差別差別と騒ぐアホ朝鮮人どもに言っておきたいこと。

差別差別と騒ぐアホ朝鮮人どもに言っておきたいこと。
5月11日月曜日晴れ⚪️
朝鮮日報築地支社とも言われているチョンイル新聞(一部では朝日新聞ともいう)は「朝鮮人が差別されている」「朝鮮人へのヘイトが」の記事を一生懸命掲載しています。

<朝日新聞デジタル
ヘイト被害の実態明らかに 在日の若者らが相談センター
中野晃
2015年5月10日20時58分
ヘイトスピーチ(差別的憎悪表現)が問題となる中、在日コリアンからの相談を受け付ける「反レイシズム情報センター(ARIC)」を在日や日本人の若者らがつくった。被害の実態を明らかにし、民族差別を認めない新たな法整備を求めていくつもりだ。
呼びかけたのは一橋大学大学院生、梁英聖(リャンヨンソン)さん(32)。関東、関西の若手研究者ら約20人が加わり、インターネットに会のサイト(http://antiracism-info.com/)を立ち上げた。
メール(contact@antiracism-info.com)やサイトの書式から相談を受け付ける。メンバーらが相談に応じ、必要ならば行政機関の窓口に付き添う。
ヘイトスピーチに遭った在日は、不快感や憤り、不安、恐怖感から心に傷を受けることがある。相談とは別に被害の実態をつかむ調査を実施し、レイシズム(人種差別主義)を禁じる政策を提案したい考えだ。
梁さんは東京都荒川区生まれ。3月まで在日の青年団体の代表を務め、東京・新大久保の事務所に通った。「朝鮮人を殺せ」などというデモ隊の罵声が嫌でも耳に入ってきた。「朝鮮人蔑視の風潮は戦前も戦後も変わっていない。同胞とのつながりが薄れ、日本社会でばらばらに生きている在日の声を受けとめる場が必要だ」と話す。
関西学院大社会学部の金明秀(キムミョンス)教授は「同胞とのつながりがない在日は、被害を自覚できず、劣等感だけが膨らむ」として会の活動に期待する。(中野晃)>

<朝日新聞デジタル
差別の「見える化」に取り組む 反差別の市民団体が発足
2015年5月10日20時57分
特定の人種や民族への憎悪をあおり立てるヘイトスピーチや、レイシズム(人種差別)をなくすことを目的とする市民団体「反レイシズム情報センター(ARIC)」が10日、東京都内で設立記念シンポジウムを開いた。研究者らが講演し、在日コリアンらが受けている差別の実態を政府が調査し、法整備に向けた議論を進めていくことの必要性を確認し合った。
シンポは「ヘイトスピーチ被害の実態把握に向けて―日本のレイシズムをどう『見える』ようにするのか」。金明秀(キムミョンス)・関西学院大教授は「差別の実態が見えにくく、被害の当事者が参加しながら政府の協力の下で調査をすることが重要だ」と指摘。関東学院大などで非常勤講師を務める明戸隆浩さんが「被害実態を把握していくことで差別禁止法などの議論へと進めていける」と語った。
同センターの代表、梁英聖(リャンヨンソン)さん(32)=一橋大大学院修士課程=は「日本政府が深刻な差別の存在を認めようとしないことに問題があり、ARICとしてまず被害の調査をし、差別の『見える化』に取り組んでいく」と話した。
ARICは若手の研究者や学生ら約20人で3月に設立。被害の実態調査や相談、講師派遣などの教育活動に力を入れていくという。>

<朝日新聞デジタル
ヘイトスピーチ、「実態の調査を」 市民団体が設立シンポ
2015年5月11日05時00分
特定の人種や民族への憎悪をあおり立てるヘイトスピーチや、レイシズム(人種差別)をなくすことを目的とする市民団体「反レイシズム情報センター(ARIC)」が10日、東京都内で設立記念シンポジウムを開いた。
シンポは「ヘイトスピーチ被害の実態把握に向けて―日本のレイシズムをどう『見える』ようにするのか」。金明秀(キムミョンス)・関西学院大教授は「差別の実態が見えにくく、被害の当事者が参加しながら政府の協力の下で調査をすることが重要だ」と指摘。関東学院大などで非常勤講師を務める明戸隆浩さんが「被害実態を把握していくことで差別禁止法などの議論へと進めていける」と語った。
同センターの代表、梁英聖(リャンヨンソン)さん(32)は「日本政府が深刻な差別の存在を認めようとしないことに問題があり、ARICとしてまず被害の調査をし、差別の『見える化』に取り組んでいく」と話した。>

