ja/00_000165.html
我々、日本国民はこういう状況でも日本人の御遺骨を納める納骨堂を健立してくださった金玄玉氏という立派な朝鮮人がいたことを忘れてはならないし、その立派な納骨堂をわずか八ヶ月で壊してしまった醜い朝鮮人のことも忘れてはならない。
以下ウィキペディアより
<金玄玉
日本語読み:きん・げんぎょく
金 玄玉(キム・ヒョンオク、1926年10月27日 – 1997年1月9日)は、韓国の政治家、軍人。首都であるソウル特別市の市長(第14代)、釜山直轄市長(現・釜山広域市長)を務めた。ソウル市長時代は、ニックネームである「ブルドーザー」のごとく、積極的な開発を意欲的に行い、ソウル市の街並みを大きく変えた市長として知られている。
1926年10月27日、慶尚南道晋州生まれ。日本の植民地時代に徴用され、解放後、陸軍士官学校3期生として任官した。陸軍輸送学校の校長などを務め、1961年5月の軍事クーデターの翌1962年に准将で予備役編入された後、釜山市長に任命された。3年後の1966年、朴正煕大統領の抜擢により、当時40歳の若さでソウル市長に任命された。ソウル市長時代、陸士の1期先輩である朴正煕大統領を後ろ盾にして、ソウル市の都市基盤整備を積極的に推し進め、汝矣島の再開発や南山1号、2号トンネルの整備、道路建設、ヨンドン地区の再開発、世宗路地下道建設など大規模開発事業を手がけた。
1970年4月、ソウル市が建設した市民アパートが崩壊した事故(臥牛アパート崩壊事故)の責任をとって市長の座を退いたが、翌1971年10月に内務部(現・大韓民国行政安全部)の長官に就任した(1973年12月まで)。1980年、政権を掌握した全斗煥や盧泰愚を中心とする新軍部勢力によって不正蓄財者とされ、表舞台から退くことになった。その後、1981年に慶尚南道梁山郡の長安中学校の校長に就任、1996年には釜山第1高等学校の校長に就任した。1995年6月に行われた釜山市長選挙に無所属で出馬したが、落選している。1997年1月9日、ソウルで死去。>
今日の鯖、ツブ貝などの仕入れは今までお世話になっていた仲卸さんが土曜日で閉めたので、ウニなどでお世話になっていた仲卸さんにお世話になる。
写真はガラ〜ンとしたお世話になっていた仲卸さんの場所。
遅くまでドンチャン。
記憶あり。
猿よりマシ。