<ヘイト根絶へ実態調査 反差別の情報センター発足
2015年5月9日 東京新聞夕刊
特定の民族や人種に対する憎悪や差別をあおる「ヘイトスピーチ」を根絶しようと、在日朝鮮人の梁英聖(リャンヨンソン)さん(32)=写真、東京都荒川区=が「反レイシズム(民族差別)情報センター」をつくり、十日に都内で初めてのシンポジウムを開く。ヘイトスピーチには処罰する法律がなく「差別の実態の調査や発表を行い、法規制へと動かしたい」と話す。  (鷲野史彦)
梁さんがヘイトスピーチ問題を強く意識するようになったのは、二〇一三年春。当時スタッフとして働いていた親睦団体「在日コリアン青年連合」(KEY)の事務所が新宿区の在日コリアンタウンにあった。
「朝鮮人を殺せ」「韓国人は出て行け」。冷笑を浮かべ、大声で差別的な言葉を繰り返す街宣を度々目にし「在日差別がここまでひどくなったのか」と憤りを感じた。実態を調べるため、KEY時代に十~三十代の在日コリアン約二百人にアンケートした。すると、85%がヘイトスピーチを体験していたが、約七割は直接の反論や公的機関への相談といった対応を何もしていなかった。
梁さんは在日三世。過去には「戦前の強制連行を受けた一世や、就職や結婚差別があった二世の時代と違い、時間の経過で自然と差別はなくなる」と期待したこともあった。
だが、ヘイトスピーチは公然と行われ、昨夏には国連人種差別撤廃委員会などが日本政府に法規制を勧告したが、政府は表現の自由との兼ね合いなどを理由に慎重姿勢を変えていない。
「在日の青年が差別に声を上げないのは、政府がヘイトスピーチを規制せず、訴えることができるという発想を持てないから。政府を動かすには実態を調査し、発表していく必要がある」と三月に反レイシズム情報センターを設立した。
毎月開いている勉強会には十五人程度が参加しており、日本人の学者や大学生もいる。今後は在日コリアンに対する差別の実態調査や、被害相談も行う。現在、一橋大学大学院言語社会研究科で学んでおり、調査結果を論文として発表していく。十日のシンポジウムは世田谷区北沢二の北沢タウンホールで午後一時半から開かれ、大学教授らが在日コリアンに対する差別の実態などを講演、パネルディスカッションを行う。
参加費は一般千円、学生五百円。>

この「差別するな、差別するな」と騒いでいる朝鮮人はどうして我が国国民から嫌われているかという視点が欠落していながら、嫌う方が悪い。俺たちは悪くないという思考回路なのです。

だから、朝鮮人は嫌われるんだよど阿呆め。

安倍首相が米国議会での演説で「この場におられないことを残念に思います」と言った高名な米国の政治家であった故ダニエル・イノウエ氏(Daniel Ken “Dan” Inouye)は、他の日系米国人とともに義務と名誉のために日系部隊四四二連隊として出征し戦って片腕を失っています。
その四四二連隊は米国史上最強部隊と言われていますが、それは日系人自らが日系人がどういう存在であるかを米国が認めるように血を流した結果です。
麻生太郎元首相より贈られた「義務 名誉 祖国」と書かれた掛け軸をとても大切にしていたという場面が「ワシントンへの道」というイノウエ氏を取り上げた番組の中にあります。

その時に、「書かれている三つの言葉は、イノウエの父がよく言い聞かせていた言葉なんです。父と祖父からの言葉の重みを思い出していたんです」とイノウエ夫人が語っています。

イノウエ氏自身も「義務」と「名誉」を「日系人が親から子へと引き継いだ、重要な言葉です」と語っている。(平成二十三年七月十六日産經新聞「論説委員・鳥海美朗 イノウエ米上院議員の忠告」)

そのイノウエ氏が「敵性外国人」とされたことについて、
「米政府から国に仕える事が許されない敵性外国人とされました」
と述べています。

当然、イノウエ氏の言う「祖国」とは米国であり、その米国に対しての義務を果たすということです。

イノウエ氏の著書「ダニエル・イノウエ自伝」には出征するイノウエ氏とご両親(兵太郎、かめ)の別れの場面には下記のように書かれています。

< (木下注 母親かめとの会話として)
「神のご加護がありますように」
母は小声でつぶやいた。そして、私の体を離そうともせず、ほほを、こっちのほほにぐーっとくっつけてきた。
「ねー、入隊ならうれしいよ。ただ、立派に男らしくしてほしいだけ。家名をあげて、ね」
略)
「りっぱになっておくれ。やることを間違えちゃだめよ。それに、ね。昔からのしきたり、お父さんや私のしきたりなんか、お前にはそう大事じゃあないだろうけど、嫁さんをもらう時は・・・・・・・」
「そんなことより、お母さん・・・・・」
「まあ、聞いてちょうだい。結婚するときは、血の同じ仲間の一人、りっぱな日系人の娘と結婚してくれたら一番うれしいんだけど、でも・・・・・・こんなことは、おこらないかもしれないし、大体,若い人にはそう大事でもないわね。だから、えーっと、もう一度だけ、いーい。母さんが年端もいかなくて食うや食わずだった時はいつでも、ハワイの人たちは、とても思いやりがあって親切にしてくれたの。で、ね、日系人の良家の娘さんと一緒になる気にならなければ、その時には、ハワイの娘を選んでくれたって、母さんは少しも不満じゃあないよ。このことをいってきかせようと、ずうっと思ってきたんだけど、お前が実社会にでるところだから、もうこれ以上まてないの。ねー」
「お母さん、そのとおりだ。わかりました」
それから、私はテーブルを回っていくと、しっかりと母を抱きしめた。

(木下注 父・兵太郎との会話として)
「日本語の恩って、どんなことか知っているだろう」
「はい」
「日本語の恩は、日本文化のそれこそ核心にあるのだ。
ある人が他人に助けられたら、決して帳消しにならない恩義、おりがあればいつでも、惜しみなく無条件に報いるべき恩義を受けたのだ、と心に銘記しなければならない。それが恩というものである。 」

「井上のうちのものは、米国に随分と恩を受けている。おれたちには、結構な国だった。ところで、おれにはこんなふうになりたくても、なれるわけもなかったろうが、お前こそ、この国の親切に報いるようにしなくちゃいかん。お前は、俺の長男だし、お母さんにしても、お父さんにしても、目に入れても痛くない子だよ。でもな、義務はちゃんと果たせ。必要なら、進んで・・・・・進んで・・・・する気でなくっちゃ・・・・・・・」

ぞっとするような恐ろしい例の言葉が、言葉にならず、声は次第に小さくなっていった。

「お父さん、わかります。わかります」

「家名を汚すなよ」
しつこいくらい、ぼそぼそと諭した。

第四四二部隊の兵隊が集合する山場の最後の数週間というものは、とても意味深長な同じ言葉が、ハワイ諸島の津々浦々で、際限なく人々の口をついで出たに違いない。>
「ダニエル・イノウエ自伝」 彩流社 平成元年刊 p一二七~一二九

同様に先日の産經新聞に掲載された日系初の米太平洋艦隊司令官であるハリー・ハリス(Harry B. Harris Jr.)海軍大将の記事には日本人の母に教え込まれた「義理」 として下記のように書かれていました。

<その母に幼少の頃から教えこまれた価値観は「義理(duty)」。「6、7歳の子供が理解するにはとても重い概念だった」と話す。父が軍人だったこともあり、「国民は国家が必要とするときに奉仕する」ことを当然とする姿勢を身につけ、高校時代に海軍を目指すことを決意した。>
2013.11.18 21:産經新聞


日系二世であるブラジル空軍総司令官ジュンイチ・サイトウ大将も下記のように述べています。
「国のために働けることに喜びを感じている」
そして、同じ産經新聞の記事には
<就任あいさつで「日系ブラジル人であることを誇りに思う」と述べたときの思いを問うと、こう語った。
「日本人は裸一貫でこの国へ来た。働いても富につながらず、広大な農地で重労働に明け暮れても、子供の教育に強い関心と希望を持っていた。私も11歳で田舎から町の学校へ通った。一生懸命まじめに努力し働いたことで、日本人はブラジル社会で信頼を築いていった。そのことを私は誇りに思う」>
2011.4.1 20:07産經新聞

イノウエ氏がいう日系二世出征時の日系一世の言葉は「ハワイ日系米兵」にいくつか具体的に書かれています。

アーネスト・ウノの手記より
<クリスタル・シティで家族が合流した後、私は父からの英文で書かれた長い手紙を受け取った。
それには、父の忠誠心は日本の天皇にあり、祖国へ帰る事が運命である、と父が心から信じている事が書かれてあった。
しかし、私が米国国民として陸軍に入隊したからには、軍人として恥ずかしくないようベストを尽くし、戦場では死を賭けて懸命に務めるようにと忠告された。
父にとっては、生き恥をさらして帰ってくるよりも、
死んで国に忠義を尽くすことこそが英雄であり、最大の誇りであったのだ。
父は国のために死なないならば、それは家族の恥であると書いてきた。
私は父の言うとおりにしようと思った。
そして、私自身に「さようなら」をつげたのであった>
「ハワイ日系米兵」P一三二

このアーネスト・ウノ氏(Emest UNO 宇野アーネスト)は、大正十四年(一九二五年)米国ユタ州、ソルトレーク・シティ生まれであり、アマチ収容所に強制収容されたが、昭和十八年(一九四三年)八月四日、四四二連隊に志願する。
その訓練中に、母、二人の弟、妹たちが、アマチキャンプを出て、父親のいるクリスタル・シティのキャンプに合流する。
このクリスタル・シティのキャンプは国外追放に値する敵性外国人の収容所であった。
アーネスト・ウノ氏の父親は、家族を連れて日本に帰る事を嘆願していたのである。
上記の手紙は、その父上からの収容所からの手紙である。

ウノ氏はヨーロッパ戦線に従軍し、帰還した時点で長期休暇が与えられたが、ウノ氏の帰る家は無く、制服に受章した銀星章を胸につけて、ウノ氏が向った先はクリスタル・シティのキャンプであった。
米国の為に戦ったウノ氏にとっての「帰郷 ホームカミング」とは、強制収容所に入れられたままの家族に対して、「ただいま」という無事を知らせる挨拶をすることであった。
戦争が終了後に除隊したが、 戦争が終わった後も、家族はまだ強制収容所に入れられたままで、昭和二十二年九月にやっと解放されている。

「家の恥になるな」と題されたサミュエル・ササイ氏の手記より
<両親に相談せず、私は二世部隊に志願し、晴れて米国陸軍四四二連隊の兵士となった。
一九四三年三月二十四日、私はサミュエル・ササイ二等兵となったのだ。
私が出征する前日、家族と別れの食事をした。
私は両親に「さよなら」と言い、母は硬い表情のまま「気をつけていってらっしゃい」と言ってくれた。
母がどんなに怒っているかわかっていた。私はたった一人の息子でありながら、それを承知で、行かなくともいい戦争に志願したことを怒っていたと思う。
でも、母は怒りを抑えて、私を送り出してくれた。
訓練中、基地に母からの手紙が届いた。
その手紙には、母の心情が日本語で書かれてあり、
最後に
「星の旗をよく守りなさい。
笹井の家の恥になる事をしたら、聞きません」
と結んであった。
それ以後、母は決して私に手紙を書いてこなかったが、姉がいつも手紙をくれた>
「ハワイ日系米兵」P二一二
サミュエル・ササイ氏(Samuel Y .Sasai 笹井サミュエル豊)
大正十三年(一九二四年)、 オアフ島ハレイワ生まれ、
ハワイ大学、ペンシルバニア大学卒業。昭和十八年(一九四三年)三月二十四日入隊。四四二連隊第三大隊本部所属
上等兵、銀星章、紫心章受章。

サミュエル・ササイ氏は、四四二部隊の兵士が必死で戦ったわけのひとつに「家の名に恥じない働きをしなさい」という両親による教育、忠誠心を叩き込んだ日本の修身のような教え、米国憲法に記載されている国民の義務(武器を持って国を守る)などとともに、「信頼」という言葉をあげながら、下記のように書いています。

<もっとも注目したいのは「信頼」である。
それは我々二世が、アメリカ人でありアメリカの魂を持ったれっきとした市民だという事であり、それを証明するためなら死をも辞さないということだ。
冒頭で、二世はこの国では将来が無い、と述べたが、
少なくとも我々が証明出来るのは、肌の色を問題にするのではなく、
いかにその国を心から思っているかということが大事だということだ>
「ハワイ日系米兵」p二一五
<二世兵士は米国の歴史の中で、批判された時期があった。
しかし、今、私は自由のために戦うには、勇気ある行動と意志が必要であると信じている。
恩や義理、忠誠といった考え方は、決して間違っていないと思う。
これからも、この考え方が引き継がれていく事だろう。
両親がいつも言い続けていたことは、「家の恥になるようなことはするな」ということだ。
この考え方は、家族だけでなく友人やコミュニティー、そして国に対しても言える事である。
よりよい世界や社会をつくるために努力するなら、決して恥などをもたらすことはないだろう。
なぜ、あの戦いで強かったのかと尋ねられたら、私は答えるだろう。
「二世がアメリカ国民であるからだ」と。
戦友や私は、国の為にすべてを捧げることを最良と信じていた。>
「ハワイ日系米兵」p二一八

下記は、全米日系市民協会事務局長であったマイク正岡氏が、昭和十七年(一九四二年)一月にサンタアナで開かれた南加大会に参加し、語りかけた言葉です。

「私はアメリカを信じ、アメリカもまた私を信じるものと確信する。
豊かな恩恵に浴するがゆえに私はどこでも米国の体面を保ち、憲法を守り、米国の良き市民となるべく誠心誠意その義務をまっとうすることを誓う」
彼は二世の信条をその一年前に発表している。

「自分は日系米国市民であることを誇りとする。
日本人としての背景を持つ身であるが、一層米国の市民であることに誇りを感じている」
この書き出しで切々と訴えた信条は、日系人の魂を代弁したものと目された。
「棄民たちの戦場」p二二~二三

戦後、我が国において、GHQ勤務中、警察予備隊を後藤田正晴と組み立ち上げたハリー福原元大佐の言葉
<私どもは日本人の誇りを失っていません。
世界で尊敬される日本が良い行いを重ね、高く評価されれば、同じように日系米国人も尊敬を集めるようになるのです。
私達はしかし、米国人の魂をきちんと持っています。
アメリカが我が国なのです。
だから第二次大戦開始直後この社会から隔離されたとき、私達は場合によっては天皇陛下に弓する立場を固めたのです。
アメリカに移民し、米国籍を持つアメリカ人だからです。
祖先は同じでも、またいかに天皇を敬愛していても、
私達の国は米国であり、遵守すべきは米国憲法なのです>
「棄民たちの戦場」P二十九より

コウイチ・クボ軍曹(早稲田大学卒)の経験より
<サイパンでアメリカ軍から離れて谷の中に入って行き、日本軍と遭遇し、日本軍将校より
「君は日本人でありながら、なぜアメリカ側について戦うのか」と聞かれて、
平重盛の
「孝ならんと欲せば、忠ならず。忠ならんと欲せば孝ならず」
という有名な言葉で返したところその日本軍将校は納得した。>
「ハワイ日系米兵」P三七

そして、この本の同じページには下記のような記述もある。
<日系人はアメリカ市民であり、かつ日本人の血を受けている。
われわれの通った寺の先生も日本語学校の先生も、
「君たちはアメリカで生まれた二世だから、忠義というのはアメリカに捧げよ」と教えていた。
だから、個人として、日本につくべきかアメリカにつくべきかという葛藤は、我々の時代には無かったと思う。日本でも戦国時代、兄弟でも親子でも戦っている歴史があるから、日本の文化の中でも、自分が育てられたところに忠誠を誓うのは当然だという気持ちだった>
ヒデト・コウノ
大正十一年(一九二二年)ハワイ島ヒロ生まれ
昭和十八年(一九四三年)一月、四四二連隊入隊後、MIS所属。硫黄島従軍

米国最高勲章である名誉章の受賞者が、五十五年を経て見直され、四四二部隊においてサダオ・ムネモリ上等兵の一名より二十名も追加され、二十一名の受賞者になった平成十二年(二〇〇〇年)六月二十一日に行われた名誉章授与式にてビル・クリントン大統領は

<「日系二世部隊の父母たちは、
出征する息子達に、生きられるなら生きてくれ、死ななければならないのなら死んでくれ、
だが常に名誉を保って戦い、家族と国家に決して恥をもたらすな、と言った。
国家が正しく扱わなかった人々にこれ程まで仕えてもらったことはかってない」>

このように受賞者を讃えた。

  

「軍事研究」(ジャパン・ミリタリー・レビユー 平成二十一年五月号 「日系二世部隊『第四四二連隊戦闘団』の足跡」 永井忠弘)
P一九一

サダオ・ムネモリ上等兵(Sadao Munemori)が立つ四四二部隊を讃える顕彰碑には日本語で「殉国碑」と刻まれている。
 
この碑に刻まれている殉じるべき国とは、当然、米国の事である。

引用文献
「ダニエル・イノウエ自伝」 彩流社 平成元年刊
「ハワイ日系米兵」(荒了寛 平凡社 平成七年刊)
「棄民たちの戦場」(橋本明 新潮社 平成二十一年刊)
「軍事研究」(ジャパン・ミリタリー・レビユー 平成二十一年五月号 「日系二世部隊『第四四二連隊戦闘団』の足跡」 永井忠弘)

日本人を祖先にもつこれらの方々は、移民した国を「祖国」として、その国の為に尽くす。その国の為に働ける事を誇りにおもい、その「祖国」に殉じる覚悟を持って生きてきました。
だからこそ、信用もされ、信頼もされる。

それに対して、朝鮮人はどうか。
あの算数も出来ないどうしようもないアホ大学教授である朴一(ボクハジメ)氏は、在日三世でありながら下記のように語っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

「日本国籍を取る事に大きな抵抗感があります。」

何十年も我が国に勝手に居着き、世話になっていながら、我が国の国籍を取る事に抵抗感があるとホザクど阿呆腐れ朝鮮人。

「反レイシズム情報センター(ARIC)」の呼びかけ人である一橋大学大学院生の梁英聖氏も在日三世だそうだが、我が国において二世どころか三世、四世になっても、我が国に尽くそうともせず、我が国の為に働こうともせず、我が国の為に殉ずる事もなく、己らの権利だけを主張しているような輩は我が国国民から「寄生虫、ゴミ、クズ」と軽蔑される事はあっては、未来永劫、絶対に尊敬される事はない。

何度も書いて来た事ですが、日系二世部隊を例に出すまでもなく、他国に移民した我が日本民族は、日本人、あるいは日本人の血としての誇りを持ちながらその国の国民として、その国の為に尽くしたからこそ尊敬されているのです。

朝鮮人が尊敬されるためには「朝鮮人としての誇りを持って、朝鮮系日本国民として我が国に忠誠を誓い、我が国のために尽くす」事が必要なのである。
そういうつもりがないのであれば、さっさと朝鮮へ帰れ、
この人間のクズども!

あほらし

今日は部屋にいてゴロゴロと本を読んで一日が終わる。
酒は飲まず。
サルでもエビでもない。